たとへこの身は千里の山河を隔てようとも魂は離れはせぬぞよ。マーガレットの唇が神体に触れても嫉ましいのぢやないわい。――フアウスト



 けふこの頃、うらゝかな小春の日和が日毎日毎さんさんと打ちつゞいてゐる。三田の寺町にある私の寓居は、崖ふちに添ふて立ちならぶ長屋の端で家構への貧弱さは随一であるが、展望の拡さだけが悲しみに満ちた私の胸を慰めてゐた。しかし私は、まさか斯んな位置の窓から遠くの山の姿などが眺められるとは夢にも期待してゐなかつたのだが、或日、不図、二階の窓から、うらうらと晴れわたつてゐる遥か西北方の空を望むと、はからずも白々しい空の裾に雲の峰かと見紛ふばかりの丹沢の山脈がゑんゑんと背をうねらせてゐる有様を見出して、思はず驚きの声をあげたのであつた。
 それからといふもの私は、終日縁端の籐椅子に蹲つて、それらの山々の、はるかの峰つゞきの麓にある、とある寒村に住み慣れて、いとも不思議な生活を送つてゐたつい此間までの日々のことを、あれこれと手にとるやうに思ひ出すのであつた。
「たゞ、山を眺めてゐるのだ――聯想の伴ふのは寧ろ閉口なんだが、他に眺める山も見あたらぬのでね。」
 私は他人ひとの前では左んなに無心さうに云ふのであつたが、無心に山などを眺めるやうな余猶などは無かつたのだ。私は、あの山の麓のメイ子の上ばかりに恋々としてゐるのだ。
「やあ、ほんとうに見えるな、僕はおそらく、あなたの感傷の夢だらうとばかり思つてゐたんだが……」
 僕はこの頃机に頬杖を突いて山ばかりを眺めてゐるよ――そんな風な可成り長い手紙を私は若い友達の鶴巻と銀原へ書いたのであつたが、二人は伴れだつて遊びに来ると、何やら気の毒さうに云ひ合ふのだつた。
 鶴巻から望遠鏡を奪ひとつて、銀原も苦笑をおしかくすかのやうであつた。
「なるほど見えるな。是非とも、もう一辺あの村へ逆襲して……」
 恰度、あの頃から彼等二人は奇妙な癖が生じて、冗談につけ真面目につけ、稍ともすれば、どぎつい調子の声色で芝居の科白をつかつて言葉を交へるのが常習であるかの如きであつた。――「ひと花、咲かせてやりたいものだがな……」
 それは私と言葉を交へる場合だけの、彼等の習慣だつた。慣れぬ人達は彼等の言葉つきを耳にすると全く異様な感に打たれて唖然としたが、何ういふものか、恰度あの時分から特に様子が可怪しくなつて、いつも/\の憤つとした態の重たげな物腰と太い心持で、眼を据ゑてゐる私に対当する為には、それが最も自然に違ひなかつた。更に私は、近頃特に常軌を逸してゐるとは云へ、あれらの追憶の世界にのみ没頭してゐる私にとつては、何時かそれが、それらの世界の森蔭に住む一種の甲虫類としての保護色であるのみだつた。――私の眼球は、いつも智謀に耽る芝居の悪侍のやうにぎろり/\と回転しては空を睨めた。私の肩先は空に向つて角度をそばだて、細い腕であるにも係はらず、それは稍ともすれば鉄の如く重々しく胸の上に組まれて、そして音声は何時も下腹から唸り出されるのであつた。私のは、全くひとりでに、恰度あの時分からそんな物腰の人間と成り変つてゐたのだ。
「それあもう行かれる位ひならば僕は、とつくにひとりでに行つてゐるんだが――」
「資金の調達は、出来さうもありませんかね?」
「偽りの言葉と姿よ、感覚と世界を変へよ、而して、こゝに現れよ、また、かしこにも――と云ひたいところさ。」
「また、フアウストか、苦手だな。意味の解らぬやうなことを云ふのも、悶々たる時のごまかしにはなりませうがね。」
 銀原は、偽強者に一矢を報ゆるやうにほき出した。
「何しろ僕達の失敗は、並々ならぬ悲劇だつたんだからね。遇然の敗北と、僕は今でも信じてゐる――金ではなしに、力のみだ!」
 私は思はず左腕の力瘤を拳骨で叩きながら、凝つと横を向いて壁の馬の写真を睨めてゐた。
「悲劇ですつて?」
 二人は私のそれ以上の沈痛気に大袈裟な物腰には、伴なへぬ如く歯を浮せて、嘲笑つた。そして鶴巻が、困惑の色で頬をあからめながら、
「想ふ人を残して来たといふ煩悶の思ひ入れですか。ならうことなら、そんな芝居はお独りの時間に存分と練習しておいて欲しいものですな……」
 と嘯いた。
「何か僕に就いて、そんな疑ひでもあるの?」
 私は心を見透みすかされたかと驚いた。戯談や洒落の解らぬ私は、いつも一概に他人ひとの嗤ひといふものに戦きを強ひられる傾向であつたが、就中、自身の上に振りかゝつた嗤ひに身震ひを覚えた。要は、自分の行動や態度が不断に厳粛であるといふ風にばかり装ふて、威張るのが癖である為、恰も偽尊者の如く稍ともすれば自ら汲々たる窮地に陥つた。それ故私は、自身の凡ゆることごとを滑稽と見られることを何よりも怖れて、威厳を保ちたがるのであつた。
「充分に――」
 二人は更に声を合せた。「お気の毒ながら、断然あれを悲劇と見る者はないでせうな。」
「勝手にしろ!」
 私は机を叩いて怒鳴つた。
