沪江日语阅读提示:双击或划选日语单词,查看详细解释,并可收录进生词本以供记忆学习。

本名晶(しょう)。大阪堺に生まれる。女学校時代から源氏物語や枕草子など古典を愛読する文学少女で、10代半ばから短歌を作り始める。二十歳頃に新聞で与謝野鉄幹の歌を知り深く感銘を受け、1900年(22歳)、4月に鉄幹が『明星』を創刊すると同誌で歌を発表した。

与谢野晶子,本名晶,生于大阪堺市。是个从女校时代就嗜读《源氏物语》和《枕草子》的文学少女,10岁半时便开始进行短歌创作。大约二十岁时在报纸上看到与谢野铁干的诗歌,从此倾心,1900年(22岁)4月,铁干创办《明星》杂志,晶子也在这本杂志上发表了诗歌。

与谢野晶子与与谢野铁干

8月に初めて鉄幹と会い、恋心が爆発、翌夏には鉄幹を追って家出、同然で上京し、鳳晶子の名で第一歌集『みだれ髪』(6章399首収録)を刊行、その2ヵ月後に妻と別れた鉄幹と結婚する。時に晶子23歳、鉄幹28歳。女性が自我や性について語ることがタブーだった保守的な明治の世にあって、愛の情熱を自由奔放かつ官能的に歌い上げた『みだれ髪』は一大センセーションを巻き起こした。

8月她初会铁干,爱慕一发不可收,次年夏天便追随铁干私奔,偕同来到东京,以“凤晶子”为名发表第一部歌集《乱发》(共6章收录399首短歌),两个月后,铁干与妻子离婚,两人结为连理。此时的晶子23岁,铁干28岁。在女性谈论自我与性尚为禁忌的明治时代,她的《乱发》歌咏着恋爱的激情,自由奔放,充满爱欲的气息,这在当时掀起一场轰动。

「やは肌のあつき血汐にふれも見でさびしからずや道を説く君」

肌肤柔嫩,热血奔腾,
而你视而不见,只知说教,
难道不觉寂寞。

「みだれ髪を京の島田にかへし朝ふしていませの君ゆりおこす」

青丝乱如云,重结岛田髻。京城天已明,轻推唤郎醒。

注:岛田髻是未婚女性的发型

「春みじかし何に不滅の命ぞとちからある乳を手にさぐらせぬ」

芳春易逝,人焉久长,让手戏摩,活力乳房。

彼女は封建的な旧道徳に反抗したことで伝統歌壇から批判されたが、愛に根ざす人間性の肯定は民衆から熱狂的な支持を受け、『若菜集』の島崎藤村と共に浪漫主義文学の旗手と称された。

她反抗封建旧道德,因此被传统歌坛口诛笔伐,尽管如此,她对根植于爱的人类本性的肯定受到民众的狂热追捧,与《嫩菜集》的作者岛崎藤村一同被誉为浪漫主义文学的旗手。

それから3年後の1904年(26歳)、日露戦争の最中にロシアの文豪トルストイがロマノフ王朝に向けて発表した戦争批判が日本の新聞に掲載され、敵国国民の反戦メッセージに深く感動した晶子は、半年前に召集され旅順攻囲戦に加わっていた弟に呼びかける形で『明星』9月号にこう応えた。

3年后的1904年(26岁),正值日俄战争白热化,针对罗曼诺夫王朝,俄国文豪托尔斯泰发表了一篇抨击战争的文章,日本的报纸刊载了此文,从敌国传来的反战讯息深深感动了晶子,她以对半年前被征发参加旅顺包围战的弟弟诉说的形式,在《明星》9月号上如此回应道:

注:旅顺包围战,日俄战争中,由乃木希典率军于1904年6月开始攻击俄军在旅顺的要塞,次年1月俄军投降。

「君死にたまふことなかれ すめらみことは戦ひに おほみづからは出でまさね かたみに人の血を流し、獣の道に死ねよとは…」

“你不要去送死,陛下自己不亲赴战场,却不停让别人的孩儿流尽血,迫人殉死于禽兽之道。”

