从大河剧《八重之樱》看明治时代与基督教
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キリスト教徒(キリシタン)弾圧といえば、1638年の島原の乱を筆頭に、1867年に長崎奉行所が隠れキリシタンを一斉捕縛した「浦上四番崩れ」があります。明治維新を迎えても尚、1868年に全国に公布された「五榜の掲示」によるキリスト教禁止は継続される茨の歴史が連綿と続いたのです。しかし、1872年に岩倉使節団が欧米諸国を視察した際、諸外国の激しい抗議を直接受けました。帰国した岩倉らは、キリスト教解禁が重要な外交カードになることに気づき、1873年についにキリスト教禁止令が解かれることとなったのです。
说到镇压基督教徒,从1638年的岛原之乱到1867年长崎奉行所一举抓捕大批地下基督教徒的“浦上四番崩”(日本的天主教在两百多年间受到彻底的镇压和迫害)。明治维新开始后,新政府于1868年在全国颁布“五榜公告”,基督教的被禁史依旧在持续。然而到了1872年,岩仓使节团视察欧美各国时,直面遭受了各国的严重抗议。归国后,岩仓等人意识到基督教解禁将会是重要的外交牌,终于在1873年解除了基督教禁令。
後の同志社の創設者となる新島襄は1864年函館から密航し、渡米しました。そこで洗礼を受けてアンドーヴァー神学校で学び、キリスト教の宣教師として帰国して同志社英学校(後の同志社大学)の創設者となったのです。襄は槇村正直に援助を求めに行った際、結婚の理想の女性像を聞かれました。襄は「夫が東を向けと言ったら、3年も東を向いているような女性は嫌です」と即答。ややあって八重の生き様が襄の目に留まり1875年2人は婚約。八重はプロテスタント教徒の洗礼を受けました。同じ年、同志社英学校を創設。1年後に2人は日本人として初めてプロテスタント教徒同士の婚礼をあげたのです。
日后成为同志社创始人的新岛襄在1864年从函馆偷渡到美国。在美国接受洗礼并就读于Andover神学院,后以基督教传道士的身份回到日本,创立了同志社英语学校(即后来的同志社大学)。新岛襄去找槙村正直寻求援助时,被问到“希望和怎样的女性结婚”时,襄毫不犹豫地回答:“我不要那种丈夫说向东就3年一直向东的女人。”不久,八重闯入了襄的生活,二人在1875年订婚。八重还接受了基督教新教徒的洗礼。同年,同志社英语学校成立。1年后,两人举行了史上首次日本人新教徒的婚礼。
同志社英学校の学生は、新島八重のことを「鵺(ぬえ)」と呼んで批判しました。鵺とは頭と胴体、手足と尾がそれぞれ別の生き物の姿をしている化け物の名称。八重は着物を着ていましたが、頭にはつば広帽を被り、足にはハイヒールを履くという和洋折衷の身なりをしていたことが所以でそのように喩えられ、陰口を囁かれていました。しかし、八重自身は戊辰戦争を生き抜いた「烈婦」の名に相応しく、公然と批判されても微動だにしない肝が既に据わっていたのです。
同志社语言学校的学生曾批评新岛八重为“鵺”。那是一种头、身、四肢及尾部各不相同的怪物。八重常常身穿和服,头戴宽檐帽,脚穿高跟鞋,一副日西合璧的打扮,学生们便以这种比喻来中伤八重。但是正如八重在戊辰战争中获得的“烈妇”之名,她遭到公开指责也不为所动,依旧泰然自若。
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