「怒らないで下さい。僕達は決してあなたを嗤ひに来たのではありません。たゞもう復讐の相談をしたいばかりに、漸くのことでこの一本の酒を仕入れてやつて来たのです。メイちやんのために乾盃したいのです。」――。
 ひとたび左う云はれると忽ちもう私は、いつもと違つて見得もなかつた。
「海野五郎や音無太十に、あのまゝ負けたとあつては俺達は死んだも同然だからな。」
「あのまゝに済ませて、あなたが山ばかりを眺めてゐたら、それこそ喜劇だといふ意味を云つたのです。事態は悲劇に相違ないのです。」
「ぢや左うと始めから云へば好いのに――」
 私は自分が嗤はれてゐたのではなかつたのか! と気づくと何よりも吻つとして、それにしても何うしてそんな見得に秘かに汲々としてゐるのか? と悲しんだが、他愛もなく銀原の言葉に酔ふてしまつた。
 私の最も秘かな(といふのは、若しそれを口外したら嗤はれさうな怕れに他ならなかつたが。)生来の憧れは今時「武者修業の旅」であつた。然し私の体格は、それらの絶大なる憧れに反比例して蚊のやうであつた。私の体量は十一貫を超へた験しもなく、五封度の鉄亜鈴を三分間水平に保てなかつた。私は柔道や剣道を人に隠れて二十年あまり憧れ、思ひあまつて仕合を申し込んだことも再三だつたが、誰も私の姿を一見したのみで対等の太刀をとりあげる者とてもなかつた。外見は何うあらうと、永年の修練の身であるからには相当な力量があらうと私は屡々真夜中に、鉛筆のやうな腕をさすつて果し合ひの夢を貪つた。私は終ひに神経衰弱に陥つて、竜巻村に病ひを養つてゐた。
 不図、その村で私は突然、謀らずも絶望の夢を、見事に晴して、狂気の烏頂天に酔ひ痴れた。今や無惨にも破れたとは云へ、あれらの花々しい有様を回想すると、未だに私の全身には隆々たる自信が巻き起つて来るのだ。瞞着といふ言葉を私は信じなかつた。太十や五郎に私は瞞されたとは思はなかつた。ハズミの敗北だつたのだ。――私は、二タ月も前から「武者窓日記」なる表題を誌した紙の上に、一字も続けずに突つ伏してゐるのだが、それを持つて猛る心を抑へ、薄暗いうら枯れた籠居の愚かな夢を払はうと努めてゐるのだが、一度び味はつた豪華な思ひ出に誘はれて、その他の感想は皆無であつた。――思ひ出は、その前の年のさんらんたる秋の収穫れ時の活気の中に、向ふところ敵もなく疑惑を知らぬこと鐘鬼のそれの如き私の誉れに充ちた剣の先から、たんたんと滾れ出るのであつた。


 手綱はブレーキの柄に縛り放しでも、馬はもうすつかり得意の帰り途を悟つて、シヤン/\と鳴る鈴の音に面白く脚なみを合せて夕靄の漂ふた田甫道を駆けた。私は、酒樽に腰を降して悠々と、
「こよひはなぜかわがこゝろ、幻想わきて止めどなし……」
 と歌ふのであつた。鶴巻はトロンボンを伸べ縮め、銀原は手風琴を弾じて、声自慢の将軍の歌に合せた。――日毎に蜜柑の相場が暴騰して、街の市場から凱旋する私達は、いつもいつもタンバリンのやうにじやら/\と鳴り響いて止め度もなく甘い夢をはらんだ大きな金袋をひつさげ、素晴しい土産物を満載して、恰も海賊のやうな物々しさで引きあげて来るのであつた。その騒ぎを載せた私達の馬車が村境ひの橋を渡つて漸く街道に差しかゝると、こちらの野良やあちらの段々畑で働いてゐる人達は早くもこの物音を聞きつけるや一勢に歓呼の声を挙げながら、山車のやうな馬車をめがけて殺到するのである。
「お帰りだぞ、お帰りだぞ! 大先生の凱旋だ!」
「待つてゐた、俺達は今宵も先生方の美しい声と素晴しいお手なみを拝見したいのが念願で胸をわくわくさせてゐたところなんだ。」
「道をひらけ、道を展け――」
 人々は口々に斯んなことを叫んで、或者はドリアンの轡を執つて頬ずりを与へ、或者は車のうしろから腕をそろへて力を込め、さながら私達の車には翼が生えたかのやうな勢ひで宙を飛ぶと、一気にメイ子の居酒屋へおし寄せるのであつた。メイ子は、私の姿を発見するやいなや鷺のやうに飛び立つて私の腕の中に転げ込みながら、
「私の顔を好く見て下さいな、先生、とても念入りにお化粧をしたんですよ。これで好いの?」
 などゝ甘へながら、いとも可憐な嬌態を惜しまなかつた。これは都の貴婦人や女優が使ふ七色の白粉おしろいだ、口紅ルーヂユといふものだ、そしてこれは、鋏ではないんだよ、お伽噺のお姫様のやうにお前の髪の毛を飾るための鏝なのだ、お前がこれこれのもので化粧をして、こんなに軽いスカートをつけて踊つたら俺達の魂は天にも昇つてしまふであらうよ――私がいつかそんなことを云ふと、メイ子は私達が仮装舞踏会の時に用ひた紙製である千八百年代型のボンネツトを被り、パラシユートのやうなロココ・スケートをつけて(それが今時、都の流行界の風俗かと思ひ違へて――)あるだけの愛嬌を惜しまなかつた。ところが意外にも、それらの扮装が大変に彼女の身柄に応じて、ふわふわと芙蓉の花の気高さを想はせるかのやうな麗な趣きを漂はせて、もう車の上で大分のほろ酔ひ気分であつた怪し気な私の眼を、遠くローマンスの戦国時代の夢に通はしめるのであつた。人々の顔かたちも見慣れた村の風景も濛つとした黄昏時の乳色の中に舞ひ出した彼女の姿は、まことに寒村居酒屋の娘とは享けとれぬあでやかさであつた。