この反戦歌は発表と同時に、日露戦争に熱狂する世間から“皇国の国民として陛下に不敬ではないか”と猛烈な批判にさらされた。文芸批評家大町桂月は「晶子は乱臣なり賊子なり、国家の刑罰を加ふべき罪人なり」と激しく非難したが、晶子はこれに反論すべく『明星』11月号に「ひらきぶみ」を発表、“この国を愛する気持ちは誰にも負けぬ”と前置きしたうえで「女と申すもの、誰も戦争は嫌いです。当節のように死ねよ死ねよと言い、また何事も忠君愛国や教育勅語を持ち出して論じる事の流行こそ、危険思想ではないかと考えます。歌は歌です。誠の心を歌わぬ歌に、何の値打ちがあるでしょう」と全く動じることはなかった。晶子は非難に屈するどころか、翌年刊行された詩歌集『恋衣』に再度“君死にたまふことなかれ”を掲載する。

这首反战歌一经发表,便遭一些狂热于日俄战争的人猛烈批判,“身为皇国的国民,此为不敬之举”。文艺评论家大町桂月言辞激烈地谴责道:“晶子是乱臣贼子,是国家应以国法论处的罪人。”对此,晶子毫无退缩的意思,为了反驳,她在《明星》11月号上发表《打开的信封》,前言写道“论爱国的热情,我不输给任何人”,接下来,“只要是女性,都会厌恶战争。如时下流行,‘赴死’、‘赴死’常挂在口,讨论什么事都要摆出忠君爱国和教育敕语,难道就不危险吗,诗歌就是诗歌,不抒发真情的诗歌,还有什么价值可言。”晶子不但没有屈服在这些指责下,翌年,她的诗歌集《恋衣》刊行,再次登载了《你不要赴死》。

注:教育敕语,发布于1890年(明治23年),由元田永孚与井上毅起草,强调忠君思想,当时在各个学校宣读,二战结束以前一直是日本的教育基本理念。

その後も女性問題や教育問題などで指導的活動を続け、1911年(33歳)には日本初の女性文芸誌『青鞜』発刊に参加、「山の動く日来(きた)る。(中略)すべて眠りし女(おなご)今ぞ目覚めて動くなる」と賛辞を贈ってその巻頭を飾り、43歳で文化学院の創設に加わり自由教育に尽くした。また、文学者としては短歌だけでなく、『新訳源氏物語』を始めとした古典の現代語訳にも多くの著作を残す。

此后,晶子继续在女性问题和教育问题方面进行指导活动,1911年(33岁),日本第一本女性杂志《青鞜》创刊,晶子参与其中,她赠送的赞辞被放在发刊词卷首,“群山震,红日升,所有沉睡的妇女如今将清醒、行动起来”。43岁时她加入文化学院的创办,为自由教育尽心。同时,作为一位文学家,她不仅留下短歌,还将古典作品译成现代文,留下《新译源氏物语》为首的诸多著作。

1930年代に入って満州事変、五一五事件、国際連盟脱退と軍国化が進み、日増しに言論の自由が奪われていく中で、晶子は1936年(58歳、死の6年前)に国家の思想統制についてこう書き残した。「目前の動きばかりを見る人たちは“自由は死んだ”と云うかもしれない。しかし“自由”は面を伏せて泣いているのであって、死んでしまったのではない。心の奥に誰もが“自由”の復活を祈っているのです」

进入1930年,满洲事变(九一八事变)、五一五事件、退出国联一系列事件发生,日本前进在军国化的路上,言论自由也日渐受到束缚,1936年,58岁的晶子对国家的思想统制这样写道:“或许,只看到当前动态的人们会说‘自由已死’。然而,‘自由’只是蒙脸哭泣着,并没有离开。因为,无论何人,他的内心深处都祈盼着‘自由’的重生。”

明星派の歌人として生涯にわたって鉄幹の仕事をサポートし(鉄幹は57歳の時に先立つ)、家庭では11人の子を育て、太平洋戦争の真っ只中の1942年に63年間の人生を終えた。

晶子作为明星派歌人,一生都支持着铁干的事业(铁杆57岁时先逝),家中育有11个孩子,1942年,太平洋战争正酣时,晶子走完了63岁的人生。

声明:双语文章中,中文翻译仅代表译者个人观点,仅供参考。如有不妥之处,欢迎指正。

相关推荐>>>>>   樱花诗人:西行法师   歌人将军:源实朝