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 「人間五十年 下天のうちを比ぶれば 夢幻の如くなり 一度生を得て 滅せぬもののあるべきか」 これは、幸若舞「敦盛」の一節、信長が桶狭間の合戦に赴くに際して、謡いかつ舞ったとされるものである。信長は、この一節に人間の転機というものを感じ取り、勇み立って出陣したといわれる。

“人生五十年 比之于下天 如梦亦如幻  一度得生者 岂有长不灭”,这是幸若舞《敦盛》中的一节,相传信长在赶赴桶狭间合战之时曾吟诵了这一曲。据说,信长在曲段里感受到了人生的转机,于是无所畏惧地踏上了战场。

注:下天(げてん)佛教用语,指六欲天下层的四天王天,四天王天一昼夜相当于人间的五十年。

信長は幸若舞を好み、敦盛のこの一節を口癖のように歌っていたことが、信長公記にも記されている。後年(天正十年)、安土において家康をもてなすための宴を開いた際には、梅若太夫の能と競演させ、幸若八郎九郎のできばえに軍配を上げている。こんなことから、幸若舞は、秀吉、家康にも贔屓にされ、徳川時代の初期には、武士の式楽として、能以上に重んぜられた。しかし、士分に取り立てられた幸若家が、武士であることにこだわるあまり、芸能者としての自分の出自を恥じたため、芸能としての幸若舞は衰退した。

《信长公记》中也有记载,信长喜爱幸若舞,时常哼唱《敦盛》中的这段。后年(天正十年)他在安土城举行宴席款待家康时,让幸若舞与梅若大夫的能乐一起登台,在赞赏幸若八郎九郎的精彩表演之同时,对梅若大夫则不屑一顾。因而幸若舞也受到秀吉、家康的青睐,在德川时代初期,它成为武士的仪式用乐,其受重视的程度超过了能乐。然而,幸若家获得武士身份后,由于过分顾及自己的武家体面,羞耻自己曾为艺人的出身,作为表演艺术的幸若舞也因此衰落下去。

この幸若舞とは、どんなものであったか。本流はすでに途絶えてしまったが、一分派と目される大頭系の舞が、福岡県の大江地方に、大江の幸若舞として残っているので、それを通じて信長の頃の舞のさまを伺うことができる。

那么幸若舞到底是怎样的呢?虽然本家已断绝,但被视为其分支的大头系舞还在福冈县大江地区残留着,也就是“大江幸若舞”,因此通过它多少也能一窥信长时代的幸若舞。

舞手は3人、太夫は立烏帽子に素襖、長袴、手には扇をもつ、ほかの二人も同様のいでたちだが、立烏帽子のかわりに折烏帽子をかぶる。この3人が、小鼓ひとつだけの伴奏に合わせて、詞章を謡いつつ舞うのであるが、舞といっても、能のように優雅なものではなく、両手を開いたり、足拍子を踏んだりと、いたって単調なものらしい。したがって、舞というよりは、謡、語りに比重をおいた芸能のようなのである。

(大江幸若舞)舞者三人,太夫头戴立乌帽子,身穿素襖,手持折扇,另外两人也是同样装扮,不过头戴的不是立乌帽子,而是折乌帽子。三人在一个小鼓的伴奏下,念唱曲辞,随之起舞,尽管说是“舞”,舞姿却不如能乐那样优雅,而只是张开双手、脚打节拍,略显得单调。因此与其说是舞,不如说是一种重在谣曲、道白的表演艺术。

幸若舞は、織豊時代に全盛期を迎えたが、もともとは、曲舞あるいは舞々とよばれた語り物芸能の一派であった。日本の中世時代を通じて、平曲や説経などの語り物が長い命脈を保った中で、曲舞は15世紀の中頃に起こって、16世紀いっぱいに繁栄した。担い手には、近江、河内、美濃、八幡などの芸能集団があり、幸若は越前に根拠を置く舞の座であった。2人舞を舞うところに特色があった。

幸若舞在织丰时代迎来全盛期,它原本属于曲舞或舞舞等说唱艺术的一派。在整个日本的中世时代,平曲、说经等说唱艺术一直保持着生命力,其中曲舞兴起于15世纪中期,全盛于16世纪。它的表演者包括近江、河内、美浓、八幡等地的剧团,幸若就是以越前为根据地的剧团。两人舞是它在舞蹈上的特点。

