道頓堀通りの西から東を望んだもの。この通りは芝居茶屋や、料理屋、芝居小屋が多く賑やかな場所だった。明治時代には道頓堀五座と呼ばれた五つの大きな芝居小屋があったが、その一つが背景に写っている朝日座で、木造の櫓と呼ばれる舞台がある。朝日座は明治23年(1890)に新築開場しており、この写真はその直後の頃のものと思われる。

这张照片拍摄的是从道顿崛街以西朝东眺望的情景。这条街道是一个繁华的地段,其中林立了众多观剧茶楼、料理店、剧院。明治时代,被称为“道顿崛五座”的5家大剧院都在此处,映在照片背景上的便是其中的朝日座,搭设有被称作木造望楼的舞台。明治23年(1890年),朝日座重新装修后营业,这张照片大概就是摄于其重修后不久的时候。

道頓堀は1621年以来大阪の劇場と娯楽スポットで、1662年には歌舞伎劇場が6軒以上、文楽劇場が5軒、からくり小屋が1軒あった。1江戸時代の初期には、役者や観客が1615年にできた道頓堀の運河を船で通って道頓堀へ通うのが流行った。

道顿崛自1621年以来就是大阪的剧场和娱乐场所,1662年,这里的歌舞伎剧院超过了6家,文乐剧院5家,人偶剧院1家。江户时代初期,演员和观众一般乘船经1615年开凿的道顿崛运河前往道顿崛。

1840年代初期の天保の改革で、道頓堀の娯楽街は壊滅的な打撃を蒙った。この改革のモットーは「奢侈の禁止」だったから、劇場には厳しい制約が加えられ、その結果劇場の数は大幅に減った。生き延びた劇場の中の大手5軒が間もなく道頓堀五座と呼ばれるようになった。

然而由于1840年初期的天保改革,道顿崛的娱乐街遭受了毁灭性的打击。这场改革打出的口号是“禁止奢侈”,因而剧院受到严格限制,结果导致剧院数量大幅锐减。残留下来的剧院中,有五家规模较大,不久它们就被称为了“道顿崛五座”。

南道頓堀にあった主な劇場は、西から東に、浪花座(元は筑後芝居の戎座)、中座(中の芝居)、角座(元は角の芝居)、朝日座(元の角丸芝居)、それに弁天座(元の竹田芝居)だった。3これらの劇場には多くの人々が集まり、この辺りは大阪最大の繁華街になった。道頓堀は人々の叫び声、何千もの下駄の音、三味線や太鼓の音で賑わった。芝居の合間に茶屋や料理屋で休憩する人々が便利なように、劇場と劇場の間や道頓堀の運河の対岸の宗右衛門町には、茶屋や料理屋が数多くあった。劇場へ持ち込むための弁当も売られていた。

位于南道顿崛的主要剧院从西往东分别是:浪花座、中座、角座、朝日座,接着是弁天座。这几家剧院聚集了众多观众,其附近便是大阪最大的繁华街。道顿崛热闹非凡,充满了人群的嘈杂、万千木屐踩踏声、三味线或太鼓的曲调。为了让人们更方便地在戏剧间歇时于茶铺和料理店小憩,在剧院与剧院之间、道顿崛运河对岸的宗右卫门町有为数众多的茶铺和料理店。另外送到剧院的便当也销路甚广。

19世紀半ばに日本が開国すると、道頓堀は外国人にも人気のあるスポットとなった。1920年に出版された「Terry’s Guide to the Japanese Empire」は、次のように魅力的に描いている。

日本在19世纪中叶开国后,道顿崛也成为外国人喜爱的娱乐地。1920年出版的《Terry’s Guide to the Japanese Empire》中就做出了下面这段魅力十足的描述:

「南区にある道頓堀川は、大阪にとっては横浜の伊勢佐木町と同じで、夜になると大変賑やかになる。ここにある茶店の中には、中庭に巨大な籠を置いて夏には蛍で一杯にして、お客を楽しませるために放したり、小さな竹籠に入れてお客に持ち帰らせたりしている。この川は夏の夜になると、浮かれ騒ぐ人々を満載した遊覧船や揺れ動く提灯で、驚くほどヴェニス的になる。」

“对大阪而言,位于南区的道顿崛川和横滨的伊势佐木町一样,一到了夜晚就热闹非凡。在位于此处的茶铺中,中庭放了一个巨大的灯笼,夏日里在其中放满了萤火虫,为了增添客人的兴致,他们或把萤火虫放出去,或将它们装进小竹笼里让客人带回。

蛍は日本で大変大きな役割を演じていたので、このガイドブックはこの風習について詳しく述べている。

「蛍店では、捕まえた蛍をできるだけ早く光(蛍火)の明るさによって分ける。これは日本では上質とされる茶の明るい緑がかった黄色に似ているので茶色と呼ぶ。」

「それから蛍は、100匹か200匹ずつガーゼで覆われた箱か籠(蛍籠)に、湿らせた草と一緒に等級別に入れられる。夏の季節になると、夕食パーティで見せるための蛍の注文が多い。」

「京都や大阪、東京の有名な茶屋の中には、無数の蛍を蚊帳に入れて庭で飼っておき、客にその中に入って決められた数の蛍を捕まえさせてお土産に持ち帰らせているところがある。」

萤火虫在日本扮演了重要的角色,这本手册对这个风俗进一步描述道:

“捕捉到萤火虫后,萤火虫店就赶紧按照其所散发的光(萤光)来定出高下品类。由于荧光与在日本被视为上品茶叶的带亮绿的黄色相似,因而称作茶色。”

“接下来,萤火虫随其高下品类,按100只或200只的数量被分批装入覆盖有纱巾的箱子或笼子里,里面铺有湿润的青草。一到夏天,由于晚宴上的观赏的需要,萤火虫的订单数量很大。”

“在京都、大阪、东京的有名茶铺中,有一些店家把无数的萤火虫放进蚊帐,在庭院中饲养它们,他们邀请客人进到里面,捕到一定数量的萤火虫后作为土产带回。”

1945年のアメリカ軍による焼夷弾爆撃で、残っていた劇場は破壊されるか大損害を受けた。好みの変化が止めを刺し、2002年になると、残るのは中座と松竹座(1923年の建築で1997年に改築)の2軒だけになった。しかし中座もこの年の9月には取り壊されたが、この取り壊し工事中に発生した火災で、大阪で江戸時代の雰囲気を何とか残している数少ない場所の一つである法善寺横町が大損害を蒙った。幸いなことに大阪市民はここを復興することができた。

1945年,由于美军的烧夷弹轰炸,残留下的剧院遭到破坏,损失巨大。而人们兴趣的变化也给了它们最后的打击,到2002年,仅有中座和松竹座2家留了下来。然而,中座也在同年9月被拆除,拆除工程中发生的火灾使法善寺横町蒙受巨大损害,在大阪,此处是多少残留一些江户气息的为数不多的地方之一。不过幸运的是,大阪市民对这里进行了重建。

蛍も劇場も姿を消し、旗や幟が明るいネオンサインに取って代られて久しいが、道頓堀は今でも大きな歓楽街である。しかしその娯楽も大きく変わった。2008年にはプロレスの競技場さえできた

萤火虫也好,剧院也好,都消失了踪影,幡旗被明亮的霓虹灯取代也为时已久,尽管如此,直到今天,道顿崛依旧不失其娱乐街的本色。不过里面的娱乐也有了较大变化。2008年,这里甚至建起了摔跤比赛场。

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