日本の古代史には謎の部分が極めて多い。ここに取り上げる天武天皇などその最たるものだ。例えば歴代天皇の中で唯一、生年が不明な天皇なのだ。生年だけではなく、前半生すら全く闇に隠されたままだ。なぜなのか? 

日本古代史中有许多谜团,这里说到的天武天皇就是其中之最。历代天皇中,他是唯一一位生年不明的天皇,不仅是出生年月,连他的前半生也完全笼罩在谜团里。这是为什么呢?

一般に天武天皇はそれまで、大和朝廷を組織していた畿内の大豪族主導による合議制政治を否定。壬申の乱に勝利し、この戦いで有力豪族の多くを滅ぼしたことで、権力を天皇家に集中し「皇親政治」を実現した、賢君のイメージが強い人物と思われている。現実に『万葉集』などで天武天皇は、「大君(おおきみ)は神にしませば…」と詠われ、その政権は独裁的専制君主の地位に達していた。そんな現人神(あらひとがみ)になった天武天皇の生年が、また前半生がなぜ闇の中にあるのか。そこには、オープンにできない、奥深い事情があるのではないか。まさに謎だらけの人物といわざるを得ない。 

在一般的看法中,天武天皇给人的印象大都是位贤明君主,他否定了在此以前组织大和朝廷的畿内大豪族掌握的合议制政治,在壬申之乱中取得胜利,这场战争中,他消灭了许多有力豪族,由此把权力集中在天皇手上,实现了“皇亲政治”。在《万叶集》中,天武天皇咏歌“大君即为神.....”,实际上他的政权正是达到了独裁专制君主的地位。然而,“现人身”天武天皇的出生年月、乃至前半生的活动,为什么谜团重重呢?或许这其中有着不能道破的深奥缘由存在吧。不得不说,天武天皇是位谜一般的人物。

天武天皇は名を大海人(おおあま)皇子といい、父は舒明天皇、母は皇極天皇で、正史では天智天皇(中大兄皇子)の弟とされている。しかし、最近の説では天智天皇とは兄弟ではなかったとか、兄弟にしても大海人皇子の方が兄だったとか、大海人皇子は渡来人だったといった説まで生まれている。中大兄皇子とは父が異なり、大海人皇子が年上だったからこそ、生年を明記できなかったのであり、大海人皇子に対する天智天皇の遇し方も尋常ではなかったのではないだろうか。 

天武天皇名为“大海人皇子”,父亲是舒明天皇,母亲是皇极天皇,在正史中一般认为他是天智天皇(中大兄皇子)的弟弟。然而,在最近的说法中,有人认为他和天智天皇并非兄弟关系,有人认为他们是兄弟,不过大海人皇子更年长,甚至还有人提出大海人皇子是渡来人的观点。或许,正是因为大海人皇子和中大兄皇子的父亲不是同一人,且年龄较长,对他的出生年月才没有明确记载,而天智天皇对他的态度也才显得非同寻常吧。

天智天皇にとって、大海人皇子は単なる兄弟の一人というわけにはいかない、“賓客”に相当する存在だったのではないか。そうでなければ、4人もの自分の娘を大海人に嫁がせる理由がない。これらの真偽はさておき、大海人皇子が天智朝の皇太子として、一時は政権の中枢にいたことは事実だ。「皇太弟」と表現されることもあったのだから、この点は間違いない。 

对天智天皇来说,大海人皇子并不是唯一的兄弟,很可能他的存在相当于“宾客”一类。如果不是这样,那么天智天皇没有理由把自己的四个女儿嫁给大海人。先不讨论此说的真伪,至少大海人皇子曾作为天智朝廷的皇太子处在政权的中枢是一个事实。

ところが、幼少だった大友皇子の成長に伴い、天智天皇が皇太子=大海人ではなく、わが子大友に皇位を譲りたいと思うようになったことで、状況が激変する。天智天皇は、皇太子の大海人皇子の地位を奪い、671年(天智天皇10年)、大友皇子を太政大臣に任命し、政権のトップの座に就かせたのだ。太政大臣が官職として正式に登場するのは、これが初めてのことだ。天智天皇はわが子を皇位に就けるため、新しいポストを作ってまで大友皇子を政治の中枢に置いたのだ。大友皇子23歳のときのことだ。 

不过,随着年幼的大友皇子逐渐成长起来,情况突然改变了,天智天皇开始希望自己儿子大友作为皇太子继承皇位,而非大海人皇子。于是,天智天皇剥夺了大海人皇子的地位,671年(天智10年),任命大友皇子为太政大臣,给了他朝廷中的最高地位。太政大臣作为一个官职正式出现也正是以此为开端。为了让自己的儿子继承皇位,天智天皇甚至安排了一个新的官职,把大友皇子引到了政治权力的中枢。此时大友皇子仅23岁。

そして、天智天皇が大友を後継者にするために謀った最後の機会が、病の床に就いた天智が、病気が全快しないのを予感し、大海人を招いたときだった。671年のことだ。天智は「私の病気は重い。お前に後を譲ろうと思う」といった。大海人は即座に「いや、結構です。皇位は倭姫(やまとひめ)皇后にお譲りください。政治のことは大友皇子にお任せください。私は出家し、天皇の病気治癒を祈りましょう」と答えた。とっさに大海人は天智天皇の言葉が、自分に仕掛けられた罠だと察したのだ。事実、左大臣蘇我赤兄(そがのあかえ)は、大海人が承知すれば、その場で暗殺しようと狙っていたともいわれる。危機一髪、僧形となった大海人皇子は吉野に逃れた。 

接下来,也是在671年,天智天皇卧病不起,他感到病情不会好转,于是招来了大海人皇子,这其实是实现让大友成为后继者的最后机会。天智天皇对大海人说:“我的病情很重,打算把皇位让与你”。而大海人皇子立即回答说,“不用了,皇位让给倭姫皇后,政治就交给大友皇子吧。我会出家祈祷天皇病愈”。因为,大海人当即就看破了,天智天皇的话是为自己设的陷阱。实际上,如果大海人应承了天皇的要求,左大臣苏我赤兄就会当场将他暗杀。在千钧一发的关头,大海人皇子扮成僧侣逃到了吉野。

後の歴史に即していえば、こうして大海人皇子による皇位奪取計画の火ぶたが切って落とされたのだった。天智天皇亡きあと近江京の総帥・大友皇子と、吉野で密かに態勢を立て直した大海人皇子、甥・叔父の戦い=古代史上最大の内乱「壬申の乱」はこの翌年、672年のことだ。この戦いに勝利した大海人皇子は飛鳥浄御原宮で即位、天武天皇となった。

顺着此后的历史来说,大海人皇子的皇位夺取计划从此就拉开了序幕。天智天皇去世后第二年,672年,古代史上最大的内乱“壬申之乱”在近江京的统帅大友皇子与在吉野暗中重振势力的大海人皇子这对外甥叔父之间爆发了。获得这场战争胜利的大海人皇子在飞鸟净御原宫即位,即为天武天皇。

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