日语文学作品赏析《日記について》
面白い日記をつけるやうな人物は、みんな一とかどの人物だとも考へられるが、一とかどの人物でなくとも、およそ人の日記といふものは、誰しも好奇心を引かれるものである。世間に発表するつもりで書いた日記と、さうでない、ただ自分のために書いた日記とは、その意味での興味がまるで違ふが、もちろん日記としての特色は、公然人に云へないやうなことが、率直に誌されてゐる点にあるので、秘密といふほどではなくても、そこでは人間が、裸でゐるといふ風なものほど、読むものにとつては有難いのである。
西洋には、よく、「おれの日記は、死後何十年後でなければ、発表するな」といふやうな遺言をしておく作家がゐるが、これなどは罪なことのやうだが、出たら読まずにはゐられないといふ連中が相当ゐることであらう。
日記の文学的価値は、自らその外にあるとはいへ、個人の私生活内生活の記録として、生前その著作乃至公の言動からは、窺ひ得なかつたやうな事実が、暴露されることは、二重の意味でセンセイショナルな結果を齎らすに違ひない。第一はその人物の意外な反面を識り、第二にはその人物と周囲との関係に新たな波紋を投げかけることになるからである。
近代のフランス作家で、私は、ゴンクウルとルナアルの日記を愛読した。両方とも、問題を起した日記である。前者はたしか死後二十年といふ期限つきで発表を許してあつたのだし、後者は死後十五年で出版された。何れもまだ少し早い憾みがあつたとされてゐる。なぜなら、「読ませたくない人間」が当時幾人も生きてゐた。生きてゐる方がわるいともいへるが、第三者が読んではらはらするやうなところを、そこが日記の魅力だなどと、書かれてゐる当人が照れかくしに言つてゐるのを見ると、誠に人生が暗くなるやうである。
私は何よりも素朴な魂を愛する。裏も表もないといふ生活は、甚だ見事である。日記の第一頁に――一月一日、今日は正月元旦である。昨夜降り積つた雪が、今朝もまだ真白に残つてゐる。東天に向つて初日の出を拝す。心気爽かにして、一年の計ここに成る、と書かれてゐる。次を読むと、――家族五人打揃つて雑煮を祝ふ。母上は七十歳の皺も晴れやかに、妻は三十五歳の丸髷、緑滴らんばかりである。初男は十一歳の春を迎へてますます父たる余の面影を髣髴せしめ、次子は八歳の学齢に達して、妻に劣らぬ悧溌さを示して来た。嗚呼、この幸福、ただ、欠くるは余四十一にして、未だ一銭の貯へなきのみ、とある。
趣味で日記をつけてゐるといへばそれまでだが、かういふ種類の日記は、早く死んで、早く人に読ませると功徳になる。細君には、無論、生前見せてゐることであらう。
私はまた、ひねくれた精神をも愛する。裏表があるわけではないのに、裏表があるやうに見える人物の心の動きは、甚だ微妙である。ジュウル・ルナアルとは、少年「にんじん」の本名であるから、御存じの方もあると思ふが、彼の生れながらともいふべき孤独さは、長ずるに及んで、幾多の激しい作品を生んだが、その日記は、就中平然とは読むに堪へないものである。
二十六歳の正月二日、かう書いてゐる。
詩人であり、しかも家賃の払へるものがゐる。
いかに詩人と雖も、妻と寝ることは差支へない。
詩人も、時として、フランス語で書くことがある。
そこで、私は「しかし、われわれはブロンドか、さもなければ褐色か、或は赤毛です。君たちは、みんな黄色い顔で、黒い髪をしてゐるぢやありませんか」
すると彼は、「あなた方にさう見えるだけです」と答へた。
特別にこれといふところを抜き出すのは、なかなか骨が折れるが、
従つて、次のやうな文句、
三十八歳の三月、
「少しばかり貰ふ金があると思ふんですが……」
会計係は、どえらい帳面をひろげる。
「はあ、さやうです。一行五十セントの割ですから、合計三十五フラン五十セントになります」
私は社長に手紙を書いて、こんな稿料では餓ゑ死をしてしまふ。餓ゑ死をするくらゐなら、仕事をしない方がましだといつてやる。
――ロスタン、選ばれたる人々と自任する俗衆の詩人。
晩年に近づくに従つて、この日記は、文字通り赤裸々となり、言葉の遊びから遠ざかり、厳粛な魂の声を聞くやうになる。
四十六歳、三月――
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