日语文学作品赏析《外科室》
作者:泉鏡花|来源:青空文库|2010年01月13日 00:00
       上

 実は好奇心のゆえに、しかれども予は予が画師えしたるを利器として、ともかくも口実を設けつつ、予と兄弟もただならざる医学士高峰をしいて、それの日東京府下のある病院において、かれとうを下すべき、貴船きふね伯爵夫人の手術をば予をして見せしむることを余儀なくしたり。
 その日午前九時過ぐるころ家をでて病院に腕車わんしゃを飛ばしつ。直ちに外科室のかたおもむくとき、むこうより戸を排してすらすらと出で来たれる華族の小間使とも見ゆる容目みめよき婦人おんな二、三人と、廊下の半ばに行き違えり。
 見れば渠らの間には、被布着たる一個いっこ七、八歳の娘を擁しつ、見送るほどに見えずなれり。これのみならず玄関より外科室、外科室より二階なる病室に通うあいだの長き廊下には、フロックコート着たる紳士、制服着けたる武官、あるいは羽織はかま扮装いでたちの人物、その他、貴婦人令嬢等いずれもただならず気高きが、あなたに行き違い、こなたに落ち合い、あるいは歩し、あるいは停し、往復あたかも織るがごとし。予は今門前において見たる数台すだいの馬車に思い合わせて、ひそかに心にうなずけり。渠らのある者は沈痛に、ある者は憂慮きづかわしげに、はたある者はあわただしげに、いずれも顔色穏やかならで、せわしげなる小刻みのくつの音、草履ぞうりの響き、一種寂寞せきばくたる病院の高き天井と、広き建具と、長き廊下との間にて、異様の跫音きょうおんを響かしつつ、うたた陰惨の趣をなせり。
 予はしばらくして外科室に入りぬ。
 ときに予と相目して、脣辺しんぺんに微笑を浮かべたる医学士は、両手を組みてややあおむけに椅子いすれり。今にはじめぬことながら、ほとんどわが国の上流社会全体の喜憂に関すべき、この大いなる責任をになえる身の、あたかも晩餐ばんさんむしろに望みたるごとく、平然としてひややかなること、おそらく渠のごときはまれなるべし。助手三人と、立ち会いの医博士一人と、別に赤十字の看護婦五名あり。看護婦その者にして、胸に勲章帯びたるも見受けたるが、あるやんごとなきあたりより特に下したまえるもありぞと思わる。他に女性にょしょうとてはあらざりし。なにがし公と、なにがし侯と、なにがし伯と、みな立ち会いの親族なり。しかして一種形容すべからざる面色おももちにて、愁然として立ちたるこそ、病者の夫の伯爵なれ。
 室内のこの人々にみまもられ、室外のあのかたがたに憂慮きづかわれて、ちりをも数うべく、明るくして、しかもなんとなくすさまじく侵すべからざるごとき観あるところの外科室の中央に据えられたる、手術台なる伯爵夫人は、純潔なる白衣びゃくえまといて、死骸しがいのごとく横たわれる、顔の色あくまで白く、鼻高く、おとがい細りて手足は綾羅りょうらにだも堪えざるべし。くちびるの色少しくせたるに、玉のごとき前歯かすかに見え、は固く閉ざしたるが、まゆは思いなしかひそみて見られつ。わずかにつかねたる頭髪は、ふさふさとまくらに乱れて、台の上にこぼれたり。
 そのかよわげに、かつ気高く、清く、とうとく、うるわしき病者のおもかげを一目見るより、予は慄然りつぜんとして寒さを感じぬ。
 医学士はと、ふと見れば、渠は露ほどの感情をも動かしおらざるもののごとく、虚心に平然たるさまあらわれて、椅子にすわりたるは室内にただ渠のみなり。そのいたく落ち着きたる、これを頼もしとわば謂え、伯爵夫人のしかき容体を見たる予が眼よりはむしろ心憎きばかりなりしなり。
 おりからしとやかに戸を排して、静かにここに入り来たれるは、先刻さきに廊下にて行き逢いたりし三人の腰元の中に、ひときわ目立ちし婦人おんななり。
 そと貴船伯に打ち向かいて、沈みたる音調もて、
御前ごぜん姫様ひいさまはようようお泣きみあそばして、別室におとなしゅういらっしゃいます」
