第一章

     一

 この物語の主人公である高間房一の生ひ育つた河原町は非常に風土的色彩の強い町であつた。海抜にしてたかだか千米位の山脈が蜿蜒としてつらなり入り乱れてゐる奥地から、一条の狭いしかし水量の豊富な渓流が曲り曲つたあげく突如として平地に出る。そこで河は始めて空を映して白く広い水面となり、ゆつたりと息づきながら流れるやうに見える。その辺は平地と云つても、直径にして一里足らずの小盆地で、奥地から平凡になだらかに低まつて来た山々は一面の雑木山で、盆地の端に立つと向ふ側の山も殆ど手の届くやうな感じに近く見える。さういふ平地を河は大きくうねつて、玉砂利のかはらがたいへん白く広く見える。芝草の生えた高い土堤がつゞいて、土堤の外側は水害を避けるための低地であるが、しかし不断は畑地になつてゐて、その又向ふに土堤よりは一段と高く思ひ思ひの様子で築かれた石垣があり、そこに河原町の家々が裏手の土蔵の塀やあるひは小部屋などを見せてゐるのである。そして、古びてはゐるが大きい材木を使つた此の家々は一様に外面を白壁でかこんでゐる。それは新しくて真白なのもあるが概して風雨にたゝかれたためうす黒い陰影がついて、その適度に古びた白さが、遠くから見る町並の中に点々と浮き上つて、此の河原町を一種親しみ深い快い様子に見せてゐる。又、町の裏手の山腹に一所、ちよつと見は大きい土くづれと思はれるやうな赤土の露出してゐる箇所があつて、その色があまり鮮かなので、白壁の多い町といゝ対照をつくつて、それが又この町を特別美しいものにしてゐる。これは銅山の廃坑であつた。
 この廃坑は旧幕時代の末頃まではまだ採掘されてゐて、これあるがために河原町は当時幕府直轄の天領となつてゐた。そして、上流にある城下町の藩主が参勤の途上この河を利用して下る時、天領との間に何か紛争の糸口のつくのをはゞかつて、河原町の傍を通る間は舟に幕をはり、乗組の者は傍見をして下つたと云ふ。それほどであつたから、この領内の民は他領との縁組を嫌ひ、他領から移り住む者を許さなかつたし、狩猟とか交通とかその他様々な点で非常な横暴と特権とを許されてゐたものだつた。
 銅山が廃坑となり、時代が移ると共に、他所の町村が発展するのに河原町だけは産業的に衰微し、とりのこされたが、以前の天領気分は今でもなほこの町を中心とする一廓に残つてゐた。それは近くの村々から「河原風」と呼ばれてゐた。今でこそ「無暗と気位ばかり高くて能なし」の意味であつたが、当の河原町の人々は、それがどんな意味に使はれてゐても、腹の中では漠然とした自己尊敬の念を感ずるのであつた。
 田舎町の習慣として、婚礼とか祭礼とか、葬式、法要などが盛んで、狭い町中がお互ひの家の奥向きの様子など手にとる如く知り合つてゐるほど交際が密であつたから、家ごとに何かあるといつも同じやうな顔ぶれ、つまり殆ど町中の人が時期と場所を変へただけで寄り集ることが多かつた。そして、その人達の座席の順序が家の格式財産にしたがつてきちんと決まつてゐて、上座に坐る人はどの家へ行つてもあたり前のやうに臆する所なく上座に坐るし、下座の人も唯々ゐゝとしてその席につき、決してその順序を乱すやうなことは起きなかつた。他村からこの町に移り住んで、町の商店区域で手堅く商売をやり、だんだん基礎もでき、町の交際範囲に入られるやうになつた者でも、席順はずつと下座であつた。若し誰か気骨のある男があつて、これを破らうとすると、彼は後々の場合あらゆる方面からの圧迫をうけて遂には折角築き上げた商売上の地位でさへ見すてなければならなかつた。それほど此の「河原風」といふものは根強く牢固たるものであつた。
 河原町の対岸に俗称河場と云ふ地名の部落があつた。そこは現在では河原町の区域に入つてゐるが、昔は他領であつた。純粋な農家、主として自作農ばかりの集りで、対岸の町から眺めると、藁葺の低い屋根が樹木の間に背をこゞめてゐるやうに見えて、そこに住んでゐる人達は、河原町の人々が、田舎に似ず一種洗練された身なりや顔つきなのにくらべると、明らかに泥臭い、鈍重な身ぶりであつた。その農家の中で一軒だけ瓦葺きの、構へも他の家より稍大きな家があつて、これが此の物語の主人公である房一の生家、高間家であつた。
 高間家の先祖はもと、川上の小藩のお抱医であつたが、明治初年の廃藩と同時に医をやめて、此の河原町に移住した。高間家に残つてゐる古ぼけた一葉の写真によると、それは老後の殆ど死の一年前位の肖像ださうであるが、一人の容貌魁偉な、真白な髪をたらした、眼の柔和な老人が見える。これが医から農に転じた人であるが、何故彼が永年家の業であつた医をやめて鋤鍬を手にするやうになつたかつまびらかでない。はげしい時代の変遷の中で様々な人間の浮沈を見て過したことが彼にそのやうな心境に達せしめたのか、それとも他のやむを得ない事情があつたのか、あるひは何よりも平凡を愛する性癖が強かつたのであるか、一切不明である。だが、はじめは乞はれるまゝに近所の人達の脈はとつたこともあると云はれてゐるし、又、対岸の河原町にこれも古くからの医家があつて、そこからの圧迫が随分はげしく、遂には誰に頼まれても脈はとらなくなつた、ともつたへられてゐる。
 その長男、つまり房一の父にあたる人は、幼い時から百姓の子として育てられたわけで、風貌こそまるで一介の農夫であるが、単純で大まかな一種長者の風があつて、その住んでゐる地域、つまり対岸の町を除く河場中の尊敬を一身に集めてゐた。老いと共に彼も先代の容貌に甚だ酷似して来たが、彼には先代のやうな底の逞ましさの感じがなくて、先代よりも凡々としてゐた。彼の妻はやはり士族の出で、上流の城下町からめとつたのであるが、三男二女を生んで死んだ。子供は大きくなつてゐたが、やはりその城下町から不幸な大工の娘を無造作に後妻に貰ひうけて、この女は肥つた人の好い気質の働き者であつたが、彼は家事一切を彼女に任せて何事もなく和した。
 かういふ彼であつたが、河原町の人々は彼に対して一種の親味と同時に、河場者、他所者といふ一瞥を決して忘れなかつた。彼の席順はやはり低かつた。それでも彼は一度も不満の色を浮べなかつた。
 房一は彼の三男であつた。いつも泥と垢で真黒な顔や手足をしてゐたが、薄汚い皮膚の下には温い血の色が漲つてゐて時々水いたづら、それは河や溝川で小鮒を追ひかけることであつたが、その後では両手首から先だけの垢が自然にとれて、小さく頑固な指々が紅く燃えてゐるやうであつた。むつちりと肉のついた肩、粗暴でゐながら間断なく閃めいてゐる眼、小柄な身体をゆすぶり立てて歩いたが、彼は対岸の河原町のしつけのよい子供達を憎んでゐた。町の子供で、彼よりも歳上の子供が一度よつてたかつて彼を打ちのめしたことがある。物蔭からわつと出られ、見るまにまはりを囲こまれた瞬間、彼は鋭い獣のやうな身構をした。皆は一時ひるんだが、彼の方でも逃げ場はなかつた。一同が迫つて、次にどつと襲ひかゝられると、房一はさつと地上に身を伏して両手で頭を抱へ足をちゞめ、亀の子のやうに円くなつた。埃にまみれ、擦傷や打たれて青く腫れた横頬のまゝ、彼は家へ帰つたが一口もそれについて語らなかつた、それ以後彼の粗暴さは以前よりももつと本能的な動物的な狡猾さを具へて来た。彼は自分をふくろ叩きにした者の顔を一つ一つ覚えてゐた。彼はその一人一人に復讐をはじめた。そのやり方はかうだ――彼は殆ど一二町手前から敵の顔を見わける。そして、何事もなかつたやうな又何事もないやうな顔で、その汚い垢だらけの顔面から小さい眼だけをきらつかせ傍見わきみをして近づいて行く。相手が彼に気づき警戒する様子を見せると、彼はますます鈍重なうとした面つきになる。一二歩の間に近づいて、相手が彼を見て、彼に何の敵意もないと見てとると、急に嘲弄したり、又は機嫌買ひの微笑をする。それでもきよとんとして相手を眺める。しかし、その瞬間彼は一心に胸を張りつめて相手の隙を狙つてゐるのだ。隙がみつかるや否や、彼は突然躍り上るやうにして相手にとびかゝる。そして必らず上背のある相手の顎を狙ふ。むつちりした弾力のある真黒な拳固を突きやつて、その次の瞬間にはもう一二間向ふの方へ走つて逃げてゐる。走りながら一撃を喰はしてゐるのだし、走力が拳固に力を加へてゐるわけだつた。そして相手があつと声を上げて立ちすくむか、あるひは身構をしたときには房一はもうはるか彼方を点のやうに小さく一散に走つてゐるのだつた。
 彼のかういふ復讐が完全に成功した後、又町側の子供等からの復讐が企まれた。それは夏の頃で、河では水泳ぎがはじまつてゐた。子供達の仲間々々によつて河もその泳ぎ場所がきめられてゐた。町場の者は稍上手かみての大きい岩のある淵のあたりで、房一たちの組はその下手しもての淵からゆるやかに流れ出た水が、次第に急に流れはじめる一帯の、やはり岸には大きな岩があつて、流れの中央に僅かに水面から滑めらかな背を露はしてゐる岩があつた。そこでは水は泡こそたてなかつたがよく見ると縞のやうな流線を造つて速く流れてゐた。房一たちはその岩の背にひ上つては水の中に滑り滑りしてゐた。上流では町場の者等が泳いでゐたが、彼等はしめし合はせていつのまにか流を泳いで下り房一たちの場所に襲つて来た。意味のない叫声や、水沫や、それらが入り混じつてゐるうち、彼等は房一の足を水中に引き、頭を押へつけにかゝつた。他の者はいつか岸辺に匍ひ上つて、遠くから房一の追ひまはされるのを心配さうに眺めてゐた。およそ日焼けした小さな裸体の群の中でも房一の身体がよく目立つた。岩に匍ひ上り、水に跳びこみする彼の黒い皮膚が水に濡れて日を浴びきらめいて見えた。そのうち彼は姿を消した。やがて、岸にゐる者の眼には、彼がはるか下流の水面にぽつくりと頭をもたげたのが認められた。彼等はそのとき始めて歓声を上げた。そして、思ひついたやうに石を拾つて河の中の敵に投げはじめた。房一はそのとき対岸に上つてゐた。岸に立つて首をたれ、ぶるぶるつと身体をふるはしたかと思ふと、水を吐いた。それから、上手に新しくはじまつた合戦を一瞥すると、それはまるで他人事ひとごとのやうに自分の衣物をひつかゝへて、さつさと家の方へ一人で立ち去つてしまつた。
 家の中でも彼は「悪たれ」であつた。一番上の兄は身体こそまだ大人ではなかつたが、一人前の野良仕事ができた。この兄は非常に無口で働き者であつた。次の兄も学校はすんでゐたが、非常な好人物で、終日何を言はれても笑つてゐた。彼も野良を手つだつた。房一はけつして手つだひをしなかつた。どんなに叱られてもいつの間にか家を抜け出して、時には野良からそのまゝ近所の山へ木の実とりや河遊びに逃げ出した。たゞ彼が神妙に野良に出て、用事がなくともくろに腰かけて立去らずにゐる時は、きまつて馬がゐるのだつた。
 彼はこの「黒」と呼ぶ馬を非常に愛した。彼の家の裏に、大きな納屋があつて、納屋の隅が馬小屋風に床板を張り羽目板を張つてあつた。彼はひまさへあれば馬小屋に出かけた。次兄が馬の世話をする役であつたが、房一はその傍にうるさくつきまとつて離れなかつた。次兄は馬の世話をするのはそれほど好んではゐなかつたが、あまり房一がつきまとふので、一種の矜持きようぢを感じて来て、房一には少しも手出しをさせなかつた。それで、房一は次兄の眼をぬすんで、馬に水をやつたり手から草を喰べさせたりした。馬が草をむしるやうにして喰べる、その度に房一の手に快い動きがつたはつて、彼は身ぶるひのつくほどうれしかつた。夏の夕方、馬に水浴をさせる、それが彼には何より楽しみであつた。次兄が彼を馬の背に抱へ上げてくれる。彼は小さい身体をはずませて、たてがみを指の間でしつかりと捉む。次兄が彼の背後にのつて、彼等は蒼然と暮れかゝる家の前の路に出る。日は大分前に落ちてゐるが、空はまだすつきりとあかるい。路の傍の青田の上にうす青い影のやうなものが一面に漂つて、どこからか煙の匂ひがする。土堤から河辺に下りる路は狭く急だ。馬ががくりとその路に足を踏み下すと同時に、背上では房一と次兄が大きく前のめりになりさうだ。危く左右に揺れて岸辺に出る。水面は黒く青く、遠く白く光つてゐる。腹まで水につかる場所に来て、馬は鼻面でちよつと水にふれ、首をふる。房一の足にもう少しで水がとゞきさうだ。瀬の音が急に下手から水面を匍ひ上つて聞える。房一はわざと鬣から手をはなしてみる。落ちはしない。彼はふりかへつて兄の顔を見て微笑する。彼は自分一人で馬に水浴びさせたいと思ふのだつた。
 一度房一は家中の眼をぬすんで一人で馬を引き出したことがある。彼は馬小屋の壁の横木によぢ登つてそこから馬に乗らうとしたが届かなかつた。考へた末に木箱を幾つか探して集めてそれを段々に積み重ね、その上から馬の背に渡らうと試みた。それはうまく成功した。馬は彼にとびつかれて始めは驚いて二三度首を振つたが、彼が次兄の日頃やる通りの真似をして落ちついて、短い足で何度か蹴ると、馬は思ひ出したやうに足を踏み出した。
 後で馬がゐないと云ふので騒ぎだつた。
「房一の仕わざではないか」と云ふことになつて、一同が手分けをして近所を探した。すると、老父が河へ下りる路の手前で馬に跨つてゐる房一を見つけた。馬は此方へ向いてゆつくりと歩いてゐた。房一は父を見ると、彼の方から大声に父の名をよんで、馬上に得々としてゐた。後で皆が訊くと、馬は河へ下りる路の所までは楽に行つたが、そこからはどうしても下りなかつた、そして、彼が腹を蹴りつづけると、馬はくるりと向きを変へて家の方へ勝手に歩いて来たのだ、と云ふ。一同は大笑ひをしたが房一は小ましやくれた生まじめな顔で、まだ酔つたやうな眼をきらつかせてゐた。
 それから間もなく、馬の世話は房一の手にゆだねられることになつた。彼は一心に手入をした。彼よりも馬の方が身綺麗であると思はれる位に馬は毛並みも艶々として来た。河土堤の上の長い路で彼は馬を疾駆させるのが常であつた。裸馬の背から腹にかけて一本の木綿帯をくゝりつけ彼は足の親指をその帯にはさんだだけで、小さな逞しい肩を前こごみに手綱をゆるめるために両腕を前に曲げひろげ、鼻の穴をひろげて、馬を走らせた。それは町とは河をへだてた反対側の土堤で、路ははるか上手の殆ど山に突きあたる地点まで伸びてゐた。彼が馬をはしらせるにしたがつて、河苔かはごけの匂ひや山の草木の香などがぱあつと彼をも馬をも包み打つて来る風の中でした。未だ様々な思念や野心などの形づくる場所のない彼の小さな頑丈な肉体の中で、彼の魂は何を欲し何を求めてゐたのか、裸馬の背でたえず路の前方の或る一点を見つめ、はげしい動揺に身を任かせてゐる彼の眼には、一種大胆不敵な歓喜の情が燃え閃めいてゐた。河向ふのかはらで遊んでゐる町の子達は、ひづめの音で房一の姿を認めた。あたりの物静かな、音といへば河の瀬の低い単調な音ばかりでけだるいよどんだ空気の中に突然としてはげしい蹄の音が起る。それは河を越し、町の裏の山腹に反響して、何ごとかあたりをかき乱すやうに物々しく聞える。はじめは房一の姿は見えない。馬だけが、首を張り出し尾をなびかせ、荒々しく何ものか掻きこむやうな形に前脚を速く閃めくさまに繰り出してはしるのが見える。そして、その首すぢにつかまつて馬と同じやうに前屈みに身体を張り出した小粒のやうなもの、房一の形が眼に入るのであつた。呼んでも聞えはしない。また、聞えても彼はふりむきもしない。そのまゝはるか上手の方に小さく認めがたくなる。と思ふと、しばらくして又前と同じやうな蹄の音がして、それはしだいに迫つて来て、今度は房一の顔が待ちかまへてゐる子供達にもはつきり認められるやうに思はれる、だが、彼は往きと同じに得体のしれない荒々しい一塊の悪魔の子のやうに、子供達の呆然と眼をみはり立つてゐる対岸を尻眼にかけて疾駆し去るのであつた。
「芋の子」といふのが房一につけられた前からの綽名あだなであつた。それは小さく円く肥つた彼の身体の感じをよく現はしてゐたが、今ではそれを口にする人々の間に、或る納得しがたい性質、種族の異つた感じ、さういふ意味をいつとなく感じさせて来た。
 この「芋の子」は小学校を卒業するとすぐ畑へ追ひやられる筈であつたが、成績がよかつたのと彼の願ひによつて高等科に上ることになつた。その二年の間に彼は身体も心もめつきりと成長した。年齢の若さから来る皮膚の艶や筋肉の柔かさは争へなかつたが、骨格は骨太でがつちりしてゐた。彼の粗暴さが今はすつかり姿を消して反対に或る素直で従順な所が出て来てゐたので、彼の骨格の逞ましさが何となく滑稽な愛嬌のあるものにさへ見えた。しかし彼の額には年に似合はない一本の深い皺が出来てゐた。それは時々非常に深く黒く見えることがあつた。それを見ると、人は彼の中に案外な考へ深さのあるのを認めて驚くのであつた。
 高等科がすむと、彼は突然、法律を勉強しに東京へ出たいと申出て、父を驚かせた。家中の者の反対にもかゝはらず彼は頑として自分の希望を捨てなかつた。するうち、彼の姿が突然見えなくなつた。二三日して、彼は又帰つて来たので一同は安心したが、その間に彼は上流の城下町にある彼の死母の実家へ行つたのであつた。そこの伯父はその町で瓦焼工場を経営してゐた。頭の鋭い狷介けんかいな老人で、非常な毒舌家であつた。しかしこの老人は毒舌を一種の愛嬌と他人からは思はれるやうな独特な人柄を持つてゐて、悪口を言ひながら世話を見てくれる、と人から評判されてゐた。房一もやはりこの老人に手ひどく罵倒された。百姓はやはり百姓をしろ、と云はれて、房一はすつかり悄気しよげて、その晩はそこで泊めて貰つたが、翌朝になると、一通の手紙を示して、これを持つて町の弁護士の所へ行つてみろ、と云つた。弁護士は手紙を読んで、親切に色々なことを話してくれた。彼もやはり苦学して弁護士の資格をとつた男であつた。その晩、伯父は、苦しくもやる気か、と訊いて、それからつぽを向いて、やる気なら餞別に少しばかりの金なら出してやるがその前にもう一度家から承諾を得て来い、と云つた。
 さういふことで、彼は先づ一段の希望をかなへることができた。彼は二年間東京で法律書生として苦学したが、中途で方針をかへて医学をやることにした。これには例の伯父の意見が大分加はつてゐた。しかしこれも中途で兵役にとられたため、一寸一頓挫を来たした。彼は看護卒を志願した。二年の後彼は又東京へ出て来た。そこで様々な生活を経験した末、又もや医学をやる決心をかためた。その前後が彼としては一番危険な時期であつた。株式店につとめてみたり保険の外交員を志したり、それは自分の望みがいたる所で達しがたいと思はれる時の不安定な、投げやりにしてみたりとび立つやうな焦燥の念に駆られたりする、そして、様々な名誉や成功やが赭々あか/\と輝いて見える此の世間といふものの裏、物には必らず裏があるといふ事実をはじめて覚つて、そのために自分が素晴らしく大人になつたやうな気持にならされ、自分には世の中の裏を見抜く眼があるのだと過信する時期の、非常に不従順な暗い数々の失錯や不始末をやつた。その頃の彼は一体どんな職業に従事してゐるか解らないやうな風貌と服装をしてゐて、仲間のほかには誰も彼をあたり前な眼つきでは見なかつたし、彼の方でもそれを太々しく白眼視して過した。だが、仲間の一人が或る詐欺行為で警察に引つぱられて、彼も危ふくその連累を蒙るところであつたが辛うじて免かれた、その時以来彼はそんな生活に見切りをつけた。様々な関係から足を洗ふために、彼は一度故郷に帰つた。短い滞在であつたが、久しぶりに見る近親の温かさや故郷の山河が何年かの放浪生活のうちで疲れ汚がされ眠らされた彼の魂、成功の野心と正しい生活への慾望とをよびさました。
 再度上京して前ゐたことのある病院に書生として住みこんだ房一は、まつしぐらに一つの目的に突進した。その最初にあんなに不安定な時期があつたにもかゝはらず、三年後には前期と後期の二試験をつゞけさまにパスして、医師としての資格を得た。その間に彼を鼓舞したものは実にはじめ伯父を訪れたときにその家の書架から発見した「西国立志篇」だつた。その本はもう何度となく読みかへされたので、頁がぼろぼろになつた。それから何年間か代診としてその病院に勤めた。その間に開業の資金を貯蓄したい考へだつたが、なかなかうまくはいかなかつた。かへつて少しの放蕩の結果、芸者に子供を産ませたりして、その方は曲りなりにも片づいたが、貯へは費ひ果してしまつた。しかし、開業の資金は故郷の伯父が工面してくれることになつたので一安心だつたが、その代りに河原町に帰つて開業すること、と云ふ条件がついてゐた。
 一人前の医者になるといふことは、何等の学歴もなく又もとでもなかつた房一にとつては困難をきはめた仕事であり、それだけに心の全部を惹きつけてゐたものだつたが、今その峠に達してみると、更に前方に見えて来たいくつかの峠が彼の新しい野心を惹きはじめてゐた。その野心の目的といふものも、彼が東京の市内で散見することのあつた大病院の院長とか、或ひは病理学研究の名声赫々たる博士とか、さういふ粗雑なものにすぎなかつたが、それは名声が彼にとつて魅力があり、院長の威厳が彼に好もしく思はれたのではなく何かしら内部に溢れる野気が単にさういふ粗雑な形の中にその吐け口を見つけようとしたのであつた。
 房一はこれまでにも河原町に帰つて一医者としての生涯を始めようと考へないでもなかつたが、老父の道平をはじめ伯父や身内の者すべてがさう希望してゐると知つたときに、唯々ゐゝとしてその云ふところにしたがふ気になつた。
 房一はその一見粗雑な性情にかゝはらず、現実の直視力のごときものを持つてゐた。彼を導いてその運命をつくらせたのもその力だつたが、今自分が他の誰のでもない彼自身の足の上にしつかりと立つてゐる自信を持つたときに、ふりかへつて自分がそこから出て来た場所、老父の道平やその身の上に降りて来た運命のまゝに依然として百姓仕事に甘んじてゐる兄弟達のことを考へた。単に好人物といふより他はないその手の皺の間に土の浸みこんだ日焼けのした兄弟達は、誰から云ひ聞かされたわけでもないのに自分に与へられた運命の限度を知つて日々を落ちついて暮してゐるあの楽天的な人達であつた。彼等は今房一の成功を恐らく当人以上に悦んでゐた。彼等にとつては房一はその唯一の代表者であつた。誰でも世間的な野心は持つてゐるものである。そのないやうに見える人達にあつても、それは眠らされて見えがたくなつてゐるか又は何らかの形に変形されてゐるものである。そして、この世間的な野心といふものも、実は生の根源力にほかならない。彼等のあきらめてゐたもの、若しくは自然にあきらめたと同じ結果になつたこの野心を房一の中に見た。それは房一のものでもあるが、同時に彼等のものだつた。今彼等は彼等自身の全部の希望をこめて、懸命に控目に房一を支持しようとしてゐた。その単純な幸福さうな輝きが房一の心を捕へた。
 例の伯父はもう大分前から房一の気を引いてみてはゐたのだが、遠縁にあたる退職官吏の娘で盛子といふのを房一の妻として撰んで待ち設けてゐた。
 かうして、房一の帰郷開業はその生涯を劃する大きな変化でもあつたが、同時にあの古風な河原町の人達にとつても眼をみはるやうな事件であつた。房一はめつたにない成功者として目された。地方の新聞には彼の苦学力行を賞讃する大きな記事が出た。

     二

 川沿ひに細長く続いてゐる河原町の通りは、地勢のせゐでゆるい下り勾配をなしてゐた。所々で屋並みが切れて、そこには茶畑があつたり、空樽が乾してあつたりするかと思ふと、次の空地にはどこの家で使つてゐるのか判らないやうな大きな井戸がその円く肥つた腹のやうな焼物の縁をたゞあつけらかんと日に照されてゐたりした。
 その空地の隣りに低い築地塀ついぢべいをめぐらした家がある。築地はもう何十年かあるひはもつと前に造つたものらしく、所々の壊れた荒壁を後から後から塗りなほした箇所がそれぞれ違つた土の色をして、それさへがれかゝつてゐる。だがその築地の内側にある家はこれも外まはりに劣らず古い低い平家で、外から見ると、築地の上にそのだゝつぴろい大きな屋根がまるで、伏せをした恰好に見えるきりだ。そんな風にかこまれてゐるので、外部から覗かれる家の有様と云つたら、ちやうどそこだけ築地が中に向つて露地のやうな様子で切れこんでゐる家正面の入口だけだつた。それも、今ではよほど田舎へでも行かないと見られないやうな、広い黒ずんだ欅板けやきいたの式台と、玄関の障子の両側には黒塗りの横桟の入つた脇戸までがついた、恐しく奥まつた、人間で云ふと極端に内気な独身の四十男のやうな様子をしてゐた。
 この家は上手にある鍵屋といふ旧家の分家だつたが、或る事情でこの一年ばかりの間空家になつてゐた。こんな家を何も空家にして置かなくてもよかりさうなものだが、そして最初二三ヶ月の間は本家の鍵屋から留守番に人が来てゐたのだが、間もなく手がかゝるためか閉めてしまつた。それと云ふのも鍵屋でさへだゝつ広く黴臭い自分の家を持てあましてゐたからである。鍵屋にかぎらず、維新前から明治大正にかけてひきつゞいた田舎の旧家はかなりの地主にちがひなかつたが、それは形だけは鬱蒼としてゐるが幹が空洞になつた大樹のやうなものだつた。鍵屋はもとは名代の酒造りだつたが、当主の神原文太耶になつていつの間にか止めてしまつた。その代りでもあるまいが、神原はその当時この附近では珍しかつた法学士といふ肩書のためか、次第に政治に身を入れるやうになつて、今では歴年県会議長をつとめてゐた。家にはめつたに居ない。それで、昔のまゝに格子造りの鍵屋の表口はいつも半ば閉めたやうにひつそりしてゐた。その母屋おもやの横手から裏にかけてはもう何の役にも立たない古い倉庫が無暗みと大きな屋根と、あの風雨にたゝかれて黒ずんだ汚点しみのついた白壁とを突立ててゐるきりだつた。
 そんな具合だから空室になつた分家の方も閉めて置くより他はなかつた。鍵屋の方はまだしも湿めつぽい匂ひがあるが、この分家は人気ひとけが去るのといつしよに家そのものの気さへ抜けてしまつて、乾いて、たゞ昔の恰好のまゝで立つてゐるだけであつた。まさか、よそから流れこんで来た八百屋や指物師などに貸すわけにはいかない。ところが、全く打つてつけの借り手ができた。それは「医師高間房一」だつた。医者に貸すのだつたら、別に家の品を落すことはないわけだ。

 その外から見れば屋根と築地塀だけのやうな家の前で、三人の男が立つてしきりと話してゐた。
 築地には四五本の木材が立てかけられて、玄関に通じる石畳の上には鉋屑が一杯に散らばつてゐた。その白いのや紅味がかつた真新しい木の色はふしぎな生気をこの家に与へてゐた。あの低い大きな屋根がぐつと身を起したやうにさへ見える。
「さうだね。まさか医者の家に古障子の玄関といふわけにもいくまいね」
 房一は白シャツを着た小柄な大工と並んで立ちながら、玄関を眺めて云つた。
 やうやく三十に手が届いたばかりだが、苦労したのとその無骨な外貌のために年齢よりは四つ五つ老けて見える。がつしりと人並外れて幅広い肩はむくれ上るやうに肉が盛り上つて、何だか猪首のやうな印象を与へた。
「うむ、何かあ」
 と、横合から老父の道平が房一に寄り添つて来た。
「玄関の手入れをどうしようかと云ふのですよ」
 房一はいくらかつんぼの道平の耳に口を寄せて、大声で云つた。
「うむ、さうか。玄関のことか」
 いかにも得心した風に深くうなづいた道平はそれで又ゆつくりと脇きへどいて、さつきからやつてゐた通りの見物人にもどつた。彼はいつもの癖である尻はしよりの恰好で、真黒に日焼けした両脚を突き出したまゝ立つてゐた。今朝彼は河向ふの自分の家から息子の医者の家ができ上る様子を見に来たのだ。そのまゝ尻はしよりを下さないのである。老年の柔和さの現れたうるみのある眼をはつきりと開けて、別に口出しするわけでもない、たゞ房一の傍にゐてその云ふことを聞き、することを眺めてゐた。その小ぢんまりとした体躯からは傍に立つてゐる房一を想像させるものは見られなかつたが、足の短い、肩の張つた房一の身体の特長から道平の方に目をやると、ふしぎと何かしら似てゐた。それはたゞ小さくて、皺が寄つてゐるだけだつた。
「どうでせう。いつそあの障子も脇戸もとり払つて、曇り硝子に高間医院といふ字を抜きましてね、厚い二枚戸でも入れたら――」
「うん」
 と生返事をしながら、大工の口にした高間医院といふ名前が耳新しく響いたので、房一は思はず微笑した。
「よし。――さうしとかう」
 云ふなり又思ひ出したやうに玄関へ上つて行つた。

 彼はもう何度も家の内外を行つたり来たりして、「高間医院」のでき上り工合を綿密に眺め歩いてゐた。新開業の胸のふくらむやうな思ひが、とりとめもない快感が次々と起きて片時もぢつとして居れない風だつた。
 最初、房一の頭の中にはペンキ塗りの清潔な外観を持つた医院が描かれてゐた。だが、この長たらしい築地にかこまれた家を一見するに及んで、その考へは棄てざるを得なかつた。今の大工の一言できまるまでに、何度玄関を外から眺めたことだらう。
 家の内部でも、房一はしよつちゆう歩きまはつて何度も道具を置き換へてゐた。古風な玄関の広間はそつくり待合室になつた。つゞく二室は板敷にして薬局と診察室ができ上つた。壁ぎはに立てた大きな薬戸棚、油布張りの固い患者用の寝椅子、青いビロードのふつくり盛り上つた廻転椅子、縁枠を白く塗つた医療器具棚の中には真新しいメスや鋏、鉗子かんしなどがぴかぴか光つて、大事さうに並べてあつた。
 房一は廻転椅子にそつと腰を下して、もう朝から何度眺めたかしれない診察室の中を見まはした。間もなくその不恰好な体躯がぢつと動かなくなつた。彼が身動きするたびに現れてゐた一種晴れがましい表情の代りに漠とした思案の線がその顔に現れてゐた。――この河原町に帰つて開業しようと決心したときにどこからとなくやつて来た考へがある。それは彼が河原町を出てゐる間にいつとなく薄れてゐたものだが、思ひ出すたびに徐々に形がはつきりして来た。あの河原町に奥深く流れてゐて彼を何かしら圧迫してゐたもの、それは何故か彼に跳ねかへさせたい心持を抱かせ、同時に身体が熱くなるほどの一種盲目な力を駆り立たせるのが常だつた、それらの捲き旋回する目に見えない風のやうなもの。それは幼時からずつと房一の底から動かし、支配してゐるものだつた。
 今彼が得て帰つた「医師高間房一」としての地位は、河原町に対する彼の野気を示すに恰好なものであつた。帰郷以来彼を迎へた河原町の人達の眼に、房一はその証拠を見た。だが同時に、彼が押して得た一歩か二歩を隙さへあれば押しもどさうとするやうな色も見分けた。若し彼が何かの意味で失敗すれば、彼等はすぐに嘲笑に転じ、又あの鈍い圧迫の下敷にして彼の気力を根こそぎにしてしまふだらう。
 その時、道平がのつこりと診察室に上つて来た。やはり尻はしよりの下から真黒い両脚を円出まるだしにしたまゝで。房一が考へこんでゐるのを見ると邪魔をしてはいけないとでも思つたらしく、そのまゝゆつくり診察室の中を見まはして、何か口のあたりをもぐもぐさせた。それから、医療器具棚に近づくと、そのうるんだはつきりした眼で熱心に中をのぞきこんだ。そして又、口のあたりをもぐもぐさせた。それはこんな風に云つてゐるやうであつた。
「ほう、この家鴨あひるの嘴みたやうな金具は、こりや何かな。ほう、こりやよく光る小刀だな。こんなに何本も何に使ふのかな」
 その子供染みた好奇心に輝いてゐる横顔は、この老人の胸の奥から恐らくその年齢と調子を合せてゆつくりと流れて来る悦びのためもあつたらう。その悦びの源泉はもとより房一にあつた。
「おぢいさん、そんなに立つてばかりゐないで腰をかけなさいよ」
 房一が声をかけて回転椅子を押しやると、
「うむ、わしか」
 と、道平は云はれた通りに腰を下さうとして、椅子の円々とふくらんだ真新しい天鵞絨びろうどの輝きに目をとめると、しばらくまじまじと眺めてゐたが、もう腰をかけるのは止めてしまつた。やはりゆつくりした様子で立つてゐる。
「それぢや、向ふの座敷へ行つて少し休みませうか」
 房一は先に立つて行つた。居間も座敷も畳が入れかへてあつた。だが、家具らしいものの何一つないこの大きな部屋には何かちぐはぐな乾いた空洞のやうな空気があつた。部屋の向ふには裏手の築地で四角に仕切られた庭があつた。そこにも目につくやうなものは何もなかつた。土の上に新しく削りとつた雑草の痕跡が一杯にのこつてゐた。その急に日向ひなたに出され、人の足に踏まれて顔をしかめたやうな土のひろがりの向ふには、低い築地とその際にたつた一本だけかなりに大きな無花果いちじゆくの樹がぼつさりと茂つてゐた。その葉裏にかすかに色づいた円つこい果の色だけがふしぎと生ま生ましい。
 右手の台所の方ではしきりと物音がしてゐた。道平より先に朝早くから手つだひに来てゐる房一の義母と、まだ結婚して間もない盛子とが土間を掃いたり戸棚を拭いたりしてゐるのだつた。
「これはどこに置きますかね、この漬物桶は。――はい、はい。どつこいしよ、と」
 人に話しかけるときにも半分はきまつて独り言のやうになつてしまふ義母はどうもつれ合ひの道平の癖が丸うつりになつたものらしい。だが、道平の声音こわねはあまり響かないぽつりぽつり石ころを並べるやうな調子だつたのにひきかへ、この義母のは突拍子もなく起つて又駆足で空の向ふに消えてゆくやうな大声だつた。
「ね、お母あさん。これ、こんなに汚いでせう。もう少し……たいんですけど。……でせうねえ」
 時々、澄んだ甘い柔味のある、痩せたすんなりした身体つきを想像させるやうな盛子の声が、はじめは稍張りのある調子で起つて、途中で何かしらはにかんだやうに細く聞えがたくなり、又時々ピツと語尾が跳ね上るやうになつて響いて来た。それは身体の動きとは別に、声そのものが絶えずどこかに柔かくくつついたり離れたり、又そこらを歩きまはつたりしてゐるやうであつた。
 その二人の働いてゐる所にはまだ形こそはつきりとはしてゐないが、内部ではもうこゝだけに見られる家庭生活の気分といふものが生れて居て、その特殊な雰囲気がひつきりなしに流れて、徐々にこの空洞のやうな乾いた家の中にその匂ひを浸みこませて行くやうに感じられた。
 道平は房一の後についてこの何もない座敷に入つて来たが、やはりあの子供じみたもの珍しさの色は消えなかつた。房一のすゝめるまゝに今度も腰を下さうとして、ちよつと尻はしよりに手をかけたが、そのまゝ止めて、ごく目立たない仕草で真新しい畳の上を避けながら、彼には坐り心地のいゝと見えた縁側で胡坐あぐらをかいた。
 だが、このはてしのない遠慮深さは気持の悪いものではなかつた。
 それは言葉にするとこんな風なものであつた。
「おれと息子とはちがふ。息子は自分の力でこんな風に立派になつた。おれはうれしくて仕方がないが、まあおれは自分の坐り慣れたところにこのまゝ坐つてゐる方が気楽だ。医者の父親なんてものより、元のまゝの老百姓で結構だ」
 胡坐をかいた道平は今膝小僧までまる出しにしてゐた。それも日に焦げてゐる。
「おい、お茶を入れてくれ」
 と、房一が台所に声をかけた。
 黒光りのする戸棚の蔭からびつくりしたやうな義母の円つこい眼がのぞくと、
「おや、いつのまにそこに来てなさつたかね。お茶ですか、上げますとも」
 体が、と云ふより声が引つこむと、代りにそこに姿を現したのは盛子だつた。すると、うす暗い台所の板敷の上に眩しいやうな、うすい葉洩れ日のやうな気配けはいが立つた。
 茶器を持つてこちらへ近づきながら、盛子自身も何となく眩しいやうな目つきをしてゐた。それは彼女に溢れてゐる若さだつた。その声で想像させたやうな細身ではなく、むしろ中肉だつたが、背が高いので一種の優しみが現れてゐた。
 控へ目に坐つて、注いだ茶碗を盆の上に揃へると、
「はい」
 と云ふ、思ひがけないほどはつきりした声で差し出した。そして、又淡泊なさつさとした足どりで台所の方へ去つた。
「開業日はいつかの」
 道平はゆつくりと首を動かして訊いた。
「別に何日からでもないんです。今日からでも――」
「挨拶みたやうなことはもうしたかの」
「まあ、葉書でざつと町内に出しときましたがね」
「ふうん」
 道平は納得したやうにうなづいたが、又ゆつくり身体を坐りなほすのと一緒に、
「それは、まあ、都会風でいけばそれでいゝわけだが」
 房一は目を上げて注意深く道平を見た。
「あれですかね、やつぱり自分で歩かなくちやいけませんかね」
「いかんと云ふわけもあるまいさ」
 道平はまるで大きな輪がゆつくり廻つてゐて、その一点の結び目が眼の前に現はれたときにやつと口を開くかのやうであつた。
「まあ、――上の町の大石さんとこ位は行つとくのもよからうが」
「なるほどね」
 又とぎれた。
「なにしろこんな狭い田舎ぢやから、何事もねつうやる。それをやらんと後がうるさい。自然評判を落すといふことも起るかな」

 道平はそのまゝ夕食をばれて、ゆつくり腰を落ちつけてゐたが、夜ふけ近い頃になつて、ひよつこり
「さあて、帰るかな」
 と云つた。
 義母は明日も片づけ仕事が残つてゐるので泊つて行くことになつた。
「もう遅いんですよ、おぢいさん。泊つてつたらどうです」
 しきりにすゝめられたが、道平は縁側に出て、いつのまにか下してゐた着物の裾を又尻からげにかゝつてゐた。頑固といふほどではないが、その様子には円味のある手ごはさと云つた風なものが感じられた。
 房一が道平を送つて行くことになつた。
 二人は夜ふけの戸外に出て下手の渡船場の方へ路をとつた。月はなかつたが空は一面の星で外は案外に明かつた。房一は先に立つて河沿ひの土堤の上を歩いてゐた。夏の間に生ひ茂つた雑草が路が見えない位になつて、その葉先がうるさく彼等の足をこすつた。房一の手にしてゐる自転車用の電燈の明りは雑草の頭を、時には横に外れて、うす暗い中にほの白く浮き上つて見える広い河原の上にたよりない光を投げた。房一は時々うしろをふりかへつて見た。老父は尻をはしよつて、黙つてうつむき加減に歩いてゐた。それは恐く小さい、又何となくかつちりしたものだつた。房一はあの日に焼けた真黒い膝小僧までがはつきり見えたやうな気がした。そして、そんなに小さい者としての感覚がありながら、同時に房一は子供の時分父親につれられてこんな夜路を歩いてゐたときの、父親が非常におほきな身体をしてゐて、力もこの周囲をとりまいてゐる夜の深いおびやかすやうな印象をふせぐには十分だと云ふあの子供つぽい切ないやうな信頼の感じ、それをまざまざと思ひ出してゐた。何かしら温い、何かしら幸福な感覚が深くまつすぐに房一の胸を走つた。この感覚は渡船場で針金についてゐる綱をひつぱつて船をたぐり寄せたときにも、老父が船の後部に腰を下して、房一が慣れた手つきで綱をたぐりながら、黒い温かさうな水の上を渡つてゐるときにも、房一の胸の中につゞいてゐた。実家について、老父や起き出た家の者に二言三言挨拶して、やがて房一一人でもとの路をかへつて来る頃、彼は又日頃の心の状態にかへつてゐた。そして、「医師高間房一」が彼の中で目覚めて来た。渡船場の黒い温かさうな水の色はさつきと同じやうに彼の眼の前で光つてゐた。たぐりよせる綱のさやさやと引擦り会ふ音はさつきと同じやうにあつた。彼はそれらに注意深く耳を傾け、眺めた。瀬の音が河下の方から鈍くひ上つて来た。それにつれてかすかな震動があたりに響いてゐるやうに思はれた。何を考へるともなく深い沈思の蔭で蔽はれてゐた彼の浅黒い顔に突然或る明い微笑が現はれた。彼はしつかりと足をふみしめるやうにして、土堤の上の路を、雑草の中を帰つて行つた。

