一

 このほど、御手洗蝶子夫人から、
『ただいま、すっぽんを煮ましたから、食べにきませんか』
 と、言うたよりに接した。
 一体私は、年中釣りに親しんでいるので、いつも魚の鮮味に不自由したことがない。殊に爽涼が訪れてきてからは、東京湾口を中心とした釣り場であげた鯛、黒鯛、やがら、中すずきなどのなます、伊豆の海の貝割りのそぎ身と煮つけ、かますの塩焼きなどを飽喫している。
 また、川魚では初秋の冷風に白泡をあげる峡流の奥からくだってくる子持ち鮎の旨味と、木の葉山女魚やまめの淡白にも食趣の満足を覚えていたのであった。そしてちかごろ、私が特に楽しかったのは立秋の後、越中の国八尾町から二、三里山中の下の名温泉に旅して、そこの地元を流れる室牧川で釣った鮎が、味香ともに、かつて私が知っている何れの川の鮎よりも一段と勝っていたことで、温泉の宿でこれを塩焼きと味噌田楽にこしらえて舌端に載せた味覚は、永く私の記念となろう。けれど、この頃魚漿ぎょしょう饗饌きょうせんには少々飽いたような気がしている。なにか他の、豊美な滋味を味わってみたい、と一両日来、考えているところへ、蝶子夫人からのたよりであったのである。
 すっぽんの濃羮のうこうは、昔から美食の粋として推されている。ところが、私の少年のときの思い出は、大しておいしいものではなかった。私が十二、三歳の頃であったであろうと思う。夏の出水の跡に、村の川の橋普請があった。私の父も、村の役人として普請の監督に出ていたが、ある日古い石垣を組み直すとき、土方が一匹の大すっぽんを捕らえた。その夜、この大すっぽんを私の家へ持ってきて、すっぽん汁をこしらえ、これを炉の自在鍵に吊るした大鍋から、十数人の村人が五郎八茶碗に掬って、おいしそうに啜った。そして、雲助のような髭面に、濁酒どぶろくの白いかすをたらし、あかい顔で何かわめいていた人達の姿が、いまでも私の眼の底に残っている。私にも一碗だけが裾分けとなったのである。だが、甚だおいしくなかった。泥の臭みが鼻をついて、
『こんなのなら、物欲しそうな顔などするのではなかった』
 と、悔やんだのである。そんな古い記憶があったから、その後長い間、すっぽんの食味に興をかなかったのであるが、先年京都千本通りの大市ですっぽんのあつものを食べたとき、はじめて、
『なるほど』
 と思った。
 それに味をしめて、それからは東京であっちこっちとすっぽん専門の割烹店かっぽうてんを尋ねて歩いたけれど、料理の方が拙いのか、材料が劣っているのか、京都で得た味覚とはまことに比較にならない。幻滅を感ずるとは、ほんとうにこのことをいうのであろう。幸い、私には西陣に親戚があったので、関西に旅するたびにそこを訪れ、大市から取っては義兄と二人で、その贅餐ぜいさんに喉を鳴らした。

     二

 そんな訳で東京にいては、すっぽんのことを全くあきらめていた。ところが、四年ばかり前であったか、偶然御手洗邸を訪れると、主人と相対する晩酌の卓上に、すっぽんの羮の鍋が運ばれた。碗の縁を啜って、口腔に含むとその媚、魔味に似て酒杯に華艶な陶酔を添えるのであった。上方の料理には不自然な調味が加えてあるのであろうが、それは求め得なかったすっぽんが持つ禀賦ひんぷの野趣が、この羮に匂うのを味わったのである。
 主人に説を聞くと、このすっぽんは豊前国駅館やっかん川の産で、煮るとき塩と醤油の他、何の調味料も加えなかったのであるという。むべなるかな、この旨味こそ真に烹調ほうちょうの理によって得たのである。と、絶讃をおくることができよう。
 それから後、御手洗邸へ豊前国からすっぽんがきた話を聞かなかったのであるが、関西へ旅した時とか、すっぽんの話が出るたびに豊前国のすっぽんを思い出さぬことはなかったのである。
 ところへ、このたびの便りである。私は、喉に唾液をみながら、御手洗邸の玄関へ駆け込んだのである。このたびの羮も、往年の味に少しの変わりもない。美漿びしょう融然として舌端にけ、胃に降ってゆく感覚は、これを何に例えよう。これに誘われ酒の芳醇、吟々として舌根にうったえる。私は、銀色の銚釐ちろりを静かに小杯に傾けながら、夫人が語るすっぽんの割烹譚を興深く聞いた。
 このすっぽんは、二、三日前、父君重松代議士が郷里豊前国柳ヶ浦から遙々はるばる携えてきたのであるという。一貫目ばかりの大きなのを一匹、四、五百匁のものを三匹、都合四匹が籠の中へ入って元気よく東京へ着いた。そのうち、一番大きい一貫目のものは、令妹二宮美代子夫人の邸で裂いたのだそうである。包丁をとったのは、美代子夫人であった。
 父君重松氏の家では、代々すっぽん料理が好きであった。邸内に泉水を掘り、すっぽんを蓄えている程である。であるから、蝶子夫人は娘の時代から父君に指図されて、すっぽんの割烹に経験を積んできた。妹の美代子夫人が、これを学ばぬはずはないのである。さりながら、夫人の腕で一貫目の大すっぽんを裂き得たとは、ほんとうに敬服の外はない。
 すっぽんを割烹する法は、いろいろあろうけれど東京風に、すっぽんに絹の端をくわえさせておいて、首の伸びたところをその付け根からち落とし、続いて甲羅を剥いでゆくのは、当たっていないのである。まず甲羅の裾の柔らかいところを掴んで俎上に運び、腹の甲を上向けにするとすっぽんは四肢を藻掻もがいて自然のままに起き上がろうとする。その動作を注視していると、首を長く伸べて吻の先を俎につけ、これを力に跳ね上がろうとするから、機を逸せず、その長い首を左の手で固く握る。まずこうすれば、すっぽんの鋭い歯に噛まれる恐れはないという。そこで左手に吊るしたまま塩ですっぽんのからだを丁寧に洗う。それから、俎の上に尻尾を下にえんこさせ、縦に上から強く押さえてさらに首を引くくらいの気持ちで首を引き出し、上甲の首の付け根に包丁を差し込んで深く切り下げる。こうすると、首と首を動かす筋肉とが縁を断ってしまうから、首は自由を失う。自由を失った首は、もう何処どこへも噛みつくことができなくなるのだ。

