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KYという言葉がユーキャンの流行語大賞に選ばれてから6年。当時のように頻繁には使われなくなったものの、今だ日本社会における「空気読め論」は根強い。「空気を読む」に関しては、KYという言葉が誕生した頃から賛否両論が絶えないが、「空気を読む」という言葉自体が存在しない海外で生活していると、日本の「空気読め論」もあながち悪いことではないと思う。

KY一词被U-CAN股份公司赞助的流行语大赛选为流行语,已经有六年了。虽然并未像当时那样被频繁使用,但是在当今社会“察言观色理论”深入人心。关于“察言观色”一词,从诞生之初就备受争议,如果是在没有这个词汇的国外生活的话,日本所宣扬的“察言观色理论”也不一定是不好的。

集団主義社会のアジアとは違い、個人主義社会の欧米で暮らしていると、私たち日本人の常識では考えられないような、ビックリするほど空気が読めない人にたまに出会う。

与集团主义的亚洲不同,在倡导个人主义的欧美国家生活,有时会出现一些在我们看来是不合常识无法想象的、完全搞不清状况的人。

これからみんなで楽しく飲もう!という時に苦労話を始めて盛り下げる人、カップルが真剣に別れ話をしている最中に割り込んで入って「DVD貸して」という人、大勢が集まるパーティーでいきなり怒りだし険悪なムードにする人。

比如在大家准备开怀畅饮,却说一些丧气话搅坏气氛的人,恋人在分手时插嘴说要借DVD的人,大家聚会时突然发怒搅坏气氛的人。

「おいおい、ちょっとは空気を読めよ!」と突っ込みたくなる場面は日本にいた頃よりもよくあるし、こんな時日本人同士なら場の空気を読んでくれるんじゃないか?と思ったりもする。空気を読むという行為が「自分の主張や都合を後回しにして他人の心情を思いやる」というのなら、それは人間的にも賞賛すべき行動だし、いちいち言われなくても『察する力』があるのが私たち日本人の良い点だとも思う。

“喂,喂,拜托识相点吧”。(欧美国家)这种想让人吐槽的情况比11区更多。这时如果是日本人朋友的话,是不是会察言观色呢?所谓察言观色,是指将在自己的想法及情况之前优先体谅他人的心情。这是作为一个人应该被称赞的行为,即使不一一说明,我们日本人也能觉察得到,这是日本人的优点。

しかし、「空気読め」という言葉自体は受け入れがたい。「空気読め」という批判が日本人のコミュニケーションをダメにすると思うからだ。

但是“察言观色”一词本身让人难以接受。我想对于“察言观色”这种批判在很多时候阻碍了日本人的交流。

そもそも「空気読め」という言葉がない欧米社会では、上の例に挙げた「場の空気を読めない人」にどのように接するのだろうか。「空気が読めないこと」を批難する場合、何と言って注意するのだろうか。

在没有“察言观色”一词的欧美国家,与前文提到的“搞不清状况的人”是如何相处的呢?批评这些人不会察言观色时,在表达时需要注意什么呢。

欧米では「空気読めよ」という便利で曖昧な言葉がないため、例えば大勢が集まるパーティーでいきなり怒りだし険悪なムードにする人に対しては、「その話は後でしよう」と切り返したり、「何でそのことで今怒り出すんだ!」と逆ギレしたり、「今日はせっかくみんな集まったから楽しく過ごしたいんだ」と言って自分の気持ちを伝えたりする。つまり、「空気読めよ」という批判はどれも他のフレーズに言い換えることができるわけだ。

由于在欧美国家没有类似“察言观色点吧”这样的短语,所以面对在大家聚会上突然发怒搅坏气氛的人,可以反击说“这件事稍后再议”,“为什么现在为这事生气!”,或者是“今天好不容易大家齐聚一堂想玩得开心点好吧!”来表达自己的心情。也就是说“察言观色点吧”这种批判语是可以用其他短语来表达的。

日本語という言語は、主語、動詞、目的語がはっきりしてないと会話にならない英語やフランス語と比べて、非常に曖昧な言語だ。しかし、曖昧な日本語を使うからこそ、私たち日本人はコミュニケーションに気をつけなければならないと思う。先ほど、いちいち言われなくても『察する力』があるのが日本人の良い点と述べたが、いつでも相手が『察してくれる』と期待するのは間違っていると思う。「察してくれる」というのは付加価値的なものであるべきで、基本的に人間同士がわかりあうには自分の考えをきちんと言葉にしなければならないと思うからだ。言わなくてもわかってくれるだろうと推し量るのは話者の怠慢であり、わかってくれなかったときに「空気読めよ」と批難するのは「私は全部人任せだ」と言っているのようなものだ。

在英语和法语中,如果主语、动词、宾语不明确是无法对话的。相比之下,日语是一种非常暧昧不清的语言。正是使用暧昧的日语,所以我们日本人在交流时就要注意了。前文提到不需一一说明,日本人也有敏锐的“察觉力”这一点是日本人的优点,但是总是期待对方理解体谅自己这也是不对的。“体恤理解”这本是一种带有附加价值的东西,一般是彼此为了互相理解而开诚布公地表达自己的想法。即便自己不说,对方也能觉察到的吧这种推测表现了说话人的敷衍了事,无法理解的时候,便责难对方“察言观色点吧”,这就等同于说“我可把一切都交给你了”。

第2に、「空気読め」という批判が日本人のコミュニケーションをダメにする理由として、日本人各個人の「異」への寛容さが失われるという危惧が挙げられる。

第二,有人担忧“察言观色点吧”这一批判阻碍日本人之间的交流,是因为日本人对于每个人的“不同之处”渐渐丧失了包容之心。

みんなが一様に同じような考え方や行動をとる国、社会というのはいかがなものかとも思う。みんなが右を向けば右を向き、左を向き始めたら左を向く。そんな人ばかりでは発想の転換もないし、ひいては成長もない。どこに行っても同じような人に出会い、同じような会話をする、そんな社会はおもしろくもなんともない。それに、天才と言われるニュートンやアインシュタインなどの科学者や発明家はみなある意味で、「空気読めない人」だったのではないだろうか。

当一个国家的人抱有共同的想法、采取一致的行动时,社会会变成什么样子呢。所有的人集体向右转,集体向左转,行动一致。只有这样的人,便不会有奇思妙想,甚至不会有发展。不论去哪里,都会遇见相同的人,进行着同样的对话,这样的社会没有乐趣可言。从某种意义上说,那些被称为天才的牛顿、爱因斯坦等科学家、发明家也是不会察言观色的人吧。

相手を思いやる人間力は日本以外のどこに行っても重要。しかし、「空気を読まない」人こそがこれまでの世界を作り上げてきたのではないだろうか。

无论去日本之外的哪个国家,体谅对方的这种人性都是很重要的。但是我们的世界不正是那些不懂察言观色的人构建起来的吗?

「空気読めよ」と批判している人こそ、本来なら批判されるべきだということにそろそろ気が付くべきだ。

“察言观色点吧”,持有这种想法的人才是应该受批判的人吧,我越来越觉察到这一点。

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