 老父に注意されるまでもなく、房一は河原町で医師として立つて行く上の先々の困難は十分心得てゐるつもりだつた。どんなに房一が成功者と目されたところで、一方では彼が河場の一介の百姓息子にすぎなかつたことを河原町の人達は忘れてゐはしなかつた。その上、河原町には古くから根を張つた大石医院といふものがあつた。
 こゝの当主はもう七十近い老人だが、まだ郡制のあつた先年まで郡の医師会長だつた人で、この地方での一二と云はれる有力者でもあつた。それに相当な地主だ。その政治上の勢力や小作人関係などからきてゐる彼の家と患者との関係は一朝一夕になつたものではない。今では老医師の正文は半ば隠居役で、息子の練吉といふ若医師が診察の方はひきうけてゐるのだが、中には「老先生の患者」といふ者もある位だ。
 だから、房一にしてみればわざわざ小面倒なところへ乗りこんで行つたやうなものである。それだけに房一は事前に大体の目算をつけてゐた。彼の計算によれば、彼の生家のある河場一帯はむろん彼の地盤に入るとして、河原町の川向ふは今まで何かにつけて町側に押されてゐたから自然その半ばは自分に着くと思はれた。その他の所、町場と近在については、この地域での大石医院の勢力は抜くべからざるものだし、又若しこれを強ひて侵さうとしたらそれはかへつて自分の身の破滅を来すやうなものだとは彼にも一目瞭然であつた。ただ近在だけは時日が経つうちには彼の腕次第で少なからぬ患者をひきつけることができさうに思はれた。だが、いてはいけない。それに、彼が社会的にも医師としても大石医院の後進であることは紛れもないことだつた。よし、こつちからうんと頭を下げて行つてやらう、仕事はそれからだ、と房一は強く胸の中でつぶやいた。
 だが、どうせ頭を下げるのなら大石医院だけでなく目星めぼしいところをあらかた廻つてやらう、叮寧にやつたところでどつちみち損はないわけだと、この打算力に富んだ若い医師は考へついた。さう決心すると、幼時から彼に巣喰つてゐて、今では彼の中に強靱な支柱のごときものになつてゐる闘争心のおかげで、房一には自分が頭を下げて歩く姿よりは、河原町の家々をしらみつぶしに一つ宛身体をぶつつけて歩く姿の方が眼に浮かんだ位だつた。
 房一は礼装をして朝早くから出かけた。手はじめに家のある河原町の下手の区域を歩いた。このあたりは大石医院のある上手の区域にくらべると、ずつと場末臭い町並みであつた。その一等端は桑畑になつて、そこいらまではどこか町中の通りらしく平坦な道路は、急に幅もばまり、石ころが路面にあらはれてゐた。もう家はないと思はれる桑畑の先きに一軒の駄菓子屋があつて、その隣りには一寸した空地をへだててこのあたりには不似合なほどの大きな塀をめぐちした家があつた。それは河原町の旧家に多い築地塀を真似たものだつたが、様式は京都や大阪にありさうな塗壁の塀であつた。その家はびつくりさせるやうな大きさにもかゝはらず、昔風な家ばかりを見慣れた房一にはつい一月前に建てたやうに見えた。だが、もう四五年は経つてゐるのである。紺屋といふ屋号で知られてゐるこの家は河原町では一番新しい地主だつた。又、恐らく一番の物持ちだらうと云はれた。その真新しい家の印象とは反対に主人の堂本は恐しく引込思案の男だつた。彼はその財力には珍しくどんな町内の出来事にも関係するのを避けてゐた。それどころか、彼は何もしなかつた。たゞ夏近くなると始まる鮎釣りの季節にだけ、堂本は仕事着めいたシャツに古股引、大きい麦藁笠といつた姿で川岸に現はれるのだつたが、それさへなるべく人目にかゝりさうな場所をはなれて、上の方から釣手が下つて来るとだんだん下流の方へ、時には一里位下に遠ざかつてしまふのであつた。さういふ堂本にしてみれば、住居を新築したことだけが唯一の人目につく仕事だつたらう。それも、入口に立つてみると、ひどく用心堅固な感じの、こんなに周囲が畑ばかりで覗きこむ人だつてある筈がないのに、絶えず閉め切つた太格子の二枚戸が見えるだけで、内側の様子は皆目判らないやうに出来てゐた。
 房一はその玄関土間に足を踏み入れて、
「ごめん下さい」
 と、声をかけたが、返事がなかつた。間を置いて、今度は高い声を出すと、しばらくたつて、横手のふすまが殆ど音を立てない位にそつと開いて、半白の頭を円坊主にした、痩せて黄ばんだ皮膚の五十がらみの男が、きよろりと驚いた眼をして、口を半ば開けたまゝのぞくやうに現はれて来た。
 それが堂本だつた。
「えゝ、このたびこちらへ戻りまして、仲通りに開業しました高間房一ですが、つきましては一寸御挨拶に――」
 房一はすかさずさう口にすると、低く鹿爪しかつめらしいお辞儀をした。どうも、これでは少し固苦しいかな、と自分の声を自分で聞きながら。彼はいくらか汗ばんでゐるやうな気がした。あわてないで、さう自分に云つた。
 だが、房一よりも堂本の方がもつと慌ててゐた。彼はいきなりそこに痩せた身体をしやちこ張らせてかしこまると、
「へえ、いえ」
 と、何か文句にならないことを口の中で云つて、もう一度低いお辞儀をかへした。
 その様子が房一に余裕を持たせた。彼は東京の代診時代に覚えた世間慣れた快げな微笑を浮かべることさへできた。
「お忘れかもしれませんが、高間道平の息子でございます。――今度、医者としてこの町へ戻りました者で――」
「へえ、――どうもごていねいなことで――」
 まだぎこちなく坐つて伏目に固くなつてゐる堂本の様子から、自分が誰かといふことは判つてはゐるのだなと思つた房一は、
「や、それでは――」
 と手早く切り上げて、堂本の家を出た。
 そこから元来た路を引き返した房一は、行きがけには通りすぎた千光寺の山門を潜つた。広い人気のない寺庭には九月の日が明く冴えて、横手の庫裡くりに近い物干竿では真白な足袋が二足ほど乾いてぶら下つてゐた。そのしんとした庭の中をまつすぐに庫裡の方へ横切つてゆくと、いきなり
「やあ」
 と云ふ疳高かんだかい大きな声があたりに響きわたつて房一を面喰せた。
 本堂と庫裡とをつなぐ板敷の間で、ずば抜けて背のひよろ長い、顔も劣らずに馬面うまづらの、真白なのすぐ目につく男が突立つてゐた。
「なんですか、御挨拶まはりですかね、それはどうも御苦労さまですなあ。――まあ、お上り下さい」
 又立てつゞけに、一人でのみこんで、殆ど房一に口を開く隙を与へないこの男は、セルの単衣ひとへを着て、その上に太い白帯をぐるぐる巻きにしてゐた。角張つた頭骨の形がむき出しになつた円頂と、この白帯とがなかつたら、僧侶といふよりは砲兵帰りの電気技師にでも見えたかも知れない。彼は小学校の頃房一より四五級上だつた。その頃から彼はひよろ長い背丈の、時々くりくり坊主にされて、その青光る頭を振り立てて町場の腕白仲間の先頭に立つてのし歩いてゐた。さういふ目立ち易い恰好が相手には又とない悪口の種を与へたものだつた。小憎らしかつたその慓悍へうかんさが、今その倍増しになつた背丈と同じやうに彼の中に育つて、ちつとも坊主臭くない筒抜けな、からりとした性格に発展したやうであつた。高間医院の造作中に、彼は前を二三度通りかゝつて、「あんたは高間さんぢやないですか」と呼びかけた。
「えらい評判ですなあ。けつこうですよ。ぜひ話しに来て下さい。わたしはこんなにいつもひまですからな」
 さう云ひすてて、大きな音を立てて下駄をひきずりながら立去つたのだ。
「さあ。どうぞ、どうぞ」
 彼は背だけでなく、腕と云ひ胴体と云ひ、又その両脚と云ひどの部分もすべていやに長かつた。その手を差しのべて、房一を座蒲団の上に招じると、自分もむかひ合つて座を占めた。すると、又もや長い両膝が蒲団の上からはみ出して、房一の方に向いてにゆつと二つ並んだ。
「よく来てくれましたな。けふはゆつくりしてもかまはんのでせう。あんたは碁を打ちますか。――さうですか、御存知ないですか。それはちよつと。まア、しかし、こんなものは覚えん方がいゝかもしれませんなあ」
 さう云ひながら一寸横目で自分の膝のわきに据ゑたずつしりと厚味のあるかやの碁盤を眺めた。
「今日はほんの御挨拶に上つたので、いづれ又ゆつくり――」
 この分では永くなりさうだと思つて、房一が腰を浮かし気味にすると、
「まあ、いゝでせう。せつかくぢやありませんか」――
「あ、さうだ。お茶、お茶。おい、お茶を出してくれ」
 と、相手は慌ててその筒抜けな声を庫裡の居間に向けて放つた。
「いや、どうぞ構はんで下さい」
「どういたしまして。お茶位さし上げんと」
 いきなりはしなく立上ると庫裡へ走つて行つて、間も無く茶器を揃へた盆を自分で持ち運んで来た。長い胴を折り曲げるやうな危つかしい調子で房一の前に置くと、
「さあ、どうぞ。かたきの家へ行つても朝茶はのめ、と云ふことがありますよ。お茶ぐらゐはのんでもらはんと――」
「いやあ、全く」
 房一は苦笑した。
 間もなく千光寺の山門を出た房一は、殆ど人通りと云つてはない一本町の本通りを更に上手へと歩いて行つた。両側には軒の低い、一体どんな商売で暮しを立ててゐるのか判らないやうな、古障子を閉めきつた家が並んでゐた。その間々にちつぽけな、素人しろうとくさい塗り方をしたニス枠の飾窓に、すぐに数へられる位にばらつと安物の時計を並べた家や、埃の一杯かゝつてゐる雑穀屋の店さきなどがはさまれてゐた。まつ昼間だと云ふのに、通りには殆ど人の気配がなかつた。或る家の前の土間では、犬が一匹、その犬は捲の尻つぽをくるりとさせたまゝ、腹を地につけて坐りこみ、いかにも興味がなささうな、誰か通るから見てやるんだぞ、と云ふやうな様子で房一を眺めてゐた。その少し先きの家の縁側では女の子が二人、くたくたに古くなつて、紅いつけ色の滲んだ布ぐるみの人形をいぢつてゐた。口を利かなかつた。たゞ肩さきを擦りつけて手さきを動かしてゐるだけだ。それで、寝かされたり、起されたり、とれかかつた手をぶらんとさせたりする人形よりも、黙りこくつてそれをいぢつてゐる女の子達の方が、この薄ぼんやりした通りに似合つて、もつと人形染みてゐた。
 しばらく行くと、ちやうど河原町の中ほどにあたる所で家並みがかなり長い間途切れてゐた。まはりは田圃たんぼだけの、そこで今までまつすぐに来た道路は斜めに屈折して、二つの直線をなす上の町と下の町との喰ひちがひをつないでゐた。上の町のとつつきはやはりはつきり曲つてゐるので、その端にある雑貨店の前面が殆ど突きあたりに見えた。それは横手の壁が白く快げに厚く塗られて、その上に青黒い漆喰しつくひで屋号を浮き出させた、かなり大きな裕福さうな家だつた。房一がその方に向つて歩きながら何気なく見ると、一人の男がその家の前に立つてゐるのが目に入つた。たつた今何となく家の中から出て来たらしくいかにも用がなげにあたりを見まはしてゐたその男は、近づいて来る房一の姿に気づくと大袈裟に手を額にかざして日をよけながらぢろぢろと眺めはじめた。それはまるで、この道路が彼の私有物で、そこを案内もなしに闖入ちんにふして来る見ず知らずの男を咎めにかゝつてでもゐるかのやうであつた。
 年は五十過ぎ位、見るからに小柄な貧弱きはまる痩せつぽちだが、何となく自分の身体を大きく見せようと絶えず心を配つてゐるらしい足の踏ん張り方をしてゐた。手足も、顔の皮膚もうすく日焼けがし、乾いて、骨にくつついてゐた。が、頭髪はそれとは反対に驚くほど真黒で、きちんと櫛目を入れて分けられ、鼻下にはやはり念入りに短く刈りこんだ漆黒の髭をはやしてゐた。それは何かちぐはぐな印象で、中農の地主にも見え、町役場の収入役のやうでもあり、又どこかに馬喰ばくらう臭いところもあつた。だが、一貫して現はれてゐるのは、小柄の者がさうである場合特に目立つ、そして見る者の咽喉のあたりをかゆくさせるやうな、あの横柄わうへいさであつた。
 房一には間もなくそれが雑貨店の主人である庄谷だと判つた。だが、庄谷の方では房一が二三間の所に近づいてもまだぢろぢろ眺めてゐた。
「やあ、しばらくで」
 と、房一は帽子を手にやつた。
「はン」
 庄谷はほんのしるしだけにちよつと頭を動かしたが、やつと相手が誰だか思ひ出したらしく、その細い眼が急に徴笑した。
 その筈だつた。庄谷と房一の家とはかなり前まで遠い縁つゞきであつた。房一の死んだ母親と庄谷のやはり亡くなつた妻とは又従妹か何かにあたつてゐた。だが、さういふ程度の関係は知らぬ顔をすれば他人で通る位の間柄である。生前にも別につき合ひはしてゐなかつた。まして、二人ともこの世の者ではなくなつた今では、思ひ出せばさういふこともあつた、位の関係でしかない。
「誰かと思つたよ」
 庄谷の細い眼が又微笑した。だが、その瞬間に現はれたほんの少しの人なつこさ、古い記憶のほのめきは、すぐ又大急ぎでどこかへ隠れこんで行くやうに見えた。
「いつたい、今日は何ごとかの」
 庄谷は自分よりは高い相手から見下されるのを避けるやうに少し遠のくと、房一の改まつた服装を胸から下にかけてぢろぢろと見た。
「いや、挨拶まはりですよ。どうぞよろしく」
「はあ――ふむ、うちへもかね」
 冷笑するやうな「それは御苦労」と云ふ色が庄谷の眼に現はれたきりで、後は何とも云はない。恐らくそれが彼のふだんの表情であると思はれる、さつき手を額にかざして房一を眺めてゐたときと同じやうな、横柄な、何か固い糊づけしたやうなものが庄谷の顔にあつた。それは面を被つたみたいに庄谷の顔をくるんでゐて、いや顔だけではない、庄谷そのものもすつかりその固いものの背後にかくれてしまつたやうに見えた。
「うちへもかね」と訊いて置きながら、その自家うちへ寄つて行けとも云はない。房一はふと庄谷の眼尻が人並より下つて、そこが特長のある皺になつてゐるのを認めた。その皺の奥から時々庄谷の眼がこちらの顔を撫でるやうに見てゐた。さつきから何度も微笑したやうに見えたのは、この皺のせゐかもしれない。
 今度帰郷してから庄谷に会ふのは今日が始めてだが、房一のことは庄谷も知り抜いてゐる筈なので、彼の方から祝ひの言葉の一つ位はかけてくれさうな気がしてゐたのに、房一はあてが外れたやうに感じて、少なからず手持無沙汰だつた。だが、庄谷は知らないどころではなかつた。たゞ彼には房一が医者になつたことが何となく気に喰はないのである。庄谷の眼からすれば、以前からさう手軽るに親類顔をしてもらひたくないと思つてゐた家の薄汚い息子でしかない房一が、今突然医者として現はれて来たつて、それを認める気にはなれなかつた。この善良で小柄な、小柄なくせに横柄な男は、頭のてつぺんから足のさきまで河原町の者だつた。彼はこの町に生れて、家業である雑貨店を継いだ。それからもう何十年、店の入口の障子は硝子戸に変り、商品もランプの代りに電球を置くやうになつた。だが、いつたいそれがどういふ変化だと云ふのだらう。何もかも大事なことは変つてはゐなかつた。もう十年来どこの家でも戸数割の納め高は同じであつた。彼の家の前を通る大抵の人は彼より少い戸数割を納めてゐた。だから、彼はそこで会ふ大抵の人に、「あン」と云つて一寸頭を動かせばよかつた。無遠慮にぢろぢろ通りがかりの人を眺める癖を改めなくともよかつた。それは彼のこれまでの生涯をつゞいた。これからだつて同じことだとしか思はれない。何もかもちやんと決まつてゐて、疑ふこともなければ、案ずることもない。だから、それに当てはまらないことが目の前に現れても、それは初めから無いに等しい。彼を支へてゐる考へがあるとすれば、ざつとかういふ考へだつた。
 ――だが、作者がこんな説明をしてゐる間ぢう、房一はそこで愚図々々と立つてゐたわけではなかつた。何かしらあての外れたやうな気がすると同時に、房一は漠然と庄谷の気持を見抜いた。彼はそんなことで悄気しよげるやうな性質でもなかつたので、ほんの路傍の挨拶だけで別れると、さつさと上手に歩いて行つた。

 それから一二時間たつた頃には、上の町の予定した家をあらかた廻つて、房一はそれが今日の挨拶まはりの一番の目的だつた大石医院の手前にさしかゝつてゐた。家を出た最初から、路々彼はそのことばかり考へてゐた。老医師の正文の方は、四五年かあるひはもつと前に、自転車に乗つて往診に出かける姿を見かけたことがある。息子の練吉には、彼が夏休みか何かに医専の学生服を着てゐるのに路上で会つたことがあるから、多分それはずつと前だつたにちがひない、それも擦れちがつただけで、練吉の方では房一を気にとめもしなかつた。房一には老医師の方は今もこの前と変りのない姿を想像することができたが、練吉の方はどんな風になつてゐるか見当がつかなかつた。彼等はどんな様子でこの自分を迎へるだらう、それから自分はどんな風に話を切り出したものだらう。「はじめまして」もをかしい、二人とも全然知らぬ間ではないのだからな、「しばらくで御座いました」と云ふかな、これもどうも変だな、――それからまだ言葉にはならない、いろんな言葉を頭の中で云つてみた。相手が頭を下げる、こつちもお辞儀をする、そんな恰好がひとりでに頭の中を横切つたり、消えたりした。房一は漠然と興奮してゐた。
 だが、当の大石医院へ行くまでに何軒かの家に寄り、何人かの男に会つて口を利いてゐる間に、房一は或る気持の変化を感じはじめてゐた。それはかうだつた――彼は自分の生れたこの土地については、一から十まで知つてゐるつもりでゐた。河原町といふものが、そこに住んでゐる人達が漠然と一かたまりになつて、云はば机の抽出に蔵ひこんである手帖のやうに、すぐその所在を確められるものとして感じられてゐたのだが、今日はじめてその一人一人にあたつてみると、今まで考へてゐたものとは可成りにちがふ何かしら別のものが思ひがけない感じで房一の顔を打つた。云つて見れば、彼は河原町の住民になつたのを感じた。これにくらべれば、彼が今まで感じてゐた河原町そのものは単にその外形であり、彼はこの町の住民ではなかつたとさへ思はれるのであつた。
 今日幾人かと会つて口を利いただけで、彼は自分が今はじめて河原町での医師になつてゐるのを感じた。それはまだ形ができてはゐなかつた。だが、彼の足は今河原町の土を踏み、彼等が房一を認めると否とにかゝはらず、否応なくその相手になつてゐなければならなかつた。この短時間のうちに得た小さな発見は、何故か房一の胸に或る落着きを与へた。
 今、彼の目の前には大石医院の塀づくりの家が立つてゐた。その家は彼が借り受けたあの古びた家とふしぎに似通つてゐた。ちがふのはもつと大きやかで、手入れのよく届いてゐることだつた。築地の壁土は淡黄色の上塗りが施され、一様に落ちついた艶を帯びてゐた。そして、玄関に向ふ石畳は途中二つに分れ、右手は別建の洋風な診察所につづいてゐた。房一は瞬間どちらへ行つたものかと思つたが、左手によく拭きこまれた玄関の式台を見ると、まつすぐその方に進んだ。
 二三度声をかけたが返事がなかつた。すると植込みの向ふの診察所の入口に白い服を着た看護婦の紅らんだ顔がのぞいて、すぐに引きこんだ。と思ふと、どんな風に廻つたのかしれないが、同じ顔が思ひがけなく今度はひよいと突きあたりの壁の横から現はれた。
 房一は来意を告げた。やがて、軽い足どりが聞えたので、さつきの看護婦だとばかり思つて目を上げた房一の前に、頭髪の真白な、やや猫背の、ぎよろりとした眼つきの老人が立つてゐた。一瞬、房一はこの老医師と目を合はせた。何かき出しな、噛みつくやうな眼が房一をぢつと見下してゐた。が、次の瞬間には、それとはおよそ反対な気軽るな声が、
「や、さあお上り下さい。さあ――」
 と、房一を誘つてゐた。

 房一はどこか鹿爪らしい恭順な面持で、控目にじつくり身体を押へるやうにして上るとうしろ向きになつた猫背の老医師の肩がひよいひよいとまるで爪さきで歩いてゐるやうに彼を奥の方へ導いて行つた。
「さうですか、さうですか。それは、いや、ごていねいなことで」
 坐につくとすぐ固苦しい挨拶をはじめた房一に向つて、その気重い調子を払ひのけでもするやうに、老医師の正文は口早やに云つた。
 彼は重ねた両膝の間に尻を落すやうにして坐つてゐた。それは七十近いこの年まで坐りつゞけ、他の坐方を知らない者に独特な、云はば正坐しながらあぐらをかいてゐるやうな安楽げな恰好だつた。そして、何か話すたびに前へ首を落すので、その猫背はだんだんと前屈みがひどくなつて、胴から上が今にも両膝の間にのめりこんでしまひさうに見えた。が彼がすこぶる上機嫌でゐることは房一の目にも見てとれた。
「え、何です、前期と後期とをつゞけさまにうかりましたつて。――ふうん、それやえらいもんですな。なかなか、あの検定試験といふやつは、医学校なんかの年限さへ来ればずるずるに医者になつてしまふのとはちがつて、相当な目に合はされますからな」
 正文は顎をつき出しては一寸笑つて、ふむ、ふむ、とひとりでうなづいてゐた。
 房一はふとその様子から、医者になつてはじめて帰国したとき、例の伯父が苦学の模様を根掘り葉掘り訊いて、満足げにうなづいたときの恰好を思ひ出した。そして、いつのまにかこの老医師に親しみを感じ出してゐる自分に気づいた。それは彼が予期したこと、前もつていろんな風に描いてゐたものとはまるでちがふものだつた。この分では大して案ずることはない、房一はさう考へた。何かしら前の方がひらけ、何かが前の方で微笑して彼を迎へてゐるやうに思はれた。
 だが、そのとき、この野心のかたまりのやうな若い医者に前もつてたゝみこまれてゐたさまざまな思案が頭をもたげた。この機会をのがしてはならないぞ、さう思ふのといつしよに房一は急に形をあらためた。
「何分ごらんの通りの未熟者でして――」
 口を切つたものの房一は頭の中でとまどつてゐた。あんなに考へてゐた言葉が今急にどこかへ消えてしまひ、何を云ひ出したのか後をどう云つたものか判らなくなつてしまひさうに感じた。彼はかすかに汗ばみ、そのどちらかと云へば醜いむくれ上つた眉肉や厚い唇が力味を帯び紅ばんで来た。
「それに、永い間この土地をはなれてゐたもんですから、土地の事情にもすつかりうとくなりましてね、これは一つ、どうしても今後こちらのお力にすがらないことには立つていけないと思つてゐる次第ですが――」
「はあ、はあ」
 正文は黙つて聞いてゐたが、このときふいに今まで前屈みに折りたゝんでゐた背をぐつと伸したやうに思はれた。そして、あの噛みつくやうな眼がぎろりと房一を一瞥した。
 房一は無意識に微笑しながらその眼を迎へた。正文はそこに、医者といふよりはまだ世間慣れのしない弁護士のやうな男が、土饅頭を思はせるやうな円まつちい顔を一種恭々うやうやしげな面持でかしこまつてゐるのを、その厚いふくれた唇が不器用な微笑を浮べてゐるのを見た。それは何となく可笑をかしみのあるものだつた。
 思はず正文は笑ひかけた。それを隠すやうに小首をかたむけてわきを向くと、又房一の話を傾聴する恰好になつた。そして、一度起きなほつた背はだんだんと柔かく前こゞみになつた。
 房一は手答へのないのを感じた。
「どうぞよろしくお願ひします」
「はあ、いや。もう手前どもは老いぼれ同然ですからな」
 向きなほつて云つた正文の声音は穏かではあつたが、その言葉とは不似合なたゝかな調子があつた。
「先づそのうちには、町内の様子もいろいろお解りになることでせう。これでなかなか面倒なこともありましてな」
「はゝあ」
 房一は狡猾な顔で老医師を見た。だが、前よりなほ気楽げな様子になつた正文は、房一の方をろくに見もしないで、
「さやうさ。当今では大分世智辛せちがらくなりましてな。薬価の代りに畑の物を貰つてすませる位のことはさう珍しくはありませんよ」
 房一は苦笑した。
 そのとき、横の襖が開いて、三十近い年の、髷なしの束髪に結つた女が茶を持つて入つて来た。色の白いわりに顎の張つたその顔は、気の強さと或る物悲しさとが入りまじつたやゝ冷い表情をしてゐた。正文は息子の嫁だと云つて引合せた。房一はそれで急に練吉のことを思ひ出して、お目にかゝりたいと云つた。
「ゐるかね。ゐたら、高間さんが御挨拶に見えたからと――」
「はあ、見て参ります」
 彼女はその表情を少しもくづさずにすつと引き下つたが、間もなく帰ると、
「あの、さきほど往診に出かけましたさうで」
「往診? ふむ、ふむ」
 正文はそれきり黙つた。だが、練吉の妻はまだそこに片手をついたまゝ、何か答へを待つやうに老医師の方を向いてゐた。その眼には何か訴へるやうな非難するやうな色が見えた。正文はふと気づいた。
「ふむ、もうよろしい、よろしい」
 稍意地の悪い、きびしい調子であつた。

 房一の帰るのを見送つた正文は、玄関から居間へひき返しかけたが、ふと考へなほして診察所の方へ行つた。すると、そこの廻転椅子の上に、行儀わるくずり落ちさうに腰かけて、両脚を床の上に思ひきりのばした恰好の練吉が、新聞紙を両手で顔の上に持ち上げながら読んでゐるのを見つけた。
「おい、今高間君が来てゐたんだよ」
 正文はその傍に近づきながら、他の用事で来たついでのやうに云つた。
「え」
 と、新聞紙から眼をはなした練吉は、一寸正文の邪魔になりさうな足をひつこめただけで、別に行儀のわるい姿をなほさうともせずに、又新聞を持ち上げながら、
「さうですつてね」
 と気のない返事をした。
「お前、往診に出てた?」
「え? いや、居ましたよ、居ましたけど、別に――」
 別に会ふ気がなかつたから、と云ふ代りに、
「どうでした」
 と訊いた。
「ふむ」
 今度は正文の方で答へなかつた。そして急に苦がい顔になつて、ぢろりと薬戸棚を見まはしただけで母屋おもやの方へ帰つて行つた。

     三

「ねえ。――はやく。――患者ですわ」
 その患者といふ言葉を、まだ云ひ慣れないために特別な発音をしながら、盛子はあわてて房一に声をかけた。
 房一はさつき起き出したばかりであつた。歯ブラシをくはへると、井戸端で向ふむきにしやがみこんだまゝ、何をしてゐるのかまだ顔も洗はないやうであつた。その円く前こゞみになつた、背中から、口のまはりに白い歯みがき粉をつけた顔がくるりと向きなほると、
「よし。今行く」
 それで安心したやうに引つこんだが、しばらくすると又のぞいた。
「ねえ。はやく」
 今度はかるく甘えた、羽毛でくすぐるやうな調子があつた。房一はざぶりと水を顔にぶつかけただけで立上つた。
 診察室に出てみると、三十歳前後の一見して重症の貧血だと判る農夫が待つてゐた。房一にはその男が近在のどこの部落の者だか心覚えがなかつた。開業してから七八人目の患者だつたが、これまでのは町内の者が半ばお義理から、半ば好奇心から房一の診察をうけに来たのにすぎないので、この男のやうに見覚えがなく又相当重症の患者にぶつかるのは今がはじめてだつた。
「やあ。――こちらへ」
 房一は熱心に愛想よく椅子をすゝめた。
「どこか悪いですかな」
「へえ。ちよつとばかし――」
 男は力なげに口をあけてゐた。
「ふむ、ふむ。――どなたでしたかね。お名前は?――ふむ、ふむ。――住所は? いや、あざはどこでしたかな――ふむ、ふむ」
 このどこの誰とも判らない相手を満更知らぬでもないらしい様子を見せながら、房一は手早く書きこむと、
「さあ、一つ拝見しませう」
 房一は永い間診察した。ひどい貧血症、食慾のないこと、動悸が打つ、野良仕事はもう三四ヶ月前からできないでゐる、――
「ふむ、ふむ」
 房一は男の前膝部をたゝいた。脚気でもない。心臓は弱つてゐた。単音でなく、微弱な重音があるので弁膜症の気味があるとも診られた。呼吸器に異状はなかつた。一応の診察を終ると、房一は患者の顔から、胴体にかけて、熱心に眺めた。皮膚は弛緩して、生気がなかつた。だが、その極端な貧血と一般的な衰弱とは典型的な寄生虫の症状らしいことにさつきから気づいてゐた。
 尿には蛋白質はなかつた。排便を顕微鏡でのぞいてみた。ゐる、ゐる。蛔虫に十二指腸虫の卵がうんとこさ見えた。
 房一は患者の前にもどつて来た。
「今、あんたの便をしらべてみたがね」
 と、ゆつくりはじめた。
「いゝかね。あんたの身体はどこも悪くない」
 男は、びつくりしたやうに房一を見た。
「心臓は多少弱つてゐるが、大したことはない。――いゝかね、あんたの身体はもともと丈夫な身体だ。ようく診たがどこも悪くはない」
 男は面喰つて何を云はれてゐるかはつきり判らないらしかつた。房一はその眼の中をしつかりとのぞきこみながらつゞけた。病院づとめの生活で、房一は患者の気持をのみこんでゐた。たとへ病気がはつきりしなくても正直にありのまゝを云ふのは禁物だつた。病人は何か断定を欲するものだ。今の場合は別だが、十二指腸虫といふ名前さへろくに知らないこの男に、いきなりその病源を云つたところで疑はしく思ふのは明かだつた。
「ね、どこも悪くない。だが、その丈夫な身体の中に虫が巣をつくつとる。いゝかね、心臓病とか腎臓病とかいふやうなものではない。虫を駆除する、つまり身体から出してしまへばあんたの身体はもと通りぴんぴんして来る。悪い虫だが、とつてしまへばよいのだから、他の病気よりは性質はいゝと云ふことになる。――判つたかね」
 男は始めにびつくりさせられて、今さう聞くと多少のみこめて来た様子であつた。どこも悪くないと云はれたこともうれしかつたらしい。房一はその腕をひつぱつて顕微鏡の前につれて行き男にのぞかせた。
「ほらね、かういふ形のと、又別にかういふのがあるだらう」
 と、房一は机の上に虫の卵の形を書いてみせた。
 患者は満足してかへつて行つた。だが、房一は患者以上に満足してゐた。おれの云ひ方はあれでよかつたかな。もつと噛んでふくめるやうに話して聞かせるんだつたかなと、たつた今自分が云つたり、したことを、もう一度目の前に思ひ描きながら、房一は永い間廻転椅子の中に身をうづめてゐた。
 彼には、何の縁故もないその男が医者としての自分をたよつて来たのが何よりうれしかつた。あの男はおれの一番最初の患者と云つてもいゝ位だ。それがありがたいことにうまく行つたのだ。何しろ、寄生虫にはやく気がついてよかつた。あんな風だと、前に大石医院で診察をうけてゐたのかもしれない。塔の山と云ふのはたしか下の半里ばかりの所から山に入つたあたりだつた、――さう考へてゐるうちに房一はふと昨夜往診をたのまれたことを思ひ出した。
 それは杉倉といふ所から来た。塔の山とは反対に、ずつと上手に河原町を出外れて、それから更に急坂を一里ばかり上つた所の、相沢といふ家だつた。相沢と云へばこの近所では誰も知らぬ者はない、そんな不便な土地でありながら大きな酒造家である。使ひの者が来て、急ぎはしないが明日あたりにでも往診してほしい、と云ふことだつた。房一にはそんな相沢みたいな家から往診をたのまれやうとは意外であつた。

 河原町の上手を出外れると、やはり一帯は桑畑の中を、路はだんだん上り勾配をましながら川から遠ざかつて行くのだが、左手に迫つてゐる山腹の下方にとりつくと、そこから急に路面も赤土になつて、途中でいくつも屈折した坂路が山を越えて杉倉の方につゞくのである。
 夏蚕なつごで下葉からもぎとられて行つた桑は、今頭の方だけに汚ならしい葉をのこして、全体に透きながら間の抜けた形で風にゆらいでゐた。その間を房一の乗つた真新しい自転車のハンドルがきらきら日に光つた。
 坂路にかゝると、房一は自転車から降りて、押しながら登りはじめた。房一の恰好が円まつちく、不器用な図体であるだけに、自転車にとりついた姿はいかにも重たさうに見えた。十月に入つて間もない日は、自転車の金具の上だけでなく、下方の桑畑の透いて見える根つこにも路のわきの削りとつた赤土の肌の上にも一面にふりそゝいでゐた。
 山腹の中ほどの曲角で房一は立ちどまつて汗をふいた。今ではもう真下にひろがつて見える桑畑の外れにぐつと落ちこんだあたりを曲りながら流れる川の水流がぎらついてゐた。その下手に、河原町のいろんな形の屋根がかたまり、とぎれ、又つゞいてゐた。このあたりは子供の時分に遠走りに遊び歩いて来たことがある位で、房一には殆ど縁のない場所だつた。殆ど二十年ぶりだらう、そこに立つて様子の変つた河原町を眺めてゐると、房一は何とはなしにゆるい感動の湧いて来るのを覚えた。こゝで見る河原町はその小粒の屋根のせゐか、手にとつて楽しむことができさうに、何だかなつかしかつた。そのなつかしい何ものかは、彼の記憶の遠くに彼の存在の奥深くにつながつてゐた。しかも、今彼自身は以前には思ひもかけなかつた河原町の医者としてこゝに立つてゐる。
 それがふしぎに思はれた。
 さう、とりとめもない感慨にふけつてゐた房一は、ふと、坂路のずつと上の方でごく小さいピカリと光るものを感じた。自転車で誰かが降りて来るのであつた。それはかなりな速さで茂みの間に現れ、又見えなくなり、やがてまつすぐに見通しのきく曲り角のところに、はつきりと大きく現はれた。銀鼠色のかなりにいゝ品らしいソフト帽が見えた。その下に光る眼鏡、面長な白い顔、ペタルの上で、ブレーキを踏んでゐるチョコレート色の短靴。――
 向ふでも房一を認めたらしい。さう思はれる仕方で、ぐつと速力をゆるめながら、だんだん近づいて来る。はじめは房一の方にこらしてゐた目を途中で一寸伏せ、又何気ない風にこちらを眺めながら降りて来た。
 他に通る人とてはない、この広濶な坂の一本路で、二人はいやでも顔を見合はさずにはゐられなかつた。近づいて来る自転車の車体には房一の往診用の黒革の鞄と同じ格好のものがとりつけられてゐた。房一には相手が誰かといふ見当が今は疑ひなくついてゐた。恐らく、先方にも房一が判つたにちがひない。
 二人は間近かでまぶしげに眺め合つた。そのまますれちがつて、二三間行きすぎた頃、房一が見送り気味にふりかへるのと、相手が車の上から首をねぢ向けるのと同時だつた。そのはずみに男はひよいと地上に降り立つた。
「失礼ですが、もしか、あなたは高間さんではありませんか」
「さうです」
 二人は自転車をひきずつたまゝ近よつた。
「あなたは、多分――」
 房一が云ひかけると
「大石練吉です」
 神経質な目ばたきをしながら、練吉は口早に引きとつて云つた。
「さうですね。さつきからどうもさうらしいと思つてゐたんですが、失礼しました」
「いや、わたくしもね、すぐさう思つたんですが、どうも、こんなところで、思ひがけなかつたもんで――さう、さう、先日は失礼しました、つい出てゐたもんですからお目にかかれなくつて、そのうち伺はうと思つてゐたんですが」
 練吉の切れの長い目は片時もぱちぱちをやめなかつた。その度に、せきこむやうなどこか菓子をせがむときに子供の駄々をこねるのを思はせる調子の声が、もつれ気味につづいて出た。その青いと云ふよりは冷たさを感じさせる色白な額には、やはり上気したやうな紅味が浮んでゐた。
 練吉は路の傾斜のために自然とずり下りかけた自転車を引き上げようとして身体を動かした。そのはずみに、彼の横顔が房一のすぐ鼻先きにぐつと近づいた。練吉の頬はきれいに剃刀かみそりがあてられ、もみ上げから下の青味を帯びつるつるした皮膚にはこまかい汗がにじみ出てゐた。そのとき房一は思ひがけなく練吉の匂ひを、髪や香油のそれではなく、何か練吉その人の匂ひを嗅いだ。
 それは房一がこれまでに漠然と想像してゐた練吉とはかなりにちがふものだつた。以前見かけた練吉の学生服姿、その良家の子弟らしいつんとした近づき難さは、どこかにのこつてゐたが、或る柔い、善良さが今の練吉からは感じられた。
「わたしの方でも、もう一度こちらから上つて、お目にかかりたいと思つてゐたところなんですよ。――今日はこんな所で、じつさいいゝ案配でした」
 房一は持前の人慣れた愛想のいゝ微笑をうかべてゐた。それは水面にできた波紋がゆるく輪をひろげるやうに、彼の厚い醜い唇からはじまつてしだいに、顔全体をつゝみ、つひに容貌の醜さを消してしまふものであつた。
「こんなところで初対面のご挨拶をしようとは思ひがけなかつたですね。――いや、初対面といふわけでもないんですな」
 練吉は小学校時分のことを思ひ出したのかふいにをかしさうに笑ひ声を立てた。
「さうですよ、ですが、何年ぶりでせう。これがもつと他の所だつたらおたがひ気がつかなかつたかもしれませんよ」
「さつき、はじめは、はてな、見慣れない男がゐるな、と思つたくらゐですからな」
 練吉は今更のやうに、あらためて房一の様子を、その新調の自転車や医者らしい鞄などに目をやつた。すると、それらは今新しく練吉の前に彼の持物と同じものを感じさせ、更に、今まで耳にしてゐたものの、つひぞ気にもとめずにゐた医師高間房一といふ人物がそこに忽然と姿を現してゐるのをいやでも見なければならぬと感じさせた。それは何故かどこかで練吉の自負心を傷つけ気を苛立たせるものだつた。
 じつさいに、房一が練吉のことを想像してゐたのと反対に、練吉はたつた今坂路の上から見慣れない、何となく不様なだがともかく彼の注意を惹かずには居れない種類の男がゐるのを目に入れるまでは、全く房一のことは毛ほども考へたことはなかつた。したがつて彼はひどく驚かされた。次には興味を持つた。練吉はその甘やかされ、順調に育つた境遇からして、他人との手厚いつき合ひの心持などは持たうとしたことがなかつた。大石医院の若医師としての境遇は、彼が望んでなつたものでもなければ、苦心して得たものでもなかつた。彼はたゞさうなるやうに生れついた。それをさまたげる事情は何一つなかつた。この自分では大して好んでもゐないし、やむを得ずなつて、やむを得ずまはりから、尊敬を受けてゐる位に考へてゐる医師としての職業は、しかし内実は彼の虚栄心を無意識のうちに支へてゐるものだつた。何故なら他の誰でもがこの町で医者になることはできなかつたし、彼自身は大して好んでゐなくつてもなれたのだ。
 だが、さういふことは練吉は今まで考へたことがなかつた。その必要もなかつた。それは単に一つの習慣、彼自身のと云ふより、河原町に張りわたされてゐるあの根深い習慣のおかげだつた。
「これからどちらへ?」
「杉倉まで――」
「往診ですか」
 ふたたび相手の鞄にちらりと目をやりながら、練吉は半ば信じない風に訊いた。
「さうです、一寸」
 房一は微笑しながら答へた。彼はそのとき、今日が自分にとつてのはじめての往診だといふことを思ひ出した風だつた。その内心の悦ばしさは厚ぽつたい唇のはしに押へきれず浮び、いくらかはにかんだ風に見えた。このにかみの色は浅黒い饅頭のやうな房一の顔に現れたものだけに、何となく滑稽な感じだつた。
「や、さうですか。僕も今そこから帰るところです」
 と、思はず房一の微笑に釣りこまれて、練吉は気がるな笑顔になつた。いつのまにか、かた苦しい「わたし」から「僕」といふ云ひ方になつたのも気づかないで。
「それでは、又あらためて伺ひます」
「どうぞ」
「や、失礼、おさきに」
 練吉は軽く頭を下げながら、相手の房一がいきなり直立不動のやうに足をそろへたのを見た。
 彼は自転車[#「自転車」は底本では「自転者」]にのつた。走り出した。風が頬をかすめた。房一の紅黒い、生真面目な、醜い、厚ぽつたい顔が目の前にのこつてゐた。
「をかしな男だな」
 練吉はふつと思ひ出し笑ひをした。それは微笑と云ふよりは、気の好い、何だかすべつこい、いくらか相手を軽蔑したやうな表情だつた。
 房一は又重たげな恰好で坂路を登つて行つた。下を見ると、心持阿弥陀あみだに被つた練吉のソフト帽が、もう小さく桑畑の間を走つてゐるところだつた。彼は、練吉の気弱さうでもあり、又かんの強さうにも見える眉のあたりの色を、今ごろになつて急にはつきり思ひ出した。
 さうだ、あれは見覚えがある。練吉はちいさい時頭の大きな首の細い子供であつたが、房一は彼をかはらのまん中で追ひまはしたこともあるやうな気がする。それは広い磧で、あたりの静まつた、瀬の音だけが無暗みときはだつて聞える日中で、水流のきらめく縞や、日に温められた磧石からむつと立つて来る温気や、遠くの方の子供達の叫び声や、ふりまはしてゐる青い竹竿や、さあつと時々中空から下りて来るうす冷い微風や、彼等が走り、叫び、つまづき、又一所にかたまつて遠くの山襞やまひだにうすく匍ひ上る青い一条の煙(それは炭焼の煙だつた)に驚きの眼を見はつた、あの空白なすつきりした瞬間、――からみ合ひ、押へつけ、お互ひの腕と腕との筋肉が揉み合つて、下敷の子の涙の出さうになつた懸命な眼や、多勢に追ひつめられて溝をとび越さうとして思はず泥の中に足をつゝこんだりしたこと、敵方のはやし立てる明るい声や逃げて行く弱い子の背中にぴよんぴよん動く小さな帯の結び目や若葉のきらめき、河魚の手ざはりと匂ひ――それらの記憶が一瞬のうちに現在の房一の胸に生き生きとよみがへつて来た。それは遠くてつかまへられさうもなく、又すぐ傍にあるやうにも感じられた。