「おゝ、何といふ厳かなお姫様の御入来であらうよ。あなたの頭上には金色の後光が燦然と輝き、何処からともなくこうのとりの翼の音が聞えるやうだ。」
 銀原はそんな科白を口走ると、私は恭々しく娘の腕を執りあげて、
「この美しさを音無おとなしの太十に見せたくない。この姿を一目でも奴が垣間見たならば、忽ち魂をとろかせて、鋭い毒爪を磨くことであらう、部屋へ入らう。」
 と促した。
「何を云つてやがんだい。たかゞ蜜柑俵の仕切金位ひを見得にして、大人風を吹かせるなんて埒もねえ野郎だ。」
「居たな――俺達の腕を知らないのは貴様達だけらしいぞ。」
 私達は酒場の隅で二三人の郎党を引き伴れて大盃を傾けてゐる太十の笑ひ声に気づくと同時に、娘をうしろにかばつたまゝ、奴の鼻先でせゝら笑つた。
「百辺でも云つてやら。そんな子守つ子に現を抜かしてゐる暇があつたら、蜜柑畑の番小屋へでも行つて……」
「この女蕩しの高利貸奴奴――」
 私の罵りと同時に奴の手からは徳利が飛んで、天井で破裂した。酒場は突然、しんとして水底の静けさに変つた。人々は奴の反感を購ふことを極度に怖れてゐた。多くの村人は奴の債務者であつた。
 灯火ともしびが消えた――と思つたら、私はメイ子の悲鳴を戸外に聞いた。夢中で飛び出した私は月あかりを浴びてまつしぐらに駆け出した私の馬車の上で、白鳥が翼を翻す凄まじさでメイ子が打ち狂うてゐる光景を認めた。
 夜目にもさかんな月見草が微風そよかぜに揺れてゐる河堤で漸く私は馬車のうしろにぶらさがつた。鞭の昔が痛々しくくうに鳴つてゐた。
「ドリアンを打つな。貴様などの鞭に打たれて駈るやうな俺達のドリアンぢやないぞ。」
 しかし馬車は壮烈な砂煙りをあげて狂弄した。百足のやうに長々と引きづられて、私は必死であつた。――間もなく私と太十は、やはらかな草の堤を滑つて河岸の蛇籠の上に転げ落ちた。六尺豊の太十に私は振りまはされて案山子かゝしのやうであつたが、太十があまりの手応へのなさに毒気を抜かれて、月を仰いだ瞬間、矢庭に私は蛇籠の目から滾れ出た鉄瓶大の石を拾ふや、奴の背中を目がけて力一杯投げつけた。奴は虚空をつかんだ。
 ドリアンは村へ向つて、方向を変へてゐた。
「さすがは先生の腕前だ。」
「俺は見た、月あかりを浴びて太十の両脚が天に伸びたところを。」
「目にもとまらぬ早業だつた、俺は見たよ、先生の体が太十の腰をくゞつて、あはやといふ間に、はね腰の業のかゝつたところを……」
 左ういふ賞讚の声に取りまかれた時、私は初めてメイ子を抱いて颯々と引きあげてゐる自分の姿に気づいた。
 人々は私が太十に振り回されてゐる姿を見違へてゐるらしく、思へば内心私は冷汗を覚えたが、ワイワイといふ賞讚の声と共に胴あげされてゐるうちに、更に私は目が回つてしまつて――では、やはり自分はほんとうに強かつたのだな! といふ自信が湧いて来た。加けに私の傍らでは、銀原と鶴巻にとりおさへられた太十が漸く息を吹き返して、
「小柄とあなどつて、鉾を交へたところが、思ひの他の烏天狗で、わつしはどうも一とたまりもなくをあげてしまつたよ。降参だ。酒を呉れ/\、喉から血が出さうだ。」
 胸を掻き□りながら降参してゐるので、益々私の自信は、はつきりとして、
「土産の樽の鏡を抜け!」
 と威張つた。そして私は、「竜巻村のジヨーンズ」といふ尊称を享け入れて、陶然とまなこをかすめた。
 かね/″\村人が私達をぶのに、大先生などゝいふ尊称を用ふるのは、それは彼等が私達を目して稀代の剣道士と敬ふてゐたからである。勿論彼等は私達が少壮の文学士であるといふことに就いては誰ひとりとして知る由もなかつた。まつたく私達は、水車小屋や蜜柑山の労働に従事して糧を得ながら、寸暇を見出す時は、西洋流のフエンシングに没頭してゐた。村人達は、私達の練習が始まると物珍らし気に寄り集つて来ては仰天の眼を輝やかせた。
 ――御覧よ、刀の先がまるで蛇の舌のやうに閃めいて、あれで敵の眼を眩ませてしまふんださうだが、成程どうも西洋の剣術は魔法のやうだ、あんな剣術の達人に出遇つては敵はない――とか、片方の手をかんかん踊りのやうに頭の上で振りながら、脚といつたらまるで弥次郎兵衛のやうにがに股で、一足飛びの早業だ、あれで、思はず相手を笑はせておいて、その隙に乗じて首をとつてしまふといふんだから油断がならないぜ――などゝ彼等は感嘆の声を震はせながら戦いた。――凡そ私達に見物人を笑はせようなどゝいふ洒脱な魂胆などが在り得よう筈もないのだ。どうして、どうして、笑はせるどころか、私たちは根限りの威厳をはらつて物々しい剣士振りが示したかつたのだ。寧ろ颯爽とした長剣をふるつて、鮮やかなフオームに観る者の胆を冷させてやりたいのがひたすらの念願だつたが、まるで業が未熟である癖に矢鱈に気どつたかたちばかりを執つて逆上するので、却つて反対の効果を与へてしまふのであるらしかつた。