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以前、ラーメン屋の店主さんが次のようなことを語っているのを、何かの雑誌で読みました。

以前我曾在某杂志读到过一段拉面店店主的话,他是这么说的。

ラーメン屋初心者は「足し算」をしがちである。知っているあらゆる具材をとにかく投入する。必要のないものを加える。これではがちゃがちゃしているだけで、そもそも美味しくない。その次の段階として、「かけ算」がある。複数の素材をかけ合わせることで、まったく新たな味が生まれることがある。1たす1が2ではなく全然別のものになるような、そんな次元を追究し始める。これだけでも奥が深いのだが、自分は今さらに「引き算」を考えている。余計なものを入れないことで、全体の調和を追求する段階だ・・・といった内容だったと記憶しています。

拉面店新手往往喜欢用“加法”去做事。他们会把知道的所有食材都倒进去,会加一些没有必要加的东西。像这样乱七八糟的,味道本就不会好到哪去。下一个阶段,便是“乘法”了——将多种食材相互结合,会诞生出全新的味道。此时料理人不再满足于1加1等于2这样的水平,而是开始追求能诞生出新东西的另个境界。虽然光这些已经够深奥的了,但我现在正在进一步思考“减法”。这个阶段追求的是通过舍去多余的东西来达到整体的和谐……我记得大致就是这样的内容了。

これを読んで、翻訳もまったく同じだと思いました。翻訳を始めたばかりの人は、「足し算の訳」をしがちです。原文のすべての語のニュアンスを、これでもかと強力に訳したり(読み手はとても疲れます)、かっこいい訳語を思いついたら、前後関係を無視してでもその言葉に固執したり(周囲の表現から浮くし、下手すると誤訳に見えます)、調べた内容を全部訳に入れたり(必要以上の説明は読者をイライラさせます)。よくて食傷気味、最悪の場合は肝心の麺にたどりつけないような訳です。翻訳において「足し算」は慎むべきものです。「足し算」はいけないと知った翻訳者はやがて、言葉の「かけ算」について考え始めます。

当时读完后觉得,这和翻译简直如出一辙。刚开始做翻译的人也容易犯“加法”错误。比如将原文里每字每句的语气都奋力译出(读者看着会很累),比如一想到精妙译词哪怕牺牲前后文也要将其塞进去(看起来与周围的表达格格不入、弄不好还会被当作是误译),比如把查到的所有内容一股脑放入译文中(过多的说明会让读者烦躁)。这样的译文轻则让人觉得腻味,重则让人无法品味到关键的面味。因此在翻译中,“加法”应该慎用。明白了这种做法不可取的译者们,不久便会开始考虑语言的“乘法”。

食べ物の組み合わせによって、両者のおいしさが増幅することはよく知られています。麺とスープ、ワインとチーズ、コーヒーとお菓子など…同じことが、言葉でも起こります。表現の組み合わせによって“相乗効果”が生まれ、字面以上のことを表現できることがあるのです。こうした相乗効果について考えるのは難しいですが、翻訳者にとっては楽しい面も多々あります。ひょっとしたら、翻訳の醍醐味ですらあるかもしれません。

人们都知道,食物可以通过搭配使其味道更加鲜美。比如面与汤、葡萄酒与芝士、咖啡与点心等等……这一现象也同样会发生在语言身上。不一样的表达通过搭配后会产生“相乘效应”,能表现出高于字面的意象。要做到这点虽然很难,但也能给译者带来很多乐趣。这或许就是翻译的妙趣所在。

翻訳は短ければ短いほどよいと言われます。同じことを言うなら、言葉数が少ないほうが、翻訳というのは基本的には分かりやすいものです。一方、実務翻訳では、原文の情報量や内容は、あくまで細部まで正確に伝えないといけません。そうしようと思うとどうしても、言葉を尽くして伝えたいという欲求が生まれがちです。つまり、翻訳者の中には、「余計な言葉を削りたい」と「言葉を目一杯使いたい」という相反する思いが生まれます。この両者の間でバランスのとれる、ちょうどいい地点を追求するのが、引き算の訳です。