 伯はものいわでうなずけり。
 看護婦はわが医学士の前に進みて、
「それでは、あなた」
「よろしい」
 と一言答えたる医学士の声は、このとき少しく震いを帯びてぞ予が耳には達したる。その顔色はいかにしけん、にわかに少しく変わりたり。
 さてはいかなる医学士も、驚破すわという場合に望みては、さすがに懸念のなからんやと、予は同情をひょうしたりき。
 看護婦は医学士の旨を領してのち、かの腰元に立ち向かいて、
「もう、なんですから、あのことを、ちょっと、あなたから」
 腰元はその意を得て、手術台にり寄りつ、優にひざのあたりまで両手を下げて、しとやかに立礼し、
夫人おくさま、ただいま、お薬を差し上げます。どうぞそれを、お聞きあそばして、いろはでも、数字でも、おかぞえあそばしますように」
 伯爵夫人は答なし。
 腰元は恐る恐る繰り返して、
「お聞き済みでございましょうか」
「ああ」とばかり答えたまう。
 念を推して、
「それではよろしゅうございますね」
「何かい、痲酔剤ねむりぐすりをかい」
「はい、手術の済みますまで、ちょっとの間でございますが、御寝げしなりませんと、いけませんそうです」
 夫人は黙して考えたるが、
「いや、よそうよ」とえる声は判然として聞こえたり。一同顔を見合わせぬ。
 腰元は、さとすがごとく、
「それでは夫人おくさま、御療治ができません」
「はあ、できなくってもいいよ」
 腰元は言葉はなくて、顧みて伯爵の色を伺えり。伯爵は前に進み、
「奥、そんな無理を謂ってはいけません。できなくってもいいということがあるものか。わがままを謂ってはなりません」
 侯爵はまたかたわらより口を挟めり。
「あまり、無理をお謂やったら、ひいを連れて来て見せるがいいの。はやくよくならんでどうするものか」
「はい」
「それでは御得心でございますか」
 腰元はその間に周旋せり。夫人は重げなるかぶりりぬ。看護婦の一人は優しき声にて、
「なぜ、そんなにおきらいあそばすの、ちっともいやなもんじゃございませんよ。うとうとあそばすと、すぐ済んでしまいます」
 このとき夫人のまゆは動き、口はゆがみて、瞬間苦痛に堪えざるごとくなりし。半ば目をみひらきて、
「そんなにいるなら仕方がない。私はね、心に一つ秘密がある。痲酔剤ねむりぐすり譫言うわごとうと申すから、それがこわくってなりません。どうぞもう、眠らずにお療治ができないようなら、もうもうなおらんでもいい、よしてください」
 聞くがごとくんば、伯爵夫人は、意中の秘密を夢現ゆめうつつの間に人につぶやかんことを恐れて、死をもてこれを守ろうとするなり。良人おっとたる者がこれを聞ける胸中いかん。このことばをしてもし平生にあらしめば必ず一条の紛紜ふんぬんき起こすに相違なきも、病者に対して看護の地位に立てる者はなんらのこともこれを不問に帰せざるべからず。しかもわが口よりして、あからさまに秘密ありて人に聞かしむることを得ずと、断乎だんことして謂い出だせる、夫人の胸中を推すれば。
 伯爵は温乎おんことして、
「わしにも、聞かされぬことなんか。え、奥」
「はい。だれにも聞かすことはなりません」
 夫人は決然たるものありき。
「何も痲酔剤ますいざいいだからって、譫言を謂うという、まったこともなさそうじゃの」
「いいえ、このくらい思っていれば、きっと謂いますに違いありません」
「そんな、また、無理を謂う」
「もう、御免くださいまし」
 投げ棄つるがごとくかく謂いつつ、伯爵夫人は寝返りして、横にそむかんとしたりしが、病める身のままならで、歯を鳴らす音聞こえたり。
 ために顔の色の動かざる者は、ただあの医学士一人あるのみ。渠は先刻さきにいかにしけん、ひとたびその平生をしっせしが、いまやまた自若となりたり。
 侯爵は渋面造りて、
