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意味の重さ

意义的份量

ことばには意味がある…。

语言有其意义……

岩波新書のしおりに記されたこのメッセージがくりかえし繰り返し呪文のように私の意識に押し寄せてくる。

岩波新书的书签上印着的这句话像咒语一般反复在我脑海中萦绕。

そう、ことばには意味がある。

没错,语言有其意义。

「ねこ」にも「さかな」にも「つくえ」にも意味がある。

“ねこ(猫)”、“さかな(鱼)”和“つくえ(桌子)”都有其意义。

見方を変えれば、「ねこ」や「さかな」や「つくえ」は意味を背負っている。

换种看法,可以说“ねこ”、“さかな”和“つくえ”都背负着某种意义。

意味はことばにのしかかっている。ことばはその意味の重さから決して逃れることはできない。

意义附着在词语上。词语绝对无法从其重负下脱身。

普通名詞はその重さにあえいでいるようにも見える。窮屈に感じているかもしれない。気の毒である。

普通名词仿佛在其重负下挣扎。可能是觉得拘束吧,真可怜。

その点、固有名詞はやや違う。たとえば、「すまー須磨」という地名は特定の意味を背負っていない。意味の重さから解放されている。その分、豊かな連想やさまざまな感覚と結びつくことができる。

这一点上固有名词则稍有不同。比如“すまー須磨”这个地名并未负担着特定意义。它从意义的重负下解放了。因此它能延伸出丰富的联想和各种不同感觉。

「美恵子」さんという人名は、漢字表記するかぎり意味を背負っている。つまり重い名前である。

“美恵子”这个人名,只要写作汉字就背负了其特定意义。即份量沉重的名字。

「雅子」さんもそれなりに重い名前である。「まさこ」とかな書きにすれば、その重さから逃れることができる。

“雅子”也是相应的沉重的名字。如果写成假名“まさこ”,就能从其重负下脱身。

すると今度はさまざまな連想が働きはじめる。まさこ-政子-北条政子ー尼将軍ー男まさり…!?

随之就能引发各种各样的联想。まさこ-政子-北条政子ー尼姑将军-巾帼英雄!?

もちろんこれは連想の一例に過ぎない。他にもさまざまな連想が可能だ。意味の桎梏を逃れることで、そんな楽しみが生まれる。

当然这只是联想的一例,还有其他各种可能性。逃脱意义的桎梏后就会产生出这种乐趣。

さらに、「ユイカ」ちゃんという名前になるとまったく意味から自由である。ここでは連想よりも感覚が主役である。快い音感だけで成り立っている軽やかな名前である。

而“ユイカ”酱这个名字则完全脱离了意义获得了自由。这里比起联想,感觉更为重要。这个一身轻的名字仅因其愉悦的音感而存在。

人の名前だから、重いからだめ軽いからいい、というわけじゃない。重厚な意味を尊ぶか、軽快な音感や連想を好むかは人それぞれである。

这并不是说,因为是人名所以沉重不好、轻松才好什么的。有人觉得深沉的意义显得尊贵,也有人喜欢轻快的音感和联想,人各有异。

きみは意味の欠如を嘆いているのかい、それとも意味からの自由を謳歌しているのかい?

你是会感慨意义的贫乏,还是会讴歌挣脱意义的自由呢?

そんなふうに、少し前に「須磨」にも問いただしたことがあった。答えはまだもらっていない。

我在不久前也就“須磨”一词有过如此的疑问,只是答案却还不明了。

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