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端午の節句には、蘊蓄(うんちく)がいっぱいあるので、覚えておくと面白い。なぜ五月五日なのか、なぜ甲冑や五月人形を飾り、菖蒲湯(しょうぶゆ)に入り、粽(ちまき)や柏餅(かしわもち)を食べるのか。なぜか鯉は空を泳ぐようにもなった。…不思議なことが多い。このような風習は、江戸時代に広まったといっていい。言い伝えられていることを紹介しながら、想像をふくらませてみよう。

端午节句里面的知识可不少,做一些了解也不乏乐趣。为什么是5月5日?为什么要装饰甲胄、五月人偶?为什么要浸泡菖蒲洗澡?为什么要吃粽子和柏饼?以及,为什么要挂起鲤鱼旗?不明白的事儿很多。而这样的风俗实际上还是在江户时代普及开的。下面就介绍一下这些流传至今的习俗,大家也尽情发挥想象吧。

「端午」の“端”は初めの意で、“午”はうまの意。つまり最初の午の日という意味である。それなら「初午(はつうま)」という言葉はどうなるのか、とおっしゃる方もいるはずだ。「初午」は明らかに5月より前である。端午の節句が五月五日になったのは、午は「うま」であると同時に「ご」であるから、「五」であるという単純な話で恐れ入る。いずれにしても江戸幕府が決めたことなので、そうなった。へ理屈をこねるなら、最初に「ご」がつく月は当然5月、日は(5日、15日、25日のうち)5日ということだろう。

“端午”的“端”字指的是最初的意思,“午”字是马的意思。综合起来,也就是最初的午日。听到这里或许有读者会说,既然这样,又何不用“初午”这个词呢。不过众所周知,“初午”远远在5月之前(2月)。端午的节句之所以会在5月5日,是因为“午”不但代表十二生肖的“马”,也可读作“ご”,因此也就是“五”日了。这听上去也太简单了,笔者都觉得不好意思了。不过不管怎么说,这也是由江户幕府规定而成的。勉强要说个道理来的话,第一个带数字“五”的月份当然是5月,而在5日、15日、25日这些日期中,5日理所当然的是第一个。

奈良、平安の時代から端午の節句の風習はあったようだ。これは武人と密接に結びついていて、戦う勇敢な男子を想起させる。鎧(よろい)・兜(かぶと)を飾り、幟(のぼり)を立て、尚武(しょうぶ)、つまり武をとうとぶ気風である。尚武は菖蒲につながり、菖蒲の薬効で邪気を祓い、いざ勝負ということになる。「端午市井図」の真ん中あたりの二人の子どもは、菖蒲刀(菖蒲を刀にみたてた玩具)でチャンバラごっこをしているところだ。

早在奈良、平安时代,端午节句的习俗就已经存在了,它和武人有着很紧密的联系,让人联想到战斗的勇武男子。端午节句有在房间装饰铠甲、头盔,竖立幡旗的习俗,也是出于尚武、崇武的风气。“尚武”和“菖蒲”读音相同,而菖蒲的药效还有驱邪的作用,也就有了决一胜负的意义。《端午市井图》中央的两个孩子就正在用菖蒲刀(用菖蒲叶片做成的刀状玩具)玩拼刀游戏。

江戸時代はたいした戦いもなく、安定した社会であったためか、端午の節句は武家階層だけでなく町人階層にも浸透し、男児の壮健を願う行事に変わっていく。娯楽化し、イベント化し、ビジネスにもなっていった。この図の道の向こう側は、武者人形を売る店。店先では幟や長刀(なぎなた)、吹き流しなども売っている。

在整个江户时代,基本都没有较大战事,社会一直保持着安定,因此端午节句不再仅限于武家阶层,也逐渐渗透到了町人阶层,变成了祈祷男孩健康成长的仪式。后来它被娱乐化,演变成节日活动,甚至还成为商机。在这幅画中,位于街道对面的就是售卖武者人偶的店铺。铺子前还摆放着旗幡、长刀、鲤鱼旗。

手前の旗に描かれた恐ろしげな男は、「鍾馗(しょうき)」という。中国の唐の時代、玄宗皇帝の夢の中で病魔を退治し、すっかり病気を治してくれたという伝説の人物である。

下方这面旗帜中所描绘的凶恶男子叫”钟馗“。相传他是中国唐代的人,在玄宗皇帝梦中打退了病魔,治好了皇帝的病。

餅は餅でも柏餅を食べるのは、柏の葉は次の新しい芽が出て来るまで古い葉が落ちないということから、子孫繁栄の縁起をかついだもので江戸時代に始まった風習だ。

为何要特地吃槲叶糕呢,这还是江户时代开始的风俗,因为槲树叶在长出嫩叶前,老叶子不会凋落,也就蕴含了子孙繁荣的美好寓意。

粽は笹で包んだ餅だが、紀元前の中国の伝説が発端となっている。非業の死を遂げた楚(そ)の国の詩人・政治家である屈原(くつげん)を弔うための供物に粽が用いられたことによる。粽には悪魔を祓う霊力があるとされ、現在も中国湖北省では命日に粽を川に投げる祭が毎年行われている。その命日は何と、五月五日というできた話だ。

粽子是由竹叶包裹的糯米食品,起源于公元前中国的传说。相传百姓们为了祭祀投江而死的楚国诗人屈原,用粽子作为供品。粽子有辟邪的作用,直到今天,在中国的湖北省,每年在屈原的忌日还会举行将粽子投入江中的祭祀。而屈原的忌日竟然也是5月5日。

最初の鯉のぼりは、今ほど大きくはなかった。小さな紙のぼりのようなもので、木版刷りの鯉の絵柄を貼り合わせて、棒の先に糸でくくりつけた簡単なものだ。長屋の路地では、男の子たちがこんな鯉のぼりを手に持って走り回っていたのではないだろうか。

最开始的鲤鱼旗并不像今天那样大。而是类似小纸旗的简单物品,将印刷有鲤鱼图案的纸张贴在一起,用绳子系在木棍前端就算做成了。

ミニ鯉のぼりが登場したのは江戸中期、だんだん巨大化していった。武家では家紋を幟に染め抜いたり、鍾馗(しょうき)像や武者絵を描いた幟を好んで立てた。それに対抗して財力をつけた商人層が「俺たちも、大きな鯉のぼりを立て、一丁派手にやろうじゃないか」くらいのノリで始まったのが、案外当たっているのかもしれない。

迷你鲤鱼旗出现于江户中期,后来就逐渐越变越大了。武家会在旗帜上印染家徽,钟馗像或武者绘也很受欢迎。而财力雄厚的商人们也不甘居下,他们兴致勃勃地嚷着“我们也来挂起大型鲤鱼旗,风光地干一场”,纷纷悬挂巨大的鲤鱼旗,结果意外地大获成功。

鯉である理由は、中国の「登竜門」の故事による。竜門という難関の急流を越えた魚は鯉だけだったという故事で、鯉は出世魚であるからだ。だから、今も鯉のぼりは、子どもの立身出世を夢見る親たちの願いを一気に背負って、一生懸命空を泳いでいるのである。

之所以选用鲤鱼,还是来自中国“鲤鱼跳龙门”的故事,因为鲤鱼是出世鱼,故事中突破重重激流,跳过龙门的仅有鲤鱼。所以,直到今天,鲤鱼旗仍承载着父母对孩子出人头地的期盼,努力地在天空中随风飘舞。

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