以前「ぞっとする」と「ぞっとしない」という表現について、一方は肯定形、他方は否定形なのに、ともに否定的な意味合いを表すことの不思議について書いたことがあります。

以前我曾经就“ぞっとする(毛骨悚然)”、“ぞっとしない(不怎么样)”这两种表达写过一些东西,它们一个是肯定形式、一个是否定形式,却都表现出了否定意义,真是不可思议。

似たような例として「ふざけろ」と「ふざけるな」、「馬鹿言え」と「馬鹿言うな」というのも挙げました。

当时还举了一些类似的例子——“ふざけろ(开什么玩笑)”和“ふざけるな(别开玩笑了)”、“馬鹿言え(说什么傻话)”和“馬鹿言うな(别说傻话了)”。

他にもこういうのは結構あるようですね。

似乎还有很多这样的例子啊。

関東人は「よく言うよ」と言い、関西人は「よう言わんわ」と言って呆れる。

惊讶时,关东人会说“よく言うよ(你真能说的出口)”,而关西人则说“よう言わんわ(没什么好说的了)”。

なるほど、これも面白い例です。関東/関西の気質の比較ネタにしているところも巧いです。

原来如此,这也是个有意思的例子,还将其用作关东/关西之间的性格比较,甚是巧妙。

主語を考えると「よく言うよ」のほうは二人称か三人称、つまり他者であるのに対して、「よう言わんわ」は一人称、つまり自分であるところが面白いですね。

从主语角度看,“よく言うよ”是指第二人称或者第三人称,也就是他人,而与此相对的,“よう言わんわ”则是针对第一人称,也就是自己,这点相当有意思啊。

同じような表現でありながら、《関東版》は聞いたほうが「よくもそんなことを言う」と驚き、《関西版》のほうはそういう人に対して自分が「何も言えない」と呆れるのです。

虽然是相似的表达,但关东版是听的一方吃惊,意为“你真能说的出口”,而关西版的则是说话者自己对这样的人表示无语,意为“没什么好说的了”。

とりとめのない話」では打ち消しの意味ではない「ない」についても触れましたが、いろいろな例を見ていると、これは本当に打ち消しなのかどうか悩んでしまうことが意外に少なくありません。

我之前在《漫无边际的闲谈》中曾经提到过作为非否定意思使用的“ない”,看了这么多的例子,其实很多时候都会疑惑,“ない”在里面到底是不是起否定作用。

例えば、「ふがいない」。これ何でしょうね?

比如“ふがいない(不中用)”,这个是怎么回事呢?

「不甲斐ない」という漢字が当てられていることがあるのですが、「不甲斐ない」だと「甲斐がない」を更に打ち消したみたいな表現で、じゃあ、甲斐があるのかい?と言うと、甲斐はないのであって、いや甲斐があるとかないとかとは少しニュアンスが違って「意気地がない、頼りない」という意味です。

有时会把这个词填上这样的汉字——不甲斐ない,也就类似于“甲斐がない”再加一层否定,那么,到底有没有价值呢?这么一说倒是没有,不对,和有没有价值还稍稍有些不同,是“没骨气、不可靠”的意思。

じゃあ、この「不」は何なんだ?と不思議に思ってもう少し辞書を見ると、「腑甲斐ない」という表記があります。どう考えても、こっちのほうがしっくりくる漢字です。結局「不甲斐ない」は当て字だったんでしょうか?まあ「腑甲斐ない」も所詮当て字であるような気はしますが(笑)。

那么,这个“不”是怎么回事呢?我心怀疑惑继续查了辞典,上面写着“腑甲斐ない”。不管怎么看都觉得这个汉字才更符合意境。搞了半天“不甲斐ない”是假借字啊?不过总觉得,“腑甲斐ない”也只是个假借字(笑)。

そしてもうひとつ、なんだかよく分からない打ち消しの例。

然后,还有一个让人搞不太明白的例子。

「食わず嫌い」っていう表現がありますよね。これは解ります。(いっぺんも)食わないで(そのくせに)嫌いだと言うのです。

有“食わず嫌い”这个表达对吧,这个是可以理解的,意思是(明明一次都)没吃却说讨厌。

しかし、これと同じ構造の「負けず嫌い」って何でしょう? いっぺんも負けてないのに負けるのが嫌い、っちゅう意味ではないでしょう? 単に負けるのが嫌い、なんです。ならばなんで「負け嫌い」ではなく「負けず嫌い」なんでしょうか?

然而,和这个词构造相同的“負けず嫌い(不认输)”又是怎么回事呢?一次都没输过却不愿意认输,不是这样的意思对吧,它就是不认输的意思。既然是这样,为什么说是“負けず嫌い”而不是“負け嫌い”呢?

「負けず」=「勝ち」(ま、場合によっては引き分けというケースもありますが)であることを考えると、「負けず嫌い」=「勝ち嫌い」=「勝つのが嫌でいつも負けてやってる奴」という意味にはどうしてならないのでしょう?

想想“不输”=“赢”(不过,根据场合不同,也有可能是打成平手)这层意思,我便会疑惑为什么不会是下面这样的逻辑——“負けず嫌い”=“讨厌赢”=“因为不喜欢赢所以总是输的家伙”。

でも、なんか「負け嫌い」だと「負けず嫌い」の負け惜しみが強い感じが上手く出ません。「負けず嫌い」とすることによって、まだ負けが決まってないのに、負けかけてきた途端に躍起になっている感じが良く出ています。

但是,总觉得如果是“負け嫌い”,就不能强烈的感受到“負けず嫌い”中透出的不服输的精神。而“負けず嫌い”这种说法却很能表达出“虽然还没输,却在快输时豁了出去”这种感觉。

しかし、また別の例ですが「負け惜しみ」って何ですかね? 負けることを惜しんでいるわけではありません。負けたことを悔しがっているのです。「くやしい」は「悔しい」とも「口惜しい」とも書くので、「負け口惜しみ」だった解らんでもないですが、負けを惜しむとはどういうことなのか、解ったようでよく分かりません。

不过,再说另外个例子吧,“負け惜しみ(不服输)”,这个呢?它的意思并非是说对输这件事表示惋惜,而是对输了这件事感到懊悔。“くやしい”既写做“悔しい”也写做“口惜しい”,如果是“負け口惜しみ”的话,也不是不能理解,可“負けを惜しむ”到底指的是怎么一回事呢?我是似懂非懂啊。

まあ、吝嗇家が金を出すのを惜しんで出したがらないのと同じような感じで、ともかく負けるのが嫌で負けたがらない、という意味なんではないですかね?

唔,和小气鬼吝惜金钱不想出钱一样,这词也许是“不管怎样都讨厌认输、所以不想输”这样的意思吧。

どうです、私の言うこと分からんでもないでしょ?こうやっていろんな表現が分からんようになって行く気がせんでもない…。

怎样,我说的这些大家也不是不能理解对吧?如此一来,很多表达难免会觉得更加不明了了……

──この先打ち消しの表現を使うたびに頭の中がきっとややこしくなってきますよ(笑)

──以后每到使用否定表达时,脑子里肯定又会一团乱了(笑)。

ごめんなさい、今回もまたとりとめのない話になってしまいました。

不好意思,这回又扯得漫无边际了。

咬文嚼字:日语中容易画蛇添足的“的”字

【咬文嚼字】“冷淡”一词在日本

声明:双语文章中,中文翻译仅代表译者个人观点,仅供参考。如有不妥之处,欢迎指正。