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要約|概要

嘉永6年(1853)、米国提督ペリーが浦賀へ来航し、日本は開国への道を歩みだした。幕府は「国家の一大事」に慣例を破って挙国一致体制で臨み、幕臣の人材登用をはかった。しかし、この国政の混乱は、朝廷や諸藩の中央政治進出を招き、幕府独裁という従来の政治体制の解体を促して、「幕末」という時代の始まりをもたらすことになった。

嘉永6年(1853年),美国提督培里率船来到浦贺,日本走上打开国门的道路。幕府面临“国家首大事”,打破惯例,采用全国一致体制,计划起用幕臣中的人才。但是,这场国政混乱导致了朝廷和诸藩干涉中央政治,加速了长久的幕府独裁政治体制的解体。

ペリーの来航|培里的来航

嘉永6年(1853)6月、オランダの予告どおり、アメリカ東インド艦隊提督ペリーの率いる軍艦4隻が浦賀沖に来航した。

嘉永6年(1853年)6月,正如荷兰的预告所言,美国东印度舰队提督培里率领4搜军舰来到浦贺湾。

親書|受け渡し亲笔信的交付

ペリーは幕府の法に従って長崎へ回航することを拒否して浦賀に居続け、フィルモア大統領の親書受け渡しを強硬に求めた。実は、このとき、将軍家慶は死の床にあり、将軍の役目はとうてい果たせなかった。幕府は、軍艦が測量と称して江戸湾内に入ってきたことに脅威を覚えたのもあって、とりあえず親書を受取ってから対策を考えることに決めた。ペリーは浦賀奉行に親書を渡した後、親書への回答を得るために翌春再訪すること告げて出港した。

培里拒绝按照幕府法律返航长崎,继续呆在浦贺,并强硬要求接受幕府接受菲尔莫尔总统的亲笔信。实际上此时,将军家庆久病卧床,根本无法履行将军的职责。军舰打着测量的幌子进入江户湾,幕府对此感觉到了威胁,决定暂先接受亲笔信再思考对策。培里将信交给浦贺奉行后,告知幕府来年春天将再次前来听取幕府对亲笔信的答复。

首席老中阿部正弘の挙国一致体制|首席老中阿部正弘的全国一致体制

ペリー出港後まもなく将軍家慶は死去し、実質的将軍不在の中、首席老中阿部正弘は、ペリー来航を「国家の一大事」ととらえ、幕府の独裁を縮小し、挙国一致体制をもってのりきろうとした。すなわち、これまでの溜詰大名と直臣を中心とした幕府独裁の慣例を破り、(1)前水戸藩主徳川斉昭の海防参与(最高顧問)任命、(2)国務の一般大名幕府有司への諮問、(3)ペリー来航の朝廷通達などを次々と行ったのである。このような政治体制の変化は、結果として、諸大名や朝廷が中央政治に進出する足がかりをつくることとなり、幕藩体制の崩壊の呼び水になったといわれている。

培里出港后不久,将军家庆死去,形成实质将军空缺的状况。首席老中阿部正弘把培里来航作为“国家首要大事”,谋求削弱幕府独裁,凭全国一致体制渡过难关。即打破现行的以溜诘大名和直臣为中心的幕府独裁,(1)任命前水户藩主德川齐昭为海防参与(最高顾问),(2)向管理行政事务的一般大名幕府官员咨询,(3)逐步向朝廷通报佩里来航。这样的政治体制变化,为各大名和朝廷干涉中央政治铺好路,成为幕藩体制崩溃的导火线。

人材登用|人才的起用

阿部は、また、ペリー来航前後から幕臣の人材登用を積極的に行った。阿部によって、川路聖謨水野忠徳(勘定奉行海防掛)、筒井政憲(大目付海防掛)、永井尚志(目付海防掛)、岩瀬忠震(目付勝手掛海防掛)、大久保忠寛(目付·海防掛)、江川太郎左衛門(海防掛)、高島秋帆、勝海舟ら開明派とよばれる人々が多く起用された。

培里来航后,阿部同时也积极地起用幕臣人才。他起用了被称为开明派的川路圣谟水野忠德(勘定奉行海防挂)、筒井政宪(大目付海防挂)、永井尚志(目付海防挂)、岩濑忠震(目次胜手挂海防挂)、大久保忠宽(目付海防挂)、江川太郎左卫门(海防挂)、高岛秋帆、胜海舟等人。(注:挂为掛り,负责人)

斉昭らの幕政進出:ペリー来航後、攘夷論者であるとともに海防強化論者として名高い前藩主徳川斉昭が海防参与に任命され、腹心の藤田東湖らとともに中央政界に進出した。斉昭の任命は越前藩主松平春嶽薩摩藩世子島津斉彬らの働きかけによるもので、老中阿部が、斉昭を通じて斉昭を支持する有力大名(松平春嶽、伊達宗城、島津斉彬ら)に近づこうと画策したのだという。ちなみに、この当時、松平春嶽は鎖国攘夷論者であった。

齐昭等人的幕政扩张:培里来航后,作为攘夷论者和海防强化论者而声名远播的前藩主德川齐昭被任命为参与海防,与心腹藤田东湖等打入中央政界。任命齐昭是因为越前藩主松平春岳·萨摩藩世子岛津齐彬等人的推举,据说老中阿部计划通过齐昭接近大力支持齐昭的大名(松平春岳、伊达宗城、岛津齐彬等)。附带一提,当时的松平春岳是锁国攘夷论者。

海防愚存:斉昭/水戸藩の海防に関する意見は幕府に建議された「海防愚存」に表されている。斉昭はその後も強硬な主戦論を唱え続けたが、このことから、実は「内戦外和の論」だったといわれている。

海防愚存:齐昭对水户藩海防的意见体现在他对幕府的建议《海防愚存》上。之后虽然齐昭提倡强硬的主战论,但这实际上是“内战外和的观点”。

和親の必要性を建言:ペリーが浦賀に入港したとき、会津藩は船を出して警備に当たらせた。また、幕府が溜間詰諸大名に意見をきいたとき、藩主容保は彦根藩主の井伊直弼らとともに、外国との和親の必要性を建言した。しかし、家臣の中には鎖国攘夷を唱える者もおり、容保は憂えていたという。

对求和必要性的进言:培里进入浦贺时,会津藩派出了船只进行警备。幕府征询溜间诘诸大名时,会津藩藩主容保与彦根藩主的井伊直弼等人进言了与外国求和的必要性。但是,由于家臣中有持锁国攘夷论者,容保深感忧虑。

神仏に祈願:幕府からペリー来航の知らせを受けた朝廷のしたことは神仏への祈願だった。また、朝廷は、幕府に対しては、神州の一大事なので国体を辱めないようにと伝えただけだった(まだ「攘夷」ではない)。ところが、首席老中阿部正弘は、孝明天皇にこうしたいという考えがあれば伝えてほしい、なるべくお考えに沿いますからと回答している。

向神佛祈祷:从幕府得知培里来航消息后,朝廷所做之事只有向神佛祈祷。而且,朝廷只向幕府传达了“以神州为重(日本曾用来作为对本国的美称),勿使国体受损即可(不是攘夷)”的意见。然而,首席老中阿部正弘这样回答孝明天皇:“若有具体想法,希望能传达下来,我们会尽可能遵循您的意思。

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