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私のこと、好き?

日本語と英仏語の発想の違いを表す典型的な文は「好きだよ・好きよ」だと思う。手を握られてこう言われたら、「そう、さっきの映画、そんなに気に入ったの」と答える日本人は先ずいない。

我觉得有个典型的句子可以用来表现日语与英法语思维上的差异——“好きだよ・好きよ(我喜欢你,多用于表白)”。如果有人握着日本人的手说了这两句话,恐怕没有人会回答说“是么,刚才的电影你这么喜欢啊”。

当然、英仏語なら「I love you」「Je t'aime」と、双方「誰かさんと誰かさん」が人称代名詞で登場する場面である。ここで重要なのはこれらが英仏語では不可欠であるということだ。つまりこの二人が出て来ないと文にならない。一方、日本語の「わたしはあなたを愛しています」は、翻訳機械が吐き出したような悪文だ。実際にはあまり使われないのがその何よりの証拠である。

当然了,如果是英法语“I love you”、“Je t'aime”这样的场面的话,两者中的“某某某和某某某”都会以人称代名词的形式出现。关键在于在这两种语言中,人称代名词是不可或缺的。也就是说,这俩人要是不出来,句子就无法成立。然而,日语要是也这么说——“わたしはあなたを愛しています(我爱着你)”,听起来就会像翻译机器吐出来的蹩脚句子一样。最好的证明就是实际生活中并不这么用。

何故悪文かと言えば。日本語の「基本文」には、国語の時間にはそう教えられるが、実は、「主語」や「目的語」が不要だからだ。 そもそも日本語には「人称代名詞」という品詞は不要であって、日本語ではむしろ「人称名詞・人称詞」と呼んだ方がいい。「名詞」なのだから、その数も場面に応じて使い分けられる。だから自然と数が多くなる。平均的なサラリーマンであれば、会社の上司に対しては「私」、後輩や妻に対しては「僕」や「俺」、子供に対しては「パパ」や「お父さん」などだろうか。最後の二つでは明らかに名詞となっている。さらに方言では変わるだろうし、時代を遡っても変化している。

为什么说这日语很蹩脚呢?因为国语课上老师是这么教的,日语中的“基本句型”其实并不需要“主语”及“宾语”。说到底日语本就不需要“人称代名词”这样的词类,还不如叫“人称名词·人称词”比较好。因为是名词,所以会根据场景不同而被区分使用,数量自然也会变多。平均来说一个白领在公司里对上司使用“私(第一人称,下同)”,对晚辈及妻子用“僕”或“俺”,对孩子则使用“パパ(爸爸)”或“お父さん(爸爸)”,大概就是这些了吧。最后两个明显是名词。这要到了方言中说法变化就更多了,当然时代发展也会带动变化。

さて「好きだよ・好きよ」について、さらにつけ加えたいことがある。表題の「私のこと、好き?」という表現についてだ。よく使われる表現だが、この「こと」というのは何だろう。

另外,关于“好きだよ・好きよ”,我还有想要补充的,和标题“私のこと、好き(你喜欢我么)?”有关。句中的“こと”非常常用,那么这到底是什么意思呢?

ここに花子と太郎がいて、花子が太郎を好いているとする。花子にとって、うきうき・るんるん・わくわくしたこの状況は、英仏語でどう表現されるだろうか。花子は太郎にI love you. Je t'aime.と言い、花子を知っている他の人はShe loves him. Elle l'aime.と言うだろう。つまり、好いている花子は主語に、好かれてる太郎は直接目的語となる。英仏語は、あたかも、愛を自分がコントロール出来る感情でもあるかのように言語化するからだ。

我们假设这里有花子和太郎俩人,花子喜欢太郎。那么对于花子来说,这种小鹿乱撞、欢欣雀跃的情况用英法语要如何去表达呢?花子会对太郎说我爱你,而知道花子的人会说她爱着他吧。也就是说,喜欢太郎的花子是主语,被花子喜欢的太郎是直接宾语。因为在英法语中,爱被语言化了,它似乎成了能自行控制的感情。

