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聴覚というごく普遍的な、生理現象にしても、文化によって随分と違うのである。日本人は食事をするとき、音に対して寛大というか、全く気にしない。それどころか音をたてて食ぺなければ落ち着かない。これが多くの外国人にとって堪えられないものであるらしい。これはどうもマナー以前の問題で、生理的に拒絶されるものなのだ。僕らがガラスを発泡スチロールでこすった時の音を嫌がるのと、ほぼおなじ感覚のようだ。

即便是“听觉”这种极其普通的生理现象,也会因为文化的不同而产生很大差异。日本人对于吃东西时发出的声音比较能包容,或者说是完全不在意。甚至,我们还会觉得不发出声音吃就少了点什么。而关于这点,据说很多外国人都无法接受,这似乎已经不是礼仪不礼仪的问题了,而是生理上的反感,就像我们讨厌泡沫塑料摩擦玻璃的声音一样。

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つまり、日本では、麺類は、つるつると音を立てて吸い込むのが当然とされているが、外国ではこれが、非常な無作法、度外れた育ちの悪さになる、ということです。【…】

也就是说,在日本,吃面食时哧溜哧溜发出声音是很正常的,但在国外,这种吃法会显得很粗鲁,且让人觉得非常没有教养。【…】

要するに、ごくひそかに吸い込む音すら、絶対に許されないのだ、ということを前提として話を進めましょう。

总之,哪怕吃面的声音再小,也绝对不能被容忍,我们姑且以这个为前提,继续聊下面的话题吧。

                                   
——伊丹十三『ヨーロッパ退屈日記』(文春文庫)

                                            
——伊丹十三《欧洲无聊日记》(文春文库)

向田邦子の『阿修羅のごとく』では三女・滝子の恋人で勝又という男が父親の恒太郎の家に下宿することになる。その日の食卓では、恒太郎と滝子という親子のなかに、他人である勝又が入ってきたという様子が音で演出されている。

在向田邦子的电影作品《宛如阿修罗》中有这样一个场面,某日恒太郎三女儿滝子的恋人胜又到家里寄宿。那日的餐桌上,恒太郎和滝子这对父女间介入了胜又这个外人,电影中用声音描绘了当时的气氛。

恒太郎は、ゆったりと箸を動かしているが、滝子は意識して堅くなっている。
勝又は極度に緊張している。
三人、無言で、黙々と食べる。時々、皿小鉢のふれ合い。
勝又、たくあんを噛む。
バリバリと大きな音がしてしまう。
勝又「あ――どうも」
滝子「あ……」
恒太郎「いやあ……」
声とも言葉ともつかないやりとり。
勝又、音を立てまいとして、気をつかって、そっと噛む。
かえって、ポリッと大きな音を立ててしまう。

恒太郎缓缓地动着筷子,滝子下意识的有些拘谨。
胜又则紧张的不行。
三个人默默地吃着,席间时不时发出筷子和菜碟碰触的声音。
胜又夹了一块腌萝卜放进嘴里嚼着。
一不小心发出了咯吱咯吱的声音。
胜又:“啊……不好意思”
滝子:“……”
恒太郎:“唔……”
既没有声音也没有话语的交流。
胜又吃的时候怕发出声音,所以小心地嚼着。
没想到反而啪啦啦的发出了更大的声音。

同じように『蛇蠍のごとく』でも父親の修司が娘の不倫で動揺している場面で、タクアンの音を出さないように気を使っている弟の高に対して「年寄りじゃあるまいし、いい若い者が、タクアン、歯の上手で、しゃぶる奴があるか!タクアンてのは、食うとき、音が出るんだよ、バリバリバリバリバリ、遠慮しないでやれ!」と苛立ちあからさまにする場面がある。

同样的,电影《宛如蛇蝎》中也有这样一个画面,父亲修司因为女儿的外遇而有些心神不定,看到儿子高为了不发出声音而小心的吃着腌萝卜,便不由得烦躁:“又不是老头子,年纪轻轻牙口也好,干嘛含着吃!吃腌萝卜这种东西就是要发出声音才对!咯吱咯吱咯吱咯吱!有什么好顾虑的!”

