結論

ル-ス・ベネティクトが、文化の類型を「罪の文化」と「恥の文化」の二つに分け、日本の場合を後者の典型としてあげて以来、世間の多くの人が、大体それを承知しているように思われる。確かに、恥が日本人の生活において、非常に重要な位置を占めている。他人を判断の基準にして自己の行動の方針を定める。みんなが同じ規則にしたがってゲームを行い、お互いに支持しあっている時には、日本人は積極的に行動することができる。彼らはそれが日本人としての「使命」を遂行する道であると信じる場合には、いっそうゲームに熱中することができる。
こういう恥の文化はずっと日本人の行動を支配している。しかし、社会の変化につれて、恥の文化もかわってきた。今、多くの日本人は確かに外面の他人の目を気にしてはいるが、しかし、自分の中の他人(自己を測る主観的尺度としての他人)の存在は稀薄になっている。つまり、人間関係の稀薄化である。だから、特に、今の若者にとって、「恥の文化」は大きく衰退している。世界経済の一体化に伴って、多くの日本の若者の観念が変わり、ある種の欧米人のように、他人の意見を無視して、自分だけを追求する。このような行動規範が悪いとは言えないが、日本の文化に対して、少し調和を欠くような気がする。伝統的な「恥の文化」には人間としての美点があった。だから、日本人(特に日本の若者)は、伝統の精神に学び、今日に生かしてほしいと願う。

参考文献

豊田豊子 「日本の地理と社会」 凡人社 1996年
長谷川松治 「定訳菊と刀」 社会思想社
山田美佐子 「日本の歴史事典」 大創産業 2004年
李中林 《現代日本概况》 北京航空航天大学出版社 2000年
土居健郎 「罪と恥」(《日語》第七册課外讀物) 上海外語教育出版社 2005
松井嘉和他 「日本文化史」 凡人社 1995年

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