     四

 坂を上り切ると、路はしばらくごたごたした小山の裾を曲り曲りして、やがて房一の乗つた自転車が心持下り勾配こうばいのために次第に速力がついた頃、突然前方に平地が開けて来た。それは河原町から急坂の路を見上げたときに上方にこんな場所があらうとは想像もできなかつたほどの、明い、開濶な平地だつた。房一は一瞬、路をまちがへて全然見当ちがひの所へ出たやうな気がしたほどである。
 下方であんなに急峻に眺められた山地は、今この高台盆地の周囲を低いなだらかな松山や雑木山となつて縁どり、その稜線は一種特別に冴えて、空とすぐくつついてゐた。奥地の方にはるかな山並みが盛り上つてゐるほか、何も邪魔物がないことは、あたかもこの場所が地上にたゞ空とこゝだけしかないといふ感じを起させた。あたりは名状しがたい明さが満ちあふれてゐた。立木の一本一本、点在する人家の白壁や荒土の壁には、まるであたりの明るさを際立たせようとするかのやうにくつきりと濃い形がついて、それは遠くになるだけ鋭くはつきりしてゐるやうであつた。そして、ぢつと見てゐると、その黒い影は黄ばんだ山の斜面に少しづつ動いて喰ひこんでゆくやうに思はれた。
 それらのすべてを通じて何よりも房一の胸を強く打つたものはあたりに行きわたつてゐる静寂とそれを支へてゐる平和な気分であつた。それは見る人の心に微妙な落着きを与へそこに住みたいといふ気を起させ、更に、さう思ふだけですぐに自分の暮しの輪郭や断片などを魅力にみちたものとして想像させる、さういふ或る物だつた。現に、あまり空想家でもない房一の心に一瞬浮んだのはその気持だつた。
 気がつくと、ふしぎな位人影がちつとも見えなかつた。よく乾いた路がのんびりとした曲り工合を見せて前方を走つてゐた。部落のとつつきの石垣の突き出た農家の先を曲ると急に家並びが見えて来た。
 房一は昨夜の使ひの者から聞いてゐたので、目指す相沢の家はすぐ判つた。部落に入つて間もなく、路傍に空地があつて古い酒樽が二つ三つころがつてゐたり、恐らく雨時にできたのだらう荷馬車のわだちの跡が深くいくつも切れこんだまゝ固まつてゐた。空地の奥には下部を石垣で築いた大きい酒庫の壁が上方に四角な切窓を並べて立つてゐた。空地からは爪先上りの地面がそのまゝ酒庫の横から屋敷の中につゞいて、その突きあたりには大きな材木を使つた酒造家らしい店間口が見えた。住居すまひはそこから右手へかけての棟つゞきであるらしく、前面からは塀と樹木とのためによく見えないが、この地方特有の赤黒い釉薬うはぐすりをかけた屋根瓦のぎつしりした厚みがその上に覗いてゐた。
 不案内なまゝに漠然と店土間の方へ向けて中庭を入つて行つた房一は、右手の塀の内側に一頭の馬がつながれてゐるのを見て思はず足をとめた。一瞥した瞬間場所柄荷馬車馬でもゐるのかと思つたのだが、よく見ると、それは鮮かな染色の黄羅紗の掛布の上にぴかぴかする乗馬用の革鞍が置いてあり、おまけに鹿毛の首筋から両脚にかけて汗が黒くしみ出てゐるところを見ては馬はたつた今さつきまでかなり駆けさせられたものらしい、四脚は軽くひきしまり、下腹部が小気味よく切れ上つて、胸の深いところだけでも、この辺には珍しい良い馬であることが判つた。房一はすぐ、こんな片田舎で誰がかういふ馬を乗り廻してゐるのだらうかと思つた。陸軍の演習でもなければこんなものが民家につながれてゐることはなかつた。それとも物好きな旅行者でもあつたのだらうか。
 だが、その不審は間もなく答へられた。房一が来た用を忘れてしばらく見恍みとれてゐる間に、小柄な、鼠のやうに小粒な円い眼の、額の禿げ上つた男の顔が店土間からのぞいたかと思ふとすぐに下駄を突つかけて出て来た。房一が気づいた時には、その男はもう房一の真後まうしろに立つてゐた。黒い背広のお古にズボンだけは新しさの目立つカーキ色の乗馬用をはいて、赤銅縁の眼鏡をかけたその男は、
「やあ、おいでなさい。わたし、相沢です」
 と、その小柄な身体から出るとはとても思へない、幅のある、み声で云つた。
「どうも遅くなりまして――」
 答へながら、房一は少からず面喰つてゐた。声をかけられるその瞬間まで、彼は酒造家の相沢を何となくでつぷり肥つて、木綿縞のあはせの袖口から肉づきのいゝ手首をみ出させた、紺の前掛でもした男を想像してゐたのだつた。それが乗馬ズボンをはいて現れようとは――。
 ところが驚いたことにはこの男は、房一があらゆる初対面でやる鹿爪らしい挨拶の文句を今やはじめようとしたときに、いきなり前に立ちはだかるやうに、と云ふより、殆ど気づまりのするほど真正面に近々と顔をよせて、おまけに露骨に房一の顔を見入りながら、
「よく来て下さいましたな。何しろ不便なところですから、途中が大変だつたでせう」
 と云つた。
 それはまるで、よほど深く知り合つた間柄の、何年か見ずにゐた者同士だけがやるやうな並外れて馴れ馴れしい様子だつた。
 職業柄人見知りなんかはしてゐられないし、又さういふことにかけてはひそかに自信を持つてゐた房一も、少したぢたぢとなつた。そのはずみに、房一は路々考へて来た挨拶のきつかけを度忘れてしまつたほどである。
 殆どおたがひの鼻と鼻とがくつつきさうな位置のまゝ房一はいやでも相手の黒味がかつた眼玉と向き合はなければならなかつた。それはこつちを見てゐる間中、ちつとも目瞬またゝきをしないふしぎな眼玉だつた。その上、あんまりしつこく見られるので、嫌でも気づかずにはゐられなかつたのだが、その黒味は何だか鼠のそれを思はせるやうな薄濁りのしたぼやけた黒味で、そいつが墨のにじんだみたいに眼玉中にひろがつてゐるのである。房一は何かの本で、眼はその人の心を映す鏡だ、といふことを読んだことがある。別にそれを覚えてゐたわけではないが、その眼玉は一体何を考へてゐるのか判らないやうな気が房一にはした。
「お噂はうけたまはつてゐます」
 その時ふいに、相沢の濁み声が聞えて来た。唇はうごいたが、眼玉があんまりさつきのまゝだつたので、その声はどこかよその方から、相沢の人並以上にぴんと張つた耳のうしろあたりから響いて来たやうに思はれた。
「いや、どうも。恐縮です」
 突然だつたので、房一は思はずその醜い顔に紅味をうかべながら、軽く頭を下げた。その拍子にごく自然に眼玉と真向ひになる位置を外した房一は、さつきから気を引かれてゐた馬の方をちよいちよい眺めやつた。
「なんですよ、あんまり貴方あなたの評判がいゝもんですから、さういふ方ならぜひ一度自宅うちでも診ていたゞきたいと思ひましてね」
 どういふ加減からか、それを云ふ時、相沢はぐつと又相手の顔をのぞきこんだ。それは何となくもつたい振つた、重々しい様子だつた。
「はあ、どうも」
 もう一度軽く頭を下げながら、それまで馬を眺めてゐた房一はふりかへつて相沢を一瞥した。彼は何故だか判らぬながらに、相沢の話振りから一種不快な響きを聞き分けてゐた。
 いつもはその不器用な容貌の蔭に眠つてゐる不敵さ、だが何か圧迫を加へられると忽ち跳ね起きて来る反撥する房一の気質は、同時に圧迫しようとかゝるものを嗅ぎつける点でも敏感であつた。その敏感さで房一は相沢が一方では彼をめ上げながら逸早く往診を求めたのはその恩恵と好意によるものだと知らせたがつてゐるのを見抜いた。こんなことになると、房一はふだんよりなほばうとした眠たげな眼つきになる。その目でちらりと相沢を眺めたのである。動物達の間でよく起る出会つた瞬間に相手の方を見究めようとする、あの本能的なすばやい判断力の点では、房一は生れつき得手だつたが、困苦の暮しの間にそれはなほ鋭く力あるものとして育つた。理性といふよりはむしろ動物的なこの嗅ぎつける力のお蔭で、今房一はたゞ鼠のやうな眼をした小柄な男を見ただけであつた。それで十分であつた。房一は前より落ちついて相沢を気にかけなくなつた。
「御病人はどちらで?」
 房一はふと自分に返つて訊いた。
「あ、さうでしたな。一つ診ていたゞきませう」
 相沢は釣られて思ひ出したやうに愛想よく答へたが、その歩き出した足は家の方へではなく、馬の方に近づいて行くといきなり親しげに平手で軽く馬の首を叩いた。驚いたやうに二三度首を振つた馬は、すぐ目をつむつて、快げにその光沢のある首を伸ばしぢつと愛撫をうけた。相沢はふりかへつて房一を得意さうに眺めた。彼はさつきから、房一がこの馬に気をとられてゐるのを、そして馬を見るときの房一の目が一種の特別な光りを帯びてゐるのに気がついてゐたので、どうしてもかういふ光景を演じて見せたいといふ子供染みた欲望を押へることができなかつたのである。
 これでは房一も後もどりしないではゐられない。馬は今片耳を後に立て、時々それを動かせてゐた。それは見てゐるだけでも美しい生き物だつた。房一にはしなやかなだが強い張りのある首が疾駆の時にどんなに強く前傾し、どんなに直線的になるか、どんなに風を切り、どんなに躍動するか、まざまざと目に浮ぶやうであつた。
「これはあなたがお乗りになるので――?」
「さうです、さうです。さつきも少し遠乗りをやりましてね。帰つて来たばかりなんです。どうしてもこの辺は馬ででもないと、用達しが不便でしてね。町へもこれで出かけます」
 相沢は満足さうに馬の首を叩きつゞけてゐた。房一は思はず微笑した。彼にはこの時の相沢がひどく愛嬌あるものとも見えたからである。けれども、房一自身の顔にさつきから現れてゐるものも、ちやうど子供が好きな物を前にしたときに見せるあの熱心さと同じ表情だつた。
 注意深い読者はすでにお気づきだつたらうが、この二人の人物の間で若しどちらか相手の御機嫌をとらねばならない立場にあるとすれば、それはさしづめ房一である筈なのにどうも反対に相沢がさうであるやうに見える。彼が馬の所へ歩みよつたのも、房一の気に入りさうなことへ先潜りして行つたところがないでもない。ちよいちよい顔を出すをかしな傲慢さの他に、相沢には何か理由があつてのことか、それとも誰との場合にも相手に取入らうとする性癖があるのか、それはまだ吾々には不分明であるが、相沢が若し房一の気に入らうとつとめてゐるとすれば、それは第一歩に於いて稍成功したと見るべきである。

 病人は十七になる相沢の一人息子で、県庁のある市の中学寄宿生だつたが、軽い肋膜炎でかなり前から家でぶらぶらしてゐるといふことは、昨夜来た使ひの者から聞いてゐた。
 間もなく相沢に案内されて、房一は病室へ通つた。外で見るよりはよほど広い家と見えて、廊下を何度か曲つた末に暗い突きあたりの襖が相沢の手で開かれて、房一がそこに踏みこんだとき、庭の向ふに立つ白壁の方から反射する逆光線の中で、かなりに広い部屋のまん中には床が敷きつ放しにされ、その上にごろ寝したまゝ雑誌を読んでゐた息子の市造が、足音で気づいたのだらう、半ば起きかけて、入つて来る者をぢつと眺めてゐるのを見た。
 市造は医者だと知つてすぐに起きなほつた。そして、房一が折鞄の中からまだ真新しい聴診器をとり出すのをたゞ無意味に眺めてゐた。誰に似たのか、市造は恐しく輪郭の整つた顔立ちだつた。あまりきつちりしてゐるのでどこか寸がつまつて見え、硬い大人の面をかぶつた子供といふちぐはぐな感じにも見えた。たゞ、眼だけは紛れもない父親ゆづりの黒味のひろがつたあれだつた。
 病症は大体察してゐた通りの単純な乾性肋膜炎であつた。熱の工合を見ても進行性ではないし、他の部分にも異状はなかつた。だが、房一は念入りに診察した。この病気は念入りに診察するだけで患者にとつてもはたの者にとつても少なからぬ気休めになるものだといふことを承知してゐたからである。そして、今まで医者にかゝらずにゐたわけはない筈だから、多分大石練吉に診てもらつてゐたにちがひないが、いつ診ても目立つて変化のないこの病気は医者にとつてもかなり退屈なものだし、あの練吉が終ひにはいゝ加減で切上げるやうになつて、患者側の不興を招いたとも想像された。だが房一はそんなことには一切触れなかつた。彼はたゞ綿密に診察を終へ、二三の注意を与へ、更に一週間に一回の割で今後も往診に出向くことを約した。多少意外に感じたのは、一人息子がこの種の病気になつた場合の大抵の父親は、ひどく神経質になつて病状を根掘り葉掘り訊くものだが、相沢は房一が説明する以上のことは知らうともしないことであつた、だが、発病以来すでに幾人もの医者にかゝつたのは明かで、誰が診ても同じやうな症状を聞かされて、今では慣れつこになつてゐるのだらう、と思はれた。
 診察がすむと、房一は別の客座敷へ案内された。そこには、床柱の前にお寺さんに出すやうな厚ぽつたい綸子りんずの座蒲団だの、虎斑とらふの桑材で出来た煙草盆などが用意されてあつた。都会地では一時間もかゝらないやうな往診が、この田舎では小半日もつぶされてしまふ、そのくどいもてなしの習慣を知り抜いてゐる房一は、無下むげにも断りかねてそのまゝ坐ると、間もなく和服に着換へた相沢が現れ、その後から銚子を持つた夫人が入つて来た。
 このあいと云ふ名の夫人は一度房一にお酌をすると、すぐ呑み乾されるのを待つやうに銚子を両手で抱へて持つてゐた。その様子は、何となく一方を向いたらそれしかできないやうな或る単純な性質を現してゐた。容貌から云つても、彼女は主人の相沢とは正反対であつた。肩が張り、腕も太く、顔も四角だつた。だが、そのごつごつした外形を蔽ふ何かしら間の抜けた感じが彼女の印象を一種親しみ易いものにしてゐた。はじめ、房一が玄関を入つたときもさうだつたが、今も彼女は一言も口を利かなかつた。その代りにすこぶる叮重なお辞儀をしただけである。
 房一は酒が不得手だつた。ところが、相沢も家業に似合はず呑めない口と見えて、二人の間には手もつけないまゝで生温くなつた銚子が二三本も置かれてゐた。こゝでも房一はもう会ふ人ごとに聞かれてうんざりしてゐる医者となるまでの経歴を、相沢の問ひに答へてぽつりぽつり話さねばならなかつた。
「あれですな、さういふお話をうかゞふと、貴方ほどの努力家は東京に残つて研究をつゞけられた方がよかつたかもしれませんな。よく又、こんな田舎に帰る気になりましたね」
「まあ、生れ故郷ですから」
「私もこれで元は法律書生でしてね。司法官か弁護士試験でも受けるつもりで、神田の私立大学に通つてゐたもんです」
「はあ、それは――」
「先代がぽつくり死にましてね。おかげでこんな所へ引つこむやうになつてしまつたんですが」
「それは惜しかつたですな。私などとちがつて学資の心配はなかつたでせうし」
「いや、それが――」
 と、相沢は口ごもつた。
「別に惜しいほどのことではありませんよ」つづけて、ふいに調子を変へると、
「時に、お宅は鍵屋の分家の後ださうですな。あすこは大分前から空家になつてゐたと聞いてゐましたが」
「さうなんです。ちやうどいゝ案配でした」
「分家の当主は今は、若い人の代で、たしか喜作といふ筈ですが、あれも随分永いこと県外に出てゐるさうですな」
「さうです。農林学校の先生だとかをしてゐられると聞きましたが」
「もう河原町へは当分帰る気はないんですかね。貴方にお貸したところをみると」
「さあ、くはしいことは判りませんね」
「すると、何ですか、十年契約といふやうなことにでもなすつたんですか」
「いや、そこまで確かなことにはしませんでしたが」
「はあ、なるほど」
 この時ふと、房一は、何故こんなに相沢が立入つて訊くのか、といふ疑ひを持つた。だが知り合ふとすぐまるで親類か何かのやうに世話を焼きたがる河原町の人達の癖は、房一も家の造作のときにも、その後にも一再ならず見て知つてゐた。
 間もなく房一は別れを告げ、庭前で又馬の前に立つて二三の話をし、相沢の家を立去つて行つた。相沢のやうな家を患家に持つことは、十軒もの小患家を得たに匹敵すると、ひそかに満足しながら。そして、今日のもてなし方から考へると、医者として十分好意を与へたにちがひない、といふことにも満足しながら。

   第二章

     一

 河原町の部落がそれに沿つて長く伸びてゐるあの川は、この附近では単に吉川と呼ばれてゐるが、町の少し上手では二つの支流を合したものとなつてゐるので、それにも各々ちがつた名がついてゐたが、こゝから更に下流になると、はるか下手の河口にある町の名をとつて吉賀川となるのである。
 大した川でもないのにこんな風に所々でいろんな名があるのは、もとより必要があつて生じたのであらうが、一面に於てはそれぞれの水域に住む人達の生活がどんなに川と密接に結びついてゐるものかを語り、同時に、吾々が自分の子供に思ひ思ひの愛称をつけるやうに、それぞれの呼び方の中に彼等の川に対する愛情を示してゐると考へられる。で若し誰か川好きな男、たとへば徳次などに向つてこの川をつまらぬとでも云はうものなら大変である。
「水はこんなにきれいでたつぷりしてゐるだらう。鯉だつて鮒だつて、なまずも、ハヤも、うなぎ、アカハラ、それに鮎は名物だらう。こんなに沢山魚のゐる河が他にありますかい」
 その通り、近くに似たやうな河はいくつもあつたが、それは鮒がたくさんとれると思ふと鮎がさつぱり駄目だし、うす濁りがしてゐるし、ずつと先の木ノ川は河幅こそ広く水もたつぷりしてゐるがあんまり大きすぎてよほど上流まで行かないと鮎をとる手立てがない、してみるとやはり、この吉賀川は彼等の口にするごとく「名うて」の川にちがひなかつた。
 徳次は河船頭であつた。明け方早く、一帯に白い朝靄の立ちこめた川面のどこか一点にぽつんとした黒い点が現れ、しだいに大きく人の形であることが認められるやうになると、それがまるで宙に浮いたやうに思ひもよらぬ高さで突立つてゐるのを見た人は、不審に感じながらぢつと眼をこらすだらう。間もなく、積荷で盛上つた黒い船体が見えて来ると、その上に足を踏ん張つて仁王立ちになり、太い棹をいくらか斜に構へ持つた徳次が、河原町の路上をふらついてゐる時の、いくらか赤鼻の、きよろりとした顔とはまるで人がちがつて見えるほど、きつとした引きしまつた面持で、睨みつけるやうに前方に目を配つてゐるのを認めるだらう。水に隠れてゐる円つこい岩がある、さうかと思ふと、流れの加減で船がそつちに寄るといふよりは、先方からすつと近づいて来るかと見えるやうな、鼻先だけちよつぴり水面に出した、だが頑固な岩がある。こいつらを、徳次はあの長い棹で突張り退けるのだ。徳次はもうこんな岩の在りかもその性質もすつかりのみこんでゐる。だが、水量が減つたり増えたりするにつれて、この岩どもは気心のしれない女よりもなほ厄介な代物になる。おまけに、広い川の中でも本流は時々気まゝに路を変へるのだ。そいつに乗つてゐないかぎりはいつまでたつても河口へ着きはしない。
 だが、急な流れを乗り切ると、ちよいと前方の水面を見ただけで、当分御無事だな、とすぐに見抜いてしまふ。そこで、徳次はへさきにどつかりと腰を下し、普通とは反対に前にとりつけた舵棒を握るのだ。どぶ、どぶ、どんぶり、ど、といふ風に水が船縁ふなべりをたゝく。それに合せて、徳次は力を抜いてゆつくりと舵を動かす。いゝ気持になつてゐると、やがて、水は「もうお前さんを楽にさせるのはごめんだ」といふみたいに、急にとろんとして、のろ臭く、浮いた藁ゴミを御叮寧にゆつくりゆつくりと廻して遊んだりする。徳次は今度はともにもどる。そこで、櫓を下してぎいつぎいつと漕ぎはじめる。
 こんな風にして、徳次は河原町に集つた荷を船に積んで、河口の吉賀まで運んで行くのである。だが、さかのぼるのは十倍も厄介だつた。空荷なのがせめてものことで、手伝ひの船頭を二人はどうしても雇ひ入れなくてはならない。一人を舟にのこして、後の二人は肩に綱をかけて岸に沿つて曳き上るのである。下りが四時間たらずで行けるところを、まる一日、水でも増えると朝早く出て夜に入ることがある位だ。これが徳次の父親の、その又前の祖父の代からの家業だつた。足場の悪かつた昔なら、これでもれつきとした、又実入りも悪くない商売だつたにちがひない。だが、国道ができてからは荷馬車といふやつがごろごろ大きい音をたてて通るし、おまけに鉄道が西と東と両方から伸びて来て、もう少しでこの附近もすつかりくつついてしまひさうだつたから、先の心細い商売になつてゐた。
 徳次がまだ若僧で父親の手伝ひをしてゐた時分には、帰るとすぐ夜通し積荷をして、明け方又下る、といふことも珍しくはなかつたが、今では荷出が一週間に一度あるかないかである。だから、三四軒あつた同業もすつかり足を洗つて、徳次が一人のこつてゐるわけだが、彼は目先の利く他の連中のやうに先の心配なんかはちつともしなかつた。荷がない時には筏師になつた。流木を筏に組んで下るあれである。それもない時には河漁をやつた。
 もともと彼は先きの目あてがあつて河船頭になつたのではない。親父がさうで、お前もやれ、と云はれながら、うんと答へたまでである。いや、ろくに返事をしないでなつた。それは徳次にしてみれば、朝になればお陽様が東に出るのと同じ位にあたり前のことだつた。だが、実を云ふと、徳次は生れ落ちるとからと云つていゝほど徹頭徹尾「河育ち」だつたのである。彼は、どの淵にはどんな魚の巣があるかも知つてゐた。魚の通る路も、その休憩場所も知つてゐた。鮎の寝床も知つてゐて、夜河で岩から岩へつたひながら、手づかみする位は造作もないことだつた。夏場になると朝から日暮方まで川につききりなので、大抵の子供も町を中心にして一里位の川の様子はすつかりのみこんでゐたが、徳次は早くから親父の船頭を手伝つてゐたお蔭で、河口まで七八里の間のそれこそ川底まで知りつくしてゐた。そんな風だから、先の見込があらうとなからうと、彼は河から離れる気はなかつたのである。さういふことを考へる才覚もなかつた。したがつて貧乏だつた。子供はたくさんゐた。彼の妻は河より他に稼ぎ場所を知らない夫の代りに、手ごろの畑地を借り受けて百姓仕事を働いた。だが、河から上つてゐるときの徳次は、金があつてもなくても破れ畳の上に悠然とあぐらをかいて、垢だらけの子供を肩にしがみつかせたり足にからませたりしながら酒を飲んだ。
 酔つぱらふと家にぢつとしてゐられない性分だ。ひる間だらうと、夜ふけ近からうと、ふらりと表に出かける。たまに、子供が、
「おとうちやん、どこへ行くの」
 と後を追ふと、徳次は
「うん、寄りがあるからな、あんたはうちに帰つとんなさい」
 と、ふしぎに叮寧な言葉使ひになりながら、鼻汁と埃とがごつちやになつて真黒になつた子供の方にしやがみこんで、家の方へ向きを変へてやる。
 それから、ゆらりと歩き出すのだ。どこへと云ふことはない。足の向く方へ、と云ふよりは身体の揺れる方へ歩いて行く。背は恐しく高かつた。それに、両腕と肩から胸にかけては著しい筋肉の発達を示してゐた。その美事な身体にもかゝはらず、全体としての印象には、貧しい境涯に生ひ育つた者に特有な、一眼で相手を信じこむやうな単純さと同時に、絶えず自分の居場所を気に病んでゐるやうな臆病さが雑居して感じられた。酔ふと、それが極端に目立つて来る。つまり、誰彼となく話しかけたくて仕様がなくなるし、同時に、相手に莫迦ばかにされてゐるやうな気がして仕方がないのである。いきほひ、彼は思ひもよらない時に傲然となつたり、いどみかゝるやうに人前に立ちはだかつたりする。その癖を知つてゐても、大抵の人は面倒がつて避けるやうになる。すると、徳次は寂しくなつて、どこまでもふらついて行くのである。時には小料理屋の土間に入りこんで又一杯やる。通りすがりの時計店にふらつと入る。それから床屋に寄る。
「やあ、今晩は」
 威勢よくやつて、相手にされると腰を落ちつけて、人の好さがまる出しになつて、大声で喋りまくる。と云つても、彼自身には何の話の種もないので、多くは人の相槌を打つたり、今他人から聞いた通りのことを彼の声音で何か別の話のやうに見せながら話すだけなのである。

 冬近い冴えた日ざしが午過ひるすぎの河原町の長い、だが人気のない通り一杯に溢れてゐた。一体みんな何をしてゐるんだらう、まさか軒並みに夜逃げしたわけでもあるまいのに、とつぶやきたくなるほど人の子一人ゐなかつた。そして、冴えてゐるがしだいにくもりの増して来る日は、何だかのうのうと、つまり誰もゐないので日そのものが路一杯にひろがつて日向ひなたぼつこをしてゐるみたいであつた。
 その時、ふいに或る戸口から一人のひよろ長い男が、一度敷居につまづいてそのはずみで飛び出した工合に、明い路上に出て来た。帯がほどけてる、と見えたが、さうではなかつた。あんまり着物の前がはだかつて、したがつて腰から後裾にかけて長く引きずつたやうになつてゐたせゐだらう。
 彼は眩しさうに眼をしかめた。それから、酔つて居なくても同じやうにふらりとした足つきで河の方へつゞく露地の間へ入らうとした。そのとき、何を思つたか足をとめて、路上に突立つたまゝ上手の方を眺めた。
 今さつきまで誰もゐなかつた通りの、ずつと先きの方から黒い人影が歩いて来るのである。袴をはいて小さな風呂敷包か何かを抱へてゐる、そのやはり背高な、直立したまま急ぎ足に歩く恰好はまぎれもない町役場の書記の今泉だつた。
 徳次と今泉とはふだん滅多に顔を合はさなかつた。と云ふのは、徳次は河商売で、今泉は彼がいつも口にするやうに「役所」づとめだつたからである。今泉は二軒置いた隣りに住んでゐた。徳次の家は汚かつたが自分の家だつた。今泉のは借家で、ぐつと小さい家だつたが、小綺麗に住んでゐた。徳次は何となくそれが気に入らなかつた。その上、今泉のいつも剃り立てみたいに青々した四角な顎だの、鋏でつまみ立てたやうな鼻髭だのを一分とは永く見てゐられなかつた。何だか胸がむづむづして来るのである。だから、たまに行き会ふと、徳次は
「あん」
 と、敬遠するとも小莫迦にするとも見える頭の下げ方をして、さつさと行つてしまふのであつた。
 だが、今日は徳次の方でめづらしく今泉の近づいて来るのを待つてゐた。といふのは、今泉の方でも遠くから徳次を見つけるや否や、声にこそ出さなかつたが、何か話すことがありさうな様子で、急ぎ足になつたからである。
 今泉は元陸軍の下士官であつた。退役後彼は河原町に帰つて役場につとめた。生れは河原町の在で、そこに帰れば自作農程度の田地があつたが、どういふものか野良仕事がすつかり嫌ひになつてゐた、彼は聯隊か、師団司令部の表札がいつまでも好きだつた。彼の話の中には聯隊長だとか師団長だとかがよく出て来た。又、自分の下士官時代の上長官の名をよく覚えてゐて、時々異動の発表されるごとに新聞紙を丹念に読み、「ほう、少将進級か」とか、「ふむ、アメリカ大使館附か」とか、しばしば感嘆の声を洩すのであつた。
 かういふことになると、彼の話振りには一種の無邪気さが現れて釆る。
「えゝ、さうですとも、あれはものですよ。あの師団長は第一答礼の仕方からしてちがひまさあ。かういふ風にね、ゆつくりかう腕を上げてね(と、彼は身振りをして見せる)。めつたに口を利きませんでしたよ。口を利かなくても答礼の仕方がものを云ふんですよ。やあ御苦労だつた、なんて中隊長みたいな軽いことは云ひませんよ。睨まれやうものなら恐いの何んのつて、いやほんとに身体がぶるつとふるへましたよ」
 彼は実際に身体を顫はせて見せた。彼の眼にはいつも肩章や、きらきらする指揮刀がまばゆく輝いて見え、むんむんする隊列の汗と靴革の匂ひ、町中を行進するときや、町外れの木蔭で見物人にとりまかれて兵卒に演習の想定を説明するときや、それらの晴れがましい空気の思ひ出が、今は日焼けがとれて生白くなつてはゐるが、眉の強い、眼の切れ目な、短い鼻髭の生えてゐる彼の稍冷い顔を生き生きとさせるのだつた。恐らく下士官頃の上長に対する習慣からか、彼は今でも無意識のうちに自分を引上げてくれる上長を求めてゐるもののやうであつた。河原町でも、彼は鍵屋の神原文太郎氏のところや大石医院などへよく出入した。徳次が今泉を何となく気に入らないのも、多分さういふことも預つてゐるのだらう。
「今日はえらい早いお帰りだね」
 と、徳次は足を踏ん張つたまゝ今泉に云ひかけた。こんなに彼の方から話しかけるなんてことは滅多になかつたので、よほど虫のゐどころがよかつたのだらうが、それでもいつものあの愚弄するやうな色は争はれなかつた。
「うむ」
 今泉は一寸いやな顔になりかけたが、
「今日は士曜日で、半休だからね」
 それは、やつぱり何となく「役所」臭かつた。
「ふうん。気楽な身分だね」
 徳次はすつかり感心したとも、又その反対ともとれる云ひ方だつた。
「フム」
 今泉はかすかに鼻のあたりを不満げにふくらませた。
 だが、急に機嫌をとり直した。そして、徳次が彼の口から聞くことでどんな表情になるかを期待しながら、ゆつくり相手の顔を見て云つた。
「さつき着いたばかりの新聞で見たんだがね、――堀内将軍がいよいよ凱旋されるさうだ」
 徳次は新聞なんかはとつてゐなかつた。ところが、町のずつと上手にある町役場では、すぐ近くのバスの発着所からいの一番に配達されるし、又県庁からの示達があるので、いろんな特種とくだねが入つた。今泉は早耳好きだつた。それに堀内将軍は聯隊長時代に今泉の上長だつた。その年の夏青島攻略がはじまつて、新聞に堀内将軍の記事が出て以来、今泉は何度河原町でこの「信水閣下」のことを話したものだらう。彼は夢中になつてゐた。その情熱のおかげで、今泉は町中の人が彼と同じ位に「信水閣下」を知つてゐるやうにさへ思ひこんでゐたのである。だから、新聞で凱旋の記事を見たとき、今泉はもうどんなにしてもそのことを知るかぎりの人に、誰でもいゝ、しらせたくてたまらなかつたのだ。
 ところが、徳次はぽかんとした表情を浮かべたきりだつた。
「ホリウチ?」
「うん。青島陥落の、ほら、旅団長閣下だよ」
「あゝ、さうか。ふうん」
 やつと、徳次は感心した。青島陥落はついこなひだのことで、その時は徳次も提灯ちやうちん行列に出たのである。
 今泉は調子づいた。
「神尾司令官閣下と同列なんだよ。宇品から東京駅着。それから直ちに参内上奏されたんだよ。どうも、すばらしいね。目に見えるやうだね」
 今泉の読んだのは予定記事だつた。だが、早のみこみと、簡単な熱中家が造作もなくつくり上げる本当らしさ、それによつてなほ熱中するといふあの癖とによつて、彼はそれをすでにあつたことのやうに話しこんだ。若し、他にまだ話したくてたまらないことがなかつたら、この報告はもつとくはしく、もつと飛躍しただらう。
「それからね」
 と、今泉は一寸声をひそめた。
「捕虜が内地へ送られるさうだよ」
「ホリョ?」
「うん、ドイツ兵の捕虜だ」
「へーえ」
 今度は、徳次も完全にびつくりしてしまつた。彼のきよろりとした眼には、どこか少し先きで火事があると聞いた時のやうに、何だか落ちつかない、興昧ありげな色が浮んでゐた。
「それで、何かね。ドイツ兵は徒歩てくで通るんかね」
 徳次はさきほど今泉が姿を現したずつと先の稍持上つて見える路面の白い輝きの方を、今にもドイツ兵達がぞろぞろ群をなして出て来るかのやうに眺め、それから熱心に今泉の眼の中をのぞきこんだ。
「え、何だつて、徒歩てくで通るかつて?」
 今泉は面喰つてこれも徳次の眼の中をのぞきこんだ。二人の間には恐しく判りにくいものが突然はさまつたやうに思はれた。
 徳次はしばらく考へてゐた。
「それとも、あれかね。やつぱり日露戦争のときみたいに、船で吉賀の先の浜へ上つてそれからやつて来るんかね」
「あ、ちがふ、ちがふ。さういふんぢやないんだよ。この辺へ来るわけぢやないよ。船は船だらうが、四国の松山といふ所へ収容所ができるらしいんだな。そこへ運ばれるんだ。――こんな所を通るわけぢやないよ」
 今泉にはやつと徳次の考へてゐることが判つたので、熱心に説明した。
「さうかよ。おれは又、河原町を通るんだとばつかり思つた」
 徳次はきまり悪げに、しかし、又あのきよろりとした眼つきにかへりながら云つた。
 対島つしま沖で日露海戦が行はれ、敗残艦の一部が日本海沿岸のこの地方の沖合までのがれて来て沈没したのは十年ほど前のことである。乗員は白旗を掲げてボートに分乗し、沿岸の砂浜に着いた。その前、海戦の最中には海岸附近の人家の障子が断続的にとゞろく砲声で鈍く不気味に響きつゞけた。もとより海戦が行はれてゐると知るわけもないので、たゞ漠然と不安だつたが、その気分の抜け切らないうちに、たとへ白旗を掲げてゐるとは云へ突然現れたロシア兵達の姿に、海岸の住民は一時かなりびつくりしたものである。間もなく近くの兵営から軍隊が駆けつけて、それ等の投降兵を吉賀町附近の寺院に一時的に収容した。彼等がそこにゐる間、附近の人達は毎日弁当持ちに草鞋わらぢばきで押すな押すなで見物に出掛けた。その当時、徳次は二十前の若者だつた。
 彼は今泉からドイツ兵の捕虜と聞いたとき、かつて若い単純な頭にはげしい印象をきつけられた、ロシア兵達の驚くべき腕の長さ、のろい大まかな身振り、何とも解しがたい瞬時に大きく開かれたり又縮まつたりする碧い眼や唇の動き、――それらは今徳次の目の前に突然鮮明な記憶をよび起したのである。
 だが、それがこの土地には縁がなく、遠い四国のことだと知ると同時に、彼の興味は消えてしまつた。彼は又、「あん」と小莫迦にした風に頭を下げて、わきへ行つてしまひかねない時の徳次にもどつてゐた。そして、今泉も話すべきことはもう話してしまつた。彼は次の聴手を探す必要がある。
 で、この二人の間に交されたとんちんかんな立話は終りを告げた。

     二

 低地になつた野菜畑の間を抜けて、まるでどこかの城跡の石垣めいた、頑丈な円石を積み重ねた堤防の上に次第上りに出ると、いきなり目の前に、日を受けて白く輝き、小山のやうに持上り、凹み、或る所では優しげになだらかな線を引いた、だゝつ広い河原の拡がりが現れて来る。
 そこへ降りた時から徳次はもう帯をほどきはじめて、肩にかけただけの衣物を着茣蓙きござのやうにはたつかせながら、誰憚ることもなしに大股で歩いた。日にぬくめられた石ころからは、生暖い、乾いた空気が立ち上つて、足から胸へつたはつて行き、それから思ひがけないときに頬のあたりにぱつと快く触つた。前方には河水のきらめきがあつた。その向ふには草に蔽れた崖地があり、そのやゝ高味を路が走つてゐた。そこは滅多に人が通らないところである。たゞ日に一二回、徳次にとつては商売仇である荷馬車の列が、ゆるい、だるい車の音をたてながら、馬は眠たげに首を前に垂れながら、そして挽子ひきこは手綱をどこへ抱へこんだのかと思はせるやうに腕組みをしながら、その崖上の路を地勢に沿つてひよいと見えなくなつたり、又現れたりしながら通つて行くのである。たまに自転車が通つた。それは音がしない。それから何の行商人か、箱を背負つて、紺の脚絆をはいた足をかはりばんこに前に出して歩くのを、こつちから見ると、何てまあ面倒くさいことをして歩くんだらう、あんな風にして一体どこまで行く気なんだらう、と思はせたりした。それも、わざわざ気をつけてでもゐないかぎりは耳にも入らないし、目にも入つて来ない。在るものはただ、ゆるい野放図な空気、どんなに踏んぞりかへつても喚いても、たゞすつぽりと包んでくれ、身軽るにさせてくれる空気だけだつた。

 徳次は水際につないである船の所に行き着く前にもうふんどしとシャツ一枚の半裸体になつてゐた。衣類をくるくると円めて、帯でひつくゝるなり、ぽんと手前にはふり出して、いきなりざぶざぶと河の中に入つて行つた。船体を蔽つてあつた帆布をめくりとる、敷板を上げる、ロープを片づける、その後は船体の水洗ひだ。
 河原町の評判では、徳次は怠け者といふことになつてゐた。恐らくそれは、河から上つた徳次が水をはなれた河童のやうになすところを知らぬげなぽかんとした様子に起因してゐたのだらう。彼は怠け者ではない。彼にはきつと、自分の気に向いた仕事にだけ熱中する子供染みた無邪気さが他の人よりはよけいに残つてゐたのだ。その証拠には、河に下り立つてからの彼の動作には、別人のやうにきびきびした手順のよさと云つた風なものがあり、間もなくわき目もふらずに働きはじめたのを見ても判る。冬近い時候なのに、額には汗が流れてゐた。彼は時間のたつのを忘れてゐた。
 船体を洗ひ終つて、これから雑具にかゝらうとしたときだつた。彼はふと対岸に目をやつた。物音がしたわけでもなければ、気配を感じたのでもない。しかるに、そこの路の曲り角には、まるで符合したやうにその時きらきら光る真新しい自転車に乗つた男が現れたところだつた。
 それは背広姿に、遠目にもはつきりと判る緑色のソフトをかぶつた男であつた。
 この路をそんな恰好で通るのは近くにある営林区署の役人か発電所の技手ぐらゐのものだつた。だが、そのいづれでもないことは、段々近づくにつれて目につくあまり見かけない猪首のやうな肩つきと、自転車のハンドルにしがみついたやうに見えるその円まつちい体躯、それらの印象の与へるひどく不器用な乗り方などによつて、すぐと知ることができた。
 ところが、何の気なしにいつものきよろんとした目つきでその方を眺めてゐた徳次の顔には、その時不意打を喰つたやうな表情が浮かんだ。彼は緊張して眺め、さつと顔を紅らめ、りきんだやうになり、それから急に下こゞみになつて水洗ひの仕事にかゝつたが、明かに上の空だつた。彼は始終落ちつきなく対岸の路を眺めやつた。そしてやはり、紅らんだり力んだりした。
 間もなく彼は、こゝからよりもあの路からの方が、河原で一人で働いてゐる自分をはるかに見つけ易いことに気づいた。瞬間彼は、この広い河原に自分の隠れこむ場所はないかと探すかのやうに、きよろきよろあたりを見まはした。だが、自転車の男は崖上の路に気をとられてゐるのか、まだこちらに気がつかないやうだつた。徳次は下向きになつた。見まいとした。けれども、何かしら気になつて、顔を紐か何かでは向きにひつぱられるやうであつた。
 その次にふり向いたとき、はたせるかな、殆ど目の前の対岸から、はつきりと彼の方を向き、ためらひながら何か云ひたげにしてゐるやうな相手の顔を見た。それは徳次の幼友達であり、彼の兄貴株でもあれば大将株でもあつた、そして今は彼なんかには傍へもよりつけないやうに感じられるあの「医師高間房一氏」であつた。
 徳次は年下だつたせゐもあるが、子供の頃やはり泥まみれになつたり、着物の裾を水浸しにしたりして、房一の行く所にはいつもついて行つたものだ。彼は房一の悪戯いたづらの共謀者でもあれば手下でもあつた。彼の単純な胸の中には、いまだにその頃の房一に対する尊敬の念が残つてゐるのである。房一が「医師高間房一氏」になつて河原町に帰つて来たとき、子供の頃の房一の記憶を一番大切にしてゐて、それをつい昨日のことのやうに憶ひ出してゐたのは恐らくこの男だけだつたらう。それにもかゝはらず、房一は世間的な仕事に気をとられてゐて、彼のことを失念してゐた。徳次は甚だ心外であつた。だが、その臆病さのために自分から房一の前に姿を現すやうなことはしなかつた。彼はその不満を汚い家の中で垢だらけの子供達を肩につかまらせたまゝ、自分の妻に話して聞かせた。それだけだつた。他の人の前ではちつとも洩らしはしなかつた。若し口に出せば、大声をあげて町中を走り、房一の家に荒ばれこみたくなるにちがひない、と自分でも思つてゐた。それほど彼の心外さは深かつたのである。
 だが、今、房一は向ふから彼を認め、挨拶しようとしてゐるのだつた。徳次は瞬間眼をそむけたが、又慌ててふり向いた。そして、その時川向ふでは房一が急いで自転車から降り立ち、口に手をあてて呼ぶのを見た。瀬音のために何だかよく聞えなかつた。だが、その姿は紛れもない房一、今までもう身分がちがふのだから仕方がないと半ばあきらめながら半ば怒りを感じてゐた一方、どこかに忘れられず残つてゐた幼友達の温味、――まさにそれだつた。
 徳次は身体中からこみ上げて来るよろこばしさのためにさうなつたかの如く、思ひ切り伸び上るやうにして答へた。だが、それも向ふにはよく聞きとれなかつたらしい。房一は川向ふで手をふつた。下手の方を指さした。徳次には判らなかつた。房一は又自転車にのつた。
 徳次は房一がそれなり立去つて行つたものとばかり思ひこんだ。だからおれは知らん振りをしたかつたんだ、こつちでやきもきしても先方では毛ほども思つてやしないんだ。ちよつと頭を下げる、今日は、はい左様なら、だ。畜生め。――と、徳次は相手がちよつと自転車から降りただけでもうすつかり忘れてしまふところだつたこれまでの心外さをもう一度よび戻さうとつとめながら、口惜しさうに、半ばは呆然として房一の行つた方を眺めてゐた。
 すると、何てこつた、下手の渡船場の対岸にひよつこり房一の姿が現れた。河原に出ようとするらしく、自転車を厄介さうにわきに抱へて、崖縁についた急な小路をのろのろと危つかしい恰好で降りて来る。やつと判つた。今の今まで、徳次はそこに渡船場があるといふことを度忘れしてゐたのだつた。
 その時にはもう手にした洗ひ道具をはふり出して、河原の縁をその方に向けて一散に走つて行く徳次の姿が見られた。両岸の間に太い針金が張りわたらせてあつて、船に乗つた人は綱を手繰りながら渡る仕掛になつてゐる。ちやうど、船はこちら側にあつた。徳次が向ふ岸まで船を手繰たぐり寄せて行つた頃には、房一はやつとこさ河原に降り立つて、近づく徳次に向つて親しみ深い微笑を浮かべてゐた。その微笑は彼特有の円々としたどつか厚みのあるものだつた。房一の傍には白と茶との斑犬がついてゐた。
 徳次も笑顔になつてゐた。だが、それは甚だ不器用なもので、絶えず紅らんだり力んだりしながら、眩しげに房一を見たかと思ふと、又当惑したやうな顔になるのであつた。
「やあ」
 と、房一が声をかけた。
 徳次は答へることができないで、又あの不器用な笑顔をつくつた。それから、船がごとんと岸に突きあたるはずみに、房一の前にとび降りると、突拍子な調子で
「どうしなさつた」
 と、云つた。彼は殆ど房一の前に立ちはだかつた恰好だつたが、もぢもぢして、何だか自分を小さく感じてゐた。房一と目を合せると、すぐに外らせて、急にぐつたりとした様子になりながら、
「誰かと思つたら――」
 口ごもつて、
「やつぱり、あんただつた」
 そして、少し横手に身をひきながら、しげしげと房一を眺めた。感慨無量、と云つたていであつた。
 房一も口少なに、親しげに徳次を見まもつてゐた。子供の時とちつとも変りのない、きよろんとした大きな落ちつきのない眼、気短かさうな筋の立つた前額、うまく口のきけない、話すたびに何かにひつかゝつたやうな動きをする口もと、――それらは何もかも昔のまゝだつた。いや、それらの顔形は部分的には子供時分のものとはかなりにちがつてゐた。だが、目に入る顔形のそれぞれは、悉く何かしら思ひ出をよび起すものであり、それによつて顔形の奥の方に在るもの、かんしやく持ちで、へうきんで、人の好い徳次といふ子供を、その魂といつたやうなものを、ありありと浮び出させるのだつた。馴染深い、気の許せる、ふしぎな心の温味。
 これは房一が河原町に帰つて以来、はじめて感じたものだつた。すでに、路上から徳次の姿を見つけたとき、房一はこの男をすつかり忘れてゐたのを後悔してゐた。
「つい今日まで挨拶にも行かずじまひになつてね、どうも済まなかつた」
 すると、徳次はびつくりしたやうな眼で房一を見やつた。
「いゝえ、なんの。おれんとこへなんか。――あんたは忙しい身だもの」
 答へながら、彼は紅くなつてゐた。
 ほんとにさうだ、忙しい身分なんだ、どうしてそこに気がつかなかつたらう、――と、徳次は瞬間本気にさう考へ、自分のはしたなさをくやんでゐた。
「どこの帰りかね」
 やゝあつて徳次が訊いた。
「いや、これから往診に行くところだ」
「ほう、往診かね」
 徳次は、その云ひ慣れない「往診」といふ言葉を口の中で物をころがすときのやうに珍しげに云つて見た。何か特別な響きがあつた。その時、急に彼は房一が医者だといふことを思ひ出してゐた。
 あのぴかぴか鋭い光を放つメスを危険もなく取扱ひ、聴診器をあてがひ、胸だの腹だのを指でたゝき、雲をつかむやうな厄介な重苦しい病気といふものを探りあて、ピンセットでつまみ出し、ふしぎな光沢のある粉末を与へ、すると激しい痛苦がたちまち遠のき、一日か二日でぴんぴんしてしまふ、その玄妙と神秘にみちた医者といふものの働き、――徳次はかつてそんなことを考へたことはなかつた。今までの彼にとつては、医者は呼べば来てくれる者、病気を癒してくれる者、単にそれだけだつた。それ以上のことが何で必要があつたらう。ところが今や、その縁のない漠然としてゐた「お医者」が突然彼の身近かに姿を現したのだ。それは何となく不思議なことだつた。同時に親しいものだつた。これまで彼が立入ることもできないと思つてゐたもの、理解しがたいものとしてゐた物が、今目の前に手で触ることもでき、その縁に手をかけて中をのぞいてみることもできさうだつた。この身びいきからして突然ひき起された克明な興味を以て、彼は房一を、その中に在る医者といふものを熱心に眺めた。
 二人は今船で流れの上を渡つてゐた。綱を手繰たぐる徳次のわきには房一が自転車のハンドルをつかまへて立つてゐた。全体に銀白色の金属でつくられたこの自転車はいかにも新しげだつた。それさへ、徳次の目には医療器具か何かのやうに特別な機械に見えた。
「さうかね、梨地へ行くんなら、やつぱりこゝを渡つた方が近道だ。井出下の渡しはもうないからね」
「ほう、いつから」
「一昨年の水で流れちやつたからそのまゝになつてるね――ずつと下にはあるが、さあ、そこへ廻ると半路はんみち以上ちがふかな」
 徳次は自分のことのやうに熱心に路順を考へた。
「水神淵を知つとんなさるだらう」
 徳次は急に目くばせをした。
「さう、知つてる、知つてる」
 房一はにやりとした。水神淵と云へばこゝらで一番のギギウの棲家だつた。彼等はよく出かけたものだつた。岩の上に腹ばひになつて巣の前に糸を垂らす。すると、水底では今針から落したばかりの奴が懲りもせずに餌に食ひつく、水気で腹の下の岩は生暖いが背中は日でぢりぢりして来る。急に水にとびこんで身体を冷やす、それから又足を逆さに今にも落ちこみさうな恰好で岩の上に腹ばひになる。――
「梨地から水神淵へ降りる路ができたからね、そこへ出れば、帰りはずつと楽だ」
「や、ありがたう」
 二人は岸に着いた。
「ジョン、降りろ」
 と、房一はそれまで彼のわきにおとなしく坐りこんでゐた犬に声をかけた。川を渡る間中、落ちつかない様子で、普通に地面に坐るのとはちがふ感じにぺつたり船底に腰をつけて時々中空に鼻を上げて、何かの匂を嗅いでゐた犬は、房一が自転車を持ち上げるのと同時に、足の下からさつと河原にとび降りて、そこら中を駆けまはつた。
「まだ、まだ」
 房一は、犬を制した。ところが感ちがひしたジョンは堤防の方へ大急ぎで走つて行つたが、房一と徳次の二人がそのまゝ河原にしやがみこんだのを見ると、又一目散に戻つて来、まはりの草の中を嗅いで見、二人を眺め、一向に動きさうもないと知ると、石ころの上に腹を着けて長い舌を出した。が、急に尻尾を振つた。二人が彼の方を向いたからである。
「あんたの犬かね」
「さうだ」
 徳次は何かしら話に困つてゐた。で、彼は真面目な熱心な目つきで犬を眺めた。ところが、この犬まで普通のものとはちがふやうに思はれた。それは確かに「医者の犬」だつた。短い白毛の生えそろつた地はちつとも汚れてゐなかつた、茶斑の所は艶があつて上等の織物の模様みたいであつた。そして、全体に清潔でゆつたりしてゐた。
 が、徳次は話したいことが一杯あつた。彼には女の子ばかりが四人もあつた。一人ゐる男の子はまだ赤ん坊だつた。それらは全くうようよと、徳次の知らない間に生れて来たやうな気がした。家の中をひずりまはり、土間にころげ落ち彼の足にとりつき、彼を「お父ちやん」と呼んだり、「お父う」と罵つたりする。彼は子供を可愛がつてゐるのかうるさがつてゐるのか、自分でも判らなかつた。彼にはあらゆることが矍鑠くわくしやくとした老船頭だつた父親がいつの間にか耄碌もうろくしてよろよろ歩くやうになつたこと、一番上の姉娘が或る時ひどい熱を出してから頭が変になつていまだに「八文」であること、何の気なしに押した無尽の請判で百円といふ大金を支払はされるのだと聞いて小半年の間世話人のところに文句をぢこんで手こずらせたこと、それらすべてのことが徳次には一体どういふわけで起きたのかさつぱり判らなかつた。それは漠然とした年月だつた。たゞ何かしらこみ入つて、一杯つまつて、過ぎてしまへば片つぱしから一向に手答へのないものになる年月だつた。それをどんな風に話したらいゝものだらう。
 徳次は房一から聞かれるまゝに子供の数を答へたり、それから又思ひついて水神淵へ出る近路のことを念入りに教へたりした。無我夢中に近い気持だつた。だが、その間にも彼はあの眩しげな目つきで、時々房一を眺めた。するうち彼には、自分にとつてはたゞ漠然と雲をつかむやうにしか思へない「年月」が房一の中にはつきり現れてゐるのを感じた。それは医師高間房一だつた。この何かしら驚くべき変化の中には、徳次すら一役買つてゐるやうに思はれた。
 むかしからおれとこの人とは仲よしだつた――それは押しかくすことのできない悦ばしさだつた。
 思はず時間がたつてしまつた。房一は腰を上げた。前脚の上に顎をのせて長々と寝そべつてゐた犬は急に起き上つて身ぶるひした。徳次は、房一の往診の時間を大分遅らせたのにやつと気づいた。
「すまんでしたな、長話をして」
「いや、そのうち又ゆつくり話さう」
 さう云ふ房一の前に立つて、徳次は子供が手いたづらをするのとそつくりな様子で傍にひよろ長く生えてゐた草を片手でむしりとり、口にくはへた。さつきはじめて傍へ近よつたときのやうに、彼の顔は又紅らみどこか力んでゐる表情を浮かべながら、口のあたりをもごもごさせた。
 房一は向ふへ行きかけた。徳次はさつきから云はうとしてまだ云ひ出せずにゐることがあつた。それに何と呼びかけていゝかも判らない。房一の姿は段々遠のく。突然、徳次は散々思ひ屈した後に出るあの大胆さで大声に叫んだ。
「先生!」
 それは初めて口に出す言葉だつた。
 房一はふりかへつた。
「今晩、寄せてもらつてもえゝですか」
 房一は目顔で笑ひながら何度もうなづいた。やつと安心したやうに、徳次はしばらく見送つてゐた後で、大股に自分の船の所へもどつて行つた。