「貴船、こりゃなんでもひいを連れて来て、見せることじゃの、なんぼでものかわいさには折れよう」
 伯爵は頷きて、
「これ、あや
「は」と腰元は振り返る。
「何を、姫を連れて来い」
 夫人はたまらずさえぎりて、
「綾、連れて来んでもいい。なぜ、眠らなけりゃ、療治はできないか」
 看護婦は窮したる微笑えみを含みて、
「お胸を少し切りますので、お動きあそばしちゃあ、危険けんのんでございます」
「なに、わたしゃ、じっとしている。動きゃあしないから、切っておくれ」
 予はそのあまりの無邪気さに、覚えず森寒を禁じ得ざりき。おそらく今日きょうの切開術は、眼を開きてこれを見るものあらじとぞ思えるをや。
 看護婦はまた謂えり。
「それは夫人おくさま、いくらなんでもちっとはお痛みあそばしましょうから、つめをお取りあそばすとは違いますよ」
 夫人はここにおいてぱっちりと眼をひらけり。気もたしかになりけん、声はりんとして、
とうを取る先生は、高峰様だろうね!」
「はい、外科科長です。いくら高峰様でも痛くなくお切り申すことはできません」
「いいよ、痛かあないよ」
夫人ふじん、あなたの御病気はそんな手軽いのではありません。肉をいで、骨を削るのです。ちっとの間御辛抱なさい」
 臨検の医博士はいまはじめてかく謂えり。これとうてい関雲長にあらざるよりは、堪えうべきことにあらず。しかるに夫人は驚く色なし。
「そのことは存じております。でもちっともかまいません」
「あんまり大病なんで、どうかしおったと思われる」
 と伯爵は愁然たり。侯爵は、かたわらより、
「ともかく、今日はまあ見合わすとしたらどうじゃの。あとでゆっくりと謂い聞かすがよかろう」
 伯爵は一議もなく、衆みなこれに同ずるを見て、かの医博士は遮りぬ。
一時ひとときおくれては、取り返しがなりません。いったい、あなたがたは病を軽蔑けいべつしておらるるかららちあかん。感情をとやかくいうのは姑息こそくです。看護婦ちょっとお押え申せ」
 いとおごそかなる命のもとに五名の看護婦はバラバラと夫人を囲みて、その手と足とを押えんとせり。渠らは服従をもって責任とす。単に、医師の命をだに奉ずればよし、あえて他の感情を顧みることを要せざるなり。
「綾! 来ておくれ。あれ!」
 と夫人は絶え入る呼吸いきにて、腰元を呼びたまえば、あわてて看護婦を遮りて、
「まあ、ちょっと待ってください。夫人おくさま、どうぞ、御堪忍あそばして」と優しき腰元はおろおろ声。
 夫人の面は蒼然そうぜんとして、
「どうしてもきませんか。それじゃ全快なおっても死んでしまいます。いいからこのままで手術をなさいと申すのに」
 と真白く細き手を動かし、かろうじて衣紋えもんを少しくつろげつつ、玉のごとき胸部をあらわし、
「さ、殺されても痛かあない。ちっとも動きやしないから、だいじょうぶだよ。切ってもいい」
 決然として言い放てる、辞色ともに動かすべからず。さすが高位の御身とて、威厳あたりを払うにぞ、満堂ひとしく声をみ、高きしわぶきをも漏らさずして、寂然せきぜんたりしその瞬間、先刻さきよりちとの身動きだもせで、死灰のごとく、見えたる高峰、軽く見を起こして椅子いすを離れ、
「看護婦、メスを」
「ええ」と看護婦の一人は、目をみはりて猶予ためらえり。一同斉しく愕然がくぜんとして、医学士の面をみまもるとき、他の一人の看護婦は少しく震えながら、消毒したるメスを取りてこれを高峰に渡したり。
 医学士は取るとそのまま、靴音くつおと軽く歩を移してつと手術台に近接せり。
 看護婦はおどおどしながら、
「先生、このままでいいんですか」
「ああ、いいだろう」
「じゃあ、お押え申しましょう」
 医学士はちょっと手をげて、軽く押しとどめ、
「なに、それにも及ぶまい」
 謂う時はやくその手はすでに病者の胸をけたり。夫人は両手を肩に組みて身動きだもせず。
 かかりしとき医学士は、誓うがごとく、深重厳粛たる音調もて、
