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こんにちは歴史作家の恵美嘉樹です。10月2日、伊勢神宮の内宮で20年に一度の式年遷宮が行われました。2日夜に行われたのは7年間にわたる式年遷宮の数々の儀式のクライマックス。ご神体(天照大神)が古い正殿から新しい正殿へと遷られる「遷御の儀」です。日本人の誇りである伊勢神宮について、歴史的・考古学的な見地から浮かび上がった7つの秘密をご紹介します。

大家好,我是历史作家惠美嘉树。10月2日,伊势神宫内宫举行了20年一次的式年迁宫。为时7年的式年迁宫的众多仪式,在2日夜晚举行的仪式中达到了高潮。这就是“迁御之仪”,即将神体(天照大神)从旧殿迁往新的正殿。关于日本人津津乐道的伊势神宫,下面我就从历史、考古学的观点出发,为大家介绍7个秘密。

その1 アマテラスの父母が祀られていなかった

伊勢神宮の神様はアマテラス。彼女のお母さんは、日本神話で有名なイザナギとイザナミ(兄妹婚)です。アマテラスが神宮の主神である以上、当然、有名な神様である父母だってまつられていて不思議じゃない。なのに、ずーっとご両親は無視されてきたのです。

其一   没有祭祀天照大神的父母

伊势神宫的祭神是天照大神。她的父母就是日本神话中著名的伊邪那岐和伊邪那美(兄妹婚)。既然天照大神是神宫的主神,那么按常理,有名的大神父母自然也会被祭祀在里面。然而,一直以来,父母都被忽略了。

そしてとうとうご両親キレました!

772年(宝亀3年)8月6日に、伊勢のイザナギ・イザナミ神(および弟の月読神)が祟ったのです。続日本紀によると、異常な風雨で樹木を根こそぎにされ家屋が倒壊したとあるので、おそらく伊勢湾台風級の台風被害だったのでしょう。そこで、朝廷はあわてて、イザナギ・イザナミを官社(朝廷直轄の神社)としてお祭りすることになったのです。

于是父母生气了!

772年(宝龟3年)8月6日,伊势的伊邪纳岐和伊邪那美(以及弟弟月读神)向人间降灾了。据《续日本纪》的描述,当时发生了异常的暴风雨,树木被连根拔起,房屋纷纷倒塌,或许,这其实是伊势湾台风造成的一次自然灾害吧。于是,朝廷慌了手脚,赶忙把伊邪那岐和伊邪那美两神请至官社(朝廷直辖的神社)供奉祭祀。

なんで、そんなことが起きたのかというと、もともと伊勢神宮の神様は「アマテラス」と呼ばれていたかも定かでないけど、神様の中でも別格の神様でした。その「別格神様」を、飛鳥時代の律令制にあわせて天皇家の祖先ということにしたことでできたスキマだったと考えられます。

那么,为什么会出现这种情况呢?原来,伊势神宫的祭神原本是大神中的特殊一类,是否叫作“天照大神”也是不太确定的事。随着飞鸟时代律令制的推行,这种特殊的大神被视为了天皇家的祖先。

「もともとのイセの神様」(別格すぎてお父ちゃんやおかあちゃんはいない)+「天皇家で一番偉い神アマテラス」(天皇家の神々でも別格だけど、父ちゃん母ちゃんはいる)=「伊勢神宮のアマテラス」と合体したときに、父ちゃん母ちゃんを忘れてしまっていたということですね、はい。

“原来的伊势大神”(由于过于特殊,没有父母)+“天皇家最伟大的神天照大神(虽然在天皇家的众神中是特别的存在,但都有父母)=”伊势神宫的天照大神”。结果是,在两者融合在一起的过程中,父母被遗忘得干干净净了。

その2 伊勢神宮にも付属の仏教寺院があった

神宮寺と聞くと「サクラ大戦」のヒロインを思い出すのですが、それはともかく、明治時代以前は、有名な神社と仏教寺院はほとんど同居していました。神社の境内などにある神社付属寺院のことを「神宮寺」と呼びます。それを神仏習合というのですが、でも神社オブ・ザ神社の伊勢神宮だけは、そんな「不謹慎な」ことはなかった、、、はず。