     三

 こうなれば、どこを掴んでもよろしい。首を下に逆さにすると、切り口から血が流れ出る。そして、傍らの釜にたぎらせておいた熱湯を充分にかけると、すっぽんのからだについた泥臭がきれいに洗い去られてしまうのである。この湯洗いを忘れると、いかに巧みに調理したところで泥の臭みがとれず、ついに味は半減するのである。
 そして、包丁を甲羅のまわりの柔らかい縁に丸く回すと、甲羅がぽっくりと取れる。内臓が、そっくりそのまま腹の甲にのってあらわれる。そこで第一に胆嚢と膀胱とを除き去らねばならない。もしこれを傷つけると、到底食い物にならないからだ。それから内臓や肉を腹の甲から切り離すのであるが、腸も捨てるには及ばない。すっぽんは生捕って後三、四週間も餌を与えないでおけば、腸の中は洗ったように清浄となっている。甲羅の固いところと胆嚢、膀胱のほかにすっぽんには全く捨て去るところがないのだ。
 首も尾も四肢も、肉も臓も適宜の大きさに刻んで鍋に入れる。もし、裂いたすっぽんが一貫目位のものであったらこれに水四升ほどを注ぎ込んでよろしい。それから、炭火にかけてとろとろと四時間位煮る。こうして四升の水が半分以下に煮詰まった時、火から下ろすのであるが、もうその時は、すっぽんの味漿みしょうは悉く汁に出て、肉も何も綿のように柔らかくなっているのである。
 つまり、これがすっぽんのスープだ。けれど、これに味付けをしてしまったのでは、汁が濃粘に過ぎて舌への刺激が強く、味覚がしびれてほんとうの風趣を判別し得なくなる。だから、二人位で食べるとすれば、別の小鍋に大鍋の方から一合ほど汲み出して移し、これに真水一合を加えてさらに火に掛けるのである。加役は牛蒡ごぼうを薄くそいだのがよろしかろう。再び充分にたぎらせたならば、塩と醤油で薄く味をつけ、碗に注いで根深ねぶかを細かく刻んで添える。口で吹くほど熱いのが、すっぽんのあつものの至味であろう。
 料亭の調理には鰹節、昆布、味の素、鶏肉スープなど加味するのがあるけれど、そのような補助味を用いると、すっぽん本来の風味を消して烹調の法にかなっていない。
 煮こごりが素敵である。晩秋から冬へかけて、すっぽんの羮を一夜置くと翌朝は煮こごりとなっている。これは、酒の肴として絶品の称がある。夏の間でも、冷蔵器に入れて一夜置けば同じことだ。また、佃煮にこしらえるのもよろしい。肉と臓腑と頭、手、足、甲羅の縁などを細かく刻み込み、これにはじかみを加えて生醤油を注ぎ、炭火で気ながに煮詰めるのであるが、こんな贅沢な佃煮は他にはないかも知れぬ。
 私が杯を傾ける間、蝶子夫人はこんな風に細々とすっぽんの割烹について語った。そして最後に、父が豊前国から持ってきたすっぽんは、まだ二宮の家に二匹飼ってある。都合がよかったならば、出かけて行って一度見ておいては如何いかがであるか、と言うのである。