だから彼等に一層のこと、頭からげら/\と笑はれて後ろ指を差されてしまつたのだつたら無事であつたらうに、飽くまでも私達の珍奇な剣闘振りに怖れを抱いてゐる彼等は思はず哄笑を挙げながらも、それに左様な意味を求めて、ひたすら畏怖の眼を視張るのみであつた。中でも、小兵の私には正規の剣では恰も槍のやうに持ち扱つてしまつて、稍ともすれは武器の重味に呑まれた挙句堂々廻りの醜態を演じ兼ねなかつたのに、彼等はそんな私の振舞ひまでを返つて技神に迫つた達人振りとばかりに感違ひして、あらゆる感嘆の声を惜しまなかつた。あれ見よ、剣のさばき具合があんなに応揚でありながら隙間がない――とか、身の軽さが刀の動きよりも自由自在で、風のやうだ――とか、懸声に何とも云へぬ底力の富んだ気合が充ちてゐる、あれを聞いたゞけでも大概の化物は参つてしまふだらう――などゝ貰めちぎつて、
「天狗のやうだ!」
 と、感嘆の腕組をして首をかしげた。真実、私は蜻蛉の身柄に逆つて、自分としても大いに意識的に力一杯の懸声を発して、ともすれば風にさへ脚をすくはれてしまひさうなふらふら腰を活気づけた。
「何としても俺達の糞力は、達人の前に現はれたら何の役にも立たないといふことを俺は今日といふ今日は思ひきり味はされてしまつたぜ。俺だつて日頃の腕自慢なのだから、何を……といふ勢ひを示して、鷲掴みに振りかぶつたんだが、その時思はず俺の眼からは火花が散つたかと思ふと、厭といふほど背中をどやされてしまつたんだ。手もなく、あしらはれてしまつたわけさ。先生の腕はあんなに細いけれど、あの拳骨には恰で石のやうな力が潜んでゐるのに、さすが――と俺は参つてしまつた。」
 太十は降参の盃を傾けながら、吐息を衝き、惚々と私の姿を見あげた。
「金はふんだんに儲かるし、腕は百人力と来ては、村中の娘達が先生達ばかりを男と祭りあげるのは当り前のことだなあ――太十などが、メイちやんなんかに横恋慕をしたところで、神楽かぐら芝居の仕出し位ひなもので、却つて先生方の男前をあげる小道具になるばつかり――といふところだぜ。」
 海野五郎が斯んなことを云つて太十の肩を叩くと、
「脱いだ/\、頭もろとも兜を脱いだ。」
 などゝ、ひようきんな恰好で太十は私達の前にひれ伏した。
 鶴巻と銀原と私は、すつかりもう三国一の武芸者気どりに恍惚として、
「仕合の申し込みては無いかしら?」
「せめて喧嘩の仲裁でも……」
「今度の猪狩しゝがりの日には俺達が一番仁田四郎よりも凄じい活躍を演じて、大いに諸君を振るまはうぜ。」
 などゝ、太い作り声をそろへて胸を張り出した。
「先生達に仕合を申し込むなんていふ命知らずはヤグラ沢の猪か狼でせうよ。」
 五郎は唇の色を変へてそんなことを呟いだ。
「さうかな!」
 私は心底から得意になつて、神妙に眼を輝やかせながら、
「ヤグラ岳には狼がゐるさうだが、それはほんとうの話かね。」
 と膝を乗り出した。
「御存じないんですか? 私達はもう木枯の風を耳にする頃になると、狼の群が野良を荒しに来るので夜も碌々眠れやしませんぜ。斯う鉄砲を構へて狙ひはつけるものゝ、朧ろ月夜の下に奴等の姿を眺めると無性に体中が震へ出して覘ひの定つたことはありませんよ。」
 蜜柑の穴蔵番である加藤閑吉は、怖ろしい光景を手真似で描き出しながら、眼を瞑ると、慌てゝ盃を傾けた。
「それあ面白い!」
 と私は吠えた。そして壁に掛つてゐる長剣を指さした。「俺なら、これ一本で沢山だ、何の狼の五匹や十匹――珠数じゆずつなぎのヴオレイを喰はして、生捕りにしてしまふ。」
 私の胸中は真に物語めかしい左様な光景のために、炎々と血にもえはじめてゐた。これほどまでに彼等が私達の力量を信じてゐる限り、寧ろあの太十や五郎よりも狼の方が他易いであらうと、私はメイ子の酌を享けながら、唇を噛んで、傍らの窓から山のあたりに眼を据ゑた。静かな山が、青白い夜空の下に黙々と翼をそびやかせてゐた。
「それはさうと先生方、そんな物騒な話は預りとして、御気嫌の好いところで、いつものうたでも聞かせてて下さいませんかね。その先生の凄い眼つきを見たゞけで私達は酔ひも醒めさうになつてしまひますよ。」
「メイちやん、俺達が若し狼を退治て戻つて来たら……」
 私は娘の肩に腕をかけて、ぎよろりと眼玉を輝かせた。
「お願ひですから狼退治だけは止めて下さいな、――先生のお強いことはすつかり解つてゐるんですもの、この上そんな処へ出かけて若し怪我でもなさつたらと思ふと、待つてる間に妾は死んでしまひさうだわ。」
 メイ子はもう悲しさうに眼蓋を伏せて、私の胸にとり縋つた。
「さうか、メイちやんに悲しみを与へる行動なら俺は何事でも差し控へるといふ慎しみ深さは持つてゐるよ。――しかし、残念なことだな!」
 私は、嘗てあらゆる経験のうちで美しい娘から斯る類ひの言葉を寄せられた験しもなかつたので、計らずもメイ子にそんなことを云はれて胸先などにりかゝられたりすると、にわかに全身の血潮が氷結して、歯の根も合はぬ程の歓喜の身震ひに襲はれた。思はぬ話題から、思はぬ結果を拾つた有様に、私はすつかり甘々しく魂を蕩かせてしまつた。太十や五郎達が云ふ通り、正しく彼女も私達の武者振りに信を置いて、深甚の好意を抱いてゐる者と認められた。
