自分のことを云つた序に、もう一つ云ひます。
 市村座で、拙作「長閑なる反目」が、新派の所謂「若手」によつて上演された。
 これが動機で、私は、それらの俳優諸君と話を交へ、なほ、有名な「金色夜叉」の舞台を初めて観た。そして、いろいろなことを考へた。
 考へたことをみんな云ふ必要はないが、私の第一に云ひたいことは、新派劇の命脈は将に尽きんとしてゐるに反し、新派俳優の前途は却つて洋々たるものありといふことである。
 かういふ議論は、恐らくもう誰かによつて唱へられてゐるかもしれないが、私には私一個の見方がある。
 そこで、私の註文は、速かに新派劇といふ名称を廃することである。それは、女優劇といふ名称を廃するよりも容易な筈だ。何となれば、所謂新派劇と絶縁することによつて、現在の新派俳優は、立派に旧劇と対抗する現代劇の職業俳優たり得る地位にあるからである。
 勿論、彼等は、ブウルヴァアル俳優たるに甘んじなければなるまい。然し、それは彼等の恥辱ではない。寧ろ、現代の観衆は、現代的なブウルヴァアル俳優を求めてゐる。彼等はジャック・コポオを求めてはゐない。ピエエル・マニエを求めてゐるのである。アンドレ・ブリュレを求めてゐるのである。イヴォンヌ・プランタンを求めてゐるのである。
 さて、私がなぜこんなことを云ひ出したかといへば、私が、所謂新派劇の舞台なるものを観て、「なるほど、これが新派だな」と思つた部分は、俳優の「心がけ」一つで、どうにでも変へられるものらしく思はれたからである。そして、所謂新派俳優の強味は、「新派臭からざる部分」に於て、意外にも私の眼を惹いたからである。(一九二九・三)

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