人们都说翻译越短越好。表达同样的内容,词句简洁的更好,翻译的根本在于易懂。另一方面,在实务翻译中原文的信息量及内容需要准确传达到细节。这么一来,译者很容易产生倾尽笔墨以求达意的欲望。也就是说,在译者心中会产生两种相反的想法,欲“精简文字”或“大费笔墨”。而减法翻译能在这两者之间取得平衡,找寻到最合适的点。

誤解されがちですが、「引き算」とは「原文の情報を抜かす」という意味ではありません。それはある意味、足し算の訳よりも不誠実な行為です。原文と同じ情報を伝えることは翻訳の大前提です。その情報を、必要最小限の言葉数で伝えようというのが「引き算」です。

有一点大家容易误解,其实“减法”并不等于“遗漏原文信息”。后者在某种意义上来说,比加法译文更加背叛原文。将原文信息原原本本加以传达是翻译的大前提。用尽量精简的文字做到这一点叫做“减法”。

私は料理はうまくないのですが、言葉の引き算というのは塩加減や火加減に似ているなと、料理しながらいつも思います。過剰も不足もない、言葉の加減がぴたっと決まる地点があるのです。引き算の加減は、自分でその都度、見極めていかなければなりません。そこに正解はありません。だからこそ難しいし、面白くもあります。

我虽然不太擅长料理,但在做的时候经常想,语言的减法与料理的咸淡及火候很像。语言加以斟酌后,能在某种程度做到恰到好处,既不啰嗦也无偏漏。减法的度需要译者自己一次次去把握。在这件事上没有正确答案,也正因为如此翻译才有难度,才有乐趣。

しかも、最も重要なことに、引き算は愛をこめて行わなければ、まったく意味がありません。愛といって抽象的すぎるなら、書き手と読み手への思いやり、誠意、伝えたいという気持ち、と言ってもかまいません。翻訳者は、書き手への愛をこめて原文の核心をつかんだら、読み手に核心が伝わるよう愛をこめて必要なだけの言葉を使います。愛のない訳文は、読んでいても内容が伝わらないため、読者はいまいちのれません。逆に、愛をこめて言葉を抑えた引き算の訳は、読者を心地良い気分にさせます。

而且,还有最重要的一点——译者在做减法时如果不是带着爱去做则毫无意义。若说爱太过抽象,那么换种说法也无妨,即对作者及读者的关怀、诚意、意欲传达的心情。如果译者能带着对作者的爱抓住原文的核心,便能将其以同样的心情、用精简的语言传达给读者。没有爱的译文即便读了也是不知所云,读者总是无法投入。反之,带着爱去控制语言而后译出的减法译文,能让读者心情舒畅。

引き算の訳ができるには、そもそも引き算ができるくらいの広大な言語大陸を、自分の中に持っていないといけません。英語大陸はもちろん、日本語大陸も必要です。そして広大な日本語大陸を持つには、(矛盾に聞こえるかもしれませんが)一度は「足し算の日本語」の段階を経る必要があるのです。

译者要想写出减法译文,说到底其心中必须有一片广阔的语言大陆,这样才有资本去做减法。英语大陆就不用说了,日语大陆也很必要。另外,要想拥有广阔的日语大陆,(可能听起来会有些矛盾)必须先经历过“加法日语”这一阶段。

特に英日翻訳の場合、アウトプットは日本語なので、日本語で目一杯背伸びした言葉を使った経験、日本語を徹底的に直された経験など、とにかく日本語で(と)格闘した経験がないと、引き算の段階に至るのは難しいようです。しかも、その格闘は、できれば人生のかなり早い段階から行っているのが望ましいようです。しつこくも食べることに例えると、おいしいものだけでなく、失敗作もたくさん食べているイメージです。最初から引き算はできません。試行錯誤、特に足し算の試行錯誤の末、引き算に至るのだと思います。

特别是英日翻译的情况下,由于输出语言是日语,若没有过埋头苦用日语的经历、没有过被人彻底纠正日语的经历,总之若没有过和日语作斗争的经历,想要到达减法这个阶段应该会很难。而且,在人生中越早经历这种斗争越好。如果非要将吃东西拿来做比喻的话,这种感觉就像好坏通吃一样。一开始就进行减法是不可能的。我觉得只有经历过反复试验,尤其是加法上的不断摸索,最终才能到达这个阶段。

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日本译者说:翻译时那些消失的语言