「では、詩を聞すと仕様かね。俺の声を聞くと、誰しも憂世に在る思ひを忘れて、長閑な春の小川を降る夢心地に誘はれると閑吉や五郎が云ふんだが、その分ぢや酒の酔が倍になつて帰り途が危なからうぜ。」
 自慢もこゝに至ると太平楽の極みである――と私は呟きながら徐ろに胸をさすつた。
「さうだとも/\、この上あの声で歌はれては酒の酔も百倍だ。所望々々、あんまり長くないところで、俺達も往生したいものだ。」
 そして嵐のやうな拍手であつた。
「先生が歌つて――こちら二人の先生が、」
 とメイ子が云ひかけると銀原と鶴巻は、さつきから腕をさすつてゐたと見えて、
「ミユンヘンの森から伝はる剣舞と行かうよ。」
 と肩をそびやかせて立ちあがるや壁から剣を執り降して、斜めに帽子をかむつた。
 私は、蓋世がいせいの得意に胸を張つて、やをら立ちあがるや、下腹の斜めのあたりに太十の所謂石のやうな拳を構へると、雷鳴の如き音声を張りあげた。
「…… …… ……」
 自らの音声に惚れ惚れとした私の自己陶酔の大見得が次第に高調に達して、詩が、
「……馬嘶ウマイナヽイテ白日ハクジツルル
 ツルギラシテ秋気シウキキタリ――」
 などゝいふ佳境に至ると、まつたく即興的な振付けで踊り狂つてゐる銀原と鶴巻の大剣舞のこなしよりも激しく、私は真に馬のやうな大口をカツと開いてあられもない嘶きの喉を振りしぼり、剣を鳴らす夢を描いて思はず腕を挙げて空を切ると、拳の先端が鬼のやうな太十の顔に厭といふほど衝突したのも夢中であつた。
月黒ツキクロクシテ雁飛カリトブヤタカ
 匈奴フンヌ トホ遁走トンサウ
 軽騎ケイキツテハント欲スレバ
 大雪タイセツ 弓刀キウタウツ」
 斯く歌ふに伴れて私の挙が、閑吉の鼻先をかすめたり、五郎の胸に突きかゝつたりすると、観衆はその度に仰山な悲鳴を挙げて、益々私達を山上遥か無敵の城内に祭り上げた。
 まことにこれら獰猛なる剣舞の光景は、そのまゝに、竜巻村に於ける私達の、飛ぶ鳥も落し、落るゝ水の勢ひも止めんばかりの羽振りを表象化シンボライズした概で、来る日も来る夜も私達は向ふところ敵なく、うつゝに鉾を収めたまゝにも悠々と大将の風を吹かすに任せた。馬車を駆つては市場に通ひ、夜毎々々に従順な匈奴を集めては四斗樽の鏡を抜いて長夜の剣舞をほしいまゝに振舞ふた。――なにしろ、それ喧嘩がはぢまつたからといふ報せで私達が駆けつければ、
「やあ、これは/\、竜巻流の大先生が現れては面目ない。」
 と頭を掻いて阿修羅もどきの男共も引きさがつてしまふし、太十の一味が小作人の家を襲つて命を執らうとしてゐるからといふ報せで、私達が市場帰りの馬車のまゝ駆けつけると、
「これは/\ミユンヘン流の侠客様の御入来か――有りがたい/\!」
 と被害者も加害者も頭をそろへて、ひれ伏すので、私達は忽ち侠客張りに点頭くと、
「それツ、持つて行け――」
 と金袋の口を開いて、黄金の片々ひらひらを彼等の頭上に霰と降らすのであつた。そして私達が加害者の襟首をつかまへて、
「鬼共に少しばかり俺達の腕前を見せてやらうか!」
 などゝ云ひ出すと、奴等は顔色を変へてうろたへ回るのだ。そして私達の腕先が襟首のあたりに懸つたかと思ふと、悲鳴を挙げて宙高くもんどり打つ赤鬼もあれば、断末魔の唸りを挙げて虚空をつかむ青鬼達が、
「助けて呉れ/\!」
 と叫びながら命から/″\に逃げのびてしまふ愉快さは、私達にとつてはこの世の出来事とは思はれぬ花々しさで、まことにそれは財宝に換へられぬ面白さであつた。そして私達は、世にも慈悲深い大剣客と拝まれて、メイ子の酒場へ引きあげた。
「これほどの大先生が俺達の村に居てくれゝば、竜巻村にはやがて一切の風波が絶えて、絶世のユートピアが現出するだらう。」
「天狗の到来だ!」
「有りがたい/\!」
 とひれ伏す叩頭の渦巻の中で私達はうつら/\と眼をかすめて、止め度もなく大樽の鏡を抜き、水車小屋の扉を開いては、大空に等しい拡大な気前を示した。
 何に換へても、強いといふ自信が弥が上にも私達を悦楽の雲上に遊ばせた。これ程の評判と、これ程の奇智と、これ程の度量と、そしてこれ程の腕前に恵まれてゐる俺達にとつては、金銀財宝などは塵芥ちりあくたも同然だ、やがて、収穫とりいれの季節も終り、水車小屋が他人手ひとでに渡つたあかつきには、ヤグラ岳の山窩へなりとたむろして、ロビンフツドの夢を実現させようではないか、音無おとなしの酒倉を襲つてやれ、太十の金庫を覆へしてやらう、奴等の財宝は悉く俺達のものも同様なのだ――私達は海よりも広い安心の夢に抜手を翻して、
「一シン軽舟ケイシウリ 落日ラクジツ西山セイザンキワ
 ツネ帆影ハンエイシタガヒリ 遠ク長天ノ勢ヒニ接ス」
 と歌ひながら、大道狭しと肩で風を切つてはおし歩き、
芙蓉フヨウカズ美人ビジンヨソホ