一方、日本語の「好きだ」は、そうではない。「好き」という状況は、自分が意図的に作るものではない。これは「する行為」ではなく、「なる状況」と日本人は考える。考えてみればこっちの方が状況を正しく反映しているのだ。「愛が芽生え」「長い春がようやく終って」「愛が実を結んで」結婚するのが日本人だ。結婚式の招待状だって、この度、結婚することに「なりました」と言う。もし「しました」と書かれていたら、読んだ人は「おいおい、何かあったのか」と思うだろう。

另一方面,日语中的“喜欢”却并非如此。“喜欢”这个状况并不是自己有意制造出来的。在日本人的思维里,这是“成了的状态”,而不是“去做的行为”。仔细思考下你会发现,这种说法才正确反映了“爱”这东西。“爱情萌芽”、“漫长的春天终于结束”、“爱情结出了果子”然后步入了婚姻殿堂,这才是日本人。就连婚礼的请帖,也是这么说的——この度、結婚することに“なりました”(我们要结婚了)。如果把“なりました”写成了“しました”,读请帖的人恐怕会疑惑到底发生了什么事吧。

そういう発想からは、愛の告白にも英語的な文は生まれない。「好きだ」は実は「好きである」の変化したもので、花子も太郎も、実は何も「して」いないのだ。そこに「ある」だけなのである。二人がどういう状況でそこにあるか、というと、「好きで」がその答。好き(という状況)で、二人がそこにある。わざわざ名前を両方もってくると、それは「花子が」と「太郎が」と両方「主格補語」の「が」であらわれるのはそのせいだ。名前を言っても、どっちがどっちを好いているのか、文脈が与えられないと分からないのが日本語なのである。

出于这样的想法,日本人爱的表白中也不会出现英式句子。“好きだ”实际上是由“好きである”变化而来的,不管是花子还是太郎,其实什么都没有做,只是处于那种状态。要说他俩是何种状态,回答便是“喜欢”。因为喜欢(这一状态),两人存在着。因此如果特意把双方的名字都体现出来,就会出现“花子が”与“太郎が”两个提示主格补语的“が”。即便说出名字,如果不给予前后文的提示,也不会知道是谁喜欢谁,这就是日语。

さて、自分に対する相手に気持ちを確かめる時はどうだろう。英仏語ならやはりDo you love me? Est-ce que tu m'aimes?と主客関係が明らかだ。一方、日本語の「好き?」や「私が好き?」では、文脈でどちらかは判断出来るものの、やはり厳密には(私が好いているのか、好かれているのか)意味は2通りある。ところが、「こと」を使うと少なくともその点ははっきりするのだ。「こと」は誰か(や何か)を好くことが出来ないから。

那么,在向对方确认其对自己的感觉时要怎么说呢?如果是英法语的话,还是像“Do you love me?”、“Est-ce que tu m'aimes?”这样说,主语宾语一目了然。而在日语中,如果用“好き?”、“私が好き?”这样的说法,虽然从前后文来看可以判断出来,但严格来说是有(我喜欢,还是被喜欢)双重意思的。不过要是用了“こと”这个表达,至少在这点上意思就弄清了。因为“こと”不可能喜欢上谁(或者什么)。

それに加えて、やはり日本語が「人」を対象化することを嫌う傾向は否めない。「君のことが分からなくなった」「彼のことをどう思います?」なども、英仏語なら単に人称代名詞で十分なところである。「(誰か)のこと」とは「(誰か)」にオブラートをかける日本文化の「包む文化」の表れと言ってよいだろう。

再者,我们还是无法否认日语中有这样的倾向,即讨厌将“人”对象化。“我越来越不了解你了”、“你觉得他怎么样?”,像这些说法在英法语中只要用人称代名词就足够了。“(誰か)のこと”是在“(誰か)”外面包了一层纸,这可以称得上是日本文化中“包装文化”的一种体现吧。

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