     三

 川沿ひから分れた路は段々になつた切株だらけの乾田に沿つて、次第上りに、両側はゆるやかな山合ひに切れこんでゐた。
 房一は自転車を降りて押しながら歩いた。しばらく行くと貯水池が見えて来た。あたりは松林で、その抜き立つた幹の間から水面が光つてゐた。向ふ側は半ば葉を落した雑木山だつた。いたる所が透いて、あかるく、からりとした空気の中を時々つんと強い山の匂ひがした。
「ジョン、そら! ウシ!」
 房一は叫んだ。犬は房一の顔を見上げ、二三間走り、後がへりをし、それから急に葉の落ちた灌木の中にとびこんで行つた。がさがさやつて、ずつと先の路に出た。きよとんとし、時々匂ひを嗅いだ。
「ウシ! ウシ!」
 又走り出して、草の中に鼻を突つこんだ。が、今度はすぐもどつて来た。房一は緊張した表情をつくつて、その背をつかんでぐつと押した。
 犬は横へとびこんだ。だが、匂も嗅がず、草の中から頭を出して、房一の方をしきりと眺めながら同じ方向に歩いてゐる。
「はゝ、知つてゐるな。よし、よし何もゐやしない」
 だが、やつぱり戻らないで、しきりとこつちを見ながら行く。
「ふむ。悧巧者だな、お前は」
 房一は満足げに、かへつて来た犬の頭をかるくたゝいた。
 このポインタアの雑種は、房一の往診にはどこへでもついて来た。いゝ路づれだつた。

「なあ、ジョン!」
 と、房一はひとり言を云つた。
 彼はもう少しで最も善い友人に向ふやうに考へごとを打ち明けるところだつた。
「おれはまだ一本立ちの医者といふわけにはいかない」
 さう声に出してみた。そして犬の方をふりかへつた。犬は彼の方を信頼にみちた眼で見上げ、しなやかな尾を振つた。
「さうだよ、ジョン」
 それから、房一は歩きながら漠然とした沈思に落ちた。
 ――彼は医者である。免状もある。開業もした。患者もどうにかつきはじめた。職業的には立派に医者としての条件を具へつゝある。だが、河原町ではそんなことは通用しないのだ。何か別のものが、職業上の条件以上のものがここでは必要だつた。
 患者の脈を見たり、舌を出させたり、背部を指で押し、打診し、薬を与へたりすること、そんなことは誰にだつて出来る。それからあの、開業医にはぜひとも必要だと云はれてゐる社交的な才能、お世辞を云つたり、砕けた気の置けない態度で抜かりなく会ふ人ごとの心をつかむ――「ふん」と、房一は独言のときに自然と目の前につくり上げるもう一人の自分に向つて冷笑してみせた。
「そんなこと位は造作もない。おれにとつては小指の先の芸当だ」
 もつと別なものが、医者以上の或る者が必要だつた。房一は全身でそれを感じてゐた。たとへ彼が自分を高く持してゐたところで、河原町の人は彼を高間道平の息子としてより以上にはあまり見てゐないことは、房一にはよく判つてゐた。彼には免状もあるし、開業するのを誰もとめ立てすることはできなかつた。それだけの話だつた。それは町の人達がこれまで抱いて来た「お医者」の観念とはまるきり別だつた。だから、彼等はいまだに房一が往診鞄などを提げて歩いてゐるのにぶつかると、何となく半信半疑な面持を、時には曖昧なうすら笑ひを浮べたりする。
 今それを思ひ浮べたとき、房一はふいに一種の怒気を感じた。それはましさのないはげしい敵意、何かしらぐつと相手を地面まで押しつぶしてしまひたいほどの、腹の底からこみ上げて来る得体のしれない力だつた。
 犬が何を見つけたのか、その時さつと身を躍らして傍の草地にとびこんだ。二三度そこらをぐるぐると廻ると、鼻の先に真新しい土をくつつけてまた房一の傍にもどつて来た。
 前には俄かに急になつた路面がいつのまにかせばまつて来た山合ひにぐつととつついてゐるのが見えた。房一はうつすらと汗ばんでゐた。だが、彼の見たものは路や山肌ではなかつた。彼の前面には何かしら温気うんきのあるもやに包まれたやうな、不確かな、だが一歩ごとに物の形の明かになつて来る、汗ばみながらその方へ突進したい気を起させる、あの漠とした未知の世界があつた。

 高間医院では房一の帰りが遅いので盛子が一人で気を揉んでゐた。ほかでもない、房一はその日の夕方から鍵屋の法要ほふえうに案内を受けてゐたのである。
 これは珍しいことだつた。鍵屋は房一の借家主の本家筋にあたつてゐたから、その関係を考慮して招いたのであらうが、房一はまだ河原町に古くからつゞいてゐる家と家との関係から成り立ついはゆるつき合ひの範囲には入れられないで来たのである。鍵屋は河原町では一二の旧家だつた。したがつて、そこの法要へよばれることは、房一にとつては開業以来はじめて表立つた世間へ医者として顔出しすることを意味してゐた。恐らく、これをきつかけにして、房一はこれから先き河原町の世間に徐々に容れられることになるのだらう。それも、開業してから三ヶ月近くになる今日やうやく来たものだつた。そして、開業だの診察だのといふことよりも、今夜が河原町で医者として踏み出す第一歩だといふことを房一は見抜いてゐた。
 盛子は房一からさういふことを聞かされてゐたので、往診に出掛ける時には彼女の方から念を押したほどだつた。房一は四時までには帰ると答へた。だが、もう五時過ぎだつた。そして、日が落ちてからの空気は、まるでわざと盛子の気を落ちつかせまいとするかのやうにどんどん暗くなり、冷えて行つた。
 広い家の中では盛子一人だつた。もうとつくに羽織袴も居間に出して置いたし、履物も足袋も揃へた。帰りさへすればすぐにも出かけられるのだ。だが、足音も聞えはしない。盛子はさつきから何度も玄関に出てみたり、それから裏口から外の小路に出て河原の方をすかし見たりした。
 房一が法事に行くので夕食の支度も別にいらなかつた。手持無沙汰のまゝ、盛子はぼんやり居間の縁側に腰を下して庭先を眺めた。前には築地塀がほの黒く横切つてゐた。そして葉の落ちた無花果いちじくの木がその奇怪にこみ入つた枝をまだ明みの多少残つてゐる中空に張つてゐた。静かだつた。そして、何もすることがなかつた。右手の方には、つけ放しのまゝになつてゐる台所の電燈が戸口から斜めに、風呂場へ通じる三和土たたきの上に一種きは立つた明さで流れてゐた。そこだけが不思議と生き生きして見えた。そして、その明りは突きあたりの風呂場のすゝけた壁にうすぼんやりと反映し、その横手の納屋の軒先を浮かばせ、他はたゞ暗い外気の中にぼやけ遠のいてゐた。
 ふいに冷気が盛子の咽喉もとから胸の中へしみこんだ。その時、夢の中でよくつかめないながらも何か急にひらめき過ぎる考へのやうに、これが結婚といふものか、これが仕合せといふものか、といふ思ひがどこからともなくやつて来た。しかもそれは考へた瞬間にさつと身をひるがへして去り、だが印象だけは強くのこる、あの微妙な閃きだつた。
 今までつてそんなことを考へたことはなかつた。いや、今の瞬間だつて考へたとは云へまい。たゞ、それは閃いて、捉へにくい影を落して通り去つただけだつた。――盛子は退職官吏の切りつめた地味な家庭で、ありきたりの厳しい、だが単純なしつけを受けて従順に育つた。娘の頃に、一体どんな形の結婚が自分を待つてゐるのか考へないではなかつたが、それはいつも漠然としたとりとめもないもので、又それ以上に空想するほどの材料は何一つなかつたと云つてもよい。したがつて彼女の頭に浮ぶ結婚生活はをかしい位に家事向きのことで一杯になつてゐた。お裁縫だの、洗ひ張りだの、糠味噌の塩加減、野菜の煮方、その他ましたことが彼女の空想を刺戟した。
 そして、事実その通りだつた。盛子にはさういふ才能があつたのだ。房一と結婚して今の家に世帯を持つや否や、彼女の綺麗好きと器用さはすぐさま形を現した。入つた許りの時にはかび臭く古ぼけてゐたこのだゝつ広い家が、ひと月かふた月たつうちに廊下も柱も戸棚もすべて拭きこまれるべき所はまるで見ちがへるほどぴかぴかして来た。はじめは家具が少いためにがらんとして見えた部屋々々もどことなくまとまりを感じさせるやうになつた。今でも、盛子は朝から晩まで何かしら細ま細ました用事を見つけ出しては働いてゐた。まるで彼女の行つた所、指で触れた所から片づけたりつくろつたりする仕事がぴよこりぴよこり起き上つて来るやうに見えた。押入れを開ける、すると襖紙の小さな破れが目についた。そいつをすぐに切り貼りする。台所の土間に降りると、床下から薬品を詰めて来た空箱がいくつも縄切れをはみ出させたまゝ押しこんであつたのに気づく。風呂の焚口たきぐちの所に行くと、造作に使つた木材の余りがそのまゝになつてゐるのを思ひ出して焚きつけの分と燃料用の太いのとを撰り分けて置くと云つた案配である。
 こんな風でありながら、盛子は小ざつぱりと身ぎれいで、いつの間にそんな雑用を片づけるのかと思はれるほどだつた。いくらか背高ではあつたが、その身体つきにはふしぎな柔味が感じられた。それは娘の頃のまとまりのない柔さではなく、成熟したしなやかな柔味だつた。彼女自身はさういふ結婚後の肉体上の変化に気づかなかつたが、それは無意識のうちに感じてゐる房一との結婚生活の幸福さを意味するものだつた。

 足が冷えて来たので、風呂の火でも見ようと立ち上つた時だつた、裏口の戸がゆつくりと外から開いた。
「あ、お帰んなさい」
 と、盛子は声をかけて、その方へ向いて近づきながら、だが、そこに房一とは違ふ男の顔がうす暗がりの中で何だかためらひ気味に、中へ入りもしないで口をもごもごさせて突立つてゐるのを見た。が、その顔は急に突拍子もない大きな声を出した。
「先生お帰りになりましたかね」
 見たことのない顔だつた。患者なら玄関から来る筈だ。
「えゝ、まだですが――何か御用?」
 張りのある、いくらか甘えやかな、跳ね上るやうな盛子の声を、その男はいかにも耳珍しげに一つ一つとつくりと聴いてゐるやうな様子でゐたが、そして台所からさす電燈の明みの中に立つた盛子をまじまじと眺めながら、その遠慮深い調子の中に急に溢れるやうな親しみを浮べた。それは何だかこの男が幼い時分の盛子をよく世話してくれて、何十年かたち、今ふたゝび盛子を前にして昔を思ひ出した、とでも云つた様子だつた。
「あゝ、高間さんの奥さん。――さうですね」
 今頃になつて、男はさう訊き、盛子がそれに答へる前に、ひとりでうなづいてゐた。
 若しもこの時誰かが、この男、徳次に向つて君はこの奥さんの幼い時に抱いたり負んぶしたりしたことがあるのかねとからかひ半分に訊いたら、彼は本気になつて考へこみ、何かしらそんなことがあつたやうに思ひ出し、信じこんだかもしれない。何しろ彼は房一とあんなに親しかつたのだ。盛子はその房一の奥さんだつた。してみれば、やはり古い以前から知つてゐるも同然ではないだらうか。抱きかゝへてあやしたこと位あるかもしれない。
 が、一方盛子もまさに自分の幼時を知つてゐると云ふ見知らぬ人から声をかけられた時のやうに、目をぱちくりさせ、好意のまじつた当惑と云つたものを感じてゐた。
「わたしやア――」
 と、徳次は叮寧にならうとして一種奇妙な言葉づかひになりながら、
「さつき、河原で、先生に会つたんでさあ。――往診に出かけなさる途中でね」
 徳次はこの往診といふ言葉がさきほど河原で房一の口から聞いた時に突然耳新しく身近かに響いたのを思ひ出しながら、それを口にするのを楽しむやうにつけ加へた。
「――へえ、まだお帰りぢやないのかね」
「さうなんですよ。まあだ帰らないの」
 盛子は急に思ひ出して不服さうな声を出した。だが、それは房一に向つて甘えながら不服を云つてゐるやうな調子を含んでゐた。
「もうこんなに暗くなつてゐるのにね、何してるんでせう」
 と、彼女は半ば問ふやうに、まじまじと徳次の顔を眺めた。彼はいつの間にか戸口から少し家の中へ入りこんでゐた。だが、その奇妙な遠慮深さのために片手で入口の柱をつかまへたまゝ、あたかもまだ家の中へはすつかり入り切つてはゐませんや、と云つてゐるやうな恰好をしてゐた。その時盛子は男が今一方の手で平つたい笊を抱へてゐるのに気づいた。その中には笹の葉のやうなものがのせられ、下では魚の腹らしいものが光つて見えた。
 間もなく房一が帰つて来たらしい。
「おい」と盛子を呼ぶ声がした。
「おい、早く早く」
「早く早くつたつて、もうお支度はちやんとできてますわ。あなたが遅くかへつて来といて――」
「何でもいゝから早くしてくれ。路をまちがへて大廻りしちやつたんだ」
 実際盛子をせき立てることは何もなかつた。房一は上着だのズボンだのを脱ぎながら一人で慌ててゐた。何かしら騒ぎだつた。ネクタイがうまくとけなかつた。カラアが外れにくかつた。靴下から足が抜けなかつた。これらの物を畳の上にまき散らかせ、足にひつかけしながら、房一はそこらを高麗鼠こまねずみのやうにぐるぐる舞ひをした。それは図体が大きく不器用なだけに恐しく滑稽だつた。盛子は笑ひながら房一について歩き、その腕からワイシャツを巧みにはぎとり、散らかつた物を手早く始末した。
「袴はそこですよ。足袋を先きにはくのよ」
「うん、うん。あ、さうだ、顔を一寸洗はなくちや」
 上下のシャツだけといふ奇妙な恰好で房一が台所に降りかけた時、はじめて彼はそこに誰か立つてゐるのに気づいた。
 黒い影はぴよこりとお辞儀をした。それから台所から射す光りの中に全身を現すと、それを眩しがつてゐるとも照れたとも見える表情を浮べながら近づいた。
「やあ、君か」
 徳次は口のあたりをもごもごさせた。
「これから又お出掛けかね」
「さうだ、鍵屋の法事へ行くんでね。さつきは、君にさう云ふのを忘れてゐたが――まあ、上りたまへ」
 徳次は房一が顔を洗ふ間傍に立つて眺めてゐた。それからふいに訊いた。
「あんたは鮒をたべなさるかね」
「鮒?――それあ喰べるとも」
 徳次は笊を差出した。
「あれから――あんたに鮒をとつて上げようと思つて、今さつきまで淵に附いとつたんだが、たつたこれつぽちきり獲れなくてね。上げるといふほどの物ぢやないけんど――」
 それは一尺近い美事な鮒だつた。だが、三匹きりなかつた。いかにも少いと徳次は路々思つて来た。さう思ふと、この鮒が本当よりもずつとちつぽけにさへ見えて来たのである。
「ありがたう。――あ、大きいね」
 笹の葉の下から現れたのは頭から尾まで黒々と廻り、全体に円味がつき、所々の鱗が金色に光つてゐた。
「大きいやつだねえ」
 と、房一はもう一度感心した。
「大きいかね」
「大きいとも、こんなのを見たのは久し振りだ」
 徳次はやつと安心した。さう云はれてみると、なるほどちつとは大きいかなと思つた。持つて来た甲斐があるといふものだつた。

     四

「千光寺さんに使ひをやつたのかい。――誰もまだ行かないつて? ――何あんて間抜けだのう。庄どん、お前一つ行つて来とくれ。提灯ちやうちんを忘れるなよ。もう皆さんがお集りですからお迎へに上りました、つて云ふんだよ。うん、うん、さうよ。いつしよにお伴をしておいで」
 鍵屋の隠居神原直造は老来なほ矍鑠と云つた様子だつた。
 彼はもう三時間も前から紋附羽織に袴といふ恰好で、八畳と十畳とを合せた広さの上り店の間に控へてゐた。彼の坐つてゐる場所は大きなけやきの塗り柱の前で、そこには以前古風な帳場格子がどつしりと据ゑられ、当主の文太郎に家督を譲るまでの何十年間をこゝに坐り通し、帳つけをし、入つて来る人達の挨拶を受けたものだつた。文太郎の代になつて酒造をやめてしまつた後も、しばらくは帳場格子も元のまゝ据ゑられてゐたが、いつの間にかそれもどこかへ片づけられ、以前はこれでも狭すぎる位だつたこの二間ぶち抜きの店の間は年来畳の広さを見せたきり何の役にも立たない風だつた。それはまさしく一種の死だつた。
 が、今夜は入口の大戸が開け放たれ、土間には打水がされ、まぶしいほどの電気で照し出され、絶えず出入りする人の気配と、土間づたひの台所の方から流れて来る何かの匂ひや湯気でぬくもつた空気のために、この広い店の間は何年か振りに息をふき返したやうであつた。店の間の突きあたりには美しい紅味を帯びた褐色の塗りのかゝつた造りつけの戸棚が四間の長さにわたつてどつしりと立つてゐた。それはこの何もない単調な部屋に一層重厚な装飾的効果を見せてゐたが、その上には更に鍵屋の定紋である下り藤のついた四角な箱がずらりと天井近くを横に並んでゐた。それは恐らく提灯をしまつてあるのだらうが、木箱の上に厚い和紙張りを施され、その白地に黒々と染め抜かれた大きな紋はこれ又ふしぎに冴え冴えとした色調を以て浮び上つてゐた。ふだんは日中でもほの暗く、したがつて一様にうすい埃を被つて沈んでゐるこれらの物が、今やいつせいに生き返つたやうに見えた。
 そして、これと全く同じ活気が、あの燃え残りの蝋燭の発する佗びしい、だが、ゆらめくやうな活気が今夜の法事で主人役をつとめてゐる神原直造にもあつた。
 彼は年に似合はず厚く生えた白髪まじりの頭を短か目に刈り上げ、多少猫背になりながら袴の両脇から手を差しこみ、心持肱を張つて坐つてゐた。それは何々翁肖像といふ掛軸を思はせるやうな古風な律義さと端正さを現はしてゐた。
「さやうで御座りますか。お忙しいところを御苦労さまで」
 さびのある低い声で入つて来る客に叮重に挨拶しながら、その度に手を袴の下から出して奥の間へ誘つた。この「さやうで御座ります」といふのが直造の口癖だつた。しかも、その言葉を口にするごとに、彼の痩身なだが骨太な身体は慇懃いんぎんに前こゞみになつた。それはこの身動きと言葉とがぴつたりとくつつき、いやそれ以上に全く同一物と化したやうな趣があつた。
 徳川末期に生れ、慶応、明治、大正と社会的な大変動の中を生きて来ながら、直造の生涯は世の多くの庶民と同じにその根底は単純きはまるものだつた。なるほど、今は白い曇りのできかゝつた直造の眼は多くのことを見て来た。長州の藩兵が疾風のやうに天領を席捲し東に通過した時には、土蔵に封印をし、大戸を下して一家中が山の上に逃げた。つゞく御一新はもとより、憲法発布も、日清日露の戦役も、更に今欧洲では大戦も始つてゐた。日本は青島を攻略した。だが、すべてこれらの出来事に対しても、直造達は別に広汎な知識も予見も持ち合せてゐなかつた。たゞ、彼等は見た、そして大きな流れにしたがつて生きた。それだけだつた。それは人為のごとくして実はおほきな自然だつた。或る時は曇り、或る時は晴れ、やがて突風が――そして稲は実り、刈られ、――あらゆる天変地異が、あの逆まく濁流が橋を流し堤を崩し、人家をその中に浮き沈みさせ、又木はぎ倒され、作物は根こそぎにされ、――だが、それはやがて過ぎて行く。過ぎ去ると共にすべてはけだるい一様な調子の中にのみこまれ、遠のき、今日はじまる事もやがては又同じく過ぎ去るであらうと確信させるに至る、あの永い月日といふものの不可思議、その中に野や山と同じに自然につかりと地面に立つて現れる物がある。それは「家」だつた。あの黒光りのする欅の柱、去年も一昨年も同じ所に造られた燕の巣。所々が剥げ落ち、雨で黒い汚点しみができ、又上塗りをされた白壁。あのかすかな弛みを見せながらなほ未だに堂々とした線を中空に張りわたしてゐるこけのついた屋根。――この家が直造の安心を支へて来たのである。
 家督を継いだ文太郎が間もなく酒造業をやめた時に、直造は少からず不満だつた。文太郎は種々の理由から説得した。が、最大の理由は法学士だつた文太郎が帳付よりも地方政治に興味を持つてゐたことにあるらしい。果して、文太郎の濫費のために一時は不動産の大半が銀行担保に入つたことがある。直造は不機嫌だつた。しかし、欧洲大戦が始つて以来の好景気が鍵屋の財政を持ち直しはじめてゐた。
 今その文太郎が県会の視察旅行に出てゐたので、法事の主人役は直造に廻つたのである。だが、文太郎はかういふ町内づき合をあまり好んでゐなかつたから、たとへ在宅だつたにしても、直造は主人役を買つて出たであらう。
「さあ、どうぞ。ずつとお通り下さい」
 あまり立てつゞけに挨拶したので、くたびれ、いくらか器械的にだが形だけは実直に頭を下げた直造は、稍かすんだ眼で今迎へたばかりの客を見た。
 それは直造が案内状を出す間際になつて心づき、入念に考へたあげくに呼ぶことにした高間房一だつた。
 読経どきやうはまだ始まらなかつた。
 三間つゞきの奥座敷では蝋燭だの燈芯の明りで照し出された仏壇を前に、来客達が思ひ思ひの所にかたまつて坐つてゐた。
「さうですよ、あんた。銅の値が上つたさうですね、昨日も九州の方から礦山師が赤山を見に来たんです。あの山ぢあね、随分家屋敷をなくした者があるんですがね」
 恐らくその一かたまりでは赤山廃坑の話がさつきから賑かだつたのだらう。さう勢ひこむやうな調子で喋つてゐたのは富田といふ仲買だつた。
「あの山に田地を注ぎこんで裸になつたのは三人、わしも知つとる」
 傍にゐたあから顔の老人が低い声で云つた。
「三人どころぢやない、五人も十人もある」
 富田はすぐ又自分の方に話をひきとつた。
「それあ、もう、掘つても掘つても屑みたいなものしか出ないつて云ふんだがね。まあ、天領の時分に良いところはそつくり掘り上げてしまつたんだらうね。その山をまだ見所があるつて云ふんだから、あてになるやうなならんやうな話だあね」
「君は昨日その九州から来た連中を赤山へ案内して行つたちふぢやないか」
 横合から冷かすやうに口を入れたのは雑貨店の庄谷だつた。痩せた上に黒く日焼けがし、固く乾いたやうな顔には小さいが白味の多い眼がいつも人を小莫迦こばかにするやうに閃いてゐた。彼はさつきもその眼で入つて来たばかりの房一を見、房一が挨拶すると「あン」といふやうな声を出しただけで、すぐに話に聞き入つてゐたのだつた。
「いやネ、誰か赤山のことにくわしい者はゐないかつてんで、わたしの所へ来たのですね。まあ、案内するにはしたが、あの連中と来たら地の底でも見えるやうなことを云ふんで呆れたところですよ」
「何だらう、山師をおだてて又一儲けしようてんだらう」
 わきから又誰かが冷かした。
「とんでもない、わたしの持山ぢやあるまいし、こつちは間で口を利いても礦山のことは素人しろうとだし、向ふは専門家でさあね。そんな煽てにのるやうな連中ぢやないよ」
 富田の仲買は表向きの商売ではなかつた。彼には小造りではあつたが格子戸の入つたしもたや風な家もあるし、山林や田地も人並みには持つてゐた。だが、それも地主として納るほどではない。用があつてもなくても、何となく用ありげな顔で方々に現れては話しこむ。そして、他愛のない噂話や雑談の中から自分の儲け口を見つけるのに妙を得てゐた。彼はあらゆることに、例へばどの田は段あたり何斗米がとれるかも知つてゐたし、河原町近在の山もどこからどこまでが何某の所有であるかも、時にはあらかたの立木の数ものみこんでゐたし、或る家では地所を拡げるために境界の石をこつそり一尺ほど外に置き換へたのだといふたぐいにいたるまで通暁してゐた。おまけに口達者だつた。したがつて多少煩さがられながらも、用のある時にはたしかに重宝な人物にちがひなかつた。恐らく彼自身もそのことはわきまへてゐたのだらう。何となく小莫迦にされながらも、今日ではどこの家へも自由に出入りできる特権のやうなものを自然とち得てゐた。同時にそれは一種鹿爪らしい表情となつて現れてゐた。
「何かの、いつたいあの山を掘つても引合ふのかな」
「さあね、そいつは今のところ何とも判らんでせうな。何しろこの前に手をつけたのは十年前だつたでせうかね、その時の礦石のかけらも残つちやゐませんよ」
「坑には入つてみたんかね。あすこはもう何年も入つた人がないちふことだが」
「入りましたよ。それがねえ、穴の中は苔が生えたやうな、水たまりもあつてね、やつとこさ奥まで行つてみたんだが、まはりの土はぼろぼろ落ちるし、何のことはない洞穴でさあね、――それでも連中はあつちこつち突ついてみてたがね、含有量はまあもつと試掘してみなけりや判らんさうですよ」
 その「含有量」といふ言葉は富田が昨日聞き覚えたばかりのものだつた。
「や、皆さんどうも遅くなりまして――」
 この時さう云ひながら座に入つて来た者があつた。それは今泉だつた。
 坐りなり、あたりを見まはした。眉の強い、眼の切れ目な、短いつまみ立てたやうな鼻髭を生やした今泉の稍冷い顔つきは、それだけで云ふなら確かに整つた立派な顔だつた。苦味走にがみばしつて男らしかつた。たゞ何か大切なものが欠けてゐた。彼は身近かに、皆からやゝはなれて手持無沙汰にぽつねんと坐つてゐる房一を見つけた。
「や、これは。高間さんですか。お久しぶりで」――「お忙しいですか」
「いや別に忙しいこともありませんですよ」
 房一はその黒い顔に微笑をうかべながら今泉を見た。
「はあ、はあ」
 急いであたりさはりのない返事をすると、今泉はもう隣りの人の方を向いて挨拶をした。
 向ふの方には別の一かたまりがあつて、その中には堂本もゐた。彼はさつきからそこに坐つたまゝ一言も口をきかないで、誰かが挨拶する度に慌てたやうにお辞儀を返してゐた。その隣りには大石練吉が近眼鏡の下で眼をぱちぱちさせながら、今夜もその色白な頬に上気したやうな紅味を浮かべて坐つてゐた。彼は坐つたまゝ絶えず首を伸して部屋中を眺めまはしてゐた。入つて来る人を彼は誰よりも先きに見つけた。そして、簡単にひよいと頭を下げてうなづいて見せてゐた。
 房一が入つて来るのを見たとき、練吉の顔には意外だといふ表情が浮かんだ。彼は房一の眼を迎へようとして一層高く頭を持上げたが、房一は気づかなかつたので、やがて、練吉はわざわざ座を立つて近づいて来た。
「や、先日はどうも――」
 練吉は房一の腕にさはつて、囁くやうに云つた。近眼鏡の下から切れの長い練吉の眼が一種こつそりした親密な表情をのぞかせてゐた。突嗟とつさに房一はその囁くやうな調子や眼つきから、練吉が何のことを云つてゐるのかを了解した。
「いや、どうも」
 房一は微笑した。――つい半月ほど前、房一には初めてだつたが、郡の医師会が隣町であつたので、練吉と二人づれで出席した。その晩の宴会で、練吉は酒癖の悪い所を見せた。或る医者と練吉との間には、房一には判らない感情的ないきさつがあるらしく、飲んでゐるうちに練吉は突然口論をはじめ、つかみ合ひになりかゝつた。房一は練吉の留役だつた。そして、まだしきりに興奮して、「やい」とか「山梨の野郎、出て来い」と思ひ出したやうに怒鳴る練吉の腕をしつかりと抱きこんで旅館まで連れかへり、水をほしがつたり又その上にのみたがつたりする練吉を押へつけるやうにして寝かしたのだつた。
 練吉が元の座へ帰つてゆくと、房一はぽつんと一人とり残された。来客達の大半とはすでに顔見知りだつたにかゝはらず、今夜の席では房一は唯一の新顔だつた。
「大石の御老人は見えんやうだな」
 と、房一の近くで云ふ声が聞えた。今泉らしかつた。つづいて同じ声が
「相沢さんも見えないな」
「誰? 相沢の知吉さんかね」
 さう云つたのは庄谷だつた。房一がその方をふり向いた時、庄谷の白味がちな小さな眼が意味ありげに更に細くなつたところだつた。そのまゝにやりとして、
「あの人は来まいて」
「どうして? 血はつゞいてゐなくてもこゝの家とは親類ぢやありませんか」
「それが、その、来ないわけがあるのさ」
「へえ、どういふわけでせう」
 一瞬、まはりの者は皆黙つてゐた。わけを知らないのは今泉だけらしかつた。その意識のために、今泉はひどく大切な物をとり落したときの呆然とした眼で庄谷を眺めてゐた。もともとどこか空虚な感じのする彼の顔は、眼がとび出して底まで空つぽになつたやうに見えた。
「あれは本当ですかね、相沢さんが訴訟を起したと云ふのは?」
 声をひそめて、富田が訊いた。
「本当も本当でないもありやしませんよ。財産譲渡無効、その返還を請求したのだよ」
「相手は誰です? こゝの御隠居ですかい」
「いや、それあ貰つたのが分家だから、相手はやつぱり分家の喜作さんさね」
「だつて、喜作さんはこの土地にはゐないでせう」
「居なくたつて訴訟はいくらでもできらあね」
 その時、彼等は近くに坐つてゐる房一に気づいた。話に出てゐる鍵屋の分家とは、まさに房一の借りてゐる家のことだつたし、その所有者は神原喜作にちがひなかつたから。
「ねえ、高間さん。まあ、こつちへお寄んなさい」
 富田は房一に声をかけて彼のために席を明けながら、つづけて
「あなたは御存知ないんですかね」
「どういふことです、わたしにはさつぱり――」
 房一はさつきから自然と聞いてはゐたが、事は初耳だつた。
「ですが、一体財産譲渡つて云ふのはいつのことなんです、大分前ぢやないですか」
 富田は庄谷の方に向きなほつた。
「さあね、もうかれこれ二十年にもなるだらうかね」
「えらい昔話が又ぶり返したんだな」
「あれは何でせう、知吉さんといふ人は悪く云ふと娘をひつかけて相沢の家に入りこんだやうなもんでせう」
「さうだな、相沢の先代はひどく知吉さんを毛嫌ひしてゐたさうだな。だが娘がくつついてゐるから仕方がないといふわけでね。――だから、甥にあたる喜作さんを養子にして、それに老後をかゝるつもりだつたのだらう。その時、喜作さんの方に財産を分けたんだよ。ところが、娘が男の子を産んだ。今の市造といつたかな。嫌ひな知吉の子でも、孫にはちがひない、孫は可愛いゝといふわけでね、喜作さんにはそのまゝ財産をつけて神原の方へ籍をもどしたんだな。――それを今かへせといふわけよ」
「どうして又今まで黙つてゐたのかね」
「相沢の先代が生きてゐる間は知吉さんも手が出なかつたのさ。目の上の瘤がなくなつたから、いよいよ本性を出したといふところだらう」
「それあ、しかし、何だな、知吉さんも今まで不服だつたのをこらへてゐたんだな、何分かの理窟はあるわけだね」
「ふむ、毛嫌ひされて、孫ができてからやつとこさ婿養子になつたんだからね。――しかし、今ぢや正当な相続人だから、喜作さんに分けた分も自分の物だといふ理窟なんだね」
「何でも大分前からこゝの御隠居にかけ合つてゐたさうぢやありませんか」
「理窟があるやうな無いやうな話でね。こゝの隠居は相手にならなかつたから、たうとう訴訟といふ所まで来たんだらうが、何しろ相沢の先代とこゝの隠居とは兄弟だしね、――どんな理窟があるにしてもあまり賞めた事ぢやないね」
「知吉さんはこれまで散々踏みつけられて来たんだから、自分が戸主になつてみるとこれまでの腹いせといふ気もあるんでせうな」
「まあ、それあ――」
 その時、千光寺の住職がひよろ長い姿を現はした。彼はたつた今さつきつたばかりのやうな青いつるつるな頭をしてゐた。今夜の主役だといふ意識がさうさせたのだらう、もつともらしい儀式ぶつた表情のまゝ、彼は集つた人達には目もくれずにまつすぐに仏壇の前に進んだ。だが、そのひきしめたつもりの口もとにはあの真白い偉大ながのぞいてゐた。
 読経がはじまつた。皆話をやめてその方を向いて坐り直した。
 それは何かしら長い退屈な時間だつた。香煙はまつすぐに立ちのぼり、二尺ばかりの高さでゆらゆらし、蝋燭の灯はそれに答へるやうにまたゝいた。さつきまで思ひ思ひの世間話に身を入れてゐた連中は一瞬厳粛になり、それから放心し、今一律に無表情のまゝぢつとしてゐた。その中で、大石練吉は今も頭をまつすぐに持ち上げて仏壇の方を眺めてゐたが、間もなく千光寺の住職の剃り上げた後頭部に人並外れて骨が突出し、その下にぺこんとした凹みのできてゐるのを発見し、しきりとそれを見つめてゐた。
 あの坊主は前からあんな頭をしてゐたのかしらん。――さう云へば、子供の時分いつしよに遊んでゐるとき見たやうに思つた。――練吉はそんなことを考へてゐた。
 今泉はうつむき気味に、すぐ前に坐つてゐる庄谷の背中を見つめてゐた。するとその肩に一本の糸屑がくつついてゐるのに気づいた。彼はそつと手を伸してつまみ上げた。庄谷はうしろをふり向いた。その白味の多い小さい目で無意味ににやりとした。そして又元の眠つたやうな無表情にかへつた。

 房一は庄谷の後で時々目を開けてゐたが、間もなくすつかりつむつてしまつた。ゆるく尻をひつぱる読経の声、時々ふいに高くなり、途切れ、又ゆるやかにつゞくそのるい音は、それにつれて聞いてゐる者に次々ととりとめもない考へを追ひかけさせ、立ちどまらせ、又流れさせた。
 ――「やあ、おいでなさい。わたし相沢です」
 はじめて往診に行つたときの相沢のみ声が耳によみがへつて来た。それから、あの粗末な黒い上着と、カーキ色の目立つ乗馬ズボンと、又あの鼠を思はせるやうな黒味の拡がつた、ちつとも目瞬またゝきをしないふしぎな眼玉とが、房一のつむつた瞼の中に現れて来た。
 房一はあれから相沢の息子をに五六度行つた。殆どその度ごとに会つてゐるので、相沢知吉といふ人物については一通りのことは知つてゐるつもりだつた。同時に相沢の経歴についても聞知してゐた。
 知吉は二十年前に養蚕の教師としてこの町にやつて来た。相沢家の一人娘だつたあいはその講習生の中にゐた。二人の間に恋愛が生じた。相沢の先代章助は神原家から養子に入つた人で、神原の隠居直造の弟にあたる。昔気質むかしかたぎ一克いつこくな性分ではあるし、むろん一人娘と知吉との間を許す気はなかつた。ところが、ふしぎなことが起つた。あまり美しくもなく、その単純な性質と温和おとなしさが何よりの取柄だつた娘のあいは、知吉にどんな魅力を感じたものか父親の意見にはてこでも動かない大胆さを示したのである。その頃知吉は四五里先の村へ養蚕を教へに行つてゐたが、あいはそこへはしつた。つれ戻され、又出るといふごたごたを繰り返したあげくに、たうとう相沢章助も不本意ながら黙認せざるを得ないことになつた。けれども知吉を嫌つて家へ入れなかつた。さういふ章助の態度に反撥を感じた知吉は、今に見ろと思つたにちがひない、東京へ出て法律を勉強した。あいはむろん同行した。五年かゝつたが弁護士試験には及第しなかつた。するうち、あいとの間に市造が生れたので、間に口をきく人があつて河原町に帰つて来た。帰郷してみると、章助は甥にあたる神原喜作を養子として迎へてゐたし、知吉は相沢家へ入れられずに依然として冷淡な待遇をうけた。もつとも、章助は孫の市造には目がなかつたので、それにひかされて止むを得ず知吉を入籍した。喜作は神原家にもどつて分家を継いだ。財産の譲渡はその時行はれたのである。だが知吉は入籍しても別に一戸を持ち、小学校の教師をしてゐた。やうやく章助の気が折れて、知吉は相沢家に迎へられたものの、章助との間がうまく行く筈はなかつた。先年章助が死歿するまで、知吉としては腹につもる不満をぢつと押へてゐたわけである。さういふ成行は、悪く解釈すれば、どんな扱ひをうけても相沢家の一人娘のあいを手中に握つて今日の日を待つてゐたと云ふことにもなりがちであつた。要するに、今日にいたるまで知吉の味方はあいの他には一人もなかつたといふことになる。さういふ知吉は、先代がそこの出である神原家に対しても分家の喜作に対しても快く思ふ筈はなかつた。弁護士にはなれなかつたにしても、知吉には法律の知識があつた。鍵屋の側から云へば苦手だつたかもしれない。どんな風にして知吉が鍵屋へ交渉をはじめたか知る由もないが、隠居の直造はそれ以来知吉を三百代言のやうにみ嫌つてゐた。相沢と鍵屋とは絶縁同様だつた。
 ――房一がさういふことを耳にしたのはごく最近である。しかし、いづれにしても房一には直接関係のないことだつた。