 水殿スヰデン カゼキタリテ珠翠シユスヰカンバシ」
 などゝ歌ひつゝ、メイ子の膝に枕した。


 間もなく収穫とりいれの季節も終り、吹雪川ふぶきがはの水も氷結して水車小屋の仕事も冬期休業の時になつたので、酒場の宴会も三日置きが五日となり、七日、十日と間を置くやうになつた。それに伴れて、私達に関する兎角の不評判――例へば、奴等はメイ子に首飾りと狐の襟巻を贈るなどゝ云つて置きながら未だに果さないところを見ると、天狗と見たのは誤りで、そのまゝ奴等が枯草色の狐なのかも知れないぞ? とか、飲代を工面するためにドリアンを抵当にしたさうぢやないか! とか、蜜柑畑が太十の名前に書き換へられたのを知つてからといふもの彼等は夜盗の練習をはぢめたといふことだ、物騒だぞ! ――を私達は何処からともなく聞いて、腹を抱へた。
「俺達が夜盗ロビンフツドに変つたら、それこそ鬼に金棒と、奴等が震へてゐる有様を想像すると痛快ぢやないか!」
「知らん振りをしてゐたんだが俺達の酔の眼をかすめて、業慾振りを発揮した連中が相当に数へられるからな。手前達こそ泥棒を働いてゐるんだ。いざとなつて俺達に掠奪の陣を張られるのが余程怖ろしいもので、兎角の噂を立てはぢめたんだな。」
「腕が鳴るぞ!」
 囲炉裡のまはりで私達は斯んなことを語らひながら、爛々たる焔の上に自慢の力瘤をあぶつた。
「おい、御覧よ、ヤグラ岳に弦月が懸つて、凩の音が狼の吠えるやうぢやないか。」
「絵のやうだね、――まづ一番、禅ニ安ンジテ毒竜ヲ制スの概で、狼退治を決行しようか、そこで先づ評判を取り戻すか。」
「しかし狼がゐると云ふのは嘘だといふ話だぜ。俺達の気嫌をとるために奴等は故意わざと狼におびえて見せたんだとさ。」
「幸ひだよ。いくら俺達が強くつたつて狼には敵ひさうもないぜ。ところで、それに就いて策略があるんだ。」
 鶴巻は得たりといふ構へで膝を乗り出した。「音無おとなしの番犬で、狼よりも物々しいグレート・デンが居るぢやないか。野郎はあの犬をけしかけて借金とりをおどしたり、自分が小作人いぢめに赴く時の供に使つてゐるさうだが、あいつを一番擲り殺して、ヤグラ岳で狼を退治した、野良を荒し、人畜を害して極まりない狼をやつつけたと吹聴したら、定めし俺達の奇智に人々は舌を巻くだらうが!」
「奴が俺達の酒宴に媚を呈して大酒を浴びた魂胆は、内心空樽あきだるの数を唱へて勘定書の高を増さうといふ考へだつたんださうなんだよ。何処まで屈辱を知らぬジユウなんだらうな。」
「それにしても好くも飲みやがつたもんだね、蜜柑山を飲み、水車みづぐるまを呑んで――とうとう斯んなものを自分の所有にしてしまやがつたぢやないか。」
「閑吉や五郎は手先につかはれて、印判などをとりに来たが、あれだけ骨を折つてゐるところを見ると寧ろ憐れだね。今度は一つ剣舞の時に意識的に奴等の頭を擲つてやらうぢやないか。何しろ奴等が俺達の腕前だけには怖れをなして歯も立たぬのは滑稽だからな!」
 鶴巻と銀原は徐ろに豪傑笑ひを浮べて気焔を挙げてゐる傍らで私は、凝つと腕を組んで凩の山の上を眺めてゐた。そして、
「俺は狼が屹度あの山に居ると思ふよ。」
 と唸つた。あれ程難なく音無おとなしの輩下を手玉に取る腕があるからには、是非ともほんとうの狼を退治して溜飲をさげたいものだといふのあたりの意気に炎えてゐた。
 それから私達か、然し狼は食へるだらうかしら、定めし肉が硬いことだらうね――などゝいふことを心配して、その頃はもう左う自由には酒も飲めない寒夜の徒然を語りあかしてゐると、
「先生、先生――あたしですよ、開けて下さいな、太十が酔つぱらつて厭らしいことばかり云ふんですもの、逃げて来たわ……」
 メイ子が、もう灰色に変つてゐるロココ・スカートの裾を引いて転げ込んだ。
「輝やかしいぞ。」
 今宵こそは手控へなしに奴等の息の根を止めてやらうよ、酒樽を奪つてやれ! ――私達はそろひの蛇皮じやがは腹帯ベルトを絞め直して、何故かまた今日に限つて、妾をかくまつて呉れ、そして出立の時に伴にして呉れ! などゝ切りに私達の行手をさへぎらうとするメイ子のいぢらしさに、却つて私達は活気を挙げて、待つてゐましたとばかりに凩の吹き荒む街道に飛び出した。――私達は、いかりの肩を弦月の斜めの光りにそびやかして、あまり一撃のもとに何時いつものやうに奴等を降参させてしまふのも呆気なさ過ぎるから、先づ遠くからうたを歌つて、程よく奴等の魂を眠らせてやつた後に、引導を渡してやらうぢやないか、
「ギロチンへあげる悪党への、はなむけのために……」
 そこで、私達は鏘然たる喉をあつめて、
イヘ玉笛ギヨクテキアンコヱトバ
 サンズレバ春風シユンプウリテ洛城ラクジヤウツ……」
 と、狼の夢も誘はんばかりの意気込みで合唱した。
 すると私達は、私達の眼の前に、馬の嘶きに酷似した異様の笑ひ声を挙げて、馬とも鬼とも牛ともつかぬ冷酷な太十をはじめ五郎、閑吉、その他の化物の顔がづらりと並んだのを発見した。
