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「魏志倭人伝」には「其地無牛馬豹羊鵲」との記述があります。つまりこの時代には、日本にはまだ牛や馬はいなかったと考えられ、馬は牛よりも先に渡来したようです。遺伝学的調査によると、日本の家畜馬は、朝鮮半島経由で渡来人によって運ばれたと考えられています。故に畜舎の「ウマヤ」はあっても、「ウシヤ」と呼ばれるものは聴いたことがありません。牛が初めて歴史に登場するのは大和時代の前期(4~7世紀)になってからで、平地で放牧された牛は、5世紀末には既に野を覆う程だったと云われています。

《魏志倭人传》中有这样一条记述:“其地(日本)无牛马豹羊鹊”。也就是说,在这个时代(中国的三国时代),日本还没有牛和马。而论传至日本的先后,马又在牛先。根据遗传学上的调查,日本的家畜马是由渡来人经朝鲜半岛运送到日本的。因此,畜舍有“うまや(馬屋)”的说法,却没“うしや”的说法。牛在日本的历史中的首次亮相则要到大和时代前期(4-7世纪)以后,开始是在平地放牧,到了5世纪末期,牧牛的范围已经扩大到了山野。

6世纪的牛形埴轮

日本では天武天皇の治世(675年)に最初の肉食禁止の勅令が公布されています。「庚寅詔諸國曰 自今以後 制諸漁獵者 莫造檻 及施機槍等類 亦四月朔以後 九月三十日以前 莫置比滿沙伎理梁 且莫食牛 馬 犬 猿 鶏之肉 以外不在禁例 若有犯者罪之」と日本書紀にあります。

天武天皇统治期间(675年)发布了日本最初的禁止食肉敕令。《日本书纪》对此记载道:“庚寅詔諸國曰 自今以後 制諸漁獵者 莫造檻 及施機槍等類 亦四月朔以後 九月三十日以前 莫置比滿沙伎理梁 且莫食牛 馬 犬 猿 鶏之肉 以外不在禁例 若有犯者罪之。”

注:日本的禁食肉的对象主要为兽类,不包括鱼类和禽类,另外兔肉也被视为禽类,可以食用,这从兔子的量词为“羽”可以看出。

ここで注目したいのは、「亦四月朔以後 九月三十日以前」とあることで、毎年4月~9月までの農耕期間に限られていたことです。また、食用と狩猟が禁止されたのは、牛、馬、猿、犬、鶏で、鹿と猪はこれに含まれていません。

这里需要注意的是“亦四月朔以后 九月三十日前”一句,也就是说,禁止食肉的时间仅限于每年4月到9月的农耕期间。另外,禁止食用和狩猎的动物是牛、马、猿、犬、鸡,而鹿与猪则不在此列。

牛や馬は農耕や重い荷物の運搬には欠かすことが出来ず、鶏は神の使いとする神道に配慮したからと考えられます。また鹿は新芽を食べ、猪は夜間に農作物を掘り起こして食べてしまうし、共に農耕の妨げとなります。しかし、猿と犬が禁止された理由は何だったのでしょうか。

说到原因,或许是因为,牛和马在农耕和搬运重物时是不可缺少的劳力,鸡被视为神灵的使者,有着神道上的禁忌,而鹿采食植物长出的新芽,猪有夜间掘食农作物的习性,两者都妨害了农业耕作。然而,猴子和狗被禁止食用的原因又是什么呢?

肉食禁止の理由として度々上げられるのは、「涅槃経」の戒律に従ったと云う説で、「 ①牛は農耕で重要な「田畑を耕す」働きをする;②馬は移動や荷物の運搬に重宝する;③犬は夜に吠えることで危険を知らせる;④猿は人間に似ている;⑤鶏は朝、時を告げる 」ですが…肉食禁止令は、その後何度も繰り返し発令されていることを考えると、やはり一朝一夕では肉食の習慣は改まらなかったようです。

关于禁止肉食的原因,有一个许多人赞同的说法认为,这是为了遵从《涅槃经》的戒律。“①牛在农耕中承担了重要的耕田工作;②马在出行和货物运输中不可或缺;③狗在夜晚发出叫声使人警觉;④猴子和人相似;⑤鸡早上能报时”。不过,从禁止肉食令在此后反复多次发布的事实看来,食肉的习惯绝非是一朝一夕就改变过来的。

何事にも「本音と建前、表と裏」があります。民衆に食用が厳しく禁じられたのは獣肉ですが、職業的な狩猟や漁労は基本的に認めていましたし、海に棲む鯨も対象からは外されていましたので、狩猟や捕鯨で得られた肉は半ば公然と流通していたと思われます。

任何事都是“有表有里,上有政策,下有对策”。百姓虽被严厉禁止食用兽肉,然而职业性的狩猎和捕鱼则基本上得到了允许,再加上栖息于大海的鲸鱼也未列入禁令对象,因此狩猎和捕鲸中所获的肉类就半公开地在市场上流通了。

この肉食禁止令も時代とともに色あせ、彦根藩(滋賀県彦根市)では将軍家の太鼓の皮を献上する目的で、独占的に牛の屠殺が認められ、副産物の肉を加工し、食用や薬として利用し、将軍家にも味噌漬け牛肉を献上していました。これは井伊直弼が藩主になるまで続いています。 江戸末期の享保3年(1718年)には、江戸最初のももんじ屋が店を開き、半ば公然と商いを始めています。

随着时代的发展,禁止肉食令逐渐松弛,彦根藩(滋贺县彦根市)由于要向将军家献上所用太鼓的鼓皮,被特许能够进行牛的屠宰,剥皮后剩下的肉通过加工后,被用于制药或直接食用,此外,彦根藩还向将军献上用味噌腌渍的牛肉。这个习惯,直到井伊直弼担任藩主时仍然持续。江户末期的享保3年(1718年),江户首家“ももんじ屋(卖猪肉鹿肉的店铺)”开张,开始进行半公开的营业。

このように日本では肉食が長い間禁止されていたこともあり、毛皮の必要性からの狩猟で、副産物として一部の人達の口に入った獣肉や鳥肉を除き、純粋に食用目的での狩猟は、アイヌのような一部の人々に限られていたようです。

就这样,食肉行为在日本被长期禁止,除了在以取得毛皮为目的的狩猎中,作为副产品被一部分人食用的兽肉或鸟肉以外,纯粹为食用目的进行的狩猎,仅限于阿依努等部落的人群。

福沢諭吉はその自叙伝「福翁自伝」で、安政4年(1857年)に「豚の頭を解剖してから煮て食べた」と書いていますし、安政5年(1858年)の日米修好通商条約の締結に伴い、伊豆の下田に屠殺場が設けられています。文久2年(1862年)には、横浜で最初の牛鍋屋が開店し、慶応3年(1867年)には東京(港区白金)で最初の屠殺場も作られています。正に激動の時代だったことが判ります。

福泽渝吉在他的自传《福翁自传》中记载,安政4年(1857年),“解剖了猪头后煮熟食用”。随着安政5年(1858年)日美友好通商条约的签订,伊豆的下田设立了屠宰场。文久2年(1862年),首家牛肉火锅店在横滨开业,庆应3年(1867年),东京(港区白金)也设立了首个屠宰场。由此不难看出,那是个剧烈变动的时代。

日本では公に肉食が認められるまで、天武天皇の最初の勅令(675年)から、明治天皇の牛肉試食(1872年)に至るまで、実に1200年の年月を費やしています。

从天武天皇的最初敕令(675年),到明治天皇试吃牛肉(1872年),食肉在日本从禁止到公开允许,期间竟经过了1200年的岁月。

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