其二 伊势神宫原来也有附属的佛教寺院

听到“神宫寺”,你会想起《樱花大战》中的主角,这些姑且不谈,总之在明治时代以前,有名的神社和佛教寺院大都建在一起。神社境内的神社附属寺院就被称为“神宫寺”。这便是通常说的“神佛习合”了,而唯独伊势神宫没有神宫寺,神社的老大按理是不会犯下这种“轻率”之举的。

ところが、先の772年の記事にも「伊勢神宮寺を移転した」とあるように、奈良時代には、神宮寺を持っていたのです。しかし、平安時代になって「あれ? ちょっとおかしくない」という矛盾に気付いてきて、820年にできた法規集「弘仁式」で、伊勢神宮も「ちゃんとしよう」ということでマニュアル(伊勢太神宮式)が作られます。あわせて、この頃、「仏」や「塔」など仏教に関する言葉は伊勢神宮においては禁忌(タブー)とする「神宮忌詞(いみことば)」ができ、仏教は排除されます。

不过,前面772年的记录中提到了“移迁伊势神宫寺”,所以可以看出,在奈良时代,伊势神宫是拥有神宫寺的。然而到了平安时代,人们发觉这种矛盾,觉得“咦?有些奇怪呢”,于是820年的法规集《弘仁式》中,要求伊势神宫也要“中规中矩才好”,神宫的“操作指南”(伊势神太神宫式)被制定了出来。与此同时,在伊势神宫内,“佛”、“塔”等与佛教相关的词被视为禁忌,即“神宫忌词(いみことば)”。佛教被排除出了伊势神宫。

神宮への勅使に任命された貴族は、選ばれたその日から仏教儀式をすることは禁止。僧侶や尼との接触も禁止されます。

另外,被任命为前往神宫的勅使的贵族从被选的那一日起,会被禁止参与佛教法事,也禁止与僧尼有接触。

「伊勢神宮はもっとも早く神仏習合が始まり、もっとも早くなくなった神社なのである。(略)現存する儀式帳には神仏習合をうかがわせる記述はまったくなく、むしろ神仏分離の成果報告として提出を義務づけられたのではない、と思わせるほどである」(105ページ、榎村寛之『古代の都と神々』吉川弘文館、2008年)との、三重県立斎宮歴史博物館学芸課長(当時)の指摘もあります。

三重县立斋宫历史博物馆学艺课长也指出:“伊势神宫是最早开始神佛习合的神社,也是最早摆脱这一习惯的神社。(略)从现存的仪式记录册上,完全看不到能与神佛习合有关的记述,不由让人推测,反倒是神佛分离的成果报告并没有提交的义务”(105页 《古代的都城和众神》吉川弘文馆 2008年)

一度は、”廃仏毀釈”した伊勢神宮ですが、平安時代もおわりになると、日本社会として神道=仏教の一体化が進むために、仏教排斥は緩くなっていきます。

然而,虽然伊势神宫一度“废佛毁释”,到了平安时代走向尾声时,在日本社会,神道=佛教走向一体化,因而神宫对佛教的排斥也有了一些缓和。

儀式としての廃仏は続行しますが、東大寺の復興に全国を飛び回った重源が東大寺再建祈願のために僧侶60人で参拝したのをはじめ偉いお坊さんたちもたくさん伊勢をお参りしています。(重源さんの場合は、さすがに60人の僧侶団体参拝はまずいと、外宮では深夜に、内宮では2、3人に分かれて参拝したそうです)中世末期の絵図には、境内にお寺も見えます。(45頁、岡田ほか編『事典 神社の歴史と祭り』(吉川弘文館、2013)

尽管仪式上的废佛是继续实行的,但此时有许多得道的高僧参拜伊势神宫,比如在东大寺复兴中奔走全国的重源,他为了祈愿东大寺的重建,率领60名僧侣前往参拜。(说到重源的情况,他还是觉得60人的僧团参拜不太合适,于是外宫是深夜去参拜,内宫则分成2、3人一组分别参拜)在中世末期的地图中,可以看到伊势神宫境内存在着寺院。(45页,冈田编《事典 神社的历史与祭祀》(吉川弘文馆 2013)

仏教強し……。

佛教真是厉害.......。

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