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福沢諭吉 「天は人の上に人を造らず…」で門閥制度を嫌った啓蒙思想家

福沢諭吉は封建社会の門閥制度を嫌った。中津藩士で、儒学に通じた学者でもあったが、身分が低いため身分格差の激しい中津藩では名をなすこともできずにこの世を去った父と幼少時に死別、母の手一つで育てられたためだ。福沢は『福翁自伝』の中で「門閥制度は親の敵(かたき)で御座る」とさえ述べている。『学問のすすめ』の冒頭に記されている「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らずと云へり」という有名な人間平等宣言も、こうした生い立ちがその根底にある。そのため、明治維新後、新政府からの度々の出仕要請も断り、もっぱら民間にあって慶応義塾の教育と国民啓蒙のための著作とを使命とする態度を変えなかった。福沢の生没年は1834(天保5)~1901年(明治34年)。

福泽谕吉—— “天不生人上之人”  厌恶身份制度的启蒙家

福泽谕吉对封建社会的门阀制度深恶痛绝。说到原因,福泽是中津藩士,也是精通儒学的学者,而在身份制度森严的中津藩,幼年时郁郁不得志的父亲去世,母亲将他一手抚养成人。福泽在《福翁自传》中甚至写道:“门阀制度是父母之敌”。《劝学篇》的一开头就宣扬:“天不生人上之人,不生人下之人”,这句著名人人平等宣言也与福泽渝吉的个人经历密不可分。因此,到了明治维新以后,他屡次拒绝政府发出的仕官邀请,专注于民间,始终不改变把庆应义塾的教育与国民启蒙的写作视作使命的态度。福泽谕吉的生卒年为1834年——1901年。

明治時代の啓蒙思想家で慶応義塾の創立者、福沢諭吉は大坂の中津藩蔵屋敷で十三石二人扶持の藩士、福沢百助とお順の二男三女の末っ子として生まれた。わずか2歳のとき父と死別、母子一家は中津(現在の大分県中津市)へ帰った。現在、中津市内に福沢旧邸が昔のままに保存されているが、これは二度目の住居であり、中津帰郷当初住んでいた家は倒壊寸前のひどい荒屋(あばらや)だったという。その荒屋で姉たちと福沢は、18歳までの歳月を送った。

明治时代的启蒙思想家、庆应义塾的创立者——福泽渝吉是福泽百助与阿顺所生二男三女中的小儿子。百助是供职于大阪中津藩大米仓库的藩士,俸禄仅为十三石二人扶持。在渝吉年仅两岁时,父亲撒手人寰,母子一家回到了中津。现在的中津市内还完整地保存着福泽的旧邸,不过这是第二次搬迁后的房子,他们刚回中津时住的房屋是一间濒临倒塌的破房。福泽和姐姐们一起在那间破房里生活,直到18岁以前。

1854年(安政1年)、福沢は長崎へ蘭学修行に出て、翌年大坂の緒方洪庵の適々塾に入門。1856年(安政3年)、兄三之助が病死し福沢家を継ぐが、適々塾に戻り、1858年、藩命で江戸中津藩屋敷に蘭学塾を開くことになった。これが後の慶応義塾に発展する。 

1854年(安政1年),福泽前往长崎进行兰学修习,次年进入大阪绪方洪庵的适适塾。1856年(安政3年),长兄三之助病死,福泽继承了家业,不过又返回适适塾。1858年,应藩命在江户中津藩邸开设兰学塾,这里发展成后来的庆应义塾。

1859年、福沢は横浜に遊び、愕然とすることになった。開港されて、外国人の行き交う姿が珍しくない横浜の街で見かける看板は、オランダ語ではなく、英語が幅を利かせていたからだ。これまで必死で学んできた蘭学の無力さを痛感。英学に転向、以後、独学で英学に取り組む。1860年(万延1年)、福沢は咸臨丸に艦長の従僕として乗り込み渡米。1862年(文久2年)には幕府遣欧使節団の探索方として仏英蘭独露葡6カ国を歴訪。1864年(元治1年)に幕臣となった。1866年(慶応2年)、既述の洋行経験をもとに『西洋事情』初編を書き刊行。欧米諸国の歴史、制度の優れた紹介書となった。