つまり、日本人は音まで食べているのだ。麺類のほかにも、「ぱりぱり」とかむ漬物、「ばりばり」とかじるかきもち、「さらさら」と流し込むお茶漬けなど、日本には音の文化がある。ただ、最近では洋風の食事が広がってきたことから、ご飯や漬物、米菓などをあまり食べない若者が増えて音の賞味もだんだん日本人から遠ざかっていくような気がしてならない。

也就是说,日本人吃东西时连声音都要享用,这是日本的声音文化,除了面食以外,还有嚼得咯吱咯吱响的腌菜、咬得咯嘣咯嘣响的干年糕片、沙拉沙拉咽进肚子的茶泡饭等等。不过我总感觉,最近随着西餐文化的流行,很多年轻人不怎么吃米饭、腌菜以及米食了,享用声音这种文化正逐渐离日本人远去。

日本人は音に敏感だ。もちろん、『うるさい日本の私』という本を出している哲学者もいて、何を楽音とし、何を騒音とするかは人によって大きな違いがある。

日本人对声音非常敏感,当然,也有哲学家写了这样一本书——《我在喧闹的日本》,生活中的声音哪些是乐音哪些是噪音,各人有各人的看法。

たて琴(harp)の音は日本人に不快だとは思われないが、英語のharp onは「くどくど繰り返す」という不快なニュアンスを含む(If you don't give him an answer immediately, he'll harp on it for weeks.「彼にすぐに返事をしないと、何週間もくどくどとそのことを言われますよ」)。たて琴の同じ弦だけを何度も鳴らす所作に由来するとの説もあるという。日本語では感動することを「琴線に触れる」と美しく表現するから、harp onの語感とはずいぶん違う。

注:【琴線に触れる】《琴線は、物事に感動しやすい心を琴の糸にたとえたもの》良いものや、素晴らしいものに触れて感銘を受けること。「心の―・れる」

日本人对于竖琴的声音并不会感到反感,但是英语中harp on这个词语却有“喋喋不休”之意,言语间透露出不快(如果你不马上回复他,他会在你耳边唠叨好几个星期哦)。也有人认为,这种说法来源于竖琴同一根弦被反复弹奏这一举动。关于竖琴,在日语中有这样一个美丽的说法,即在感动之时使用“琴線に触れる”这一表达,这和英语harp on一词的语感相差甚大。

風鈴に涼しさを感じるのは恐らく(今のところ)日本人だけだろう。本居宣長は鈴の愛好家でコレクターだったが、床柱に鈴をかけた書斎を「鈴屋」と称した。「物むつかしきをりをり引きならして、それが音を聞けば、ここちもすがすがしくおもほゆ」という歌を残している。とはいえ、都会では「生活騒音」に分類されることもあるからやっかいな時代になってきた。

(目前)恐怕只有日本人会从风铃中领略到凉爽的感觉吧。本居宣长是位风铃爱好者,喜欢收藏风铃,他在书斋壁龛的柱子上悬挂了风铃,将其命名为“铃屋”,并留下了这样的诗句:“拨弄风铃悠悠响、声声入耳沁心脾”。然而如今在都市中,风铃声甚至可能会被归到“生活噪音”中去,着实是个令人头疼的年代。

音に食欲を感じたり、涼しさを感じるのは共感覚の一つかもしれない。

能从声音中感受到食欲,体会到凉爽的感觉,也许正是一种通感。

日本人は「シーン」などと沈黙なども音にして楽しんでいる。歌舞伎では大太鼓の音でドン、ドン、ドンと低く静かに響かせれば「雪」の表現になる。以前は関東では早く打つ粉雪、関西ではややゆっくりで大粒の感じと、東西で違っていたともいう。

注:【シーン】マンガなどでよく無音の場面に「シーン」という書き割りが当てられるが、このオノマトペは手塚治虫が開発した。

另外,日本人喜欢将沉默等状态也用声音来表现,比如“シーン”。在歌舞伎表演中,人们用大太鼓嗵嗵嗵这样低沉而宁静的声音来演绎“雪”。据说在过去,关东地区敲鼓敲的快代表雪花满天飞,关西地区敲鼓敲的微慢代表雪花大片落,东西也呈现出了一定的差异。

そして、その伝統は日本の漫画にもしっかりと伝えられていて、日本人は音に敏感な民族なのである。

而这种传统在日本漫画中也得到了很好的体现,日本民族是一个对声音非常敏感的民族。

トイレの音についても日本はうるさい。「音姫」というのはTOTOが88年に発表したヒット商品で(09年までに100万台も売れた)、流水音が流れ、排尿音や衣(きぬ)ずれ音を消して節水に貢献するという。2009年に売り出された「ケータイ音姫」は「音姫」と同じ音源データを使い、自然でクリアな流水音が流れるという。

日本对于厕所的声音也有讲究。“音姬”这东西(什么是音姬>>>)是在TOTO公司在88年推出的畅销商品(09年为止卖出了100万个),据说它发出的流水声掩盖了排尿声及衣服摩擦的声音,对节水事业做出了贡献,而2009年推出的“手机音姬”则跟过去的“音姬”使用的是同一声源,能播放出自然且清晰的流水声。

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