これは本誌(前同)四月号の頁をあらまし占領した小山祐士君の力作だ。前に、川口、伊賀山両君の大作といひ、当今、百枚に余る作品を自由に発表し得る幸運は、劇作同人諸君に限り与へられてゐるの観がある。
 しかも、『十二月』は、なかなかの佳作である。粗末な力作は、愚劣な小品より罪が重いのであるが、見事な大作は、片々たる傑作よりも声を大にして褒めたくなるのが人情だ。その人情を割引して、僕は、小山君の作に対はう。
 戯曲の生命を抒情味リリシズムにのみ托する過ちを誡めたのは、ジャック・コポオであるが、これまでの小山君は、正しくこの過ちを犯してゐるやうだ。しかも、そのリリシズムには、一抹の生活的乳臭を漂はせ、これがいかんと、僕は危ぶんでゐたのだが、今度といふ今度、小山君は、俄然、その持ち前のリリシズムを「戯曲的」に、主題を、「やや象徴的」に処理しはじめた。言ひ換へれば、環境の現実的把握によつて、雰囲気の中心を形作り、生彩に富んだ観察を織込んで、人物の性格的発展にほぼ成功した結果、作品は、気体の揺曳から一歩進んで、流動する生活実体の中に生命の重量を感じさせるまでになつて来た。
 小山君の作家としてのエヴォリュションは、まあざつとこんな風に云へるとして、戯曲『十二月』が、既に多少の欠陥を除いて、優に今日の劇作界に誇示し得る作品となつて生れたことも、亦当然であらう。
 前に述べたやうに、この一篇を通じて、最も光つてゐるのは、作者の観察が巧みに生かされてゐることだ。人物の心理はそのために、自然の陰翳を保つて交錯し、生活のトオンは、世紀末的憂鬱に終始しながら、屡々微笑ましき諷刺の瞬間をのぞかせてゐる。ただ、慾を云へば、描かれた世界の裏に、もう少しの拡がりがあつたらといふことだ。九城一家の生活が、なんとなく人生のバックといふやうなものから遊離し、孤立してゐるといふことは、作者の眼が、まだ個々の生活を透して、より深い人間性に徹しないところから来るのだと思ふ。そこは、なんとしても過剰な装飾的リリシズムを更に切り捨てて、これに代るべきものを求める詩魂の飛躍に俟つより外はないであらう。(一九三三・五)

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