注:舞舞(まいまい)对幸若舞的称呼。曲舞(くせまい)也写作“久世舞”,日本中世纪的一种表演艺术,盛行于南北朝时代至室町时代。説経(せっきょう)由佛教的说经发展而来,以簓与钲伴奏讲述故事,江户时代后又引入了胡琴和三味线。

幸若は、徳川時代になって家の系図を作り、その中で各地の曲舞集団とのかかわりを否定したが、これらの集団はいづれも、声聞師と呼ばれる人々からなっていた。声聞師とは下級の陰陽師であり、祈祷や卜占などに従事する傍ら、曲舞、説経、くぐつの芸などを行う俗聖と呼ばれる芸能民であった。

进入德川时代后,幸若编写了自己的家谱,其中否认与各地的曲舞团体存在联系,这些团体的组成人员大都是一群被称为“声闻师”的人。所谓声闻师,便是级别较低的阴阳师,也就是一群既从事祈祷、占卜等活动,也从事曲舞、说经、傀儡等表演的人,他们被称为“俗圣”。

幸若舞舞者

数ある曲舞集団の中で、幸若のみが傑出した地位を確立したのには、もろもろの事情があるのだろう。あるいは、幸若自らが主張するように、足利に殺された桃井の末裔であることが、集団のなかで高い尊敬を勝ち得た理由であったのかもしれない。

在众多的曲舞团体中,只有幸若确立了杰出的地位,其中不乏各种缘由。或许,就像幸若自己所称那样,他们是被足利谋杀的桃井氏后裔,因此能在团体中享有较高的威望。

曲舞とよばれるものは古い歴史を有したらしく、世阿弥も「五音」の中で曲舞に言及している。能の舞には「クセ」という部分があるが、それは、観阿弥が曲舞を能に取り入れたのであるというのである。しかしここで言及されている曲舞は、幸若らのものとは違っていたようだ。それは、世阿弥が曲舞を衰退しつつあるように描いているところから察せられる。名は同じでも、中身は異なったものだったと思われる。

曲舞历史悠久,世阿弥在《五音》中也提到过曲舞。“能”舞蹈中也有“曲(クセ)”的构成部分,这就是因为观阿弥把曲舞引入“能”的关系。但世阿弥提到的曲舞却与幸若等人所说的略有差异,这也能从世阿弥对曲舞的衰落情况所作的描述中看出。尽管名字相同,实质内容却已经不同了。

世阿弥の晩年、幸若らの曲舞は勃興期にあった。その頃の曲舞は、社寺の縁起物語などの幼稚な唱導文学を脱出して、人間の情念を荒々しく表現するものへと変化していた。このことによって、民衆から広く支持されたのだと思われる。文正元年(1466)京都千本桟敷で催された曲舞に、四五千人の見物雑人が集まったと「後法興院記」の記述にあるほどだ。

世阿弥的晚年正是幸若派曲舞的勃兴期。此时的曲舞已经摆脱了寺社缘起物语等简易的说唱文学,变为一种大胆表达人类情感的表演艺术,或许正是这样才能得到民间的广泛支持。其盛况正如《后法兴院记》所记载,文正元年(1466),在京都千本栈敷进行的曲舞演出中,观众竟聚集了4、5千人。

曲舞の成功を追って、同じ語り物たる説経もまた、民衆の情念に訴える語りを広め、日本の芸能史に新たな地平を開いていく。曲舞は、幸若の誤算によって、徳川時代初期には表舞台から去ってしまったが、説経のほうは、浄瑠璃と互いに競いあいながら、三味線や操り人形を取り入れて、元禄の頃まで、日本の大衆芸能をリードし続けた。

随着曲舞的成功,同为说唱艺术的说经也开始广泛诉说民众的情感,日本的演艺史从此开辟了一个新天地。不过曲舞由于幸若的失策,在德川时代初期时退出了大众的视线,但说经却和净琉璃并行发展,引入了三味线和傀儡戏,直到元禄时代以前都是日本大众演艺的主导。

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