「馬鹿野郎、吠えるな――調子つぱづれの塩辛声をそろへて俺様達の耳を掻き回すとは身の程知らぬガチヤ/\虫奴!」
「やり切れねえから眠る振りをしてやつてゐたんだぞ、奴等うぬらの馬鹿酒を飲んでやる手段てだてだつたつてえことが解らねえとは、さりとは、三国一の剣術使ひだよ。」
「メイ公は、やがて俺の囲ひものだ。口惜しかつたら、いつもの伝で、メイ公の親爺の借金に、金袋の口を開いて見ろ。」
「使はせてしまへば此方のものだ。俺達のバツタお辞儀を見たかつたら、もう一度宝の馬車をひいて来るが好いさ。」
 ひとわたり悪態のつらねが回ると、もとの太十に戻つて、
うた此方こつちのお手のものだ――世人セジンマジハリヲムスブニ黄金ヲモチフ――」
 と私達の声よりも遥かに朗々たる喉で、月の光りをふるはせると、閑吉が次いで、
黄金ワウゴンオホカラザレバマジハフカカラズ――てえんだあ!」
 と、素晴しい憎々にく/\顔を私の鼻先へ突きつけ、続いて赤鬼の五郎助が、
縦令タトヘ然諾ゼンダクシテシバラ相許アヒユルスモ
 ツヒ悠々ユウ/\タル行路コウロコヽロ――とやか!」
 と結ぶと同時に、一同は面白半分にぱく/\と口を開閉させる大口を月の方へ向けて、
「ギヤツ、ギヤツ、キユウ……」
 などゝ、徹底的に私達を揶揄するカケスの鳴き真似で声をそろへた。――暫く私達の腕前を示す機会もなく、私達が退屈でもしてゐることゝ察して、例の格闘を味はせに来たのだらうと私は思つて、
「それツ、畳んでしまへツ!」
 と眼配せした。同時に私は飛鳥の如く身を翻して、奴の苦手であらうハネ腰を試みて奴の腕の下をくゞつて胸倉をとると、鉤型に曲げた右脚で、えいツ? と下腹を蹴あげた。……と私は、いつもと違つて、恰で大盤石を蹴つたかのやうな突嗟の「失敗」を感じて、脚が曲つたまゝに物凄く痺れた。これは! と気づくと一処に、空の月が沼に映つた月かと見え、五体が鞠と廻転して夢中となつたが、やはり自分が奴を壮烈な手玉にとつてゐる気であつた。そして間もなく生温い風に吹かれて眠つたかのやうだつたが、奴等は正しく追ひ払つた! と呟いだ。……それにしてもほんとうに奴等の音声は□々として、絢爛、眼も綾なる面白さに聴きれて、思はず自分はうつら/\と夢見心地に誘はれたものだが、一体これは何うなつたのか? と気づいたから、やをらと立ちあがらうとすると、二三日前からの曇り模様で、春が忍び寄つたらしくに、生温く溶けたげんげの泥田に亀の子のやうに伸びてゐる己れの姿を発見した。
「手もなくやられちやつた!」
「負ける筈はないんだが、奴等のうたに聞き惚れたばかりで、見事に脚を掬はれてしまつたのさ……然し、泥棒連には惜しい声の持主だな。」
 うめき声といつしよに私の傍らから、頭もろとも泥人形と化した鶴巻と銀原が、やあ/\! とてれながら私を救け起してゐた。
 まだあの詩の続きが、遥かの彼方から響く様子なので、畦道に逼ひあがつた私達が河童のやうに首をあげると、メイ子を擁して、おぼろな月の光りを浴びながら堤の上を引きあげて行く業慾連のシルエットがフオックス・トロットの脚どりのやうに軽やかに踊つて見えた。どうやらメイ子も彼等の勇ましさに溶けて詩の調子を合せてゐるかのやうに窺はれた。
 いつか私達が腕を振つて、彼等を手玉にとつた時など、ほんとうにもんどりを打つ彼等は、ほんとうに柱に頭をうちつけて気絶したり、脇腹を突かれて虚空をつかんだりする光景を私達は目撃したので、他のことはさておき、腕の覚えだけは正しく自分達は絶世と思つてゐたが、それさへ大尽の眼を瞞着する奴等の芝居であつたのか? と銀原や鶴巻は震へたり、あまりのことに感心したりするのであつたが、私は飽くまでもかぶりを振つてハズミの敗北と主張した。
 そして各自に己れの所感を主張して、譲り合はぬのであつたが、姿は誰も彼も頭から先に泥田の中へ突きさゝつた為めに一様に差別のつかぬ泥仏で、その上よた/\と歩き出すと、単に三個の泥蛙で、泥に硬ばつた顔面をもぐ/\させながら愚図々々云ふ声もあたりの田から聞えて来る蛙の鳴声と区別し難かつた。


 あまりに惨めな姿だから、夜が好からうとか、雨の日がふさはしいとか、いやせめて天気だけは素晴しい朝を選ばう――などゝ出立の日についても私達の説はまちまちであつたが。結局、うらぶれはてた私達は、それから間もなく、桃の蕾が開かうとする麗らかな朝――。
「喉が乾く/\!」
 と、ジヤガ芋ばかりで保ちつゞけた命をさすりながら、杖を突いて丘を昇つてゐた。それでも私が辛うじて峠の上から振り返つて見ると、人に隠れて送らうとしてゐるものか、橋のたもとにメイ子が独りぼんやりと此方を見あげてゐるのを見出した。前の晩にそつと私は彼女の窓を訪れたが、私達を罵る「千客万来」の声に弾かれて酒場の近くへは脚踏みも適はなかつたので、私は大手を拡げて――今度戻つて来る時は狐の襟巻も孔雀のドレスも、そして金貨は斯んな袋に入れて担いで来るぞ、太十の息も止めてやる、どんなに太十が袖を引いても、ウムと云つては、いけないぞ――といふ意味を、青空を背にした丘の上から精一杯の手振り身振りで空に描き、安心してゐるやうに――と、私は雲を呑み込む如く大きく点頭いて、胸を叩き――熱いキツスを虹のやうに投げかけた。