「御焼香を。――どうぞ、お近いところから御順に」
 さびのある鍵屋の隠居の声が響いた。しかし誰もすぐに立たうとはしなかつた。身内の者が済んだ後でも順位はおのずからきまつてゐるのだつた。房一のうしろの方で誰か低い声で何か云つてゐた。見ると、そこには遅れてやつて来た老医師の大石正文がまはりの者からすゝめられてゆつくり立上るところだつた。猫背の痩せて尖つた肩つきは坐つた人達の間を分けて行く時、弱々しげではあつたが、舞台で出場でばを心得てゐる老優に見られるやうな落ちつきと確信があつた。次には堂本が立つた。それから大石練吉が眼鏡の下でふしぎな生真面目さを現しながら立上つた。

     五

「あら、お帰んなさい。随分早かつたのね。もう済んだんですか」
 盛子はたつた今さつき一人きりの夜食をすませたところだつた。房一を送り出した後で、一人では別に支度もいらないし、あり合せの物で間に合はせた。餉台ちやぶだいの上に並べた食器類もほんの一二枚だつた。いつもは房一と二人なのだが、それは二人が一人になつたのではなく五六人が一人になつたやうな感じだつた。冷えたお惣菜を長火鉢で温めた。それは静かな家の中でたゞ一つの物音のやうにかたことと音を立てて煮えた。何となく、盛子は小さい娘時分のおまゝ事を思ひ出した。そして近来そんなことを一度もしたことはなかつたのだが、小娘のやうな気になつて、煮え上るのを待つ間横坐りに足を投げ出して煮える音を聞いてゐた。
 ゆつくりと時間をかけて、楽しみ楽しみ喰べた。それは喰物のおいしさよりも、かうやつて小娘のやうな真似をするのがおいしかつたのだつた。
 一人だと何んて少ししか喰べないもんだらう、まるで小鳥の餌ほどだつたわ、と可笑をかしがりながら。――それに、後片づけだつてざぶざぶつと一二回やれば済んでしまふわ、と横目で膳の上を眺めながら。
 そこへ房一が帰つて来たのだ。盛子は横坐りの所を見られまいとして慌てて立上つた。
「随分早いのね」
 さう云ひながら、盛子はゆつくりと喰べてゐた物がまだ口の中に残つてゐるような無邪気な顔をした。
「ふん」
 房一は怒つたやうなあざけるやうな調子であつた。その顔は何故か黒ずんで見えた。そして、目がぎらついてゐた。
「どうしたんですの? 何かあつたんですか」
 盛子の顔からはもうあの一人でうれしがつてゐるやうな無邪気さは消えてゐた。代りに現れたものは物柔い優しさに満ちた注意深さだつた。
「途中から帰つて来たんだよ」
 房一はむつつりとしたまゝ答へた。
「途中から――?」
 房一の出先きで起きたこと、何かしら普通でないその事を理解しようとして、盛子は房一の顔をまじまじと見まもつた。
 肉が部厚に盛り上つてゐるために自然と深くできた額の横皺、やゝ動物的な感じのする大きな眼玉、近頃その上に髭を蓄へはじめた厚いふくらんだやうな唇、それらのあまり美しいとは云へない部分々々を一つの形にまとめるやうに顔の下半から張り出してゐる円いつかりとした案外柔味のある顎――盛子が結婚後最初に覚えたのはこの円い顎だつた。それは房一の顔に調和と落ちつきを与へてゐたばかりでなく、盛子の胸に何かしら安心と親しみ易さを感じさせた。
 盛子は時々半ば無意識に呟いた。
「あの人はつまりこんな風な人なんだわ。こんな風に――」
 こんな風に「円い」――のだらうか。いや、それはどうでもよかつた。盛子はそこに房一を感じてゐた。それは房一の醜い他の部分を忘れさすに足るものだつた。
 が、ひどく不機嫌になつた時にはこの円味が消えてしまひ、あのどぎつい部分々々がばらばらに突出し一層強くなるやうに感じられる瞬間がある。それは理由なく盛子を恐怖させるものであつた。
 今、房一の顔に現れてゐるのはさういふ怒気だつた。ただ、それは盛子に向けられてゐるのでなしに、房一の内部に立ちはだかり、自ら押へつけしてゐる、それから来る圧迫感だつた。――

 鍵屋へ招かれた時から房一の頭を占めてゐた考へは、その席で恐らく河原町の人達が彼をどんな風に見てゐるかがはつきり判るだらうといふことだつた。かういふ集りでは皆が皆自分の据ゑられる席の上下を可笑しい位に気にする習慣を房一はよく知り抜いてゐた。
 それは莫迦げたことにちがひなかつた。だが、その莫迦げた習慣の中に今房一は身を以て入りつゝあるのを感じた。
 そこで自分がどんな取扱ひをうけるか、あたり前の医者としてか、それとも単に「芋の子」に過ぎなかつた高間道平の憎まれ息子としてか、房一は少からず興味を持つた。が、大体予測がつかないではなかつた。きつと、医者として認めたがらない気持がそのまゝ現れるだらう、と。
 若しさうだつたら、そのまゝおとなしく坐つてはゐられまい。それは、皆の前で公然と頭を押へられた所を自認するやうなものだ。前例にもなるだらう。一度きまつたとなつたら又打破るのは容易ではあるまい。それは、河原町で今後医者として立つて行けないことを意味する。頭を押へられたきり、ついには逃げ出すより他はないといふ破目に陥るだらう。彼は思つた。
「かりに、おれが真正面から反抗的に出て、それがために住みにくくなつたとしても、同じことだ」

 不幸なことに房一の予測はあたつた。いや、それ以下とも云へた。
 焼香が済むと別室へ案内された。だが、こゝでも各自に大体自分の坐らせられる席を心得てゐながら、すぐには通らうとしなかつた。で、神原直造が一々その人の前に行つてそれぞれの席へ順に案内した。正面の床柱の前には大石正文が猫背のまゝ顎を突き出した恰好で坐つた。その次は上町の醤油屋の主人だつた。正文と等位置の左手へかけては堂本が坐つて居り、大石練吉がその隣にゐた。二三人置いて庄谷の顔が見えた。その辺りが上座だつた。
 ざつと四十人近い客数であつた。その半ばあたりへ来ると、直造は一々前まで行くのを止めて、ふりかへつては「山下さん、お次へどうぞ」と云ふ風に名を呼びはじめた。だが、房一の所へはなかなか来なかつた。大部分の客が席に居並んだ頃になつて、房一は漸く自分を呼ぶ直造の稍しやがれた声を聞いた。
 膳が運ばれるまでの間、皆は行儀よく坐つておたがひに向ひ合つた顔を見くらべてゐた。それは改まつた、殆ど無表情に近い顔ばかりだつた。だが、さりげなく見合ふことだけは止めなかつた。その中で、房一は特に皆の注意を引いた。その無骨な容貌だけでも目立つのに、殊に彼は今夜の席では殆ど唯一と云つてもいゝ新顔だつた。彼等は今更のやうに気づいた、はるか下座の方に何となく場慣れのしない様子で坐つてゐるのは、近頃医者になつて帰つて来たといふ噂のあつた高間の三男坊だといふことを、そこに団栗どんぐりのやうに何かむくむくした男を見た。
 が、房一をよく知つてゐる者にとつてはその低い居場所がよけい注意をひくらしかつた。千光寺の住職は何気なく一座を見廻してゐるうち、思ひがけない所に房一を見つけ、ちよつと顔色を動かせた。それから、時折房一の視線を捕へて会釈ゑしやくしようとしたが、遠くて駄目だつた。庄谷は逸早く房一の席に気がついたらしい、が、その殆ど白味ばかりのやうな細い眼にちらりと微笑を浮べたきりだつた。
 何となく視線が自分に向けられるのを感じながら、房一は案外に落ちついてゐた。予期した通りだつた。房一の腹の中はきまつてゐた。
 間もなく神原直造は一種段取りのついた慇懃いんぎんな荘重さともいふべき様子でゆつくりと来客の居並んだ前へ進み出て挨拶した。彼には紋付の羽織に袴といふ形がいかにもよく似合つてゐた。その稍角張つた肩のあたりにも、それから、一体に老いて強さはなくなつてゐるが、まつ直ぐな鼻筋だの、その上にかつきり線を引いたやうな白毛まじりの太い眉だのの上には、ちやうど彼の身につけた袴のひだと同じやうに、一種云ふべからざる古雅な端正さがあり、それは同時に低い枯れた声音こわねの中にも響いた。
「お粗末ではござりまするが、どうぞごゆるりと」
 云ひ終ると、直造は叮重ていちように頭を下げた。
 来客の間にほつとくつろいだ空気が流れ、直造が袴をさばいて立ち上らうとした時だつた。
「折角のところを、突然でまことに失礼でありますが」
 聞き慣れない太味のある声が立つた。直造は立ち上りかけた膝を又ついて、ふり返つた。彼は席のまん中近くへ進み出てゐたので、声の起つたずつと下席の方はよほど努力して身体を捻ぢ向けねばならなかつた。長時間の主人役で疲労して、いくらかうすい曇りのできた直造の眼は、やうやく声の主である高間房一の赤黒い、円つこい、だが明かに普通でない硬は張つた顔と、その上にきらめく強い眼の、色とを見た。瞬間、直造の端正さは崩れ、一種の狼狽と不安が走つた。
 一座はしづまり返つてゐた。何か緊迫した気配があつた。――とにかく、それは予定の中には入つてゐなかつた。こんな風に突然誰かが立上り、荒々しい声を張り上げ、何を云ひ出すか判らないのにぢつと膝をついて聞いてゐなければならぬとは!
 その直造の耳には、次のやうな言葉が響いて来た。
「本日は、私ごとき者までお招きに預りまして」
 房一はその「ごとき」といふ箇所にわざと力を入れながら、つゞいて、今夜の席に招かれたことを謝し、甚だ不本意ではあるが止むを得ぬ所用があるので途中から退席させてもらひたい、と述べた。
「もはやお膳も据ゑていたゞきましたし、これで十分頂戴いたしたも同然でありますから、甚だ失礼ながらお先きに御免を蒙ります」
 言葉つきは叮重だつたし、云つたことも何ら不自然ではなかつた。だが、そのいどむやうな強い眼の色と全身に滲み出た一種圧迫的な怒気とはその表面の叮重さを明かに裏切つてゐた。効果は覿面てきめんだつた。
「はア」
 と、云つたまゝ直造は首を落して聞き入つてゐた。房一が云ひかけた時、直造の老いてはゐるがれた頭は即座にその意味を悟つた。そして、自分の手落ちだつたことを認めてゐた。が、この不意打は少からぬ打撃でもあつた。彼はこれまでの生涯に自分が主人役をつとめて来たこの家の中で、未だかつてこんな思ひがけない反撃を喰つたことはなかつた。いや、どこの家の集りでも見たことはない。すべては古いしきたり通りに、一定の型通りに行はれ、それが乱されたことはなかつた。それは彼の身体にすつかり滲みこんでゐるあの雅致のあるゆつくりとした段取りのやうに、永い間に築かれ自然と支へ合ひ、ゆるぎのない目立たぬ日常の確信といつた風なものになつてゐた、――それがこの瞬間に思ひがけない形で動揺するのを覚えた。
「さやうでござりますか」
 直造は、然し、突嗟とつさのうちに考へをまとめることができなかつた。彼はあの慇懃な荘重さをとりもどしてゐた。が、何となくしをれた所のある物腰で、房一の挨拶を受けたのだつた。

   第三章

     一

 日々は平凡に単調に過ぎて行つた。
 それは、開業当時のあの身体が自然とはずんで来るやうな、患者に向ふと必要以上に診察したり、相手が求める以上にくはしい説明を長々と熱心に云つて聞かせたり、忙しげに薬局と診察室の間を往来しながら待つてゐる人達に声をかけたり、さういふ房一の活気にみちた様子が見る人ごとに快い気持を惹き起させた、そんな張り切つた頃にくらべると、今はまるで時間が急にその歩みをとめて、のろのろと動いてゐるやうに感じられた。
 患者の多くは近在の農夫達であつた。それは大体に於いて、開業以前に予想してゐた通りだつた。ろい、ゆつくりした口調で声をかけながら、彼等はおづおづと高間医院の玄関を入つて来る。彼等は医者に診てもらふためにわざわざ河原町へ出て来るのではなかつた。農具とか種物とかを買ひに出て、ついでに立寄るのであつた。それで、彼等の病気はすでに治療の時期を失してゐるか、でなければ手のつけられない慢性のものが多かつた。
 さうかと思ふと、朝早くから農婦たちが背中に子供を負ぶつてやつて来る。それが唯一の目的のときには恐しく早朝に出かけて来るのであつた。さういふ場合にかぎつて、房一は彼女等の背中に、熱ばんだ小さな顔を上向きにしてあへぐやうな呼吸をしてゐる幼児を見、その手遅れであることを認めるのであつた。
 高間医院の待合室で、彼等は馴れない薬の香を嗅ぎ、一様に重たい、沈んだ表情を浮かべて、或る者は黙つて放心したやうに戸外を眺め、或る者は低いゆつくりした声でぽつりぽつり話し合ふのであつた。汗ばんだ匂ひや土の香、洗ひざらしの紺の野良着、熱の気配――それらは或るたとへやうもない倦怠と肉体的な不快を呼び起させる何物かによつてみちみちてゐた。それは農夫達の生活の一部が方々からこの待合室に持ちこまれて、この一所に、陰鬱な空の気配や、石塊いしくれの多い山合ひの畑での労苦や、長いあぜの列や、それらのいつしよくたになつた重々しい雰囲気を再現してゐるやうに思はれた。
 だが、時には彼等の間にも、まるで一日中陽に温められて色づいた麦畑からそのまゝ入つて来たやうな男もあるのだつた。肥つて日焼けがして彼は自分から病気をてもらひに来たくせに、房一の呉れる薬を不審さうに眺めて、そんな病気のあることを信じないかのやうに頭をしげて、それから大声で(それは麦畑の穂の列を吹き抜けて行く、乾いた快い風のやうな響きを帯びてゐた)彼の持牛についたしらみをとる薬はやはり人間にも同じがあるのかね、と訊いたりするのであつた。
 かういふ場合によく現れてゐるやうに、彼等は、房一が農家の出であるといふことで非常な気易さを感じてゐるらしかつた。同時に房一自身にとつても、彼等を診察したり、その苦しげな或ひは面白げな話に耳を傾けたりするとき、非常に馴染深い或る物、彼の存在の奥深くに響き答へる或る物が感じられるのだつた。そして、その或る物は単に彼等農夫との間ばかりでなく、河原町全体、このものうげな町の様子や、温かげに見えて手を入れると冷い河の水流や、雑木の目立つ山々や、銅山の廃坑の赤い土肌や、それら全体の中から房一の見つけてゐるもの、そして、その或る物は目にふれるや否や、ちやうど飼ひ慣らした犬が主人を見つけて一散に飛んで来る、そんな悦ばしげな感情をもつて房一の胸にとびこみ、彼の中に柔い落ち着きと平和を築き上げて行くやうであつた。

 川では鮎漁がはじまつてゐた。
 河原町の人達は皆自家の仕事をはふり出して川に出てゐた。彼等の悉くがこの時期には漁師になつたかのやうであつた。まるでしめし合せたやうに同じ麦藁の大きな帽子をかぶつて、白いシャツを着こみ、魚籠びくと追鮎箱とをガタつかせながら、めいめいの家の裏口から河原に現れるのだつた。
 何かしら幸福さうな緊張した面持で竿をさしのべ、青味を帯びてゆらゆらする水の流れ工合や、川底に見える黒い大きな沈み石や、時々ひらめきもつれては又見えなくなる鮎の影などにぢつと眼をこらしてゐる彼等の姿は河の上手から下にかけていたる所に見受けられた。それは服装の似通つてゐるのと同じやうに身ゆるぎもしない立姿のために、ちよつと見たところではどこの誰だか殆ど見分けがつかなかつた。河瀬のだるげなどよめきと、絶えず通つてゐる爽やかな風と、空の高みに白く輝いたまゝぢつと一所から動かうともしない雲や、時たま強い風にあふられてさつと白い葉裏をひるがへす対岸一帯の草木や、その風はもう終つたかと思ふと又下手の方で白い葉裏のざはめきが起つて、それは何か眼に見えない大きな手によつてで上げられてでもゐるかのやうに、次々と対岸の急斜面に現れて、やがてはるか下手の方に遠ざかつて行くのであつた。岩の上に、茂みの蔭に、また水際に、思ひ思ひの様子で立つてゐる彼等一日作りの漁師達は、黙つて、ぢつとして、汗ばみながら、それら外界の大きく強烈な印象の前に頭を垂れ、それが彼等を軽る軽るとやさしく愛撫し抱き溶かしこんでゐるのを感じてゐるやうに見えた。
 誰か遅れて来た者があつて、対岸のよい釣場に早く行かうとして腰まで水のとゞく急な流れを渡渉とせふしながら、危く水中に倒れさうになつてゆつくりした滑稽な身振りでもつて片手に竿を片手に追鮎箱を高く差し上げる、そんな様子を近々と認めても、他の者はほんの無関心な一瞥を投げるだけで、微笑すら現すことなく、すぐ又自分の竿の先に、水面に、追鮎の溌剌はつらつとした又しなやかな腹のひねりやうにこらすのだつた。誰かが獲物を掛けたらしく、中腰になつて、大きくしなつたまゝで力強く顫へてゐる竿を両手でゆるやかに引よせにかゝると、彼等は何かの気配でそれと悟るのか、いつせいに釣り手の方をふりむく。釣り手の及び腰の工合や、慌てて手網を探る恰好などから、彼等は獲物の大きさをおよそ知ることができる。一瞬羨しげな表情が彼等の上に共通して現れる。すると、彼等のうちの一人の竿が、突然強い引きを伝へて、それはググ……と快い持続的な引きに移る。つい先刻まで羨望の色を浮かべてゐたその顔は、今や恐しく愉快な緊張のために何だか調子外れな表情になつて、汗がその額を滑り落ちてゐる。他の者は、自分の竿にも同じことがすぐさま起りさうな気がするために、熱心に前方を見まもりはじめる。今釣り上げたばかりの者がゆるゆると次の支度にかゝりながら、不漁の連中を眺めてやつてゐるのに、後者は明かにそれと知つてゐて見向きもしない。急に日の暑さが感じられる。額から首筋にかけて汗のふき出るのがはつきりと判つて、それは拭ふのも忌々いまいましい位だ。獲物がばつたりと止まつて、誰の竿ももう大分永い間空しく動いてゐる。彼等の間では、獲物から惹き起される興奮が言葉のやうな働きをしてゐる。今はその興奮がどこにも現れないので、彼等はおたがひに一種の沈黙が皆を支配してゐるのを感ずる。
 房一も彼等の仲間であつた。だが、彼はその不器用な竿の操り方と、首の短い、肩幅のむやみと広い、上半身にくらべて不釣合に短い両脚や、ぐつと突き出してゐる下腹部(それは服を着た時に堂々とした押出しに見えたけれども)、そんな特長のある身体つきが、彼らしい不様ぶざまな身ごしらへのためによけい目立つて、例のおきまりの大きな麦藁帽子や白シャツにもかゝはらず、遠くからでもすぐそれと見分がついた。彼はいかにも新参者らしく真新しい手拭を首にかけて、それを顎の下で変な形に結んでゐた。彼にも、他の者に共通な、あの幸福さうな仔細しさいらしい表情が見られた。少年の頃恐しく敏捷だつたにもかゝはらず、近年とみに肥満して来たので、動作が何だか不自由さうであつた。彼は水中の石苔に滑つて何度か転んだ。彼は以前の水遊びを、その頃の巧みですばやい身ごなしを忘れ果てたかのやうであつた。

 房一には連れが二人あつた。
 一人は徳次で、もう一人は中肉中背の、だがそのやさしい女性的な顔立ちのためか、実際よりはうんと小柄に見える小谷吾郎といふ呉服雑貨店の主人だつた。彼の眼は黒瞳くろめがちで、やさしいうるほひがあつた。眉も恰好がよかつた。鼻筋もよく通つて、その下にはやや肉感的な紅味のある唇が心持ふくらんで持上つてゐた。もしこの顔に、年配から来る自然の落ちつきと、どこか我儘な子供を思はせるやうなかんの強さといふ風なものがなかつたら、その女性的な顔立ちはきつと見る人に一種の悪感をかんを覚えさせたにちがひない。それに彼の声は細い疳高い響きを持つてゐた。
「ねえ、高間さん。どうもこの追鮎は背中に掛り傷があるんで元気がないですよ」
 小谷はしばらく放つてゐた糸を手許にひきよせて、水の中の鮎を眺めながら云つた。
 朝早くから徳次が探し歩いてくれたので、房一には追鮎の素晴しいのが手に入つた。浅瀬につけた追鮎箱の中で、肥つた生きのいゝそいつは青黒い美しい背をたえまなく左右に動かしながら、きれいな水に洗はれて、たとへやうもなくしなやかに強く見えた。鼻先に短い針を通して糸につけて放すと、そいつはいきなり激しい力をもつて水の深みに走つて行つた。
「どうもこれぢや――」
 と、小谷はひとり言にしては大きい声で云つた。が、代りがないので又水の中へ放つた。
「徳さんが新しいのを掛けてくれるまで待つてゐた方がいいかもしれませんね、これは」
 小谷は房一に話しかけた。
「うむ、――え?」
 房一は生返事をしてからふり向き、うなづいて見せた。彼はよく聞いてはゐなかつた。
 小谷は相手にされなかつたやうに感じてちよつと顔をしかめた。が、しばらくすると又声をかけた。
「どうですか、掛りさうかね」
「いや、まだ」
「あなたの追鮎は元気らしいなあ」
「さう。――いゝやうだ」
 房一は前の方を向いたまゝだつた。
「どうも、やつぱりねえ。調子が悪い」
 さう呟くと、小谷は追鮎の力を試すやうに竿を高く上げてみた。彼のきいきい云ふ金属性の声は、こんなひとり言のときでも絶えず房一に向つて話しかけたがつてゐるやうであつた。
 小谷は最近になつて、徳次と同じやうに、急に房一と親しくつき合ひはじめた一人だつた。もつとも、彼は徳次とちがつて房一の幼馴染ではなかつた。先代の築き上げたかなり手広い呉服雑貨店をそつくり継いだ、云はば生え抜きの河原町の連中だつた。その彼が房一に興味を持つにいたつたきつかけは、房一の妻の盛子と彼の妻の由子とが偶然同じ町の生れで、もとはそれほど親しくはなかつたが小学校での二三級違ひだつたことが判つてからのことである。盛子よりもずつと若い年にこの土地に嫁に来た由子は、今までろくに気の合つた話相手を持たなかつたので、この偶然をひどく悦んだ。それ以来、由子は裏手の土手づたひにしばしば盛子の所へ来ては話しこみ、盛子も由子の所へ行つた。由子はすでに二人の子持だつたし、その上、小谷が妾に産ませた子供を引取つてゐた。その妾が死んだからである。小谷の放蕩はうたうは由子が来る前からのものだつた。今はどうにか自然と止まつてゐるが、由子は結婚以来殆ど楽しい思ひをしたことがないほど小谷の放蕩に悩まされた。そのあげくに、妾に産ませた子を引取らねばならないとなつた時に、由子は又一つ苦労の種を背負ひこむことになると思つたが、小谷の放蕩に悩まされるよりもこの方がどれだけましかしれないと考へて引受けた。こんなことを、つまり、娘の時以来何の面白い日もなく、彼女にとつての「人生」といふものを見、いつのまにか若さが自分から失はれてゆくのを空しく眺めるやうな、これらすべてのことを由子は今までどんなに他人に向つて話したかつたらう、打明けて心の底まで慰めてもらひたかつたらう、――今や、その得がたい相手が現れたのだつた。吾々が、男と女とを問はず、この世の中で真の友人を見つけるのはほんの僅かな又微妙なきつかけからだ。昨日までは別にそれほどでもなかつた、この茫漠としたつかみがたい世の中でやはり捉みがたい者としてしか現れない数しれない人達、その中から或る人の姿が突然身近かにかけがひのない者として感じられ、その人の心がこちらのすぐ胸の傍にあり、心はたがひに行きひ、温め合ひ、それによつてこの世の中そのものが今までよりもはるかに広く、なほ確かに感じさせるやうなもの、――それを由子は盛子の中に見つけたのだ。
 突然はじまつたこの二人の親密な往来を、小谷は苦笑しながら、半ば無関心で眺めた。女といふものは妙なことから仲よくなるものだ、と思つた。が、由子の口から盛子のことを聞くにしたがつて、彼は高間医院について満ざら他人でもないやうな気に自然となつた。
 あの鍵屋の法事の席には小谷も居含せた。彼はそこで殆どはじめてと云つてもいゝ位に高間房一を見、その思ひ切つた振舞を目にした。房一の去つた後では誰も何も云ひはしなかつた。彼等はたゞ黙つて見送つただけであつた。だが、房一の印象は強く皆の頭にきつけられた。何かしらいどむやうな、たゝかな足どり、――だが、それは表面筋が通つてゐて誹難することはできなかつた。
 町の一部では房一が「席を蹴立てて帰つた」といふ評判だつた。それが何か乱暴でも働いた、といふやうに伝つて、噂を聞いた老父の道平は河場からわざわざ様子を聞きに来た。
 庄谷はあの冷笑するやうな白眼で、物好に訊きたがる人に答へた。
「ふん。何でもありやせんよ。大方、腹でも痛かつたんだらう」
 が、要するに房一が腹に据ゑかねて座を立つたのはもつともだ、といふことに落ちついた。何でもなかつた。鍵屋の隠居が面喰つただけだつた。房一の方から云へば、彼は自分の存在を認めさせることになつた。それは、手ごはい、喰へない男、としての「医師高間房一」だつた。そして、こんな風に善かれ悪しかれ人に取沙汰される男は、河原町ではきはめて興味ある存在にちがひなかつた。
 小谷の店では実にあらゆる品を売つてゐたが、その中には僅かだが薬品類もあつた。したがつて、高間医院は小谷にとつて多少のお得意先でもあつた。今では、小谷は心易立てに注文のあつた薬品を「店主自から」ぶらさげて房一の所へ持つて行き、そのまゝ話しこむやうになつてゐる。

 房一の竿に最初のやつが掛つた。
「おつ」
 といふやうな声を出して、彼は満足と緊張とのためにあの調子外れな表情になつて、しなつた竿をしつかりと引きつけはじめた。
 荒々しい鮎の走りが竿から腕に、腕から身体の隅々まで伝はつて、それは彼の胸いつぱいに快い感動をひき起した。糸をひきよせるにしたがつて、二つの鮎のひらめきもつれる形が見えた。この二つの生き物は、まるでその持つ力以上の力といふやうなものにられてゐる風に、走り、浮き、旋回し、沈みしつゞけてゐた。手早く網ですくふ。パシヤパシヤ水が跳ねて、獲物は房一の手の中で強くビクビクと動きやまない。追鮎はまだ元気で、背の色も濃い。ふたゝびそいつを放すと、追鮎は又以前よりもはげしく流れの中央に向つて走り出す。まだすつかりさめ切らない興奮の快さに、ぢつと竿を見まもつたまゝ何か忘れたやうになつてゐると、やがて又あの強い引きがいきなり彼の腕を胸を荒々しくよびさます。
 房一はすつかり夢中になつてゐた。
 はじめの中は房一の傍で指南顔に見てゐた徳次も、やゝ下手の流の中につゝ立つて、身動きもしない。ほつそりした身体つきの小谷は、いつのまにか対岸に渡つてゐて、これも深い黙想に似た形に稍首をかしげて凝然ぎようぜんとしてゐる。獲物はちよつと途絶えたが、しばらくすると又掛りはじめた。
 房一は何もかも忘れてゐた。日頃の思案深げな額の皺はいつそう強く刻まれてゐたが、それは却つて或る夢中な輝きを示してゐた。彼は何ものかに捕へられてゐた。何かが胸の奥深くでよびさまされてゐるやうであつた。首筋に焼けつく日の暑さ、水流のきらめきや、絶えず水に濡れて黒く光つてゐる沈み岩の頭、滲み出る汗と共に何かしら揉まれしぼり出される身内の或る物――それらは彼の幼時の記憶につかりと結びついて、その頃の漠とした幸福感を近々と思ひ出させた。
 ふいに、彼は頭を上げた。
 はるか下流の方で、鈍いが、重味のある大きな音が響いたのだ。それは、はじめぼおーんといふ風に聞え、つゞいてドカンドカンと来た。
「ふむ、トンネルのハッパだな」
 さう呟きながら、下手を眺めた。
 手前の方では音もなく縞をつくつて速く流れてゐる河は、ずつと先の方で細い、ちらちらした、絶え間なく動く縮緬皺ちりめんじわとなつて見え、そこに素晴しい高さの岩がによつきりとあたかも河を受とめた工合に立つてゐた。その蔭にあたる河縁かはぶちには急ごしらへのバラック建が点々としてゐた。それは工夫小屋だつた。鉄道工事がつい二三ヶ月前からはじまつたのである。
「おーい。渡つてもいゝかね」
 小谷が対岸から流れを指しながら叫んでゐた。房一の竿の前を渡渉とせふするので承諾を求めたのだ。
 房一は大きくうなづいて見せた。もう獲物は大分前からとまつてゐた。

     二

 日は高く上つて、せるやうな温かい空気が、時々、風の工合で河原の方からやつて来た。徳次も切り上げて来た。三箇の魚籠びくを中にして、頭を並べて獲物を見せ合つた。
「やつぱり徳さんが多いね」
 小谷は疳高い声で云つた。
「それあ、あんた」
 云はずと知れたことだ、といふやうに徳次はそのきよろりとした眼を上げて小莫迦こばかにした風に小谷を眺めた。大きい麦藁帽子を被つてゐるので、小谷のやさしい顔立ちはひどく女らしく見えた。
 その時、又あの鈍い重量のある音が下流の方からどよめいて来た。それは前のよりもはるかに大きく、つゞけさまだつた。
「何だらう?」
 小谷は不安げに呟いた。
「ハッパさね」
 と、ちやうど追鮎箱のところへ立つて行きかけた徳次は、事もなげに云つた。彼はその水際のところでいきなりシャツをはぎとると、バシヤバシヤツと水洗ひをして、それを日に焼けた石の上に乾した。そのまゝ房一と小谷の前に来ると、美事な半裸体のまゝ腕組みをして突立つた。一種単純な、力づくといつた様子が現れてゐた。
「ハッパもいゝが、近頃は土方がいたづらをするとか云うて、女の子が下の方を恐はがつて通らんていふぢやないかね」
「さうだつてねえ」
 小谷は仰山ぎやうさんな表情になつた。
「うん、おれもこないだ通り合せたんだが、前を山支度の娘が寵をかついで歩いてゐるんだな、するとやつぱり大声でからかつとつたよ」
 房一は苦が笑ひをした。
「いや、人目がなきあそれどころぢや済まんでせう」
「困つたもんだね」
「何しろ、わや苦茶だ」
 徳次は人の好い、いかにもさう信じこんだやうな眼で二人を眺めた。
「だいいち、あすこの小倉組の親方といふのがね、うちの店へもたまに買物に来るんだが、鬼倉といふ綽名がある位でね、見たところ痩せつぽちのさう強さうもない奴なんだけどね、すごいんださうだ。――こないだも郵便局で見た人があるんださうだが、配下の者が何かしつこく不服を云つたら、いきなりかう、二本の指でね――」
 と、小谷は人差指と中指を二本突き出して見せて、
「ズブリと相手の眼の中へさしこんでしまつたさうでね。――親方すみません、とあやまつたと云ふんだが、どうもね、――何しろ他の人の見てる前でやるんだから、たまつたもんぢやない」
「へえ。――ズブツとね」
 徳次は指で真似をした。
「そんなことができるもんかねえ」
 半ば感心し、半ば疑はしさうに、彼は指を自分の眼に向けてみた。
「眼がつぶれちまふ――ねえ、先生」
「ふうん、潰れるだらうな」
 房一は笑つてゐた。
「鬼倉といふのは女を二人置いとるさうぢやないか」
「それがね、どうも本妻と妾を二人いつしよだといふ話だが、――なにしろ荒いのでね、二人ともぐうの音も出ないで温和おとなしくしとるらしい。――うん、さうだ。こないだ店へ買物に来たざいの者が話して行つたが、その家の前を通るとね、どうも女の泣声らしいものが聞える。それもただの泣き声ぢやない、ヒイヒイいふ、まあ恐いもの見たさでそつとのぞきながら通ると、多分妾の方があんまり痛められるんで逃げ出さうとでもしたらしい、それで片足土間に降りて片手を畳の上についたところを小柄こづかみたいなもので、何のことはない手の甲からズカツと畳まで刺しつけて動けんやうにした。だもんで、女の方はどうにもならんのだね、そこへしやがみこんだまゝヒイツヒイツて泣いとつた。見た男は足がふるへたつていふが、それあ誰でもふるへるだらう」
「ふうん。ひどい奴だねえ」
 小谷の話で、徳次はすつかり興奮したらしかつた。そのきよろりとした眼はすつかり開けひろげられ、一種はずつた色が動いてゐた。何となく落ちつかない様子で上半身をぐらりとさせ、無意識に片腕を振り降した。そのはずみにひよろ長く生えた雑草に手を伸して引きむしり、それを口にくはへた。
 その粗暴な外見とは反対に、徳次はさういふ血生臭ちなまぐさいことが嫌ひだつた。そして、人並外れた敏感さを示すのであつた。今もそれで、彼はいかにも心外げな様子を、その無意識な仕草の中に現してゐた。
「わしは反対だ!」
 何となく、彼はさう云ひたげであつた。実際それは咽喉まで出かゝつてゐた。若し彼が理窟といふものを知つてゐたら、日常の些細ささいな事柄からでも尤もらしく意見をすぐに云ひ立てるあの「町の衆」のやうな頭があつたら、彼は勢ひこんで口にしたであらう。だが、彼はさういふ小むつかしいことは面倒臭かつたし、又下手だつた。彼はたゞ感じた。そして暖昧な身振りをしただけだつた。

 遠くの方で誰かが呼んでゐた。
 河原の端にある高い築堤の上で、白い割烹着かつぽうぎを着た女が、口に手をあてて何か叫んでゐた。
 それは盛子だつた。きりつとした割烹着の姿は彼女の伸びやかな身体の特長をよく現はしてゐた。
 聞えないといふしるしに、房一は手を振つて見せた。それが盛子にも解りにくいらしく、しばらくためらひ気味に立つてゐたが、やがて河原へ下る段を降りはじめた。
「患者さんですよう」
 近づきながら、何となくほの紅くなつて、中声で叫んだ。そして、房一の傍にゐる小谷と徳次を認め、小腰をかゞめた。くゝられてふくらんだ袖口からは気持のいゝ白い腕が露はれてゐた。
「うん、今帰るところだ」
 と房一が答へた。
れましたか」
 盛子は、歯切れのいゝピツと語尾の跳ね上るやうな調子で、愛想笑ひをしながら小谷に訊いた。
「いや、高間さんは大漁ですがね。わたしの方はさつぱり駄目ですよ」
「さうですか。それは――」
 心持照れ臭さげにしながらも、盛子は快活などこか家庭的なつかりさといつた風なものを現して、この一日造りの漁師達を眺めた。
「あら、ほんとうに沢山とれたんですね」
 房一の魚籠びくをのぞいて、盛子はびつくりしたやうに叫んだ。
「徳さん。追鮎は君のといつしよに活かしといてもらはうか――どつこいしよ」
 房一は立ち上つた。すると、着古しのワイシャツから下はズボンなしの毛むじやらな肥つた円つこい肉のついた脚がによつきりと出た。さつき河の中に入つたときに、ズボン下を脱いでしまつたのだ。
「いゝ恰好で!」
 盛子は笑ひながら顔を紅らめた。
「何んの。面倒だからこのまゝ行かう」
 房一はズボン下を円めて魚寵といつしよにぶら下げながら、丸出しの肥つた足でぴよいぴよい河原石の上を先に立つて歩いた。

 ごろごろする石の上を下駄ばきでは歩きにくかつた。房一は川から上つたまゝの濡草履をはいてゐるので速い。盛子はらになつた追鮎箱を手にして後からついて行つた。
「ねえ!」
 築堤へ登る段の所で、長い竿を持ち扱ひにくがつて立停つた房一の背後から、盛子はふいに呼んだ。
「うん」
 生返事をしてそのまゝ登つて行く。
 が、登り切つた所で、ふりかへつて盛子を待つた。そして、何となく様子のちがつたゆつくりさで登つて来る盛子の、は目になつた、意味ありげに笑つてゐる顔を見た。
「ねえ」
 盛子は妊娠してゐた。
 もう一月あまり前から気づいてゐたのだが、はつきりしなかつた。云はうか云ふまいかと迷つてゐた。たつた今、大きな麦藁帽子の縁で半ば隠されてはゐるが、むくれ上つた幅の広い肩がぴよいぴよい目の前を歩いてゆくのを見てゐるうち、突然云ひやうのない親しさの感覚に捕へられた。打ち明けてみたくなつた。何にも如らないで、こんなに変な風に脚を丸出しにして、私にはおかまひなしに先を歩いてゐる!
 並んで立つと、いきなり
「わたし、あれらしいのよ」
 云ひながら、ぽんと軽く下腹をたゝいてみせた。そして、微笑した、悪戯いたづらつ子のやうな目つきで、ぢつと房一の顔をのぞきこんだ。それは驚くほど巧みな打明けだつた。
 房一は面喰つて、ぽかんと口を開けた。
「いつから――?」
 やつとこさ、さう云つた。まだ本当とは思へない、だが他には考へやうもない、そのたつた一つのことが、彼が医者としてあんなによく知り抜いてゐる生理上の一現象が、又当然いつかは起りうると承知してゐる筈のことが、今や目の前へぶら下げられた一包みの果物か何かのやうに、突然そこに持ち出され、いやでも彼の全注意を惹いてゐるのであつた。いや、それどころではない、今そこに立つてゐる盛子、白い割烹着に包まれ、すらりとした伸びやかな身体までが、その微笑してゐる切れの長い眼つき、悪戯いたづらつぽさとはにかみとのまざり合つてゐる様子だの、そのすべてが、何かしら微妙な、手で触れにくい、不思議な物として見えたのだつた。
「ふむ、さうか」
 感心したやうに呟くと、房一はくるりと向ふむきになつて歩き出した。

     三

 裏口から家の中へ入らうとした時、房一はそこの小路つづきの先きの方に彼の帰りを待ち構へてゐたらしい様子で突立つたまゝこちらを眺めてゐる二人の男に気づいた。
 二人とも巻ゲートルに地下足袋姿であつた。そのうちの一人は印袢纏しるしばんてんを着てゐた。房一の見たこともない連中だつた。だが、先方ではこの釣竿をかついだ猪首のやうな男が目ざすお医者だと気づいたのだらう、印袢纏の背の高い男は黄く汚れた半シャツの男に向つて、こちらを見ながら何か云つてゐた。
 房一は手足を洗ふと、簡単に診察着をひつかけて表へ廻つた。
 そこには一人の男が顔を手拭で蔽はれたまゝ、一種普通でない様子で寝かされてゐた。手拭の下からは赤黒く汚れた額の一部と、土埃にまみれた頭髪とがはみ出してゐた。その傍には、やはり印袢纏着の真黒い顔の男がついて、ぽかんとして戸外を眺めてゐた。
 房一がそこへ出るのと、さつきの二人が表から入つて来るのと同時だつた。
 半シャツの男が進み出た。
せんせいですか」
 関西なまりの特長のある呼び方で、彼はちよつと頭を下げた。それはお辞儀といふよりも、何か強談を持ちかけるといつた工合の、一種の身構への感じられるつい調子だつた。
「さうです。――どうかなさつたかね」
 房一はその時いち早く、横に寝かされてゐる男の投げ出した手首に血がかすりついてゐるのを、そして寝ながら立ててゐる片足のズボンの膝のあたりにもどす黒い斑点の沁みてゐるのを見てとつた。
「へえ。――わし達は小倉組の者ですが、ちよつと怪我人ができましたよつて、せんせいに御面倒かけに上つたんですが」
 口を利くのは半シャツの男だけだつた。恐らく四十前後だらうが、前額のひどく禿げ上つた、痩せ身の、鼻下にちよつぴりした髭をつけてゐる、がそれらを貫いてゐる表情は何か殺気のある精悍さといつたものだつた。口をきく度に、彼の眼は喰ひこむやうに相手を一瞥した。
「小倉組といふと、下の工事場の方ですな」
 房一は、これはうるさい相手だなと思ひながら、わざとゆつくり構へてゐた。実は、さつき裏口から二人を見かけた時に、すでにぴんと感じてゐた。こんな風体の連中は河原町には他にない。それに、今しがた川岸で話に出たばかりの所だつたので、房一にはよけい強く頭に来た。
「どれ一つ診ませうかな。――ふうむ、これあどうしたのかね、ハッパでやられたのか」
 彼は男の顔を蔽つてゐる手拭をとりのけながら云つた。
 男の顔は泥と血で汚れ、かすり傷が一面についてゐた。顎の所にかなりひどい裂傷があり、血糊が固くこびりついてゐた。どこか打撲傷をうけたらしく、一見したところ気息奄々きそくえんえんとしてゐたが、房一が手拭をとり除いたときに、男はかすかに眼を開けて房一の顔を見た。
 二人が男を抱き起して、レザア張りの診察台へつれて行つた。男は殆どされるまゝになつてゐたが、身体は案外自由が利くらしく片手をつかつて横になつた。そして又もやぱつちりと眼を開け、不安さうに房一を見上げた。
「ほう。元気だね。ハッパでやられたかね」
 と、房一は訊いた。
 男は眼を閉ぢた。何も答へなかつた。
 印袢纏の背の高い男がその時、半シャツの男に向つて目くばせをした。
 男は病人から房一へぎろりと眼を移すと、
せんせい!」
 と、いきなり云つた。
「何んにも訊かんといて下さい。ちよつと間違ひが起きたんやで、――それは、後でお話しますわ――とにかく、手当を頼みます」
「ふうむ。いや、よからう」
 房一は傷を調べにかゝつた。後頭部にもあつた。身体にへばりついたシャツをはぎとると、背部に最もひどい傷があつた、それはまがふところのない刃物による刺傷だつた。新しい血がはぎとられたシャツの下から、またゝく間にふき出し、したゝり落ちた。
「おつ! こりあいかん」
 房一は急いで膿盆をひきよせた。
「ひどい傷だねえ!」
 思はず口に出かゝつたが、慌ててのみこんだ。彼の頭には今やすべてが明かになつた。土工仲間の刃傷沙汰だつた。その息づまるやうな情景が頭にひらめいた。
 房一のまはりには三人の男が立ちかこんで、黙つて治療の様子を見まもつてゐた。背中をむき出しにして横向きに寝た男は、傷を洗はれるときにうめいた。血の気の引いたその顔にはどす黒い蒼白さが現れた。
「痛むか?」
 男は眼を閉ぢたまゝだつた。
 傷は三箇所を縫つた。
 顎から後頭部にかけてと背部と二所を大きく繃帯でぐるぐる巻きにされた男は、やがて待合室へつれて行かれ、ごろりと転がされた。はじめからしまひまで一言も口を利かなかつた。
 真黒い顔の男が傍によつて訊いた。
「どうだ。起きられるか」
 その時やつと、男は少しうなづいた。そして背中に負はれて出て行つた。
「どうも、済んまへんでした」
 半シャツの男は房一の前に来て、はじめてお辞儀らしい格好をした。
「もう一人後から来るかもしれませんが、そしたらよろしく頼んます」
「――?」
 房一は目を上げて何か訊きたさうにした。それを押へるやうに、
「なあに、後から来るのんはほんのかすり傷みたいなもんやから、大事ありません。――時にせんせい、何んぼ差上げたらえゝでせう?」
 云ひながら、腹帯の中からまるで金入れとは思へない位に大きな蟇口をとり出すと、十円札を何枚かつかんでゐた。そして、ろくに返事も聞かないで房一に押しつけた。
「それあ、いかん。こんなに多くはいらんよ」
「いや、まあ。――後の分もありますよつて、黙つて預つといて下さい」
 男はうむを云はせなかつた。
「よし、それでは預つとかう」
 房一はきつぱり云つた。男は、これは話が判る、といふやうな顔をした。それに押つかぶせるやうに、
「たゞし、預かるだけだよ。この分が残つてゐる間はいくら後から来ても貰はんよ。いゝかね」
 男はじろじろと房一を見てゐた。
「それは、せんせいのお考へに任せますわ。――ですが、今日のことは、ほんの内輪の間違ひやさかい、そのことは含んどいてもらはんと困ります。よろしいな。――内輪のことや」
 男は語尾に力を入れて、房一の眼の中をのぞきこんだ。
 房一はその時診察用の椅子に腰を下して、ゆつくりと煙草をふかしながら、何気ない風で男の様子に目をつけてゐた。彼は男の要求する意味を悟つた。たゞ治療をしろ、他のことは見て見ぬ振りをしてくれ、まして他言は無用だ、といふ意味だつた。
「よからう」
 男はまだ立つて、あの話を持ちかける構へといつた風を持してゐた。
「よろしい。承知した」
 男は一歩下つた。
「大きに。ありがたうござんす。よろしう頼んます」
 さう云ふと、男は入口に待つてゐた印袢纏の背の高い男とつれ立つて、高間医院を出て行つた。

