2. 日本の茶道 

2.1 茶道の文化定義

日本の茶道は中国から渡来したものであり、千年あまりの歴史を持つ。そして日本の社会文化と人文文化の発展につれて完善され、大和民族の独特の環境の下で宗教、哲学、論理、美学、自然が一体になった。茶道が唱えられた「素朴、純粋、典雅」という精神は日本の茶文化を「道」の境界まで高めた。茶道は日本の伝統文化の代表として国民の生活の中でも不可欠なものになった。茶道の目的は渇きを癒すのではなく同じ茶の本質の優劣を鑑別するのではなく複雑なプログラムと儀式を通して情操を育成し静寂の境界に達するのである。

2.2 日本のお茶の発展

中国の茶文化の歴史と比べると日本の茶道の歴史はそんなに長くなかった。歴史の資料によると、お茶が日本に初めて入ってきたのは平安時代であった。その時中国で留学していた僧侶の最澄によりお茶の苗を持ち帰ったそうである。奈良時代に上層の階級の間に喫茶の風習が始まった。その後、茶の木が近畿諸国をはじめ、各地に広く栽培された。鎌倉時代に栄西禅師をはじめ、沢山の禅僧が茶の製作方法と喫茶法を日本に伝えることによって茶道はどんどん進歩していた。喫茶の目的は鎌倉時代までは思想生活の伴侶として用いられたが(時には薬用)南北時代になると喫茶を遊戯的に用いた。つまり、闘茶として品種を飲み分ける競技の形で行なわれた。このような僧侶茶、武士茶は中国の茶文化に深い影響を受けた。これは日本茶道が生まれる前の歴史だ。
本当の意味を持つ茶道は十五世紀の末ごろ村田珠光氏により創立された。村田珠光氏はお茶を飲む行為に思想を入れる初めての人であり、日本茶道の祖先と言ってもよい。その後武野紹鴎によりさらに推し広めていった。日本の茶道の精神も「茶と禅が一体になる」ような境地になった。千利休はもっと具体的かつ系統的な規則を定め茶道を庶民化にさせた。また茶会の種類、茶器の種類や茶室、庭の飾り方なども決めた。日本の茶道は今でも絶えず発展しているが茶道の基本的なものを決めたのはやはり千利休だ。でも茶道の大成については織田信長、豊臣秀吉の成果を無視してはならない。彼らは茶道を政治的に利用したが茶道に精神的な慰安を求めた。千利休は「謹敬清寂」を「和敬清寂」に変化させた。江戸時代に千利休の子孫と弟子が茶道を継続し「家元制度」注①を作り別の流派が現れた。千家流派は表千家、裏千家と武者小路千家三つの大きな流派になった。この時期は日本茶道の輝かしい時期であり、日本民族の特徴を持っている。また抹茶道、煎茶道も形成された。明治維新以来茶道に深刻な変化が現れ文化的な意味が強くなった。そして時代に応じて自国の特徴を持っていて今のようになった。

2.3 中国の茶文化が日本の茶道の発展に対する影響
日本の茶道の形成と発展が中国の茶文化と深い関係がある。まずお茶を飲む風俗は最初に日本に入ってきたのは平安時代のことだった。日本の天台宗の創始者である最澄は中国の仏教の経典と茶の木を持って帰った。そして栄西は鎌倉時代にもう一度中国の茶を持ち帰り、「喫茶養生記」という書物を作った。その本は日本の茶道の歴史的な転機と言ってもよい。また栄西は茶に対する栽培、茶の葉の摘む方法、飲む方法を詳しく紹介した。それと同時に中国から寺のお茶の飲み方を導入しお茶を飲む礼儀を定めた。例えば団茶、抹茶、闘茶などは全部中国から伝わられたものだ。ほかには毎年の春と秋、奈良で行なわれた茶会特に唐式の茶会は日本の茶道の源である。それは中国の唐と宋時代の茶会によく似、茶を飲む庭の飾り方や点茶の儀式及び闘茶遊戯などが含まれる。
これだけではなく栄西は平安時代の終わり頃中国の宋に学び日本に禅宗を開いた。禅文化は日本の伝統文化の中で重要な内容であり、禅宗の導入と伝播につれて形成された。日本の茶道から中国の仏教思想の跡もよく見られる。日本の茶道の和敬清寂という精神は仏教の教義の中にはっきり書かれてある。「茶禅一味」注②という茶礼もそれと同時に導入され、室町時代になると五山僧の間に次第に定着して行った。