 あまりそれらの身振りに懸命となつて額から流るゝ滝の汗で眼が眩んだので、慌てゝ私は拳骨で眼頭を横拭ひして、再び眼を視張ると、いつの間にかもうメイ子の姿は見あたらず、あちこちに咲いてゐる桃の花が点々たる煙りのやうであつた。実にも長閑かな村の景色であつた。私は、何事も承知したメイ子は別れの悲しみに堪へられなくなつて姿を消したに相違ないと信じて、自分も花のやうに美しく悲しい別離の念に浸つた。
 行手の遥か彼方の田甫にある停車場から、ボーツといふ汽笛が響いた。
「腸に恥みるわい――あゝ、弁当が喰ひたい。」
 誰かゞ汽笛の音を真似た声で叫んだ。
 然し斯んなにも絶対にメイ子を信じてゐられるのは幸福だが――と私は思つたり、然し太十等の声が誰が聞いても私よりは数等傑れてゐると思ひ出したりすると、無性に自信の欠けた悲しみが巻き起つて来て危うく涙が滾れさうになつたので、慌てゝ、うたつた。
「おのづからはづるゝ水には、何もたまらず流れたり……」
 すると鶴巻が、敗惨の私をあやなすやうに、追ひかぶせて、
「こゝに伊賀伊勢両国の官兵等、馬筏うまいかだ押し破られて、六百余騎こそ流れたり――」
 などゝ私達の兼々の愛誦章を続けた。先に立つてゐた銀原が後ろも振り向かずに、更によみつゞけた。
萌黄もえぎ緋縅ひをどし赤縅あかをどし、いろいろのよろひの浮きつ沈みつゆられけるは、カンナビ山のもみぢ葉の、みねの嵐にさそはれて……」
「竜田の川の秋の暮――とつゞくんだつたかね、銀ちやん!」
 鶴巻が呼ばはつた。
「竜田の川の秋の暮、井関にかゝりて流れもあへぬにことならず……さ。」
「銀原――その先を俺は忘れた?」
 私は杖に縋りながら追究した。
「その中に、緋縅ひをどしよろひ着たる武者三人、網代あじろに流れて浮きぬ沈みぬゆられけるを――何とかのかみ見給ひて、かくぞ詠じ給ひける。」
 ――私達は合唱した。
「伊勢武士は皆緋をどしの鎧きて、宇治の網代にかゝりぬるかな。」
「斯く詠じ終りて、腹掻き切つてぞはてにけり――といふんだつたかね……」
 銀原の声を聞きながら私が、もう一度村の上を振り返ると、桃の花が、今やもう真盛りのやうにに映えて、色とりどりの鎧武者がまことに浮きつ沈みつしてゐるやうな光景であつた。
「止せ/\、縁起でもないぞ――」
 鶴巻は銀原の後を追つて、丘の頂きに達すると、
「絶景かな、絶景かな――」とつた。
 私は思はず二人の間に割り込んで両腕を翼のやうに彼等の肩に回して、そしてわけもなくそれらの口を塞いでしまつた。そのまゝ私の脚は宙に垂れ、私は二人の間にぶらさがつて、降りへさしかゝつた。それでもまだ二人は、春の眺めは一目千両とはちひせえ/\! などゝ声を合せたがつたが、いつかの晩に耳にした太十等の歌声の素晴しさに比べると、月鼈げつべつの相違であることが益々明らかに想はれるだけだつた。何もかも承知の上で、私達の得意の振舞ひを見物しつゞけてゐたあの美しい娘の胸中を察すると、そして私達の詩に聞きれてゐる如き神妙な顔を保つてゐた彼女の様子を思ひ出すと、冷汗が泉のやうに全身に流れ出すのであつた。


 そして、その想ひは、そのまゝ続いて、再び秋ともなつたが、一向に復讐の案は私の頭に浮ばなかつた。
「妾は強くてお金持でそして歌の上手な人が大好きよ。」
 私達が好景気の頃に、彼女は稍ともすれば斯う云つて、強くて、お金持で、そして歌の名手気取りであつた私の顔を凝つと眺めてゐたものだ。――あゝ、それは、私のあられもない自惚れで、私は弱くて貧乏でそして稀代の塩辛声であつたのか――そのやうなあきらめ心も湧かぬでもなかつたが、今や、彼女の憧れは、太十の上にかゝつてゐるかも知れない。
 さう思ふ度毎に私は一刻も躊躇出来ぬと飛びあがるのであつたが、あの春からこの秋へと日に日に何度か、小野道風に見物された蛙のやうに私は飛びあがるのだが、妙案は決して柳の枝のやうに私の手の先には触れなかつた。
 あれらの秋の花々しい思ひ出に引きかへて、けふこの頃、都の隅の私の館はうらぶれる限りに物寂びて、日記さへも誌すことのなき有様だつた。
 切角遊びに来ても、碌々食ふものもなく、酒もつゞかず、その上何時まで待つても私の復讐の念がぱつとしないので、気短かな鶴巻と銀原は、退屈して散歩に出かけようとした。
 彼等が引きあげると私は、漸く斯うしては居られないと机に向つて、ペンを構へたが、ペンが剣に見え、メイ子の微笑が仄かに感ぜられて、字を書く思ひも湧かなかつた。その私の苦しみ、悦び、悲しむが如き大きな顔と、山を見あげたり、ペン先に眼を落したりして悶える如き姿を、二人は窓の下から、
「絶景かな、絶景かな!」
 とはやした?

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