 房一は彼等の姿が消えてからもしばらくの間、ぼんやり元の椅子に腰をかけて、たつた今彼等がそこを曲つて行つた入口の土塀、それで一所だけ区切られた表の道路、その向ふに稍高手になつた畑地、といつたやうな物を漠然と眺めてゐた。
 それは六月も末のかつと輝いたひる近い一つ時だつた。いや、正午はもう廻つてゐるかもしれない。畑地には道路のすぐ傍にあまり大きくない柿の木がぽつんと一本だけ立つてゐた。その葉はまだ新芽の柔かさを保つてゐた。日にきらきらしてゐる。さうやつてひとりでに自分を磨いてゐるみたいだつた。誰も表の道路を通らなかつた。
 何となく身体がるかつた。それにちがひはない、今日は珍しく朝早くから川につききりで、おまけに呼びもどされるとすぐ今の騒ぎだつた。埃で黄くなつた頭髪、泥と血の塊り、男の不安げな眼、それからあのいくらか仁義を切るやうな半シャツの甥の身構へだの、それらがもう一度頭の中によみがへり、一列になつて通つて行つた。
 房一は苦笑した。とにかく珍客にはちがひなかつた。そして、たつた今さつきまで房一は彼等のお見舞ひでわれ知らず興奮し、緊張し、それからあの半シャツの男と言葉の上でなく、眼と眼で、構へと構へでやりとりした、それが突風の去つた後のやうな軽いあつけなさを残してゐた。
 が、ふいに一つのことが彼の頭に閃いた。それは盛子の妊娠だつた。それもたつた今さつきはじめて耳にしたことにちがひなかつた。が、この事はすでにずつと前に聞き、彼の心にぐつと深く喰ひこんでゐることのやうに、思ひ出すと同時に何か身体中がさつと目覚めて来るやうな厚ぽつたい感覚で蘇つて来た。
あれらしいのよ」
 さう云ひながらぽんと軽く下腹をたゝいた盛子の巧みな、しなのある手つきが目に浮かんだ。それは、そこだけ切つてとつたやうな鮮かさで残つてゐた。
 房一は感動した。あの一言で、何もかも身のまはりが今までとちがつたやうに感じられた。何か一つ微妙なものがこの世のどこかでひよつこりと生れかゝつてゐるのだつた。まだ目には見えないその隠れた、だがすでに在ることだけは確かな存在が、それだけでこんなにまはりの物を変へてしまつたのだ。それはひよつこりとしてゐる、同時に彼にも盛子にもつながりのある不思議な或る物だつた。彼は職業柄アルコール漬になつた月別の胎児はいやといふほど見て知つてゐた。が、今彼の感知してゐるものはそれとは似ても似つかないものだつた。それはむくむくして、今はぢつとしてゐるが、やがて動き出さうとし、やがて手をひろげ、やがて彼の肩だの腕だのにすがりつかうとしてゐる、温い、柔い、――
 房一は椅子から立ち上つた。
 膿盆だの鋏、脱脂綿の袋などがまだ散らかつたまゝになつてゐるのを片づけはじめた。
 ふと気づくと、玄関に人が立つてゐた、半シャツの男だ。瞬間、又来たな、と思つた。
 が、それは徳次であつた。
 きよろりとした眼でしきりと家の中をのぞきこみながら、しばらくして
「もう帰つたんかね」
「――?」
「小倉組の連中が来たちふぢやないかね。ほんとうかね」
「うん、もうさつき帰つたよ」
「さうか、惜しかつたな」
 徳次は足を踏ん張つて立ち、まだそこら中を見まはしてゐた。房一はちらりとその顔を見たが、黙つて片づけてゐた。
「なあ、先生」
「うん?」
「怪我人ができたのかね」
「さうだ。大したことはない」
「ふうむ」
 徳次はいつのまにか腕組みをしてゐた。あのあてずつぽうな、そゝつかしい、りきんだ様子が現れてゐた。
 房一はそれに目をとめてゐたが、急に強い口調で、
「君に云つとくが、何んだぜ、小倉組の者なんかにかゝり合ひをつけちやいかんぜ」
 徳次は慌てた。
「何かね、わしがどうしたといふんかね」
「いや、何もしたといふわけぢやない。これから先きのことだよ。かゝり合つちやいかんと云ふんだ」
「いや、そんなこたあ、――そんなこたあしませんよ」
「あいつらと来たら、すぐこれ! だからね」
 房一は刃物で突く恰好をしてみせた。
 徳次は一種くさめをする前のやうな、けむたげな表情になりながらわき見をしたり、房一を眺めたり、どぎまぎして答へた。
「いや、――わしはそんなこたあ嫌ひだ」

     四

 八月も末だつた。十日あまり思ひがけない涼しさがつゞいたので、このまゝ九月に入るのかと思はれたが、暑さは又ぶり返して、がまんがならないほどだつた。
 大石練吉は日盛りの往診からもどつて来ると、暑さのために不機嫌さうな顔になりながら、自転車を手荒らに立てかけ、とりつけた鞄もそのまゝにして、のつそりと診察所から上つた。
 入るなり、
「おい、ビールは冷やしてあるかい」
 と、大声で訊いた。
 出て来たのは紅い手をした看護婦だつた。台所の方へ行つて何やらまごまごし、しばらく立つてから、
「はい、あの、切れて居りますが」
 と、おづおづ答へた。
「なに、切れてるつて?」
 見る見る癇癪かんしやくを起しさうになつた練吉は、その時ふと或ることを思ひ出して黙つた。
 彼の妻の茂子は昨日実家へ帰つたばかりで、この家にはゐないのである。
「あゝ、さうだつた。なあんだ!」
 さう云ひたげに、練吉は近眼鏡の奥で切れの長い目をぱちぱちさせ、ちよつとあたりを見まはした。一種気楽げな表情がたちまちその顔に浮かんだ。
 それは何となく不思議なことだつた。家にゐたところで別に賑かにしやべり立てるわけでもなし、むしろ年中窮屈さうに不服ありげに無口で固い顔をしてゐる茂子が、今この家にゐないと知つただけで、こんなに伸び伸びし、自分がさう思ふだけでなく、そこらにある家具までが何となく気楽さうに見えるとは!
 それに、茂子がこんな風にひよいと家を出て実家へ帰つたまゝ、十日も二十目ももどつて来ないなんてことは、別に珍らしいことでもなかつた。たゞ、この半年ばかりは落ちついてゐたのである。もう慣れつこになつてゐる。そのうち又舞ひもどつて来るだらう。来なければ来ないで、それでもちつとも差支へはない。要するに、どうでもよかつた。居ない間が気楽といふものだつた。
「坊は?」
 と訊くと、遊び友達と河へ行つたといふ返事であつた。
 母家の方には父親の正文がゐるのだらうが、ひる寝でもしてゐるのか物音がなかつた。練吉は井戸端へ出て身体を拭くと、居間になつてゐる診察所の二階へ上つて来た。その途中で、看護婦に自転車の鞄を外して、中にある処方の薬をこしらへて置けと云ひつけた。そして、さつき配達されたばかりの前日の新聞をつかむと、腹ばひになつて読みはじめた。
 看護婦がそつと上つて来た。
「あのう、笹井へ往診がございますが」
「笹井?――御隠居さんが云つたのかい」
 それは正文にかゝりつけの患家だつた。
「はい、若先生に代りに行つてもらへとおつしやいました」
 練吉は永い間黙つてゐた。それから、いかにもいやいやな調子で、
「うん、行くよ。――だが、夕方でいゝだらう」
 云ふなり、ごろりと仰向けにひつくり返へると、新聞を持ち上げ、眼をぱちぱちさせ、やがてうとうとしはじめた。すると、面長な、普通よりもよほど大きい練吉の寝顔には、年に似合はない駄々児のやうな表情が浮んだ。

 その塗りの色の落ちついた外まはりの築地塀、よく拭きこまれた廊下、塵一つ落ちてゐない部屋々々、渋い雅致のある床の置物だの掛軸、これらすべての上に現れてゐるどこか神経質でさへあるよい趣味と堅固さ――さういふ外見にかかはらず、大石医院では年来をかしなごたごたが繰り返されてゐた。
 結婚してもう三四年になるが、いまだに出たり入つたりを繰り返してゐる茂子は、練吉にとつては三度目の妻だつた。最初のは男の子を一人のこして去つた。二度目は半年もたゝないうちに大石の方から帰した。今度の茂子の場合だつて、当人も居辛からうが、大石の側でも面白くはない、どうでもいゝと云つた調子であつた。そして、ふしぎなことにはかういふ態度は大石の正文老夫婦から出てゐるので、練吉の方は吾不関焉われくわんせずえんといつた風があることだつた。
 たしかに、「家」に関するかぎり、正文老夫婦が口を利くべきだつた。おかげで、練吉はかういふことにつきもののいざこざの矢面に立たなくてもいゝわけであつた。それから、どうなつたにしても練吉自身の責任は免れるといふものだつた。――「まさに、おれはこの年になつても子供だ。子供は親の云ふことを聞くものだ」と、練吉はいくらか小狡こずるく又いくらか皮肉げに傍観してゐた。
 ――「それに、おれは今まで散々したい放題のことはして来た。そろそろ、親の云ふことは聞いてもいゝ頃だ」
 その住居の端々はしばしにまで行きわたつてゐる潔癖さは、同時に大石正文夫妻の年来の好み、その生活の信条といつた風なものをも漠然と現はしてゐた。
 節度、克己、厳正、高雅、忍耐、――これらの、その内実に於ては達しがたい、しかも外見の立派さのために容易に人を惹きつけ易い徳は、漢学の素養のある正文にとつては親しみのある、又好ましいものだつた。彼は一人息子だつた練吉に望みをかけ、きびしい育て方をした。中学を出る頃までは良家の子弟らしく温和おとなしい一方だつた練吉は、医専へ入つて親の手許を離れた時分から急に人間が変つたやうに見えた。女の味をおぼえたのである。最初は女学生との関係であつた。次は年上の婚期のおくれた女と馳落かけおちした。その次は芸者だつた。どれもこれも殆ど生き死にをするやうな騒ぎであつた。一変して放蕩息子と化した練吉に仰天した正文は、この時覚悟をきめて、練吉はまだ学生の身だつたが、その芸者を嫁に迎へることにして、学校の所在地で家持ちをさせたが半年とつゞかなかつた。女が結核になつたせゐもあるが、別れる時にはかなりの手切金をとられた。
 練吉は卒業するとすぐ医専附属の病院に勤務した。今度は正文の指金で、釣合のとれた家から正式に嫁を迎へてやつた。男の子が生れたし、これで落ちつくかと思はれた。が、その三年間にも練吉の女狂ひはやまなかつた。おしまひには遊び人と内縁関係にある、子供まである酒場の女にひつかゝつた。しかも、その女を得たいために、その女と前夫とを別れさすための手切金まで出すといふ始末だつた。その間のごたごたでごく普通のお嬢さん育ちだつた嫁はたまりかねて出て行つた。その後で女とも別れた。出て行つた嫁の実家との交渉が永びいた。すると、その最中に又もや隣家の寡婦と関係ができたのが、先方に知れて、たうとう破談になつた。こんな風に別れる度に、手切金だの慰藉料だのいふ名目で、結局しぶりながら正文の手もとから金が出た。
 正文はもう練吉に大した望みはつないでゐなかつた。ただ一人前の医者にさへなつてくれたらそれでいゝと思つてゐるらしかつた。それでも、目にあまるので何かと云ふと廃嫡といふ言葉を口にするのだつたが、効き目はなかつたやうである。そして、あんなに厳格だつた正文がこんなに度重る息子の不始末に、一々尻ぬぐひをしてやるのもふしぎであつた。
 だが、さう云へば、一歩いちぶ非の打ちやうのない正文に練吉のやうな息子ができたこともふしぎにちがひない。事実、当人の練吉さへ、自嘲めいて時々さう口にするのであつた。
 ――「おれみたいな息子ができるとは、全くどうかと思ふよ」
 だが、練吉のひきつゞく不身持にはたつた一つの取柄があつた。それは隠し立てのないことだつた。どんな場合でもおほつぴらだ。そして、彼は云ふのだつた。――「おれは初恋の女がどうしても忘れられないんだ。親父やおふくろは、年の若い者の浮気位に考へてろくに相手にもしなかつたんだが、あの時頭ごなしに叱りつけないでいゝやうに舵をとつてくれたら、おれもこんな風にだらしなくはならなかつたんだ。あの女が忘れられないために、かうして次々とふしだらを重ねるんだよ。おれは子供の時から何でもかんでも、あれしてはいかん、これしてはいかんと圧へつけられて、まるで息がつけなかつた。それあ親父やおふくろは立派なきちんとした人達なんだ。それはそれでいゝが、僕は性質がちがふんだ。だらしないけれども、僕は僕なりに向きもあるし、考へもあるんだ。それをやかましく、やかましく押へつけられて、ぎうぎうにされて、おれは全くどうしていゝか判らなかつたよ。口に云へないほど辛かつたよ。そして、こんな風に変な人間ができたんだ。今さら、それを怨んだりはしない。だけど、おれは自分が思つた通りのことをどうしてもするんだ。これが真実だと思つたことは誰が何と云つたつて聞かないんだ。それが駄目なら死んだ方がいゝですよ。あゝ死にますとも。僕は何度もその決心をして来たんだ。たゞこの上迷惑をかけて、親父の名に泥を塗るやうなことになると困るからしないだけだ。いざとなつたらいつでもやつてみせますよ」
 この云ひ分はいつでも何かあるごとに、練吉の口に上つた。正文の前でも云つた。何年かの間繰り返された練吉の云ひ分だづた。
 それはまさに、多くの矛盾、手前勝手を含んでゐたにかかはらず、たつた一つの調子は常に変ることなく、何となく相手の耳に沁みこむ響を持つてゐた。それは、両親に絶えず圧迫され、理想化され、重荷を負はされて来た弱い子供の魂だつた。事実、彼は子供の頃から機械だの細工物だのいふ方面に特色のある才能を現してゐた。さういふ物をほしがつた。写真機、蓄音機、機関車の模型、それらをせがみ、片つぱしからこはし、次々と倦きて行つた。その倦きつぽさが正文を不安がらせた。殊に、そんな高価な玩具だの遊び道具は正文にとつて一種の贅沢物だつた。或る時、正文は思ひ切つて、それらの物を練吉から取上げた。造る物を見つけるとこはしてしまつた。抑圧した方がいゝと考へたものか、又欲しがる通りに与へて果していゝ結果になつたかどうかわからないが、いづれにしてもこの事は深く練吉の子供心を悲しませた。
 今や、それらのことは遠くなつてしまひ、他愛のない子供の日の思ひ出でしかなかつた。練吉は両親の希望通り医者になつてゐた。しかも、事あるたびに、この幼時に押へつけられた日の悲しみが突然、練吉の中に溢れ、それは永い間に積つた憤りのごとく、彼の運命の唯一の手違ひだつたごとく、彼の不身持の云ひわけにもなり、又正文への訴へといふ一種矛盾した形となつて現れるのだつた。
 一方、正文はこの大人と子供とざり合つたやうな、身体だけは大振りな、女にかけてはしたゝかな息子を前にして途方に暮れた。彼はあれほど自分の思ひ通りに仕立てようとしたにかゝはらず、思ひもよらぬ息子として現れた練吉に対し、今遅蒔おそまきながらその心底に立つて理解してやらうと試みてゐた。だが、何といふ支離支滅な、性懲しようこりもないふしだらだつたらう、どういふ風に彼の云ひ分に耳を傾け、どんな風に彼を認めてやればいゝのだらう――そこには何一つ彼の型にはまつた見方にあてはまるものはなかつた。ぐらぐらした、手に負へない、いたづらに父親である彼の胸を暗くし、息をつかせない思ひをさせる、愚かな、口の達者な、だが何となく見捨て切れないもののある、それは彼自身の息子にちがひないが、あれほど入念に手塩にかけたつもりでゐながら、彼の手などは一つと云へども加つてはゐないといふ気のする、得体のしれないものだつた。
 これが若し他人だつたら、或ひはかけがへのない一人息子でなかつたら、正文もいさぎよく結着をつけてしまつたらう。「道楽息子」――その一言で済むわけだつた。
 だが、道楽息子にはちがひなかつたが、それだけでは済まないものがあつた。正文はそのはつきりと理解できないこみ入つた或る物が、単にあらゆるものを切りすててもなほ残る、あの単純な愛情だといふことには気がつかなかつたが、漠然とそれに惹かれた。
 正文は練吉を附属病院から引かせて家へ連れもどつた。そして、大急ぎで第二の嫁を迎へた。多分、流石さすがに親に迷惑をかけ過ぎたと気づいたのだらう、練吉は温和おとなしく帰国することにも同意したし、何もかも親任せだといふ態度を見せた。見合ひのために、正文夫婦とつれ立つて隣県の市へおもむきもした。ところが、結婚式が済んで十日もたゝぬうちに、練吉は二度目の妻がどうしても嫌だと云ひ出した。そして、頻々と家を明けた。近くの町の料理屋で流連ゐつゞけするのである。正文は激怒した。だが正文が恰好をつけるに急で、慌てて結婚の話を進めたと同様に、相手の方でも何か過失があつて結婚を急いでゐたらしい。そして、この嫁もあまり出来はよくないらしく、正文の家の悪口を手紙に書いて実家に出した。たまたまその一通を練吉に托したところから、中味がばれ、正文は直ちに彼女を実家へ帰した。しかし結局は練吉の云ふなりになつた形である。
 今や事情は一変してしまつた。かつてぎよし易い息子だつた練吉は、正文の常識では計りきれないやうな矛盾、我儘を次々とひき起して、何とかして押へようとかゝつてゐる正文は殆ど息子の意のまゝになつてゐるのだつた。
 しかし、正文は自分が練吉のこねまはす泥の中に足をとられてゐるなどとはつひぞ思ひもしなかつた。外面的に折目立つたことの好きな正文には、どうにかうはべの恰好さへつけば安心するのである。練吉が男の子を一人抱へていつまでも独身では心許こゝろもとなかつた。だが、手を焼いてゐる。そのうち、練吉は自分の気に入つた女を見つけた。今度は息子が好きで選んだからよからうと、正文はすぐに事を運んだ。それが茂子である。
 練吉との間はうまく行つた。少くともさう見えた。ところが、今度は茂子といふ女がどうしても正文老夫婦の気に入らぬのである。茂子は若い気の好い性質だつた。それだけに物事が不器用だつた。練吉の息子の正雄はこの新しい母親に馴染なじまなかつた。それが正文夫婦には茂子の大変な欠点に見えた。正文は今ではさすがに練吉についてはあきらめてゐた。その練吉に失望したところのものを、今この孫息子の上に期待しはじめてゐた。練吉の場合にはきびし過ぎて失敗した。愛情でなくては育たぬものだ、と今正文は確信した。その正雄は、練吉の度重る不始末の間に、正文夫婦の手もとで育てられてゐた。今更、それをどう見ても満足できない茂子に引渡す気になれなかつた。
 練吉若夫婦は診察所の二階を居部屋にしてゐた。そこと正文夫婦の住む母家おもやとの間には一見して判る気風の相違が現れてゐた。正雄はそこへ近づかないやうに云ひふくめられてゐた。
「ふうん、それもよからう」
 練吉は小面倒なことが大嫌ひだつた。それに、正雄の父親として世話を見てやるなどは不似合だと自分でも思つてゐた。が、そんな風に彼自らだらしないと自認してゐたにもかゝはらず、練吉にはやはり良家の子弟らしい身だしなみのよさと一種の潔癖さが現れてゐた。そして、この点にかけては、彼も茂子に対する正文夫婦の見方に同意してゐた。
 だが、あんなに身勝手を通して来ながら、それを正文が許してくれたことは少からず練吉には意外だつた。それは子供の頃から頭に沁みこみ、こしらへ上げてゐた頑固な気むつかしい父親とは似ても似つかないものだつた。その、子供の頃に得られなかつた正文の愛情を、練吉は大きな身体をしてむさぼり味つたやうなものだつた。この意識は彼を一変させた。彼はしたがつて、今では一面善良な大石家の息子だつた。同時に、あの永い間に受けたきびしい圧迫の記憶は、いまだに或る作用を及ぼしてゐた。どんなにのんきさうに帰つて来ても、一たん家の中に入るや否や、何かしらむつとした、気むつかしい、わがまゝらしい表情もあたかもとつてつけた面のやうに知らず知らず練吉の顔に浮ぶのだつた。

「なんだつて、脳溢血?――そいつあ大変だねえ」
 練吉はまだ眼鏡を手にしたまゝ、不自然に大きく見える眼を極端にぱちぱちさせ、ぢつと房一の顔をのぞきこんでゐた。彼は今さつき、突然の房一の来訪でよび起されたのである。
「いや、たいしたことはないだらう、と思ふ。鼻血を出したからね。軽いとは思ふんだがどうもとしよりだから経過しだいでは副次症を起さんともかぎらんしね。そのへんのことが僕にはよく判らないんだ」
「ふむ、ふむ」
 練吉は意外なことを耳にしたといふやうにちよつと房一を眺めたが、熱心に聞いてゐた。
 房一の老父、道平が二三日前に倒れたのだつた。そして、今、練吉に対診を求めて来たのである。
「いや、危険はまづない見込だ。だが、何と云つたらいゝか――」
 その時、突然練吉は、房一がさう云ひかけたまゝ当惑した表情になつたのを見た。
「なにしろ、迷ふんだな」
 房一はいかにもそれがやり切れない、と云つた風に吐き出すやうに云つた。つゞけて、
「かう云ふと、君は笑ふかもしれんが、自分の親だの子だのいふ者を診るのはじつに困るんだ。なんだかそはそはしてね」
 実際、練吉の滑つこい気持よくふくらんだ頬には、その時ちらりとした微笑の影がさしてゐた。
「いや、さういふことは人によつてはあるんだよ」
 と、練吉は急いで云つた。
「まあ、とにかく、御迷惑かもしれないが、一度御足労を願ひたいと思つてね」
「あ、いゝ、いゝ。なんでもありやしない。今すぐ行かう」
 練吉は立ち上つた。正文の代りに往診をたのまれてもあんなにいやいやだつたにもかゝはらず、今の彼はまるで打つて変つた気軽るさだつた。

     五

 風はすつかり途絶えてゐた。
 もう日盛りの時刻はとつくに過ぎてゐたとは云へ、半ば傾いてそのためによけい濃くなつた日ざしは河原町の上に、それに沿つてゆるく曲つた川、周囲の山地の上に、こゝぞといふ風に照りつけてゐた。
 そして、こんなにはつきりした明るさの中で、もう十分に伸びつくした草地だの山地の樹木は、やたらにもくもくし、ぢつと息をつめてゐるやうであつた。それは全体に黒つぽい様子をしてゐた。そのいくらか濁つた、一杯に成長し切つたことを示す黒味の中には、何かしらすぐ傍までやつて来てゐる九月の爽やかさを感じさせるものがあつた。
 練吉と房一は、川沿ひの路を、肩を並べて自転車を走らせてゐた。
「ドイツの潜航艇が又イギリスの商船をやつつけたさうですね。――なにしろ海の底をもぐつてゐて、ぽかつと出てくるんだからねえ、やられた方ぢやさぞおつたまげるだらうなあ」
 練吉はさつきから一人で喋つてゐた。
 ドイツ潜航艇の英商船撃沈はその年の一月頃からはじまつてゐた。日本も交戦国の中に入つてゐたにちがひないが、商船の被害も大したことはなく、日本の艦隊は太平洋方面に出動してゐるらしかつたが、南洋占拠をのぞいては格別報道されることもなく、したがつて欧洲大戦による日に上昇する好景気の他には、戦争をしてゐる気分は殆どなかつた。
 とにかく、それは遠い向ふで起つてゐることだつた。対岸の火事を見物するやうなものだつた。
「印度洋の方では、何とかいふ軍艦がたつた一隻でばれまはつてゐるんだつてね。それがちつともつかまらないと云ふから面白いねえ」
「うむ、うむ」
「それあ、さうだらうなあ。なんしろ広い海のこつた!――ねえ、君」
 練吉は一人で感心し、それでも足りないと見えて、房一に呼びかけた。
「――さうだな」
 房一は暑さのために鼻の頭に汗粒を浮かべて、気のない調子で相槌を打つた。その様子でも判るとほり、彼はさつきからまるで別のことで気をとられてゐた。

 老父の道平が卒倒した今はちやうど房一の忙しい時期だつた。と云ふのは、彼の患者の大部分を占めてゐる農夫達は農閑期に入ると、それまでがまんをしてゐたために急に病気になつたり、ぶり返したりするのであつた。道平はここ三四日の間が危険期だつた。房一は殆どつき切りで、間には何度も家の方へ来る患者の診察にも帰らねばならなかつた。
 しかし、さういふ身体の忙しさより何よりこたへたものは、房一にとつては肉親の大病を診察するといふはじめての経験だつた。
 彼は道平の息子で、且つ医者である。これほど病人にとつても周囲の者にとつても安心できることはなかつた。彼等は医者としても房一を信頼し切つてゐた。若し仮りに、房一が医者としての手落ちを来し、そのために死を招いたとしても、恐らく病人は安んじて瞑目したであらう。なにしろ、息子の手にかゝつてゐることだつた、これ以上の幸福があらうか――房一が診察してゐる間ぢゆう、ぢつと身体を任かせ切りにしてゐる道平の半開きの眼が、まだ口が利けないので、房一が何か云ふたびにうなづいて見せるその弱々しい、うるんだ眼が、さう云つてゐた。
 だが、房一はそれを感ずれば感ずるほど、何かしら云ひがたい不安を覚えた。それは、病症の不明な患者に対するときに間々あるやうな技術的な不安ともちがつてゐた。一種肉体的な恐怖、とでも云ふやうなものだつた。
 父親の眼を開けさせてみる。すると、その白い曇りのできた、大きな、力のない眼の中には、医者としての房一が知り得る以上のもの、何かしら深いほのめくものが、何かしら房一自身の奥にもぢかにつながつてゐる、微妙な、過去の記憶といつしよくたになつた或る物が、ふしぎな力で彼の方を眺めてゐるのを感ずる。はだけた胸に生えてゐる一つまみの白毛、ひからびて弾力を失つた皮膚、横臥してゐるために腹部が落ちこんで、そのためによけい突き出すやうに持上つて見える肋骨の形、茶色がかつた紫色のあざのやうにぽつりとひろがつてゐる乳部の斑点だの、――さういふものは、房一の扱ひ慣れてゐる「患者の肉体」ではなく、一つ一つが見覚えのある特長を帯び、そこに父親といふものの形を感じさせ、それまで迂濶にも忘れてゐたもの、隠れてゐたもの、眠つてゐたもの、このあらはになつた肉体と房一との間に結ばれてゐるあの無数な、生まな感情が、おびたゞしくふしぎな強さで押しよせた。それと共に、何だかうしろめたいやうな、愛情の混乱と云つた風な奇妙なこんぐらかりが、房一の内心に苦痛と動揺とをよび起した。
 彼は自信を失つた。それにこの苦痛と動揺は明らさまに説明しにくい、説明したところで判つてもらへない種類のことだつた。房一はそれを盛子の妊娠の揚合にも経験した。
 盛子ははじめ打明けたとき、房一が悦んで早速念入りに診てくれるものと思ひこんでゐた。彼はたしかに驚いて、ぽかんと口を開けさへした。それからまじまじと盛子を見つめ感心したやうに、「ほう、さうか」と呟いた。が、それだけだつた。一二度症状を訊いたきりだつた。つはりだつて、あるかないかわからない位軽くはあつたが、別に注意してゐる様子もなかつた。盛子は時折診察を求めたが、房一は生返事をして、何かしら尻りごみするやうに、臆病げな目つきでちらりと盛子の下腹部を眺めるだけであつた。盛子の心にしだいに疑惑が生じた。「ひよつとしたら、あの人は子供ができたのを悦んではゐないのではないかしら」それから、「つまり、私といふ者を愛してはゐないのではないかしら」と。この思ひもよらない考へは、他に考へやうがないために、いかにも本当らしく見えた。たうとう、盛子はなまめかしい発作を起して、房一につめよつた。
 房一は慌てて、診察にかゝつた。その後で彼は云つた。
「どうもおれは、身近かな者だと平気で診られないんだね」
 済んでもまだ、彼の顔は何かしら当惑した、おつかなびつくりといつた表情を浮かべてゐた。それは何だか、嫌な仕事をさせられた子供のよくやるやうな表情だつた。突然、盛子は了解した。そして、笑ひ出した。――このいかつい、頑丈な、むくむくした房一の中には、こんなに気の弱い、やさしい、何だか可愛げなものがあるのだつた。それは全く、彼には不似合なものだつた。それだけに、可笑をかしみのある、又親しい――。
 だが、盛子の場合とちがつて、道平のそれはもつと重かつた、そして、もつと直接だつた。これが普通の患者に対するときだと、たゞ聴診器を持つて坐つただけでよかつた。何も考へないで、感じないで済んだ。ところが、道平を診るとなると、この医者らしさがどつかへふつ飛んでしまふのであつた。判断ができないわけではない、だが、判断以上の何かしら得体の知れないものが彼の自信を失はせるのだつた。できることなら、医者としてではなく、単に息子として父親の傍に坐つてゐたかつた。医者の仕事は誰か他の人に任せてしまひたかつた。
 房一はすぐと、大石練吉のことを思ひ浮かべた。大事をとるといふ名目で、彼の対診を求めることにしたのである。

「え、御老人、どうしました? 苦しいですか」
 さう声をかけながら、練吉は近眼鏡の下から切れ目をぱちぱちさせ、気安げに、眠つてゐる道平の顔の上にのぞいた。
 病人は眼を開けて、しばらくこの息子とはちがふ医者を眺めた。軽い不審と失望の色が浮かんだやうに見えたが、すぐに閉ぢて、かすかにうなづいた。
「うむ、判る?――ね?」
 と、練吉は房一の方をふりむいた。
 それから上着を脱ぐと、ワイシャツの袖をまくり上げて、診察にかゝつた。無造作にひよいと病人の瞼をつまみ上げ、めくつて、眼の色を調べた。半裸体のむき出しになつた腕をつかんで静かに屈伸させた。顔面の皮膚をひつ張る、足を立てさせる、今度は足の裏を見る、――それはまさに手慣れた、素速い、注意深い動作だつた。まさしく、医者といふものだつた。
 恐らく、房一も他の場合にはこれと似たりよつたりの動作をやるにちがひない、たゞ道平に向ふとこんなに易々とできないのだ。
 練吉は時々、「うむ、うむ」と呟き、房一の方をふりかへつては「ね?」と、同意を求めるやうに云つてゐた。
 一わたり済むと、練吉は最後にもう一度注意深く病人の顔をぢつと眺め、
「すみましたよ。さあ。何でもありませんなあ。ぢき起きられますよ。ごく軽いんですからね」
 と、大声で云ひ聞かせた。
 間もなく二人は来た時と同じに、つれ立つて、いくらか日蔭のできた路を、どういふものかどちらも自転車に乗らうとはしないで、押しながら歩いてゐた。
「どうも御苦労さま、暑いところを」
 と、房一はほつとした面持になつて云つた。
「いや、なに」
 練吉は、癖だと見えて、折角きちんとかぶつて出たカンカン帽をいきなり指で突き上げて阿弥陀あみだにすると、いかにもだらりとした様子で歩き出した。それは、さつき別人の観があつた、てきぱきした、俊敏な医者らしい練吉から、もとの彼に逆もどりした風であつた。
 しばらく黙つてゐた後で、房一は
「それで、――どうかね?」
 と訊いた。
「それで――? あゝ」
 練吉は眠気から覚めたやうに、
「何でもないぢやないかね、君から聞いたとほりだ。心配することはないと思ふな」
「血圧は少し下つたしね」
「さうだ」
「脚気の方は?」
「うん、あの程度だと別に影響はないんだらう」
「ふむ」
 房一はまだ考へ深さうにしてゐた。
 練吉はちらりと眺めた。そして、彼のところへ対診を頼みに来た時にも気づいた、あの当惑したやうな小心な表情が今も房一の上に現はれるのを認めた。それはたしかに観物だつた。この男に、こんな気の小さいところがあらうとは! そして、こんなに丸出しにして見せるとは!
 ――もともと、練吉は房一から対診を頼まれたことさへ少からず意外だつた。これが若し、自分の場合だつたら、それは弱味を見せるといふことだつた。彼はまだ、房一に対診を頼むやうなことはつひぞ考へたことはなかつたし、これから先だつてそんなことを考へつきはしないだらうと云ふより、練吉には漠然と、房一を自分と同じ医者だと見る気にはいまだになれなかつたのである。
 彼は、医師検定試験といふものが実際は医専を出ることなんかよりはるかにむつかしいものだと知つてはゐたが、しかし、正規な教室で得るところのものは難易にかゝはらない何か別の正統さといつたやうなもの、より科学的な、――つまり、医者らしさだといふことを、心のどこかで信じてゐた。それが、房一には欠けてゐる、といふ風に思はれた。
 しかし、いづれにしても、房一がかういふ率直な頼み方に出たことは練吉の気をよくした。彼は熱心に診た。この結果が房一の診断と大差なかつたにもせよ、たゞそれだけでほつとした面持になつた房一を見ると、練吉は何かしらいゝことをしたやうな気にもなつた。軽蔑とまではいかないが、たとへ心ひそかに房一を医者として自分と同列に考へなかつたとは云へ、そして、肉親を診る時に心が乱れて困るといふ房一の打明けををかしがりはしてゐたものの、この房一の隠すところのない当惑の様子、その正直さは、知らず知らず練吉を同化させるやうなものを持つてゐた。
 彼は近来今日ほど熱心に注意深く患者を診たことはなかつた。今までは単に顔見知りだといふにすぎなかつた高間道平といふ一介の老人、しなびた、日焼けのした肉体を、たゞそれだけでない、ふしぎと一脈のつながりあるものとして見た。それは又、この紅黒い、むくむくした房一にもつながつてゐるものだつた。そのどこから来たとも知れない、ぐつと身体を近づけたやうな親しさを、今、練吉は隣りを歩いてゐる房一に感じてゐた。
 二人はなほ専門的なことを二三話し合つた。それから、どちらからともなく自転車に乗つた。ペタルに足をかけるときに、突然、練吉は心に浮かんだことを押へかねて、叫んだ。
「あれだね、君は見かけによらない――親思ひなんだね!」

     六

 途中で練吉と別れた房一は、道平の病気のために手の廻りかねてゐた患家先きへ二三軒立ち寄つてゐるうちに、案外時間を喰つて、帰途についた時はもう暮れ方であつた。
 最後に行つた家は河上の小一里るある辺で、そこいらは人家は数へるほどしかなく、河つぷちに沿つた段々畑の中を幅の広い国道だけがほの白く浮いて、次第下りに河原町の方へつゞいてゐた。軽くペタルを踏むだけで、彼の乗つた自転車は半ばひとりでに快い同じ速度で走つた。
 暑さはもうなかつたが、生温いぬくもりが時々顔を打つた。房一は空腹を覚えた。それにぼんやりとした疲労があつた。道平が卒倒してからは、まだ一週間になるかならぬかであつた。だのに、もう半年も前から、こんな気忙きぜはしい状態がつゞいてゐるやうに思はれた。
 一方には盛子の妊娠があつた。それは気を痛めるやうなものではなかつたが、やはり房一の存在の奥深く喰ひこみ、そこに微妙な、ふしぎな目に見えない点を植ゑつけた。道平の病気は彼を動揺させた。この二つは房一にとつては切つても切れないものだつた。そして、そこには或る一つの脈絡と対比が、生れるものと去つてゆくものとが、今や動かしがたい明瞭な兆候となつて現れてゐた。それは今までたゞ一方的に無我夢中だつた房一をひよいと立ちどまらせ、彼をもあらゆるものをも抱きこんでゐる大きな流れが、突然きらりとそのありのまゝの起伏、その横顔といつたものを見せたやうに思はれた。いや、見せただけではない、知らぬまに、予期せぬうちに、彼はまさしくその茫漠とした果しないものの中に身体ごと足を踏みこんでゐるのを、彼のまだ考へたことのないあの人生といふものが疑ひもなく彼の上にはじまつてゐるのを感じた。
 気がつくと、房一はさつきよりもぽつと明い、青味を帯びた中を走つてゐた。いつのまにか月が出たのだ。鉄橋を渡つて、町の中に入つた。月明りはこの人気の少い町一杯に輝いて、うるんで、物の形を一様な柔い調子の中でくつきりさせてゐた。
 が、自分の家の前あたりまで来たとき、かなり先きの通りに四つ五つの人影が黒くかたまつて立つてゐるのを見た。何をしてゐるのか判らない。房一はそのまゝ家の中に入つた。
 風呂にゆつくりとつかつた。
 身体を拭きにかゝつてゐると、台所の土間の方で、誰か来たらしい、盛子に向つてしきりと何か云つてゐる声が耳に入つた。それは、せきこんだ、悲しげな、訴へるやうな女の声だつた。
 瞬間、房一は緊張した。道平が急変したのかと思つた。さうではないらしい。急患だらうか。それだと、こんな風ではなく、もつと低くおろおろした風に云ふ筈だ。彼は手をやめて、耳をすませた。
「徳次」だの、「橋本屋」だの、「殺されかゝつてる」、「小倉組」だのいふ言葉がきれぎれに耳に入つた。
「ねえ、大変! 早く」
 盛子は風呂場の入口で上はずつた声を出した。
「うん」
「徳さんが、――今、そこに、おかみさんが来てるんですわ」
「うん、何かア」
 やがて、ろい、けたやうな返事をしながら、房一の湯上りでよけい赤紅あかく輝く顔がのぞいた。彼はゆつくりと兵児帯をまきつけてゐた。だが、その様子とはおよそ反対なつい、きらりと光る目で、盛子のうしろに、半泣きになつた、取乱した青い顔で立つてゐる徳次の妻、ときを見た。
 ときは房一を見ると、殆どすがりつきさうになつた。そして、口をひきつらせ、上半身を揉むやうにして訴へかけた。

 橋本屋といふのは下手にある、こゝらで唯一つきりの小料理屋だつた。夕方、そこで近在の馬喰ばくらうが二人のんでゐた。徳次がそれに加つた。大分酔がまはつた頃、一人の男が黙つて入つて来た。それはゴマ塩頭の薄いメリヤスシャツの上に夏背広をぢかに着こみ、巻ゲートルに短靴をはいた、初老に近い痩せ身の男だつた。
「おい、ビールをくれ」と、しやがれた低い声で云ふと、土間の安テーブルの前に腰を下した。
 この男が入つて来たとき、徳次の仲間だつた二人の馬喰は急にぴたりと話をやめた。そして、落ちつきのない眼で時々そつと男の方をぬすみ見た。男はぢろりと一瞥した。それは荒い皺が隈取りのやうに走つてゐる顔だつた。だが、それきり三人の方を見ようとはしなかつた。
 馬喰達はそつと肱をつゝき合つた。徳次は「鬼倉」といふ言葉を聞いた。そのとき、彼のきよろりとした、酔つた眼の中には、突然いかにも心外さうな、又跳ね上るやうな色が動いた。彼はちよつとぐらりとし、目をつむり、それからぐつと男の方をいどむやうに眺めた。馬喰達は小声で、出よう、と云つた。が、徳次はきかなかつた。もう一度大きく上半身をぐらりとさせ、大声で、
「いや、わしは出んぞ」と叫んだ。
 男はその時、案外なほど寂しみのある表情を浮かべ、頬杖をついてぼんやり戸口の方に顔を向けてゐたが、眼だけをちよつと動かせた。だが、知らぬふりでビールを口へ持つて行つた。
 馬喰達は出て行つた。徳次は残つた。一人でぶつぶつ云ひながら、宛かもそれで勇気をふるひ立たせようとするかのやうに、さかんに身体をぐらぐらさせた。その度に、彼の敵意は露骨になつていつた。橋本屋の主人は何とかしておとなしく引上げさせようと骨を折つた。が、それはかへつて徳次を興奮させた。主人の引きとめる手を払ひのけながら、彼はつひに鬼倉の前にどかりと坐りこんだ。
「きさまか、鬼倉ちふのは」
「なに?」
 鬼倉は低い声で、はじめてぢつと相手を見た。が、それつきりだつた。動きもしない。徳次は何故ともなく一寸ひるんだ。が、又、
「鬼倉ちふのはきさまかと云ふんだよ。あんまり、この近所の者をいためてもらひますまい」
「いためた?」
 鬼倉は一瞬、相手を地着きのごろか何かと思つたらしい、一種の殺気をひらめかした。
 徳次は又ぐらりとした。
「さうよ。てめえはその大将だらう」
 それは何となく「素人しろうとくさい」滑稽な云ひ方だつた。手こずつた主人がしらせたので、徳次の家からは家内のときが駈けつけて来た。泣いてとめた。半ば耄碌もうろくした父親も足をひきずつて来た。だが、騒ぎが大きくなるにつれて、徳次は前後を忘れてしまつた。はじめはうるさがつてゐた鬼倉もたうとうおどすつもりで短刀を抜き食卓の上に突き立てた。徳次は瞬間ぐつと大きく開けた眼をその白く光るものの方へ近づけた。もう何だかよく判らなかつたのである。やがて、突然、彼は見た。その不気味な白い刃を。或る一つの意識が、その危険さを認め、身ぶるひをさせた。が、すぐに、あの忘れがたい憤り、血に対する恐れと、それに反撥する怒りとがいつしよになつて噴き上つた。だが、次の瞬間には、酔ひの廻つた彼の頭はその光るものを忘れさせた。たゞ怒りだけがのこつて、燃えて、それも何かしらあたりの泣き騒ぐ音とごつちやになつてしまつた。彼は、鬼倉にぶつかつてゐる気で、しきりと食卓の堅い縁にはだけた胸をすりつけながら叫んだ。
「さあ、殺せ。――うむ、え、さあ。――え、え」