     四

 翌朝、私は二宮邸へ出かけて行った。ちょうど、重松代議士がいて裏の井戸端の大たらいの中に活かしてあるすっぽんを指して、詳しく説明するのである。
 二匹とも、四百匁位。何れも雄であったから盥の中で喧嘩して互いに噛み合い、甲羅の裾の柔らかい縁に噛みついた傷がいくつもできている。
 ――この二匹のすっぽんは、きのう料理した大すっぽんと共に僕の居村豊前国柳ヶ浦を流れる駅館川の上流安心院村の漁師が捕ったのを買ったのである。すっぽんを捕るには二つの方法がある。その一つは、水底の崖穴に棲むのに手をさし込み、手捕りにするのであるが、これは余程上手にならなければ捕まらない。他の一つは鯰や鰻を釣るのと同じような置き鈎をかけるのである。餌は大きな蚯蚓みみずか、泥鰌どじょうであって、すっぽんがいると見当をつけた淵へ延縄はえなわ式に一本の縄へ幾本もの鈎を結び投げ込む。前夜投げこんで置いて、翌朝縄を引きあげると、間のいい時には二、三匹も鈎に食いついている。このすっぽんは、その置き鈎で捕ったものだ。
 すっぽんは暖国を好むものと見えて、四国、中国、九州地方に多い。関東から東北地方へかけては、昔からまことに数が少ないのである。九州には至るところに産する。けれど、僕の村の駅館川に産するのが一番上等とされている。背の甲があお黒く、そして肌の底から鈍い黄金色の艶が浮かび出し、腹の甲は一帯に黄色を呈しているのを絶品としている。これは駅館川ばかりでなく元田肇翁の生まれた国東半島の方にも産するが数はあまり多くない。
 北九州から、中国方面に産するすっぽんは、少し背の模様が違う。背の甲に灰色の丸い斑点が散在している。これは、金色のすっぽんに比べると味が劣る。朝鮮から満州方面のものは、背に白い筋があって、誰が見てもこれは内地のものと違うのが分かる。背中の模様から考えると、北九州と中国産のすっぽんは朝鮮、満州のものと縁が近いように思えるが、太古日本と大陸とは地続きであったことを、これが物語るのではあるまいか。
 朝鮮と満州産は内地のものにくらべると、素敵に味が劣って価値も半分もしない。いま市中のすっぽん料理店で使う品はこの大陸産のものか、養殖ものであるから、おいしいすっぽん料理が容易に口に入らないのは当然である。僕は、若い時からすっぽんが好きで、土地の漁師が捕ってきたものは時季を選ばず買っているが、数多くとれた時は、庭の池へ放して活かして置いた。
 ところが、すっぽんは逃げるのが上手で、雨の降る夜など庭から這い上がり川の方へ出てしまうので、大分損を見たことがある。また、卵を孵化させて小さいのを飼ってみたが、これも大部分逃げられてしまった経験を持っている。すっぽんは、まことに育ちが遅い動物である。卵から生まれた時は五、六匁位で、百匁位に育つには三、四年、二百匁位になるには五、六年もかかろう。だから一貫目前後の大物は、十数年から二十年以上も経ているに違いない。

     五

 春四月ごろ、冬眠から眼覚めたすっぽんは、間もなく交尾期に入り、七、八月の炎暑に産卵する。川に続いた岡の砂地へ這い上がってきて、自分で砂を掘り穴をこしらえて、そこへ卵を産むと穴に砂をかけて川へ帰って行く。卵は日光に照りつけられ、その熱の作用によって自然に孵化するが、生まれた一銭銅貨位のすっぽんは一両日穴の中にうごめいていて、やがて親のいる川の中へ入ってしまう。すっぽんは泥底の川にいるものよりも、砂底の川に棲んでいるものが質が上等である。泥底にいるのは、一種の臭みを持っていて珍重できない。砂底や、岩の間に巣を営んでいるのは爪を見れば分かる。これは爪の先が磨滅して鈍くなっている。ところが、泥底に棲んでいたものは、爪の先が鋭く尖っている。養殖のすっぽんも同じことだ。すっぽんを買うときには、よく爪の先をきわめねばならないのである。
 このほど、宮城のまわりの堀渫いをした時に数匹のすっぽんが網に掛かってきたのを見ると悉く爪の先が鋭くとがっていたというが、これはお堀の底が、泥であるのを物語っているのである。そして、すっぽんは卵を産んでから後は、十月の末頃まで川の中で餌をとっていて、晩秋の冷気がくると川の底の砂にからだを埋め、首だけ出して冬眠に入る。
 重松代議士は、盥のふちに双手をつきながら、こんな話を長々として、最後に、
『娘共の料理では、大したこともあるまい。明日は、からだがひまだから一番僕が手をかけて、このすっぽんを割烹して進ぜよう。お腹をすかせて置いて、やってきませんか』
 と、呵々と笑う。随分、腕に自信がある風であった。
(一三・一〇・八)

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