2 二名著から登場する美人を花に譬える例とその原因

2.1 美人を花に譬える例

上述のように、二つの小説も一人の男子をめぐって沢山の女性を描いたとか、共に国内でも世界でも大切な地位がもっているとか、いろいろな共通点をもっている。しかし、その二つの小説をよく読むと、ある共通点を出さなければならないと思われる。それは花のことである。それでは、『源氏物語』と『紅楼夢』の中から出てきた女性を花に喩えた例を挙げてみよう。
まず、『源氏物語』から見てみよう。『日本文学事典』で述べたように、『源氏物語』という作品の中に、自然に関しての描写であろうと、人物に関しての呼称げあろうと、喩ときてもきれない関連をもっている。その通りで、『源氏物語』の女性例えば夕顔、常夏、末摘花など直接に植物の名称によって命名することは明らかである。
具体の例を見てみよう。紫の上は登場する時は三月の三十日だったので、京の桜はもう散っていたが、途中の花はまだ盛りのに気づいた。そして、後で登場する紫の上を桜に譬えた。[4]
源氏は六条の貴女を名花に、中将を朝顔に譬えた。また、末摘花を紅花に譬えた。「高く長くて、先のほうが下に垂れた形のそこだけが赤かった。」という。それは彼女の鼻の姿である。赤いから、彼女を紅花に譬えた。[6]
夕顔は源氏と出会ってから、夕顔に譬えた。また、「山がつの垣は荒るともをりをりに哀れはかけよ撫子の露」という詩で夕顔は自分の子供即ち玉鬘に可愛がる気持ちを表すために、玉鬘を撫子に譬えた。[7]
確かに日本学者青木登は『源氏物語の花』という作品で述べたように、「季節を彩る花、その移ろいの中に「源氏物語」の世界は展開された。全五十四帖に登場する花を各帖ごとに取り出し、その花を通して「源氏物語」の世界を旅する。」

そして、『紅楼夢』を見てみよう。『紅楼夢』で登場した女性は108余りに達したが、それぞれの性格でも容貌でも違って、よく後世の人々に感心させる。実は、『紅楼夢』で、草花は場面に適応させるためだけではなく、黛玉の潇湘馆であっても、宝钗の蘅芜苑であっても、その名も主人の気質を引き立てたと言えよう。また、大観園の人々が集まって詩を作る「海棠詩社」も白い海棠によって出た名で、芒種の際、花神を祭るために、黛玉は後世の人々に机を叩いて絶賛させる「葬花詞」を作った。
もっとも例と挙げられるべきなのは宝玉の誕生日に行った「行名花令」、巧みにそれぞれの女性を各自の気立て、風姿、性格、結末と適応する花に譬えた。
黛玉は芙蓉という籤を引いて、籤の上に「風露清愁」を書いて、傍らに「ほかの人よりずっと美しい女性はよくない結末にすむ。黛玉を芙蓉に譬えた。
宝釵は牡丹という籤を引いて、籤の上に「艶冠群芳」を書いて、傍らに「情けない人は彼女を見たら、心が揺れる[10]」という小さい字が書いてある。宝釵を牡丹に譬えた。
探春は杏の花という籤を引いて、籤の上に「謡池仙品」を書いて、傍らに「太陽に近い赤い杏は雲の側[11]」という小さい字をかいてある。探春を杏の花に譬えた。
麝月は頭巾薔薇という籤を引いて、籤の上に「詔華盛極」を書いて、傍らに「頭巾薔薇まだ咲かないとき、ほかの花は全部零れた。[12]」という小さい字を書いてある。彼女を頭巾薔薇に譬えた。
そのほかに、李纨を老梅に、湘雲を海棠にたとえた。襲人を桃の花にたとえた。それは、たしかに『紅楼夢』を研究する専門家の周汝昌は『紅楼夢の芸術魅力』で述べたように、『紅楼夢』は新しくて独特な『群花譜』と見なされる。

2.2 その原因

なぜ『源氏物語』も『紅楼夢』も女性を花に譬えて、すなわち女性の美しさを花に託して表すのか?その原因は以下の二点を挙げられる。
第一は、花と二つの作品から登場する女性との繋がりである。どんな繋がりを持っているのか?まずは美しいことである。そして、悲劇になることである。
花というと、人々に美しさと甘い香りを感じさせる。花は植物界の精華で、古代から今まで人々の心の中で美の代名詞とされる。花は美しい。花も女性も美しいからこそ、彼女らを花に譬えて表現する。しかし、どんなに美しい花であっても、いつか萎れる。そして、そのいつかは長年後の将来ではなく、まもなくの将来である。それからみると、二つの名著と花の特性との繋がりはいったいなんでしょう。
紫式部は『源氏物語』で主に源氏と女性との愛情生活を描写したのに見えるが、それは単純的に愛情生活を描くことではなく、源氏の恋愛、婚姻を通して一夫多妻という制度に支配された女性たちの惨めな運命を明らかに示したためである。日本の歴史から見ると、平安時代の貴族社会では、男女の婚姻はよく政治上の利益に繋がって、政治闘争の一つの手段にされたことがよくわかる。紫の上は理想の愛情を手に入れないで苦しんで苦しんで死んでしまったこと、空蝉は自分の貞節を守るために、仏門に入って済んだことなど、いろいろある。紫の上など、どれも花でも恥しいほど美しい容貌をしていたが、死ぬまでも不合理の婚姻制度に苦しめて、惨めな結末に陥った。だから、『源氏物語』は女性の悲劇と言えよう。
こういう点では、『紅楼夢』もそういう共通点を持っている。十八世紀の封建社会の末期、偽りの封建礼教と女性に求められた封建的な基準道徳――三従と四徳の圧迫下、純潔な心と愛情、花も恥ずかしいほど美貌をもっている少女たちが惨めな運命から逃されない。花と名著から出た女性たちは、同様に美しくて、最後に悲劇になってしまった。紫式部と曹雪芹はそういう点を見て、女性を花に譬えた。花のように美しい女性たちは花のように萎れて悲劇になってしまった運命から逃されないことを表現したがると思う。
第二、中日文化伝統の共通点はもう一つの原因である。中国では、花文化は古代から今まで続いてくる。花に関しての記載は、中国の商の時代の甲骨文に現れた。戦国時代、孔子は「蘭は花王にあたり」と言った。隋唐宋時代、中国の花文化は非常に盛んになって、花に関する文学作品もいっぱいであった今になって、多くの中国人が花を育てることも、花で部屋を飾ることも、中国の花文化はもっと盛んになって、もう生活の各方面に染み込んだ証拠である。
それでは、日本のほうへ見よう。「日本文化の形態は植物の美学に支えられてきた。日本人にとって言えば、自然は神様である。生活には自然という神様がなくては、生活にならない。さらに言えば、日本の歴史もないという。」ある日本学者はそう述べた。もちろん、木は古代ではもっとも体表的な物象で、古代の日本人の自然観の基礎にされた。しかし、木と花は切ても切れない関係をもっている。相当の植物にとっては、その植物は木だけではなく、花である。そして、花は元来大自然の中で不可欠の部分である。日本人にとって、花・書・茶は「日本伝統美の三重奏」といわれる。平安時代まで長い間日本人の心に根差した日本人の原始的な自然観そこから生まれた審美観から見れば、花も日本人にとって一つの伝統美であると言えよう。
要するに、花は中国人にとっても、日本人にとっても、ひとつの伝統美である。それは、中日伝統文化が花に対しての共通点である。