 ふいに、徳次はしたゝかに横頬を殴られるのを感じた。容赦のない力が彼の首すぢをつかまへ、又やられた、一つ、二つ。それは、突然うしろからやつて来た。何だか判らなかつた。そして、抵抗するはずみを失ひ、きよとんとして見上げた。
 そこには、房一の紅黒い、怒張した顔があつた。いつのまにやつて来たのだらう、徳次はぎゆつと片手で押へつけられたまゝだつた。そして、房一の怒声を聞いた。
「きさま! あれほど云つたぢやないか。何んだこの真似は!」
 徳次は気が抜けたやうに、口のあたりをもごもごさせるきりだつた。
 何かしら、すつ飛んでしまつた。白い光るものも、鬼倉の隈取くまどりのやうに荒い皺の走つた顔も、それからあの、もやもやした怒りも。そして、ぼんやりとして次のやうな話がとり交はされるのを聞いてゐた。
「どなたか知りませんが、この男が御騒がせしたさうで、御無礼でした」
 房一は鬼倉に向つて叮重ていちように云つた。
 相手はさつきから黙つて、房一と徳次の様子を眺めてゐた。さすがに気が立つてゐるらしく、節くれだつた手首を食台の上でこねるやうに動かしてゐた。そして、徳次よりもはるかに手答へのあるらしいこの男が何者か見究みきはめようとして、どこか気を配つた様子だつた。
 そこに、房一は、酒のために紅くなつてはゐるが、そして、まだ額のあたりに筋張つた色が立つてはゐるが、やゝ前こゞみになつた半白の頭を見た。それは河原町の人などには見られぬ線のらさとどぎつさこそあつたが、想像したよりもはるかに老人だつた。
「さういふあんたはどなたで?」
 と、やがて相手は訊き返した。声音は落ちついて低かつたが、その裏には場合によつてはまるで反対の強さに瞬時に変りかねないことを感じさせる力がこもつてゐた。
 房一はその時、これは思つたより以上に面倒だな、と感じた。この場だけを円めればいゝといふわけにはゆくまい、云ひがかりをつけられるかもしれぬ。それから、徳次をこの場から去らせても後で鬼倉の配下の者に狙はれるかもしれぬ、といふことを突嗟とつさに考へた。彼は腹をきめた。そして、相手の顔に目をつけながらゆつくりと答へた。
「いや、私はすぐこの近くで医者をしとる、高間といふ者ですが」
「あゝ、お医者?」
 と、鬼倉は意外に思つたらしい。小首をかしげてゐたが、
「高間さんと云ふと、――ふむ、そんなら、わしとこのもんが度々御厄介になつとる先生ですかな」
「さうです、小倉組の方ですな」
「や、さうでしたか。それは――」と、鬼倉は目に見えてやはらいだ。
 ――「それでは、わしの方からお礼を云はなきあならんのです。どうぞ、よろしく願ひますわ」
 そんな風におぼえてゐてくれるとは思ひがけなかつた。
 うまい工合だと感じた房一はすかさず云つた。
「いや、どうも。――この男は私のごく懇意な者ですが、酒癖がわるいので、まあ今夜のところは大目に見てやつて下さい」
「いや、いや」
 と、鬼倉はすつかり他意のない様子で答へた。
 そして、食卓に突き立てたまゝになつてゐる短刀を、火箸か何かつかむやうな、無造作な素速い手つきで抜きとると、鞘におさめて腹帯の内側へ入れながら、
「かういふ玩具おもちやのやうなものを出して、年甲斐もないことでした」
 と、云つた。
 その短刀は、房一が入つた時すぐと目を射たものだつた。そして、今の今まで、彼は絶えずその不気味な輝きをすぐ傍にしながら、わざと目に入らない風を装つてゐたのである。とは云へ、彼も亦こゝへとびこんだ瞬間から、一種の無我夢中だつたことは間違ひない。その刃が静かに鞘の中に滑りこむのを目にした時房一ははじめて背筋がひやりとするのを覚えた。

   第四章

     一

 八月末の思ひがけない冷気の後で又暑さがぶり返し、それは永くつゞいて、もうがまんがならないと云ふ頃に一寸色目をつかつた風にしのぎ易くなつたが、それも一日か二日で又もやぶり返し、今度は前ほどではないにしても緩漫に、のろのろと、いつまでも同じやうな暑さの日がつゞいて、九月に入り、九月の半ば過ぎてもまだちつとも初秋らしい気配は見えなかつた。あの夏も頂点を過ぎたのだと思はせたやうな草木の黒つぽさも何かの間違ひ恐らく人間の希望的観測といふやつだつたのだらう、その黒い沈んだ色さへ不機嫌さうにいよいよ黒つぽく見えた。
 が、或る日切つて落したやうに、例外だといふ風に、一日だけ何だか季節がためらつたやうに暑くも涼しくもない日があつたかと思ふと、次にはあの初秋の前触れである強い南風が吹いた。それは暑いといふよりは何だかしする、騒々しい、遠く起つたかと思ふとすぐ間近かにやつて来、草木をなびかせ、捲き、吹きつけ、魂をゆすぶるやうな大きな小止みのない風だつた。それは風と云ふよりは何か素晴しく太いものを感じさせる大きな物音だつた。まさにその通り、はじめは笹鳴りをさせ、立木の枝をうならせ、戸をがたつかせ、埃を広い幅で駆けさせてゐたものが、しまひにはそれらをたゞ下界の騒々しさといふ中に押しこんでしまひ、おさへつけ、自分ははるか中空をもつと高い方を何ものにもさまたげられることなく悠々と巨大に傍若無人に吹き抜けて行くのであつた。それは風ではなく季節の通り過ぎる音だつた。やがて雨を伴ひ、あらゆる物の上にたゝきつけ、浸みこませ、溢れさせ、一日か二日でけろりとし、青い空をのぞかせ、それでもなほ切れ切れの雲を、はやい怪物のやうな想像しきれぬ形の雲をひつきりなく走らせて、おれはまだ完全に通り抜けてはゐないぞ、気をつけろ、と知らせてゐるやうに見えた。
 かうして、やつとこさ初秋の爽かさがやつて来た。が又、風だ。生温い、暑さのぶり返しを思はせる蒸し蒸しした空気、雨、それから青空、微風、快い乾いた空気、――こんな風にためらひ、一寸後もどりをし、又急ぎ足で駆け、季節は人々に型通りの見込をさせまいとするかのやうに見える、がその足どりの中には何か大まかな順調さが、あの自然といふものの単純な変化が歴然と現れて来る。人間が見込をはづされてぽかんとしてゐる間に、いつしか十月に入り、十月も終りに近くなり、あの快い乾いた、いくらか冷えを感じさせるあかるい空気が、毎年のことでありながらかつて一度もなかつたと思はせるほど、又一月や二月ではなく、永久につゞくと思はれるほど、来る日も来る日もつゞいてゐた。

 明いうつとりするやうな午後であつた。房一はトラホーム患者の婆さんに処置をして帰した後で、そこらを片づけ、先づ一服といふところで不断かけ慣れた廻転椅子に腰を下し煙草をくゆらしはじめたものの、それもほんの一吸ひか二吸ひで、そのまゝぼんやりと戸口の方を眺めてゐた。いや、眺めてゐたといふのはあたらない。彼は別に何も見てゐるわけではなかつたから。が、とにかく、彼の目の向いてゐる方には見慣れて、そのために見るといふ感じを起させない、あの高間医院といふ字を裏側からかし出した曇り硝子の二枚戸が片寄せになつて、そこに長方形のかつきりした戸口があり、それは宛かも節穴を通して眺める戸外が一種異様に鮮明に見えるのと同じ風に、その戸口からちやうど石畳の露地のやうになつた両側の築地塀と、そこで一所だけ区切られた表の道路、白い路面の輝き、その向ふに高まつた畑だの、そこに今は気早に黄ばんだ葉をつけ、その聞から紅味のさした円つこい実をのぞかせて、ぽつんと一本だけ立つてゐる柿の木、だのいふ物を何となく鮮明に何となく際立つて見せてゐた。かう云ふと、読者はもう、房一が前にも何度かこゝであの廻転椅子に身をうづめ、眺めるともなく戸口を眺めかがらぼんやり考へごとをしたことがあるのを思ひ出されるだらう。
 まさしく、それは房一の癖だつた。何か用がとぎれた時、この廻転椅子に腰を下すや否や、肥満して幅の広い体躯の房一には窮屈さうに見えたが、案外しつくりと云ふに云はれぬ掛心持かけごこちがあると見えて、そのまゝ彼は今云つたやうな姿勢とぼんやりした考へに落ちこむのである。それは何かはまりのいゝところがあるらしかつた。真新しかつた時の天鵞絨びろうどの輝きこそなくなつたが、それはまだ円々としたふくらみを持ち、毛並みの上にかすかにできた掛癖の痕は、それが布地のいたみを感じさせるよりも、もうかなり自分の身体に合つてくれたといふ馴染深なじみぶかさを感じさせた。だが、それは又同時に、河原町に帰つて以来の彼の生活を、その短くもあれば永くもあるやうな、まとまりのあるやうなないやうな一年あまりの月日を、多少とも何気ない風に示してゐるとも云へた。
 房一はさつき、まだ午飯ひるめしが終り切らないうちに、あのトラホームの婆さんにやつて来られたのである。ちやうどその時、盛子は房一によそつた飯茶碗を渡しながら、何気なく、ふいに、「早いのね、もう一年あまりたつてしまつたわね」と呟いたのであつた。すると房一は、自分では度忘どわすれしてゐたことを云はれでもしたやうにびつくりし、打たれ、感慨深げに、「ふうむ、さうだ!」と答へ、それでも足りないで、どういふわけか受とつた飯茶碗を手の中で廻しながらそれに見入つて、もう一度「ふうむ」と呟いた。若しこの時、トラホームによつて中断されなかつたら、この「ふうむ」はもつと形を変へて、二人の間ではもつと生き生きした会話がつづいたらう。だが、トラホームがその感慨の深まりと、成長を中断した。房一はそゝくさと飯をかきこんで、診察室に出て来た。この婆さんのトラホームは難症であつた。だが、病気ばかりでなく、婆さんそのものも甚だ難物だつた。婆さんはトラホームといふ病名を知らなかつたばかりでなく、云つて聞かせても、まるで悪名をかうむつたかのやうに、頑固に黙りこんでゐたから、治療をうけに通はせるやうに説き伏せるのに骨を折つた。だから、房一はトラホームばかりでなく、婆さんの頑固さにも対抗して、念入りに処置しなければならなかつた。さもないと、次の日から婆さんは通はなくなる恐れがあつたからである。
 で、この間に、いくらかそゝつかしいところのある、換言すれば、済んだことにはあまり気をとられない現実的な気質の房一は、たつた三十分前に盛子から聞いたときのあの驚きを忘れてゐた。一先づ用は片づいた。今日は別に往診もなかつた。で、かういふときの癖で、彼のあのはまりのいゝ廻転椅子に身体をうづめ、ぼんやりとした考へに落ちたのである。
 だが、あの感慨は、深まりかけていきなり出鼻を折られた感慨は房一の中に何かしら尾を引いて残つてゐた。それは人間の身体が静かになりあたたまつて来ると動き出す虫のやうに、どつかでもぞもぞしはじめ、ひとりでに歩き出し、遂ひにあたりにひろがつて、知らぬまに房一の身心をすつぽりと包んでしまつた。――開業してから一年あまりになる! その一年目はもうとつくに、二月近くも前にいつとなく、こつそり過ぎてしまつた。それは、あの季節の曖昧な変化のためだつたらうか。それなら、房一はそのことを今日盛子に云はれるまではすつかり度忘れしてゐたのだらうか。いや、決して! 彼ははつきり覚えてゐる。去年の九月にあすこの中庭の土塀のわきで無花果いちじゆくが色づいてゐた、それは今年も同じやうに色づいた。ちがつたのは、今年はうんと実がなつて盛子と二人では喰べきれなかつただけである。あのとき老父の道平と二人で坐つた座敷はまだがらんとして落ちつきを欠いてゐたが、今は別に家具がふえたわけでもないのに、何となくしつとりし、人の匂ひが浸みこみ、あのときのやうに乾いてゐないだけである。それは何も変つてゐないことである。同時に大した変り方である! 吾々は暦の上で立春だの立秋だのいふ区別をして、それを紙片にはつきり判るやうに印刷してゐる。だが一体、春はいつやつて来るのだらう、冬はいつやつて来るのだらう。温かつたり寒かつたり、暑かつたり涼しかつたり、それはとりとめもない曖昧のうちに何かしらどんどんやつて来、どんどん去つて行くのである。吾々は紙に印刷した日附だの文字だのでさういふものを捉へようとするが、つかまつた試しはめつたにない。それなら、房一が盛子の何気ない一言ですつかり感動してしまつたのはどうしてだらう?
 彼が感動したのは他でもない、決してつかまらない年月といふもののふしぎさ、その尨大な、とりとめもない曖昧さ、しかもなほ決して空虚ではない、いや空虚とその反対のものが一杯にまざり合ひ、ひしめき、微妙につながり合ひ、その或る時は軽快に、或る時は重々しく、何かはつきりしてゐるかと思へば混乱し、――さういふ得体のしれない経過のせゐだつたのである。
 たしかに、一年余りといふ年月は経過した。それは暦の上でもはつきり現れてゐるし、房一の身辺でもまがふことなく通過した。たしかにいろんなことが、予期したことも予期しないことも起つた。それにもかゝはらず、そこには何か了解しがたいものがあり、一口に一年といつてしまふにはあまりにはみ出たものがうようよして感じられるのであつた。これにくらべれば、彼が開業のはじめに空想したさまざまのことは、あの医師高間房一としてこの町にしつかりと根を生やすといふことは、どんなに小さくどんなに単純なものだつたらう。いや、彼の空想は着々として実現してゐた。何故なら、どこにも医師高間房一としての失敗は認められなかつたから。それでもなほ、彼の前もつて考へたことは、起つたことにくらべればとるにも足りないものだつた、といふ感じを抱かざるを得なかつた。そこには何か大きなものが、大きくつて親しい、落ちついたものが現れてゐるやうに思はれた。
 廻転椅子に肥つた身体を一見窮屈さうにはめこんだまゝ、房一はその捉へにくいものを捉へようとするかのやうにぢつとして考へにふけつた。回想はいろんなことに飛んだ。結婚当初の、あのはじめて我が手の中にしつかりとつかんだといふ気を起させた盛子の、しなやかな身体がつくり出す自然な女らしいしな、健康な溢れるやうな慾望、――口のあたりをもごもごさせる徳次、滑つこい河石、――相沢へ往診に行く途中の坂路で、ずつと上の方から自転車をぴかりと光らせながらだんだん大きく現れて来た、あの印象的な大石練吉との邂逅かいこうや、盛子の妊娠、道平の卒倒(その道平はあれから経過がよくて、今では多少不自由ながらぼつぼつ歩き出すほどになつてゐた)だのいふことが、その一つ一つはそれこそ手につかめるほどにはつきり目の前に浮んで来ながら、全体としてはひどく遠い前のことだつたやうにも又つい昨日のやうにも思はれるのであつた。それらのことは、房一とは切つても切れぬものとして、何かしら意味があるやうに感じられもしたが、同時に部分々々としては記憶の中で精彩を放つにすぎない互ひに独立した、単に印象の鋭いいくつもの火花のやうにも思はれた。それがあの一年といふものだつた。すべてが一年の中に過ぎて隠れこんでしまつた。これがあの「過ぎ去つた」ことだつた。しかも、過ぎ去つたといふ決定的な響きにもかゝはらず、それは何といふとりとめもない曖昧なものだらう。あらゆることが、あのつい二三ヶ月前に鬼倉とむかひ合つた晩のことさへ、まるで他愛のない、夢の中の出来事としか思へないのであつた。しかも、相手の隈取りのやうな荒い皺の走つた顔や、静かで不気味な落ちつきと、低い力のある声などは、今でも軽い戦慄を思ひ出させるのではあつたが――。それは或る夜の突発的な情慾のやうに、何かしらうしろめたい気持さへ感じさせた。が、それさへも過去のなだらかな手つきによつてぼかされ、平坦になり、記憶の中にいくらか異様な突起を見せてゐるに過ぎなかつた。あれから、鬼倉とは往診の途中で一二度会つた。彼は例の荒い皺を、あの晩のやうに深くけはしくはなく、ゆるめて、そのために一層老人臭い顔になりながら会釈ゑしやくをした。そして、一度は手にできた皮膚病を診てもらひに房一のところに来さへした。その時のことであるが、彼はふいに自分の死んだ一人息子の話をした。
「やつは、わつしの土方家業がえらい嫌ひでしてな」と、彼は云つた。
「どうしても学問をやるというて聞きませんだつたが。――それで神戸高商を出ましてな住友へ入つて結構やつとりましたが、三年前にぽつくり行つてしまひましたよ。病気ですか? 結核性脳膜炎とか云ひましてな、十日ぐらゐで、あつさりしたもんでした」
 それから、彼は薬を塗りたくられ、繃帯をまかれた両手をちよいちよい眺めながら、片足を一方の膝にのつけた坐り方をしたまゝ、いくらかどもるやうに、簡単な手短かな話振りで、身の上話らしいものをちつとも身の上話らしくない調子で洩した。息子もさうだつたが、彼の妻も病身で不自由な工事場のバラック住ひが「出けん」もんだから、ずつと神戸在の田舎に置いてある。(さうすると、本妻と妾と二人住まはせてゐるといふ見て来たやうな噂はあてにならないなと、房一は思つた)「わしはこんな荒い人間ぢやから」、バラック住ひも似合ひのところであるが、さすがに息子に死なれてからは、あれの云うとつたとほり「かういふ暮しもあんまりえゝもんぢやないわい」と思ふやうになつた。身のまはりの不自由は何ともないが、年中他国を歩いてゐるので、若いうちはそれも面白かつたが、最近は浮き草のやうなたよりない気がして来た。それで、かうやつて歩いてゐるうちに、どこか人情のいゝ土地でも見つかつたら住みついてもいゝと思つてゐる。さういふことを一わたり話し終ると、彼はいたつて愛想のないその隈取りのやうな皺の表情をちつとも変へずに立上つて、立上るや否やその身体つきには何かたゝかなごついものが現れ、稍前屈みに、それと共に前方を見据ゑるやうな恰好になつて帰つて行つた。
 これらの、過去一年あまりの中に或ひはひよつこりとした凸起をなし、或ひはまはりをぼかしたまゝ遠のいてゐるさまざまな出来事のうちで、たつた一つのことが抜け出し、それは一向に過ぎたことにならないで依然としてつゞき、絶えず現在として変化し、房一に或る影響と関心を与へてゐるものがあつた。たつた一つ――それは盛子の妊娠であつた。

     二

 盛子のお腹では、もう胎動がはじまつてゐた。
 初めて胎児が動いたとき、何といふ快い驚きだつたらう、何といふ不思議な、又微妙きはまるものだつたらう。その生命に独特な閃くやうな動き、内側からかすかにお腹の皮をつゝぱるやうな気配がし、やがてふいにびくびくつとしたり、ひよつととまつたかと思ふと又はじめて、今度は一層力強く永くぐい、ぐい、ぐいとしたりする、そのうごめきはすでに完全な手足あるものとしての形を感じさせ、もう今から盛子に何かを要求し、甘えかゝつてゐるかのやうであつた。
 今や彼女の全体が、一箇の人間としてのあらゆる陰影を含む全性格が何かしら重要な変化を来した。初産のためか下腹部のふくらみはさう目立つほどではなかつたが、それでもあの特長ある身体つきを変へるには十分だつた。全体にひどくゆつくりした、内省的な落ちつきが支配してゐた。たゞ眼だけが、張りのある眼だけが稍神経質なうるほひを帯び、どこかとび出したやうに見え、一種の弱々しさと複雑さがそこに動いてゐた。ふしぎな変化だつた。そこには五六ヶ月以前の盛子の代りに、盛子によく似た、だが何かぽつてりとした、重たげな、ゆつくりした女がゐた。あの長身が別に寸つまりになつたわけではなかつた。しかるに以前のしなやかさは姿を消してしまひ、又あの特長ある語尾の跳ね上りも聞えなくなつてしまつた。張りのある眼も、いつも下腹に気をとられてゐるためか、何となく伏目の感じになつてゐた。が、どうかした瞬間、びつくりしたり感動したりするときにだけ、突然あの盛子が殻を破つたやうに顔を出すのであつた。それはあの、結婚当初の盛子といふよりも、すでに十分成熟した、娘らしいかたさのすつかりとれ切つた、まぶしさのない代りに何か直接的な女らしさといふやうなものであつた。
 だが、変化は盛子にだけあるのではなかつた。房一も、捉みどころのないやうに思はれる一年あまりにもかゝはらず、あの計画だの野心だの猪突ちよとつだのいふものの他に、何か一つの自然さが、生活のつくり上げる自然な段取りといふやうなものがいつの間にか身体にくつついて来たやうであつた。
 彼の現実的に鋭い頭が働きをとめたわけではなかつた。又、あの身うちから溢れるやうに頭を持上げて来る野気を失つたわけでもない。それらはたゞ、急がば廻れといふ風にどつかりと彼の中に腰を下し、緩漫なびやかな四囲の空気と調子を合せることを覚えこんだのである。もともと彼の野心といふものには格別はつきりした目標があつたのではない。漠然とした、無意識のうちに魂のはらむ夢といつた風なものだつた。が、今やその魂はどうにか方向を見つけ、その形づくらうと欲してゐるものを予感し、穏かに、着実になつた、といふやうに見えた。

「あら! いらつしやいませ。ようこそ。――ほんとうに、よくまあ!」
 さつきから、日のあたる縁側近くに縫物を持ち出してゐた盛子は、あんまりびつくりしたのと身体が重いのとで、立上ることを忘れてかう感嘆詞を連発しながら、あの語尾の跳ね上りを少し響かせながら、庭先に現れた人影に向つて目をみはつてゐた。
 そこには、ついこなひだまで足ならしのよちよち歩きをしてゐた筈の道平が、本家の孫息子につき添はれてではあつたが、ちやんと一人立ちになつて、ゆつくりゆつくり足を踏み出してゐた。病後で彼の顔は大分変つてゐた。その左側の半分には、まだ心持ひきつゝたやうな痕跡がのこつて、したがつて、そつち側だけの眼と唇がいくらか引つ張つたやうになつてゐる。だが、その不自由な表情の中には何か懸命な、かうして歩いて来たことを見てもらへるといふ悦びが明かにみなぎつてゐた。
「もうそんなにおよろしいんですの? すつかり御無沙汰してゐました。ほんとうに! よくおいでになれましたわねえ」
 道平が口をうごかせるまでには随分手まどつた。
「あんまり、ぢつとしとつてもな、身体がまに、なるもんぢやから」
 もともと口下手ではあつたが、まだ舌がもつれる風で、一口ごとに息をついて云つた。

 彼は先だつて房一から全快祝ひに贈られたセルの上下を、仕立下したばかりのものを着こんでゐた。夏からふた月あまり寝こんだとは云へ、日焼けの浸みこんだ黒い皮膚の色は容易にとれないと見えて、今もそれが真新しいセルの、明い地色と際立つた対照をなしてゐた。
 孫息子に手つだはれて、そろそろと縁側に腰を下すと、道平は何か云ひたげに盛子の顔を見まもつた。そして思ふことがうまく口に出ないときにやる、一心な、どこか苛々いらいらした目つきになりながら、殆ど癇癪を起しさうになりながら、やつと云つた。
「あんたも、おめでたいさうで」
 彼はそれを云ひに来たのだつた。
 盛子の妊娠を耳にしたのはまだ病気前のことであつた。だが、間もなく寝こんでしまつたので、ぢかにお祝ひを云ふ機会がなかつたのである。盛子が見舞ひに来たとき、彼はそれを口に出さうとしてあせつた。病気以来、思ふことが口に出せないで、彼は別人のやうに気短かに、癇癪持になつてゐた。これも亦驚くべき変化だつた。以前の稍頓狂な感じのした大きな眼と、寛厚さを現す眼尻に刻まれた特長のある深い皺とは、その外見上の旧態を保つてはゐたものの、そこには何だか平たくなつて、乾いて、苛立ち易い頑固な老人がちやうど水面下の石だの杭だのを上からのぞきこんだ時のやうに、一種沈んだ退屈さの中に横はつてゐた。そして、彼が物を云はうとして口をあくあくさせるところは、その自由のきかない退屈さの表面に浮び出ようとしてゐるかのやうな印象を与へた。彼ははじめから房一を、自分の息子ではあるが、息子以上の者として扱つてゐたので、盛子に対しても多少他人行儀な遠慮深さを持つてゐた。しかし、それをすぐ目の前にしながらあれほど気にかけてゐたお祝ひを口にできないことは、口にしたつもりでも相手に通じないことは、病気のために今や一種の頑固に変つた律気さが許さなかつた。彼は殆ど癇癪を破裂しさうになり、盛子がびつくりしたのを目にとめると、やつとこさあの遠慮深さを思ひ出し、口にするのをあきらめたのだつた。それ以来、彼は今日あることを、盛子に自分の口からお祝ひを述べるといふことを丹念に考へてゐたのである。そればかりではない、息子とは云へ、房一には病中あんなに世話になつたし、セルのお礼を云はなくてはならないし、それから、それから――と、あれも云ひこれも云ひするために、河場からこゝまで歩いて来るといふことは、彼にとつてはまさに大事業だつたのである。おまけに途中には渡船場さへあつた! 今や、大願成就である。少からぬ喜悦のために、彼の半分ひきつゝた顔はゆるみ、そこに、寛厚で大まかだつた道平老人が何ヶ月振りかでふたゝび生れ出たやうな観があつた。
 すると、間もなく診察室の方から急ぎ足で出て来た房一は、道平を見るなり、
「ほゝう!」
 と云つたまゝ、もの珍らしげに、しばらく眺めてゐた。それから、相手にその意味が判るやうに微笑をし、目くばせをしながら、
「だいぶ、様子が変りましたな」
 と、父親の顎のあたりに又目をつけた。
「おう、これか」
 道平は顎髯を剃り落してしまつてゐた。
 昨年の冬あたりから、何を思つたのか彼は写真に残つてゐる先代のやうに髯をのばしはじめた。最初のうちはもじやもじやしたごま塩の汚たならしい色で、皆から可笑をかしがられてばかりゐたが、のびるにしたがつて白味を加へ、似合つて来、そのあることがあたり前にさへなつてゐた。殊に病中には、彼がもどかしがつて口をあくあくさせる度に、髯のはしがびりびりふるへ、はね返り、遠くにゐても彼が何か云ひたがつてゐることが判つたくらゐで、したがつて彼の身にもついてゐれば、はたの者の目にもすつかり馴染まれてゐたのである。
 それを今又さつぱりとやつてしまつたのだ。髯のなくなつた彼の顔は、ずつと前のそれに逆戻りはしないで、病後の面変りも手つだつて、その円つこいちゞかんだ輪郭が何かしら小さく、愛くるしげに見えた。
「あら!」
 と、今やうやく気づいた盛子が叫び声をあげた。
「どうしませう、ほんとうに! すつかり落しておしまひになつたんですのね。――どうも、さつきから様子がちがふと思つてゐたんですが、道理で!――さうでしたわねえ、お髯がなくなりましたわねえ」
 盛子は笑ふまいとしながら、こらへかねて真紅になり、そこにうつ伏しになつてしまつた。道平も釣りこまれて笑つた。だが、それは心持ひきつゝた痕跡の中に押しこまれたみたいになつた。彼が髯を落したのはそんなに悪戯気でやつたのではなかつたので、盛子の大げさな可笑しがりやうがいくらか気にさはつたのだ。で、彼の顔はすぐに老人らしい克明な生真面目さをとりもどし、房一の方を向いて、ゆつくり切り出した。
「それから、あれだが、今までよう訊かなんだが、――あれは、どうしたもんかの、大石さんの方は?」
 対診に来てくれた練吉のことを気にかけてゐるのだつた。
「お礼ですか」
「さうぢや」
「あれなら、私の方からいゝやうにしときます」
「さうかの。だが、さう云うても――」
 と、道平は明かに盛子に気兼ねをしてゐるらしかつた。
「いや、あれは私が勝手に頼んで来てもらつたんですからな、御心配はいりませんよ」
「さうか、――そんなに何もかも、こつちでして貰つてもえゝか」
 云ひながら、道平はこれ又大いに気にかけてゐたことがあつさり片づけられてしまつたので、いくらか不服でもあり、手持無沙汰でもあるといつた様子だつた。
 が、その時、彼はすぐ傍でさつきから盛子がひろげたり畳んだりしてゐる大きな紅い紙の袋みたいなものに目をとめた。
「何かの、それは」
「これですか――?」
 と云つたまゝ、盛子は房一の顔を見てくすりとした。そして、ばさばさ音をたてて大きくひろげてみせた。それは神官の着るやうなはうだの指貫さしぬきに模したものだつた。おまけに、ボール紙で造つた黒い冠、しやくの形をした板切れ、同じく木製の珍妙なくつだのいふ品々が揃つてゐた。
「これを御大典のお祝ひ日に着るんですつて」
 と、盛子は大げさに滑稽な顔をしてみせた。
「ほう、ほんに! みんなある」
 その一揃ひの紙衣裳を見て、道平はまじめに感心した。
「おぢいさん。これを主人うちが着るんですよ。主人ばかりぢやない、町の戸主はみんな! それこそ、代人はできないんださうですよ。そして、御神輿おみこしの後について町中を行列して歩くんださうですよ。――まあ誰が考へ出したんでせう! さぞいゝ恰好でせう! ねえ」
 房一はくすぐつたさうな顔をしてゐた。
「さうか。うちの方では山車だしを引いて出るさうだ。それから、みんな紋付に羽織袴といふことだの」
「それあ、あつさりしていゝですな。こつちでは山車が生憎あいにくこはれて、満足なのは一つしかないんでね。あんまり淋しいからと云ふんで、こんな思ひつきをやらかしたらしいですがね」
 京都で行はれる御即位の大典はもう四五日後に迫つてゐたのだつた。その日、陛下は黄櫨染はぜぞめの御袍を召されて紫辰殿ししいでんに出御され、大隈首相は衣冠束帯で階前に進み出で万歳をとなへ、全国一斉に称和する予定で、その奉祝の催しでは河原町の各区内がそれぞれ知慧をしぼつてゐたのである。

 そこへは、案内も乞はずに、小谷吾郎が気がるに裏口から入つて来た。
「やあ、来てますね」
 と、入るや否や皆の前にひろげられた紙衣裳に目をつけた小谷は、ふだんよりもよけいきいきい声になつて愉快さうに云つた。この衣裳はその日の午前中に各戸に配られたのでどの家でも愉快な興奮をひき起したのである。町内の寄りでひよつと誰かが云ひ出したのは、もとより大隈首相をはじめ式典に参列する大官連の衣冠束帯からヒントを得たものであるが、結局紙製でといふことに話が落ちつくまでに、散々皆の頭をしぼり、賑かな笑声を立てたのである。が、実際に品物ができ上つてみると、想像してゐたよりもはるかに珍妙な仮装であることが判つた。しかも、いゝ年輩の戸主連がこの揃ひの紙衣裳で町を練り歩かねばならないといふことが味噌みそだつた。めでたい色だといふので赤が選ばれたのだが、何しろそれは安物の紙風船が雨にぬれて色が浸み出したやうなぼんやりしたまだらに染め上げられ、触るたびにばさばさと大げさな音をたて、折目はぴんと立ち、皺はあくまで強情にしかもだんだんふえるばかりで裾だの袖口がをかしな風にまくれ上つて云ふことを利かないのだつた。いくらかへうきんなところのある小谷は、早速それを着用に及んで、座敷の中を威儀をつくつて歩きまはり、家の者の腹を抱へさせたので、その恐るべき効果は十分味つてゐたのである。で、他の家の主人達がどんなにそれを着こなすものか、今となつてどんなに尻ごみするものか、様子を見たくなつて、先づ手はじめに房一のところへ出かけて来たらしい。
 その場に居合せた道平を見かけても、小谷はあんまり紙衣裳に気をとられてゐたので、それが大病の後でやつと起き出した珍しい姿だといふことに心づかなかつた。が、大分たつて思ひ出した小谷は、
「さうさう、先だつてはお加減がわるかつたさうですが――」
 と、その稍落ちつきのない女らしい黒瞳くろめがちな眼を道平に向けた。
 すると、道平の半ばひきつゝた表情の中には、又あの悦ばしさが、かうして歩いて来たことを人に見られるといふ満足が、ゆつくりと、何だか紙のずれるやうな工合に上つて行つた。
「もう、だいぶようなつたですわ」
 と、彼は恐しく手まどつて答へた。
「お髯がなくなりましたわ」
 と、盛子が傍から又さつきのをかしさを思ひ出したらしく、そつと注意した。
「はあ! さう――ですね」
 小谷は髯のことなんかはよく覚えてゐなかつたので、曖昧に、気のない返事をした。道平は、さつきは盛子に紅くなるほど笑はれて多少気を悪くしたことではあるが、こんな風に自分が元通りに恢復し、房一の家の縁側に腰を下し、やつて来た人から何やかと話しかけられることに一種のまごつきと期待を現しかけた。だが、小谷には何の反応もなく、その目は又紙衣裳の方へ帰つた。
「もう着てみましたか」
「いゝや、まだ」
 とてもそんなことは! といふ風に房一は答へた。
「一つ着て見せたらどうです? 高間さんにはきつと似合ひますよ」
「まさか!」
 だが、さう云つてすゝめる当の小谷には、その細面の小柄な様子には、何でも似合ふやうなところがあつたので、この紙衣裳さへ似合ふにちがひなかつた。小谷は何とかして、この場で房一に着させよう、その効果を楽しまうと考へてゐるらしかつたが、房一が相手にならないので、話を他に持つてゆき、いきなりこんなことを云ひ出した。
「誰でも主人が出なくてはいけないきめでせう。すると、千光寺さんはどういふことになりますかね。坊主が神主の恰好をするのもをかしなもんぢやありませんかね!」

     三

 その日、河原町では早朝から何かしらざわめいてゐた。町の裏手に迫つてゐる山々はちやうど東側にあたつてゐたので、朝の日は河原町の上に光を投げて家々の白壁を明く浮き上らせる前に、町の西方にひろがつた盆地の端に低く長く横はつてゐる小高い丘陵地(それは最近切り倒された雑木山であるが、町からはかなり遠いので、何だかそこだけが茶褐色の埃を浴びてゐるやうに見えた)に最初の薔薇色の光を投げかけた。空にはきれぎれの雲が浮かんでゐた。それはどこを向いて流れてゐるとも判らないほどゆつくり動き、動くにつれてだんだん形を変へ、うすれ、又新しい雲がどこからか生れてゐたが、それもゆるゆると消えて行くのであつた。
 かうして、びつくりするほど冴えた、明い日がやつて来た。いや、それは昨日も一昨日もその前も、かういふ日がつゞいてゐた。だのに、やはり、今日又新しく特別にとび切りにやつて来たとその度に思はせるほどの快い日だつた。どこもかしこも透き通るやうで、はつきりし、乾いた空気がふはりと頬のあたりに触れ、どこからかつんとする気持のいゝ山の匂がやつて来た。
 その中を、子供達はまだ朝飯がすまないうちから通りへ出て、軒から軒へ筋交すじかひに張りわたされた小旗の下を駆けまはり、叫び声を上げ、蝋燭に火の入らない日の丸提灯が伸び切らないで尻を持ち上げたまゝぶら下つてゐるのを眺め、家ごとに定紋入りの大提灯が板屋根のついた台と共に立てられ、鳳鳳のついた万歳旛ばんざいばたとがずらりと列をなして並んだ様を片目をつぶつてどこまでつゞいてゐるかすかし見たり、一々数をかぞへてゐたりしてゐた。そして、犬までが子供達のさわぎに釣られて走り、きよときよとし、又走り出してゐた。
 午近くなつて空気は温められてどんどん上昇し、どこも冴えてきらめき、何か軽い気を遠くさせるやうな気配は、あのひつきりないざわめきによつてよけい強くなつた。誰も彼も上気し、家の中に落ちついてはゐられなかつた。盛子は長い小豆色のぼかしのある羽織の下に、ふくらみのある身体を巧みに隠し、河場からやつて来た義母と並んで戸口に立つて通りを眺めてゐた。今さつき山車だしがそこを通つたばかりであつた。山車の屋上では狐忠信の人形が黒い眉を上げ、口をへの字に曲げ、腕を構へて造花の中に立ちながら、揺れて思ひがけない風に頭を振り、提灯と小旗の下を過ぎて行つた。と思ふと、そこの曲り角のあたりで拍子木の音が起り、山車はとまつて、乗つてゐた踊り子が山車についた舞台の上で扇をかざし、きつかけを外してはやかたをかへりみて恥しげに笑ひ、あらためて又とんと板を踏み鳴らし、何かの踊りをはじめるのが見えた。間もなくそれも遠くへ行つてしまつたが、人はざわざわ行つたり来たりしてゐた。そこらでも、こゝらでも、遠くでも、絶えずどよめきの音が聞えてゐた。
 あの紙衣裳を着た神主達は今どこを歩いてゐるのだらう。どこかの空地で、ばさばさ音をたてる袖口をたくし上げて、握飯をほゝばり、お茶を啜つてでもゐるだらうか。きまりは、町の端々から通りといふ通りは、どんなところでも歩かねばならないのだ。昨日まで迂散うさん臭い顔で紙衣裳を眺め、触つてみようともしなかつた房一は、いよいよ着こむときになると案外な度胸を示した。ボール紙の冠をかぶり、紐を顎の下できゆつと結ぶと、肉づきのいゝ顔を一寸ひきしめて、どうだ! といふ風に盛子に擽つたさうな目をくれた。それはとにかく珍妙ないでたちにちがひなかつた。が、しかし、たとへ紙にもせよ、一定の式服といふものの持つ効果はたしかにあつた。それは本物のそれのやうではなかつたにしても、とにかく何かしら堂々としてはゐた! そして速製の「威儀を正した」顔さへ自然と誘ひ出しさうであつた。
 盛子は上から見、下から見しながら、
馬子まごにも衣裳つて云ふから――」と云つたほどである。
 が、ぴんと張つた肩衣のためによけい幅広く見える後姿で、木箱のやうなくつをがたつかせ、戸外の明い日ざしの中でその紅い滲んだ紙色をまざまざと照し出されながら、歩いてゆく房一を見送つたときには、紛ふことなき珍妙さが、しかも「堂々」と歩いてゐる形だつた。そして、百何十人もの老壮若の戸主達がこのばさばさした紙で着ふくれ、列をなして歩くときの様子は、まさに観物にちがひない、といふ実感を抱かせたのである。

 その頃、紙衣かみこの神主達の行列は町からかなりはなれた河向ふの路をぞろぞろ歩いてゐた。
 各区内から繰り出された行列はちやうど正午少し前に上手の小学校に集合し、一斉に万歳を奉唱し、中食をすませて更に町内を練り歩くことになつてゐた。はじめから主だつた町内を歩くのでは照臭てれくさくもあつたし、且つは又家の少いところを先に済ませてしまはうといふ考へから、紙着の一隊は先づ手はじめに河向かはむかふへ繰り出したのであるが、それが失敗の基だつた。路は近さうに見えて案外遠かつた。大体いゝ加減なところから引返して来はしたものの、なにしろ足はめつたにはいたこともない木箱につゝこんでゐるのだつたし、十一月とは云へ日に照りつけられ、汗ばみ、埃をかぶり、紙衣はがさがさして歩きにくいことこの上もなかつた。そして、しやくを胸のところに両手で捧げ持ち、多少とも気を張つて真正面をむいて歩くのは、かなり努力の要ることだつた。しまひには、木箱の中で突つかける指先きに豆ができたばかりでなく、薄い板片れでつくつたその沓底は割れるものが続出し、中には様子を見ながらつき添つて来た男に家まで草履をとりに走らせた者があつた位だつた。
 かうして、予定の時刻を大分遅れて小学校の校庭に辿りついた時には、腹は空くし全く放々の態であつた。が、遅れたのはその一隊ばかりでなく、所々で踊りを見せながら山車だしを引つ張つて来る組も、他にも大分遅れる組があつた。で、彼等は気をとりなほして万歳を三唱し、直ぐに思ひ思ひの所に散らばつて焚出たきだしの握飯をほゝばつた。もうこゝは町内であるから、たくさんの見物人が集つて来てゐたが、午前の一歩きですつかりへこたれ、埃で顔が黒くなり、疲れた彼等は、そのおかげでもう照臭さも何もなかつた。
「あゝ、えらかつたなあ」
 徳次は、両手に海苔まきとゴマをまぶした握飯と二つとも慾ばつて持ち、紙の袖をいやといふほどたくし上げ、冠をどこかへ脱ぎすてたので、いがくり頭ときよろりとした眼とを何かむき出した風に目立たせながら、足を踏んばつて云つた。
 房一は、行儀よくまだ冠を頭にのつけたまゝの小谷と練吉と並んで板切れの上に坐つてゐた。
「徳さん、君は草履ばきぢやないか」
 と、小谷が徳次の足に目をつけて云つた。どこで手に入れたのか、徳次は白い紙緒の藁草履をちやんとはいてゐた。
「へゝえ、わしらは用意がえゝですからね、あんな蜜柑箱みたいなもんはすぐこはれるにきまつてるから、家を出るときこゝにつけて来たんでさあ」
 と、腰をたゝいてみせた。そこにはまだ一足、紙衣の下からはみ出すやうに、ぶら下つてゐた。
「あゝ、まだ持つてる!」
 と、小谷は目を丸くした。欲しさうだつた。すると、逸早く、
「それをよこしたまへ。二足なんていらんよ」
 と、練吉が引つたくるやうにとつてしまつた。
 徳次は明かに房一にくれようと思つてゐたらしかつた。で、間が悪さうにそこに立ちはだかつたまゝ、あのきよろりとした目でしきりに練吉と房一を見くらべてゐた。
 腹に物がつめこまれると、さつきはあんなにへたばつてしまつた神主の一隊もどうにか元気がついたやうであつた。これからいよいよ町通りである。自分の家の前を、妻子や使用人達がずらりと見物してゐる中を、しやちこ張つて、堂々と歩かねばならないのである。で、大半はいつのまにか草履や下駄にはきかへてゐたものの、まだあの木箱をひきずるがらがらいふ音をたてて、紅い色の滲んだ、紙衣の神官達は、笏を前に構へ、気を張つて真正面を向いたまゝ繰り出して来た。俳優で云へば、まさに花道の出にさしかかつて来たところである。
 だが、彼等が危ぶみ、恐れ、半ば期待してゐたやうに、歩いて行く両側はこんなに町に人がゐたかと思ふほど黒山のやうな人だかりであつた。見覚えのある顔が、真紅になつて笑ひこけ、指さしをし、何か囁き合ひ、子供達は日頃馴染めなかつた大人達がこんな風変りな恰好で歩くのを見てすつかり有頂天になり、わいわい云ひながら行列につきまとつてゐた。しかしながら、神官達の方にも案外な度胸ができてゐた。お揃ひの恰好といふ点だけでなくとも、かういふ風に観物にされるのは一人ではなかつた、誰しも忍び笑ひから免れることはできない。その意識が今や共通した一箇の仮面のごときものを与へ、まさにそれが行列を形造つてゐたのである。どういふものか、誰もが皆生真面目な顔をしてゐた。小谷には紙ながら衣冠束帯がよく似合つてゐた。が、誰よりも一番似つかはしかつたのはあの老来なほ矍鑠くわくしやくとした端正な鍵屋の隠居、神原直造であつた。恐らく疲労からであらう、彼はさつきからにこりともしてゐなかつたが、それがなほのこと一種の威儀を具へるのに役立つた。臆病げに伏目になつた堂本と背の低い痩せた庄谷には、衣裳が大きすぎて、何だかばくばくしてゐたが、二人とも大真面目だつた。(千光寺さんだけは代りに寺男が出た)そして、徳次でさへ、あのきよろりとした眼で方々を見ることなしに、口ももぐもぐさせずに固くつぐみ、そのために突きとがらせた風になつてはゐたが、やはり正面を向いてゆつくりと行列の歩調に合せて歩いた。
 行列がずつと町外れの立岩のところまで行つて、そこで一休みしてから引返して来た頃には、へたばつた様子は午前のそれよりも一層深刻に現れてゐた。今は笑はれるのを気にするどころではなかつた。紙製の袍には十分皺がより、おまけに永い間日に照らされたので、そり返つて袖口から中に着こんだ木綿縞を露はし、横腹のあたりが裂け、惨憺たる有様だつた。それにもかゝはらず、疲労のために一隊はかへつて一種の上機嫌を呈してゐた。それに空はあくまで晴れ、雲切れ一つなく、彼等の歩いてゐる田舎路は右手にきらめく河を見下して、白くはつきりと浮び上り、ふり注ぐ日ざしと温かさでせるほどだつた。誰かが笏を落したと云つては笑ひ、木沓きぐつが割れたと云つては笑ひ、さうなるととめどもないげらげら笑ひが浪のやうにしばらくは一隊を支配した。
「はあて、神主さんになるのもえらいもんだのう」
 と、誰かが大声で叫んだ。
「何を云うとる。すまじきものは宮仕へ、といふぢやないか」
 と、それまで鹿爪しかつめらしい表情をくづさずにゐた仲買の富田が、突然半畳を入れた。どつと立つた笑ひ声で、聞きとれなかつた者までがふき出した。
 が、一隊がふたゝび町中にさしかゝつて来ると、汗と埃でよごれ、ゆるんだ表情の彼等に見られるありありとした疲労は、待ちうけてゐた見物人達にたちまち同情と心配をひき起した。今や、この一隊は紙衣の神官でもなければ行列でもなく、見物人達の良人をつとであり、父親であり、主人であつた。草履の代りに下駄が、下駄の代りに草履がはき代へさせられ、手拭を出し、熱い番茶を持つて来、中には自宅の縁側に悠々と一休みして行く者さへあつた。