「夫人、責任を負って手術します」
 ときに高峰の風采ふうさいは一種神聖にして犯すべからざる異様のものにてありしなり。
「どうぞ」と一言いらえたる、夫人が蒼白なる両のほおけるがごとき紅を潮しつ。じっと高峰を見詰めたるまま、胸に臨めるナイフにもまなこふさがんとはなさざりき。
 と見れば雪の寒紅梅、血汐ちしおは胸よりつと流れて、さと白衣びゃくえを染むるとともに、夫人の顔はもとのごとく、いと蒼白あおじろくなりけるが、はたせるかな自若として、足の指をも動かさざりき。
 ことのここに及べるまで、医学士の挙動脱兎だっとのごとく神速にしていささかかんなく、伯爵夫人の胸をくや、一同はもとよりかの医博士にいたるまで、ことばさしはさむべき寸隙すんげきとてもなかりしなるが、ここにおいてか、わななくあり、面をおおうあり、背向そがいになるあり、あるいはこうべるるあり、予のごとき、われを忘れて、ほとんど心臓まで寒くなりぬ。
 三セコンドにして渠が手術は、ハヤその佳境に進みつつ、メス骨に達すと覚しきとき、
「あ」と深刻なる声を絞りて、二十日以来寝返りさえもえせずと聞きたる、夫人は俄然がぜん器械のごとく、その半身を跳ね起きつつ、とう取れる高峰が右手めてかいなに両手をしかと取りすがりぬ。
「痛みますか」
「いいえ、あなただから、あなただから」
 かく言いけて伯爵夫人は、がっくりと仰向あおむきつつ、凄冷せいれいきわまりなき最後のまなこに、国手こくしゅをじっとみまもりて、
「でも、あなたは、あなたは、わたくしを知りますまい!」
 謂うときおそし、高峰が手にせるメスに片手を添えて、乳の下深く掻き切りぬ。医学士は真蒼まっさおになりておののきつつ、
「忘れません」
 その声、その呼吸いき、その姿、その声、その呼吸、その姿。伯爵夫人はうれしげに、いとあどけなき微笑えみを含みて高峰の手より手をはなし、ばったり、枕に伏すとぞ見えし、くちびるの色変わりたり。
 そのときの二人がさま、あたかも二人の身辺には、天なく、地なく、社会なく、全く人なきがごとくなりし。

       下

 数うれば、はや九年前なり。高峰がそのころはまだ医科大学に学生なりしみぎりなりき。一日あるひ予はかれとともに、小石川なる植物園に散策しつ。五月五日躑躅つつじの花盛んなりし。渠とともに手を携え、芳草の間を出つ、入りつ、園内の公園なる池をめぐりて、咲きそろいたるふじを見つ。
 歩を転じてかしこなる躑躅の丘に上らんとて、池に添いつつ歩めるとき、かなたより来たりたる、一群れの観客あり。
 一個ひとり洋服の扮装いでたちにて煙突帽をいただきたる蓄髯ちくぜんおとこ前衛して、中に三人の婦人を囲みて、あとよりもまた同一おなじ様なる漢来れり。渠らは貴族の御者なりし。中なる三人の婦人等おんなたちは、一様に深張りの涼傘ひがさを指しかざして、裾捌すそさばきの音いとさやかに、するすると練り来たれる、と行き違いざま高峰は、思わず後を見返りたり。
「見たか」
 高峰はうなずきぬ。「むむ」
 かくて丘に上りて躑躅を見たり。躑躅は美なりしなり。されどただ赤かりしのみ。
 かたわらのベンチに腰懸こしかけたる、商人あきゅうど体の壮者わかものあり。
「吉さん、今日はいいことをしたぜなあ」
「そうさね、たまにゃおまえの謂うことを聞くもいいかな、浅草へ行ってここへ来なかったろうもんなら、拝まれるんじゃなかったっけ」
「なにしろ、三人とも揃ってらあ、どれが桃やら桜やらだ」
「一人は丸髷まるまげじゃあないか」
「どのみちはや御相談になるんじゃなし、丸髷でも、束髪でも、ないししゃぐまでもなんでもいい」
「ところでと、あのふうじゃあ、ぜひ、高島田ぶんきんとくるところを、銀杏いちょうと出たなあどういう気だろう」
「銀杏、合点がてんがいかぬかい」
「ええ、わりい洒落しゃれだ」