1859年,福泽游学横滨,这里的景象让他顿感愕然。横滨是对外开放的港口,外国人来往穿梭的身影早已不是新奇的事,在横滨街上的各种招牌上,他发现写的并不是荷兰语,而是清一色的英语。此时他痛感自己拼命学成的兰学不堪为用,于是转向英语相关的学问。此后一心扑在英语的自学上。1860年,福泽渝吉作为“咸临丸”舰长的下属,乘船远渡美国。1862年,又作为幕府遣欧使团的先遣人员连续访问了法英荷德俄葡6国。1864年,福泽渝吉成为了慕臣。1866年,他以此前的海外经历为题材,写作刊行了《西洋事情》初编。《西洋事情》成为描述欧美各国历史、制度的杰出介绍手册。

1867年(慶応3年)、幕府遣米使節に随従するが、このとき福沢は、幕府はもうどうにもならぬと見当をつけていたので、自分の手当から公金まで全部動員して書物を買い込んだ。大中小の各種辞書、経済書、法律書、地理書、数学書など大量に持ち帰った。そのため、福沢は勝手に大量の書物を買い込んだかどで、帰国後3カ月の謹慎処分を受けた。しかし、そのお陰で、後述するように、福沢の慶応義塾では、生徒一人ひとりがアメリカ版の原書を持たせてもらって、授業を受けることができたので、次第に人気が高まるのだ。

1867年,他又跟随幕府遣美使臣出访,而在此时,福泽已看清幕府早已无可救药,于是把自己手里的津贴甚至公款都全部拿出来,购买了大批书籍。最后携带了大中小各类辞书、经济、法律、地理、数学等书籍归国。由于随便大量购买书籍,归国后福泽受到了为期3个月的谨慎处分。不过也正因为此举,如后面所说那样,在福泽的庆应义塾,每一个学生都能拿到美国的原版书进行课程学习,庆应也因此而逐渐闻名。

1868年(明治1年)、福沢はこれまでの家塾を改革し、慶応義塾と称し「商工農士の差別なく」洋学に志す者の学習の場とした。同年5月15日、上野の彰義隊戦争の最中、福沢は大砲の音を聞きながら、生徒を前にして経済学の講義をしていたという。同年、幕臣を辞し、中津藩の扶持も返上。明治新政府からの度々の出仕要請も断った。1871年の廃藩置県を歓迎した彼は、国民に何をなすべきかを説く『学問のすすめ』初編(1872年刊)を著す。冒頭に「天は人の上に人を造らず…」というあの有名な人間平等宣言を記すとともに、西洋文明を学ぶことによって「一身独立、一国独立」すべきだと説いた。この書は当時の人々に歓迎され、第17編(1876年)まで書き続けられ、総発行部数340万部といわれるベストセラーとなった。これにより、福沢は啓蒙思想家としての地位を確立した。

1868年,福泽渝吉对迄今的家塾进行了改革,称为“庆应义塾”,把这里作为了一个“不分商工农士差别”,致力西洋学问者的学习场所。相传同年5月15日,上野彰义队战争进行正激烈,一片隆隆炮声中,福泽仍在为学生们讲授经济学。同年他辞去了幕臣的职位,也归还了中津藩的扶持俸禄。并且拒绝了明治新政府的多次仕官邀请。1871年,他对废藩置县政策表示欢迎,而对于国民今后需要做什么的问题,他为此著述了《劝学篇》初篇(1872年刊)。在《劝学篇》开头写下“天不生人上之人”这句著名平等宣言的同时,他倡导应学习西方文明,实现“一人独立,一国独立”。这由于受到当时大众的欢迎,福泽谕吉连续写到了第17篇。《劝学篇》十分热销,总发行量达到了340万册。于是,福泽作为启蒙思想家的地位由此确立下来。

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