 もう一度小学校の校庭まで辿り着いた時には、衣裳がくたくたになつたのと疲労し切つたのとで、行列をつくつて歩いてゐる間に自然と現れてゐた共通の類似、あの正面を切つたまじめさが消え失せ、代りに日頃のそれぞれな持前が、尖つた顎だの鹿爪らしい顔つきだのいふものが今や歴然と姿を現した。まだ解散にならぬ前から気早やに冠をかなぐり取つた者もゐたし、衣裳をぬぎにかゝつた者さへあつた。
「ねえ、御苦労なこつた」
 疲労したあまり不機嫌になつた大石練吉は、手荒く疳性かんしやうに衣裳をくるくると巻きながらいつもよりも激しくその切れ目をぱちぱちさせて云つた。
「先生、どうしなさる? 着て行きますかい」
 と、きよろりとした目つきに返つた徳次は、立ちはだかつたやうな恰好になりながら、房一の傍に停つて訊いた。
「いや、もう御免蒙つて脱いで行かう」
 彼が冠をとると、円味のある顎肉には紐の痕が紅く残つてゐた。
「どうしたい、君はその恰好をまだ見せたい気かい」
 と、練吉は、彼等のわきにさつきから立つてゐた今泉に向つて、揶揄やゆするやうに訊いた。どういふものか、今泉の紙衣裳はちつとも痛んでゐなかつた。これといふ皺もついてゐなかつたし、木沓さへ完全であつた。冠をつけ、まだ笏を心持構へた恰好で、こんなに皆が疲れ切つた様子をしてゐるにかゝはらず、今泉だけはその稍冷い感じのする四角な顎を生き生きとさせ、あのつまみ立てたやうな鼻髭さへ床屋から出て来たばかりのやうだつた。
「いやあ、もう沢山ですなあ。さつきはどうも照れ臭くつて弱つたぢやありませんか。何と云つたつて、皆に顔を見られるんだから、たまつたもんぢやない。あんなに弱つたことは生れてからはじめてですよ」
 練吉の口振りが意地の悪いものだつたにかゝはらず、今泉はむしろ話のきつかけを得たことを喜んでゐる風だつた。
「わたしはね、こいつは割れさうだなと思つたもんでね」と、笏で自分のはいてゐる木沓を指して、
「だから大事に大事に歩きましたよ。石ころの上を踏んだら一ぺんですからね。いつもこんなに大事に下駄をはいたらさぞ永持ちすることでせうが――」
 練吉はさういふ今泉の足もとを見、更にじろりと皺一つよらない衣裳を見上げた。何か疳にさはつたやうな色が動いた。そして、一言できゆつと相手をへこまさうとする時のやうに、神経的に口を曲げ、今にも云ひ出さうとした時、少し離れたところから手招きしてゐる房一と小谷とに気づいて、そのままそつちへ行つてしまつた。
「ね、大石さん。今夜一つ私のところで慰労宴をやらうといふんですがね。あなたもぜひどうですか。この三人だけでね」
 と、小谷が云つた。
「あゝ、よからう。大賛成ですよ」
 のむことなら! といふ風に、練吉は切れ目をぱちぱちさせた。

     四

 御大典とそれにつゞく奉祝日はまたゝくまに過ぎ去つた。
 河原町では、山車だしや仮装行列のほかに、夜に入つては提灯行列が出たし、町の上手にある神社の境内では奉祝の花競馬も行はれ、射撃大会まであつた。競馬の行はれた境内は不断殆ど人気のない所で、そこには永い間風雨にさらされて木口こぐちがすつかり灰白色になつた大きい拝殿がゆるんだ屋根の端を高いところで傾けてゐた。そこには紅白の幕が張られた。走路は拝殿のわきのかなりな池の周囲に造られたが、所々に笹を立て、それを荒縄でつないだだけで、方々から集つた馬は大抵胴がいやに太くて足の短い、腹や胸のあたりにぼさぼさした毛の生えた代物だつたが、わきにれやうとする馬は周囲を黒山のやうに囲んだ見物人達の喚声と棒切れとで又内側へと追ひこまれ、池の中にはまりこみ、泥まみれになつて走つたりした。拝殿の観覧席には相沢知吉の顔が見えた。彼の持馬も出場したのである。相沢は例のカーキ色のズボンをはいて来たが、馬には乗らずにいて来たのだつた。見ただけでのろまな在馬ざいうまにくらべると、相沢の馬はずば抜けてゐた。かなり遠方からやつて来たといふ栗毛の馬とり合つたあげく、相沢の馬は優勝をち得て、賞品ののぼりと米俵とを悠々と持つて行つた。射撃大会は猟天狗仲間が河原に集つてクレーの射撃をやつたので、これには大石練吉が自慢のマンチェスターの銃を携へて出席した。発条ばねが跳ねる、とクレーはちやうど山鳥か何かが飛び立つかのやうに、ゆるい弧を描きながら青空に投げ出される、その瞬間、射手は腰のあたりに構へた銃をすばやく肩に引上げ、パンといふ音が響き、クレーは微塵に砕け散つた。が、大半は遠く河原の上に落ちてそこで砕けたやうであつた。後で格別噂が立たなかつたところを見ると、練吉は不成績だつたのだらう。
 が、それもこれも一週聞か十日たつうちには、たちまち漠とした過去の中に滑りこんでしまひ、目立たなくなり、ぼやけ、遠のき、ふたゝびあの河原町特有の単調さがあたりを支配し、だるげな瀬のどよめきが耳につき、季節の曖昧な足どりが現れ――或る日はさらさらいふかすかな音を立てて雨が通りすぎ、曇つて何となく冷え、急にぱつと日ざしが輝き、又冷え――そして、年ごとに絶えず繰り返へされながら絶えず或る新しさを持つて、慣れることのない、捉まることのない冬が、底冷えとはやいおびたゞしい雪もよひの断雲と刺すやうな寒風とを伴つてやつて来た。
「さうだ、君はあの時の射撃大会に出たさうだね」
 と、酒が少し入るとすぐ真赤になる性質の房一は、その紅黒い顔を火照ほてらせ、円い身体を持扱ひかねたやうになつて訊いた。
「うん」
 練吉は盃を口にふくみながら答へた。
「射撃たつて、あれはクレーとかいふものを射つんでせう。わたしはね、他に何かまとでもあるのかと思つたら、何のことはない、小さなカワラケの皿をね、かうひよつと機械仕掛けでとばしてね、――そいつを射つんでせう。なるほどうまい仕掛けにはちがひないが、見てゐるとあつけないもんですな。それに音だつてね、景気よくないんですよ。ボスツといふやうな音でね」
 小谷はやさしみのある顔をぽつと紅らめ、いくらか饒舌になり、それと共によけいきいきいする声で話した。
「それあきまつてる、猟銃だもの」
 練吉はもうさつきから殆ど一人でぐいぐいやつてゐるにもかゝはらず、むしろ青い顔だつた。
 例の奉祝行列のお終ひに小谷から慰労宴をやらうと云はれたときに、房一は道平が練吉の診察を受けたまゝになつてゐるのを気にかけてゐたことを思ひ出し、練吉をも加へて小谷と二人を招待しようと云つたのだが、小谷はそれはそれ、これはこれと云つて聞き入れなかつたので、改めて今二人を料亭染田屋に招いたのであつた。
「ほう、クレーといふのはカワラケのことかね」
 と、一向にそんなことを知らない房一が云つた。
「さうなんですよ。ですが、よく考へたもんだと思ひましたね、足もとから鳥が立つ、といふでせう、――あれとそつくりにね、かうひよいとカワラケがとび出すんですよ」
「さう、カワラケ、カワラケ云ひなさんな」
「はゝゝ、でもカワラケにはちがひない、それがかうひよつとね」
 小谷は酔つて来たのだらう、何度も同じ手真似をして見せた。
「まづい、まづい。酒がまづくなる」
 と、練吉はわざとらしく顔をしかめてみせた。
「ところがね、大石さんの銃は、あれはマネスターと云ひましたかね、あのマネスターは立派なんだけどなあ。そのわりにあたらないもんですね」
 その時、練吉はぐつと盃をつきつけた。
「まあ、のみなさい」
「買収ですかな」
 いくらかうはつ調子に口の軽くなつた小谷にひきかへ、今夜の練吉は何となく元気がなかつた。細かいながらにかすりの目のはつきりした大島の上下揃ひを稍ぞんざいに着こみ、吃り気味に話をする彼には、だらりとした様子と同時に、どこか家風の結果といふやうな一脈の潔癖さが混交してゐた。
「あ、さう云へば」
 と、房一は練吉の顔を見て思ひ出したらしく、
「昨日、君とこの奥さんがバスに乗るところを見かけたが、――」
「うむ」
 突然、練吉の顔には一種の生気が、何となくもう一人の練吉といつた風なものを思はせる疳の気配、子供染みた我儘さが顔にさし、あのひつきりのない目瞬またゝきが止んで、切れの長い目が眼鏡の奥でぢつと線を引いた。
「あいつも、君んとこと同じで、子供ができたらしいよ」
 と、舌ざはりの悪いものでも口にしたやうな調子で、練吉はぽつんと云つた。
「ほう、さうか。それはちつとも知らなかつた」
「うん」
 練吉はそれなり黙つた。
 その様子で、房一は今は隠れもない大石家の内部のごたごたを思ひ出したので、いさゝか間が悪いと云つた顔をしてゐた。――練吉の妻の茂子は、九月に入つてまもなくぶらりと大石家へもどつて来た。それは一日か二日姿を消してゐた飼猫がふたゝび舞ひもどつて来たやうな工合だつた。さういふ様子は茂子自身にあつたばかりでなく、大石家の老夫婦にもあつた。が、どういふはずみからか、今まで何年かその気配もなかつた茂子には、十一月に入つた頃から妊娠の兆候が現れた。万事投げやりだつた練吉にも意外だつた。そして、老夫婦と茂子との不和に気を腐らせてゐた彼は、これが案外緩和剤になるかもしれない、と考へたところが、それを聞いた老夫婦はちよつと眉を動かせたきりで、云ひ合はせたやうに黙つてゐた。多分、老寄としよりに特有な気の廻し方で、茂子に実子ができれば継子である正雄に対する愛がうすらぐとでも考へたものだらう。この気持は当然茂子に反映した。それに、彼女のつはりは重い方だつたので、さういふ状態で老夫婦と同居してゐるのは以前よりも辛かつた。で、今度は両方の公然の申し合せで、身体を休めに実家へしばらく行つてゐることになつた。房一が見かけたといふのは、茂子の帰るところである。
 房一は話を変へた。
「なんだね、クレーの射撃なんてものは昔はなかつたもんだが、こなひだの競馬は僕も見たけれども、子供の時以来十何年ぶりのわけだが、あれはちつとも変つてゐないね。優勝の景品が米俵だなんてね」
「去年はなかつたんですよ。何でも博労ばくらう同士のうちわめがあつたとかでね」
 と、小谷が云つた。
「ほう、さうか。毎年あるのかね。そいぢや、これから度々見られるわけだな」
 房一は目を輝かせて云つた。
「なに? 競馬のこと?」
 と、急に練吉が小耳にはさんで云つたのは、多分黙つて他のことを考へてゐたのだらう。
「僕はクレーが済んでから行つたんでね、もう終りで相沢の馬が勝つところだけをちよつと見たよ。――相沢、得意さうだつたぢやないか」
「御機嫌だつたね」
 さう答へながら、房一はふいに、競馬場で会つた相沢のことを、そのとき彼が何だか意味ありげに云ひのこして去つた言葉を思ひ出した。

 房一は早くから競馬を見に行つてゐた。観覧席で相沢に会つたので挨拶した。訴訟の話を聞いた頃からずつと会はなかつたのである。相沢はあの特長のある黒味のひろがつた目で、やはり馴れ馴れしげにぐつと身体を近寄せて房一を眺め、彼の馬が来てゐることを教へた。席が混んでゐたので、それきり傍へ寄る機会がなかつた。休憩のとき、葭子張よしずばりの便所へ立つたかへりに、ちやうど相沢が向ふからやつて来るのにぶつかつた。彼はカーキ色の乗馬ズボンに拍車のついた黒革の長靴をはいてゐた。歩いて来るときに、その拍車が鳴つた。
「やあ」と、目で挨拶して何気なく行き過ぎようとすると、相沢は殆ど判らない位に軽く房一の腕にさはつて引きとめた。そこは拝殿からも馬場からも大分離れた場所だつた。あたりに人はゐたが、顔見知りはなかつた。相沢はあなただけに、といふ風な一種秘密げな顔をしてゐた。房一は殆ど直覚的に、それが訴訟に関係したことだ、と悟つた。あの訴訟については、昨冬以来相沢は度々地方裁判所のある市に出かけ、鍵屋の方でも弁護士を立てて一二度審理があり、証人の申請があつたとかいふやうな話を、房一も聞いてゐたが、鍵屋の方では口をかんして語らないし、成行は他の者には少しも判らなかつた。その噂の最初がやかましいものだつたにかゝはらず、何にしろ事件はこの土地からはるか離れた所で遅々として進んでゐるのか停滞してゐるのかわからない位であつたから、いつとなく遠耳になつてゐた。しかし、相沢を見た瞬間それを思ひ出さずにはゐられなかつたのである。
「あのね、何ですよ――」
 と、云ひかけたまゝ、相沢の黒味の多い眼はぢつと房一の顔をのぞきこみ、云ひかけたものがその中で煙つてゐるやうな表情をした。
「はあ」
 と、房一は自然と紅黒い顔をひきしめた。相沢は随分永い間、それこそ房一がうんざりするほど永い間こつちをのぞきこんでゐたが、
「いや、そのうち。――ぜひ御相談があるんですが。――そのうち、一度来ていたゞいて。いや、私の方から出かけませう。や、又――」
 と、さつき目にもとまらぬ速さで腕にさはつたときと同じく、軽くすつと身をひくやうにしたかと思ふと、もう背を向けてそゝくさと葭子張りの便所に入つて行つた。――
 それつきりだつた。相沢からはその後何とも云つて来なかつたし、又向ふから来もしなかつた。けれども、訴訟のことは、たとへその日の相沢の気振りだけだつたにもせよ、房一が進んで聞きたい話ではなかつた。房一は、相沢といふ男からは、極端にむら気な、何か容易に手につかめないもどかしさを感じてゐたが、同時に、一脈の執拗さを受けとつてゐた。それだけに、競馬場でのあのくるくると廻るやうな、速い、曖昧な云ひ残しが、ふしぎに印象を残してゐた。

「あの訴訟はどうなつたのかね」
 と、房一は小谷に向つて訊いた。
「なに、訴訟?」
 この時、練吉が又小耳にはさんで訊き返した。が、明かにそれはさつきの小耳訊きとは様子がちがつてゐた。殆ど一人で盃を傾けてゐたせゐもあるが、つい今まで沈んでゐた練吉は僅かの間に一足とびに深い酔の中に入りこんでゐた。
「どこの訴訟だ。なに鍵屋、うん、相沢か」
 練吉の額は今青いと云ふより磁器のやうな冴えた白さに変つてゐた。目瞬きはぴつたりととまり、線を引いたやうな切れ目が深く長く、あたかも部厚い眼鏡そのものに入つたヒビ割れのやうに見えた。そして、
「なあんだ、まだ訴訟してるのか」
 と、無邪気に、あきれたやうに云つた。
「まだつて、はじまつたばかりですよ」
「まだ? ふん! よせ、よせ。阿呆らしい」
 練吉は顔をしかめ、手を振つた。
「おれは!――」
 と、何か威勢よく云ひかけたときだつた。小谷は急に聞耳をたてた。小谷ばかりではない、房一も――半鐘が鳴つてゐた。たしかに! それは、はじめ三連打を二度ほど、ちよつと途切れ、次には聞えにくいほど鳴り、そして急に勢よくつゞけさまに鳴り出した。ちやうど、それは焔の燃える様子と緩急を合せたやうに、まざまざと目に見せるやうに響いた。
 この町に一体火事なんて、いつあつたらう。たしか、三年前に一度、そして去年の春さきに小火ぼやが一度、それも藁火が離納屋に燃え移つただけのことで、それだのに殆ど町中がいや近在からも山を越して人が集り、提灯ちやうちんが集り、大変な騒ぎだつた。めつたにないどころではない、他のことは忘れても、この殆ど珍重すべき火事は、そのあつた年も、場所も火元の蒼白な顔も、ありありと覚えこんでしまはれるのだつた。
 二階の部屋だつたので、障子を開けてみたが、空はどこも真暗らで所々にうすく星が光つてゐた。その静かな黒い拡がりがかへつて不気味だつた。すぐ下の通りではどの家も表の戸を開け放つたまゝ道路に出てゐたので、屋内からの明りが方々から路面に流れ、立つて空を見上げてゐる人達の半身を照してゐた。黒い人頭がざわざわと右に行き左に行きしてゐた。所々の家の切れたあたりは驚くほど暗かつた。鐘はまだ鳴つてゐた。それは今、さうはげしくはなかつた。だが、冴えてはつきりと、一所だけで鳴つてゐた。多分、左手のずつと先きあたりらしかつた。
 どこかで、「営林署だ」といふ声が聞えた。そして、黒い人影は左手へ向けてぞろぞろと走つて行つた。何か叫び声のやうなものがその方で起つてゐた。

     五

 房一は下駄をつゝかけて外にとび出してゐた。何気なく腕時計をすかして見た。七時半だつた。まだそんな時間か、とびつくりして考へたのをおぼえてゐる。すぐ傍を、人が駆け抜けてゐた。房一も走り出した。どういふものか、さつきうす暗がりで見たぼんやりした小さい白い時計の文字盤が頭の中で見えてゐた。走り出した方は真暗らな畑中の路だつた。今、房一の右にも左にも誰とも判らない人が一杯で、腕や肩がぶつかつた。小谷も練吉もいつしよに駆け出して来た筈だつたが、どこにゐるか判らなかつた。
 恐しく暗い。目の前に小河の水面がぼんやり光つて流れてゐた。橋を渡ると、そこは営林区署出張所の材木置場で、その向ふに稍小高い山を背負つて出張所の建物が立つてゐた。そこだけに、高張提灯がいくつか並び、傍で小さい焚火が燃え、まばらな人影が立つて照し出されてゐた。他には火らしいものはどこにも見えない。鐘はいつのまにか止んでゐた。どつちを向いてもたゞ大きな暗さが黙り返つて立つてゐるだけだつた。しかるに、房一の入りこんだ材木置場から橋にかけたあたりにはとまどひした無数の人が誰とも判らないまゝにつめかけ、空を見上げ、がやがや云ひ、押し合ひ、駆けまはりしてゐた。彼等は夢中になつて走つて来たのと、暗らがりとどこに火事があるのだか判らないためとで一様にあてどのない興奮にまきこまれ、どうしていゝかもわからず、たゞ無暗とつめかけ、そこらぢうでバケツの音がし、つまづいたり転んだりしてゐた。製材された板片の井桁ゐげたに積み上げられたものが、人に押されてばりばりとくづれ落ちる音がした。
「どこだ、どこだ。もう消えたのか」
「ほんとうに火事があつたのかい」
「さあ、知らん」
「なんだ、さつぱり判らんぞう」
「いや、鳴つた。出張所の鐘がたしかに鳴つてゐた」
「おーい、火事はどこい行つたあ」こんな風に、口々に喚いてゐた。
 が、材木置場の混乱にもかゝはらず、そこから一段と小高くなつてゐる出張所の構内では、やはり高張提灯がかゝげられ、焚火が燃え、人が立つて歩いてゐたが、をかしい位にひつそりし、柵のところにかたまつた人影は下方の混乱を黙つて見物してゐるとしか見えなかつた。
 房一も人に揉まれて立つてゐたが、構内の落ちつきを見ると、近よつて事情を確かめようとした。すると、その時、彼よりも先きに誰かがやはりさうしようと思つたらしく、構内へ上る土手に足をかけようとしたはずみに、そこは溝だつたと見え、たちまち安定を失つて水の中に落ちた。男はすぐに土手に匍ひ上つたものの、下半身づぶ濡れになつたらしく、しきりと裾をしぼつてゐるやうだつたが、又滑つて尻餅をつき、土手にへばりついたのが、ちやうどその上方に立つた高張りの明りでぼんやりと、だが、蛙か何かがばたついてゐるやうに見えた。その時、高張りの下で木柵にもたれて様子を眺めてゐた長身らしい人影が、突然大きな笑ひ声を立てた。すると、火事騒ぎで興奮してゐたらしい下の男は、土手の途中に立ち上ると、
「なにを笑ふか」
 と、激しくいきり立つた。
 木柵の男は、稍ひるんだ風に一寸黙つてゐたが、そんな風に怒鳴られることに慣れてもゐず、又予期してゐなかつたらしく、押し返すやうに低いバスの音で云ひ返した。それはどこか、命令することに慣れた、威圧するやうな響きを含んでゐた。
「をかしいから笑つたのだ」
「なに?」
 と、下の男は睨み上げた。
「をかしいからとは何ごとだ。火事だといふから手伝ひに来たんぢやないか、そして溝に落ちたのが何がをかしいんだ」
 相手はしばらく黙つてゐた。だが、場所が高いのと、柵の中にゐるためか、落ちついて答へた。
「こゝの消防演習をやつたのだ。そんなに騒ぐことはない」
「なに、消防演習?」
 と、下の男は形をなほした。
 この押問答がはじまつて以来、ちやうどそれが高張りの下の明さのためもあつて、あたりの注意はそこに集り、急に静まり、ために、そこが宛かも上と下との代表点といつた際立ちを現してゐた。男のうしろにはたくさんの人がつめかけてゐた。
 あたりには急に殺気立つた空気が感じられた。恐らく、暗やみで途惑とまどひし、右往左往したやり場のない興奮がはけ口を見出しかけたからだらう。男は、はじめの滑稽な様子にひきかへ、今案外な落ちつきと鋭い怒気を見せてゐた。多分、たゞならぬ空気を察したのだらう、構内ではいつのまにか焚火が消され、高張提灯も取り去られて、柵をへだてて二人の男が対峙してゐる所にだけ一つ残つてゐたが、下方ではしだいに持込んで来た提灯のためにかへつて前とは逆に明さが行きわたり、土手に肩をいからして立つてゐる男を下から照し出してゐた。
「あ、神原の喜作さんだ」
 と、突然房一の肩を押へて云つた者がある。いつのまにか、練吉が傍に来てゐたのだ。彼は酒の酔ひもさめたと見えて、興奮し、そのために稍つい、輪郭のはつきりした顔立ちになつて、一心に土手の方を注視してゐた。
 土手に立つてゐる男は房一には見覚えのない男だつた。神原喜作だと聞いてもすぐには誰だか判らなかつたが、やがて、それが彼の借家してゐる鍵屋の分家の当主で、ふだんはどこかの農学校の教師をしてゐてめつたに帰つたことのないといふ、あの喜作だと思ひあたつた。それにしても、どうしてこんな所へひよつこり姿を現したものだらうか、冬休ででも帰つて来たのだらうか。――
 だが、その間にも土手の押問答はつゞけられた。
「消防演習だ? ふむ、よからう。そんなら訊くが、かうしてみんな集つて騒いでゐるのは何のためだか知つてるか」
 相手は何か答へたらしかつたが、房一のところへは聞きとれなかつた。今まで静まりかへつて事の成行を見まもつてゐた人だかりが急にどよめいたからである。そして、柵の向ふでは、相手になつてゐる男のうしろに出張所側の連中がかたまつてゐた。その長身の男も今更後へはひけないと云つた様子だつた。その時、房一の肩をまだ押へつゞけてゐた練吉の手が痙攣するやうにふるへた。
「おい、やつは所長だぜ。まだ新任で、来たばかりなんだ。――行かう!」
 何のためか、どういふつもりか、練吉は矢庭に房一の肩をぐんと押した。そして、自分は逸早く溝をとび越して、土手を駆け上つた。下の方では、黒い一杯の人だかりの間からは何やら鋭い言葉を叫ぶ者がゐた。練吉が駆け上つた後から、房一も本能的に溝をとび越えた。事態は緊迫してゐた。練吉が何をしでかすか知れない、といふ予感が閃いたので。
 が、練吉が駆け登つたのを見ると、先方の男は急に威丈高になつて怒鳴つた。
「何しに来た!」
「何しに来た?」
 と、いきなり突きを喰はされた練吉は、神経的にさつと青ざめながら、反問した。
 喜作はふりかへつた。そこへ房一も登りついた。三人は瞬間顔を見合せた。そこに、房一は自分よりは二つ三つ若い、だが禅坊主のやうな頭骨をした精悍な表情の神原喜作を見た。
 相手が急に三人にふえたためか、柵の中の長身な男は一層興奮した。
「君達は一体何者だ!」
 喜作は、
「何者かつて云ふが、そもそもこゝで半鐘をたたいたから集つて来たんだぜ」
 と、案外冷静に云つた。
「いや」
 と、房一が進み出た。
「私共は、これも(練吉を指して)この町の医者です。実は火事だといふから駆けつけたので。聞けば、演習だといふことですが、それなら前もつて町役場なり駐在所なりへ通知があるべき筈だと思ひますが、それはなさつたでせうな」
 房一の態度が穏かだつたので、相手はいくらか落ちついた。
「それは、小規模な演習だからして居らん」
「ふむ、さうすると――」
 さう云ひかけた時だつた。さつきから口々に何か叫び、又しづまりかへつてゐた下方で突然又あの板切れの井桁積みがくづれる音がした。その異様な、ばりばりといふ音は何か鋭い速い広い浪のやうな不安をひろげた。それは偶然の不吉な暗示を与へたやうなものだつた。誰かが、ずつと先きの方で溝をとび越え、木柵にとりついた。すると、又何人かが土手を駆け登つた。めりめりと木柵を引倒す音が立つた。と思ふと、房一は突嗟とつさに身をひるがへして土手づたひにその方へ走つてゐた。彼は一二度傾斜で滑り、殆ど転んだかと見えたが、間もなく身体を起した時にはもうその場所に立ちはだかつてゐた。
「何をするかつ」
 すさまじい怒気のやうなものが、房一のあらゆる部分に燃え立ち、彼のいかついむくれ上つた肩は二倍も大きくなつて見えた。それに圧倒されたものか、物音は止んで、房一が何かしきりと云つてゐるのが聞えたが、間もなく二三人がごそごそ土手を降りて行つた。
 それで一たんは静まつたやうではあつたが、その中にはかへつて不気味な気配けはいひそまつてゐた。黒くかたまつた人達はその場を去らうとはしなかつた。房一が向ふへ行つてゐる間に、構内の人影はすつかりゐなくなつてしまひ、黒い建物の奥にちらついてゐた官舎の明りも見えなくなり、焚火も消されたが、それはしばらくするとちよろちよろと又燃え立ち、人気のなくなつた構内の庭を少しばかり明くしてゐた。が、下方では殺気立つた空気が暗らがりの中に暗く、圧するやうに籠つてゐた。あちらこちらに人はかたまり、がやがや云ひ、或る塊りは黙りこみ、その間を何人かが動き廻つてゐた。ふいに、投石したのかそれとも何か中の人が躓いたのか、建物の方でチヤリンといふ硝子ガラスのこはれる音が立つた。一所では焚火がはじまつてゐた。それは猛烈な勢ひで高く燃え上り、かこんだ人達の顔を赤鬼のやうに照し出した。が、すぐに制止され、小さくなつたが、又しばらくすると以前にまして燃え立つた。方々に大きい焚火、小さい焚火がはじまり、そのまはりに集つた人達はもうどうしても動く気配はなかつた。
 その間に、房一は駆けつけて来た駐在所の加藤巡査としやがみこんで、しきりと善後策を講じてゐた。傍には練吉も、神原喜作も、小谷も、それから徳次の顔まで見えた。徳次はきよろりとした眼を一層大きくし、加藤巡査と房一とが話す様子を熱心に見まもり、時々うなづき、口をもごもごさせて、何か云ひたげにしてゐた。加藤巡査はさつきから人々の塊りの間を説得して廻つてゐたが、無駄であつた。今や驚くほどの寒さが感じられたにかゝはらず、加藤巡査の顔は疲労し、汗を浮かべ、しきりに手真似を入れて話してゐた。明かに出張所側の手落ちだつた。が出張所の側では門を固く鎖ざし、どこかへ引きこんでしまつてゐるので、話のつけやうがなかつた。
「高間さん、ひとつ何とかして引上げさせて下さい。このまゝでは――」
 と、加藤巡査は無意識に汗の滲み出た額のあたりを指でこすりながら、心配さうに大小の焚火を見やつた。彼の声はしはがれてゐた。
「ですが、何とも手のつけやうがない」
 房一の顔は重々しい沈思の表情と太い興奮の色とで紅黒く、やはり膏汗が漲つてゐた。
「さうですが、それはさうにちがひないが――」
 と、加藤巡査はくり返した。
「このまゝでは責任者を出さなくてはならなくなる。手落ちは向ふにあるとしてもですよ」
「ふむ」
「それに――」
 と、加藤巡査は声を落した。彼は、さきほど事が容易でないと思つたから、とりへず本署に電話をかけた、署長はじめ自動車で来ると云つてゐたから、まごまごしてゐるうちには着くだらう、さうなるとこのまゝではをさまりがつかなくなる、怪我人を出さぬうちに事が静まるのは自分の望むところであるし、皆さんの方もいゝではないか――。
「よし!」
 と、房一はぐいと身体を起した。それがあまり突然だつたので、傍にゐた徳次は慌てて立ち上つた。
 それまで房一は、加藤巡査を通じて出張所と話をつけ、何らかの形で収拾させたいと考へてゐたのである。が、彼の素速い判断力は今はその余裕もないことを見抜いた。
「それでは」
 と、房一は加藤巡査に云つた。御苦労だが、加藤巡査には角屋のところで本署の自動車を一先づとめてもらひたい。こつちは自分が引受けるから、こゝへ乗りつけないやうに何とか待たせていたゞきたい、その間にこちらの始末をつけ、自分が責任者になつて出向いてよく話をするから――。
「ぜひ、さういふことに」
 と、房一は急いで頼んだ。加藤巡査は一瞬、不安な面持をした。が、房一の態度が決然としてゐたのと、急策としてはそれより他にないことも明かだつたから、直ちに承諾を与へた。

 三十分もたつた頃、自動車は角屋の表で停つた。そこは国道が河原町に入らうとする曲り角で、角屋は国道に沿ひ、裏は河に臨んだ旅館である。責任者としての房一と神原喜作がそこにやつて来た時には、署長はまだ加藤巡査の報告を受けてゐる最中だつた。若し房一達の来るのがもう少し遅れたら、加藤巡査の報告もあやふやになり、署長はじめを現場へ案内せざるを得ない破目はめにもなつただらう。そして、事は出張所の消防演習を火事と誤認して人だかりがしたのに過ぎず、事実が判明するにつれて漸次分散して行つた、といふことに落ちついた。全く一時は成行を憂慮された事態も、落着してしまへば、事実その通りにちがひなかつたのである。
 だが、あれだけの人数を僅か三四十分の間にどうして引上げさせたものだらう。本署から自動車で署長以下がやつて来るといふ噂も効果があつたにちがひないが、房一はじめ、神原喜作も練吉も小谷まで、それから後から馳けつけて来た四五人の主だつた連中も声をからして説得してまはつたので、又、半鐘が鳴つてからもう三時間近くもたつてゐたので恐しく冷えこんで来た夜気は焚火にあたつてゐる側だけが熱いばかりで、背中がぞくぞくするほどだつたから、容易に引上げなかつた人達もさすがに疲労し、興奮がさめ、三々五々散らばつて行つたのである。
 神原喜作は、殊に自分が最初に口火を切つた責任者だといふ自覚があるらしく、あのづぶ濡れになつた下半身がいつのまにか生乾きになり、寒さのために硬はゞつた裾をばくばくさせ、方々を歩きまはつて説いた。練吉はその間、一種異様な緊張さを現してゐた。彼は、ごくたまに目瞬きをしてゐたが、顔はかつて見せたこともないやうな生真面目さで蔽はれ、時々さつと青ざめ、焚火の前に来ると俄かに紅らみ、絶えず房一の傍から離れなかつた。
「ね、君」
 と、彼は思ひ出したやうに房一の顔をのぞきこんだ。それは、いつか道平を診察しての帰り路で、「あれだね、君は見かけによらない親思ひなんだね!」と叫んだ時とそつくりな感嘆をまじへた親しさといつた色が閃いてゐた。
 練吉はそこで房一について廻つたばかりでなく、角屋までもくつついて来た。そして、同じやうについて来かけた徳次を見ると、
「いゝよ、君。帰りたまへ、その方がいゝんだから」
 と、云ひながら徳次の肩をつかんで押しもどした。誰もが疲労のための一種すゝけじみた鎮静を現してゐたにもかゝはらず、練吉だけは明かにまだ興奮してゐた。と云つて悪ければ、恐しく深い印象を与へられたものの如くであつた。そして、一応の取調べを受けに、二人の責任者が参考人として自動車に乗せられ、本署のある町まで同行を求められたときに、練吉は自分も乗う込まうとして加藤巡査にひきとめられた。
 自動車が動き出した時、練吉は唇のはしをびりびりさせ、あの切れ目の顔に何かしら水をかけられたやうな表情になりながら、
「あゝ、さうか。あゝ、さうか」
 と、呟き、房一に向つてしきりとうなづいてゐた。

 房一はその晩留置されることを覚悟してゐたが、幸ひに取調べは簡単に済んで、夜ふけになつて神原喜作と共に自動車で帰つて来た。この二人が本署まで同行させられたことはあらゆる方面に同情をひき起した。そして翌日になると、出張所の側でも遺憾の意を表し事件は落着した。

     六

 それからしばらくの間、房一は来る人ごとに、会ふ人ごとに、見舞の言葉を云はれた。彼等は房一の紅黒い顔をまじまじと眺め、そこにその晩の出来事のかけらでも見つけられでもするかのやうに、又何かしら話をひき出さうとし、同情し、感嘆した。そして、きまつたやうにつけ加へた。
「何にしても、えらいこつてしたなあ」
 かういふ目には、あの鬼倉との一件の後でも、多少会つてゐた。だが、その時も今も、房一は同じやうに何か尻ごみするやうな当惑に近い表情を浮かべ、なるべくその話から逃げるやうにしてゐた。その表情は、盛子の妊娠のときや道平の病気に際して現れたものに似て、何となく滑稽なところさへあつた。鬼倉の一件も、営林署の消防演習のことも、開業のはじめに彼が空想してゐたところのもの、あの町の人の心をしつかりと捉み、信頼させるといつた野心の点から云へば、巧まずしてその効果を果すものだと見做していゝ筈であつた。事実、さういふ様子は町の人の態度にはつきりと現れてゐた。あんなに大勢の人の目前で行はれたことであるのにかゝはらず、出張所で最初に口火を切つたのが神原喜作ではなくて房一であり、解決したのも房一だといふ風評さへ立つてゐたのである。無責任でもある代りに、どこか一脈の根柢あるかういふ風評は、今何となく房一を漠然と押し立てる方に働いてゐる観があつた。ところが、どういふものか、房一はそれを避ける様子を示したばかりでなく、一種嫌悪の面持を見せた。
 その二つとも何か危険さを伴つてゐただけに、妊婦である盛子への影響を恐れたのだらうか。それもたしかに、あることはあつた。盛子は、鬼倉との時もさうだつたが、消防事件の時も、後で聞いて並々でない神経性な不安を現した。
「どういふことでせうね、まあ!」
 盛子は、ほんの僅かではあつたが、速い、鋭い身ぶるひをした。そして、あの伏目がちになつた眼を上げ、ぢつと房一をたじろがせるほどつくづくと見入つた。そこには、以前そのまゝの張りのある眼をした、だが、弱い深い複雑な色が動いてゐた。妊娠以来急に人が変つたやうに見える、何となく房一の心を見透すやうな、捕へがたい、鋭い盛子がのぞいてゐた。多分、それは房一の思ひちがひだつたかもしれない。だが、彼はそこに、やさしい、けれども何となく苦手なものを感じてゐた。
 だが、まつすぐに話を進めよう――彼がその話を嫌がつたのは、人によつては精神の分裂を招き易い、あの二重な意識と名づけるべき鋭い意識のバネのせゐだつた。読者は房一の幼時から彼の額に現れた一本の深い皺と、彼がしばしば陥る沈思の様子を記憶されてゐるだらう。空想家ではなかつたにもせよ、彼には事態の真底を見抜く直観力があつた。恐らく誰もまだ気づいてゐないうちに、彼はその人の持ち上げにかゝつた所に迂散臭うさんくさいものを嗅ぎつけた。たとへ思ひがけないはずみで捲きこまれたことだつたにしても、彼は自分の中に一脈の危険さを、彼を生かすのもそれだがほろぼすのもそれだ、といつた風なものを感じてゐた。それは別にはつきりとしたことではなかつた。が、少くとも彼の意識の穂先には微妙にふれてゐるものだつた。

 だが、その幾日かも過ぎると、又あの、恐るべき変化を蔵しながら一見何一つ変つたこともないと感じさせる、単調な何気ない日々がつゞいた。何かしらはつきりし、又何かしらとりとめもなく、空は冷い輝きを増し、山々の稜線はかつきりとし、葉の落ちつくした雑木山はずつと遠くのものまでが殆ど信じられないくらゐの細かい枝を無数に目に見させ、ブラッシの毛並みのやうな渋い赤褐色をどこまでもどこまでも拡げてゐた。
 房一は近い往診の帰りに河の石畳みの土手をつたつて歩いてゐると、広い河原を前にし土手沿ひの小高い畑地の端に立つて、特長のあるごつごつした頭骨をあらはにし、両手を帯の前にはさんだまゝ、殆どり身に立つたまゝあたりを眺めてゐる男を見た。
 まがふことなく、それは神原喜作だつた。
 房一はあの騒ぎの晩、土手に駆け上つた瞬間高張提灯の明りで見合つた喜作の、禅坊主めいた精悍な顔が、その後度々会つたにもかゝはらず、妙にその時の顔だけがいつまでも印象に残つてゐた。
 喜作の方でも、房一の来るのを認め、
「やあ。先日はどうも」
 と、微笑しながら頭を下げた。
 今日見るその顔は、色こそ黒かつたが、地蔵眉の、眼もそれに釣り合つて細い糸を引いたやうにやさしかつた。だが、その声には何かきつぱりした、率直さが感じられた。
「閉口でしたな」
 房一が云ふと、喜作は突然びつくりするほど大きな口を開けて笑つた。
「いつこちらへお帰りでしたか」
「いや、あの晩の、ほんの三二日前です」
「ちつとも知りませんでしたよ」
「なに、ろくでもない用事で帰つたもんですから、どこへも失礼してゐたんです」
 あのことだな、と房一は思つた。訊いてどうかな、とは感じたが、相手があまりさつぱりしてゐるので、
「訴訟があるさうで、面倒なことですな」
と、云つた。
「さうです。相談があるからと云ふんで帰つて来たんですが、僕なんか何も問題はありませんよ。返すものがあれば、いつでも返します。何もないんですよ。家と、田地が少し。それも抵当に入つてゐますよ。僕がしたわけぢやない。兄貴が選挙の費用だの何だので金が要つたのでせう」
「さうですか」
 答へながら、他人ごとのやうにずばずば何でも話してしまふ喜作の飾り気のなさに、驚いてゐた。
 一息に話してしまふと、喜作は依然としてさつきのまゝの姿勢で、いかにも気持よささうに、あのごつごつした、年に似合はず毛のうすい頭をむき出しに日にさらし乍ら、遠く河下の方に開けた空と、その下に低く横はつてゐる丘陵地に目を放つてゐた。
「それで、近く片づきさうなんですか」
「いや」と、喜作は相変らずきつぱりと、うるさがりもせず答へた。
「まだなかなかでせう。永いこつてすよ」
 房一は思はず笑ひ出した。
 喜作と別れてから、房一は歩きにくい足もとの円石に目を落して何となく考へこんだ風に歩いて行つた。
「永いこつてすよ」――そのきつぱりとし、そのためにかへつて本当の永さを、あのつきることのない、何かしらにみちた前方の日々を現してゐるその云ひ方が、ひどく房一の頭に残つてゐた。
 それはさうだ、永いことにちがひない、と房一はゆつくりと歩きつゞけた。多分、彼は彼で、自分のこれからの生涯を、その計りがたく、茫漠とした行手を見てゐたのだらう。
(昭和十六年四月)

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