「なんでも、あなたがたがお忍びで、目立たぬようにというはらだ。ね、それ、まん中の水ぎわが立ってたろう。いま一人が影武者というのだ」
「そこでお召し物はなんと踏んだ」
「藤色と踏んだよ」
「え、藤色とばかりじゃ、本読みが納まらねえぜ。足下そこのようでもないじゃないか」
まばゆくってうなだれたね、おのずと天窓あたまが上がらなかった」
「そこで帯から下へ目をつけたろう」
「ばかをいわっし、もったいない。見しやそれとも分かぬ間だったよ。ああ残り惜しい」
「あのまた、歩行あるきぶりといったらなかったよ。ただもう、すうっとこうかすみに乗って行くようだっけ。裾捌き、つまはずれなんということを、なるほどと見たは今日がはじめてよ。どうもお育ちがらはまた格別違ったもんだ。ありゃもう自然、天然と雲上うんじょうになったんだな。どうして下界のやつばらが真似まねようたってできるものか」
「ひどくいうな」
「ほんのこったがわっしゃそれご存じのとおり、北廓なかを三年が間、金毘羅こんぴら様にったというもんだ。ところが、なんのこたあない。はだ守りを懸けて、夜中に土堤どてを通ろうじゃあないか。罰のあたらないのが不思議さね。もうもう今日という今日は発心切った。あの醜婦すべったどもどうするものか。見なさい、アレアレちらほらとこうそこいらに、赤いものがちらつくが、どうだ。まるでそら、芥塵ごみか、うじうごめいているように見えるじゃあないか。ばかばかしい」
「これはきびしいね」
串戯じょうだんじゃあない。あれ見な、やっぱりそれ、手があって、足で立って、着物も羽織もぞろりとお召しで、おんなじような蝙蝠傘こうもりがさで立ってるところは、はばかりながらこれ人間の女だ。しかも女の新造しんぞだ。女の新造に違いはないが、今拝んだのとくらべて、どうだい。まるでもって、くすぶって、なんといっていいかよごれ切っていらあ。あれでもおんなじ女だっさ、へん、聞いてあきれらい」
「おやおや、どうした大変なことを謂い出したぜ。しかし全くだよ。私もさ、今まではこう、ちょいとした女を見ると、ついそのなんだ。いっしょに歩くおまえにも、ずいぶん迷惑を懸けたっけが、今のを見てからもうもう胸がすっきりした。なんだかせいせいとする、以来女はふっつりだ」
「それじゃあ生涯しょうがいありつけまいぜ。源吉とやら、みずからは、とあの姫様ひいさまが、言いそうもないからね」
「罰があたらあ、あてこともない」
「でも、あなたやあ、ときたらどうする」
「正直なところ、わっしはげるよ」
足下そこもか」
「え、君は」
「私も遁げるよ」と目を合わせつ。しばらくことば途絶えたり。
「高峰、ちっと歩こうか」
 予は高峰とともに立ち上がりて、遠くかの壮佼わかものを離れしとき、高峰はさも感じたる面色おももちにて、
「ああ、真の美の人を動かすことあのとおりさ、君はお手のものだ、勉強したまえ」
 予は画師たるがゆえに動かされぬ。行くこと百歩、あのくすの大樹の鬱蓊うつおうたる下蔭したかげの、やや薄暗きあたりを行く藤色のきぬの端を遠くよりちらとぞ見たる。
 園をずればたけ高く肥えたる馬二頭立ちて、りガラス入りたる馬車に、三個みたり馬丁べっとう休らいたりき。その後九年を経て病院のかのことありしまで、高峰はかの婦人のことにつきて、予にすら一言ことをも語らざりしかど、年齢においても、地位においても、高峰は室あらざるべからざる身なるにもかかわらず、家を納むる夫人なく、しかも渠は学生たりし時代より品行いっそう謹厳にてありしなり。予は多くを謂わざるべし。
 青山の墓地と、谷中やなかの墓地と所こそは変わりたれ、同一おなじ日に前後して相けり。
 語を寄す、天下の宗教家、渠ら二人は罪悪ありて、天に行くことを得ざるべきか。

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