日语文学作品赏析《乱世》
同心の宇多熊太郎という男が、戦場から道を迷って、笠置を越え、伊賀街道を故郷へと馳せ帰って来たのである。
一藩は、愕然とした。愕然としながらも、みんな爪先立てて後の知らせを待っていた。
公用方の築麻市左衛門が帰って来たのは、十日の午前であった。彼は、本国への使者として浪花表で本隊と離れ、大和伊賀をさ迷った末、故郷へ
一藩は、色を失った。薩長の大軍が、錦の御旗を押し立てて今にも東海道を下って来るといったような風聞が、ひっきりなしに人心を動かした。
桑名は、東海道の要衝である。東征の軍にとっては、第一の目標であった。その上、元治元年の四月に、藩主越中守が京都所司代に任ぜられて以来、薩長二藩とは、互いに恨みを結び合っている。薩長の浪士たちを迫害している。ことに、長州とは蛤門の変以来、恨みがさらに深い。彼らは、桑名が朝敵になった今、錦旗を擁して、どんなひどい仕返しをするかもわからない。
藩中が、
市左衛門が帰って来たその夜、城中の大広間で、一藩の態度を決するための大評定が開かれた。
血気の若武者は、桑名城を死守して、官軍と血戦することを主張した。が、それが無謀な、不可能な、ただ快を一時に
死守説は少数で、すぐ敗れた。その後で、議論は東下論と恭順論との二つに分かれた。東下論は硬論であり、恭順論は軟論であった。
家老の酒井孫八郎や、軍事奉行、杉山
それに対して、政治奉行の小森九右衛門、山本主馬などが恭順論を主張した。彼らは天下の大勢を説き、順逆の名分を力説して、この際一日も早く朝威に帰順するのが得策であるというのであった。
恭順東下の議論は、二日にわたって決しなかった。そのうちに、鎮撫使の橋本少将、柳原侍従が、有栖川宮の先発として、京師を発したという知らせが早くも伝わった。
その知らせに接して、評定の人々は更に焦った。が、諸士の議論は、容易に一致しなかった。藩中第一の器量人といわれている家老の酒井孫八郎が、とうとうこんなことををいい出した。今、敵は眼前に迫っている。必死危急の場合である。小田原評定をやって、一刻をも
議論に疲れていた――また心のうちでは、帰趨に迷うていた――多くの藩士たちは、
こうして、籤は作られた。発案者の酒井が選ばれて、籤を引いた。引かれた籤は東下の籤であった。東下の籤が出た以上、恭順論者も諦めてそれに従う外はなかった。
藩老たちは、一藩の士卒を城中に呼び集めて、評定の経過を語った後、関東へ発足するについての用意を命じた。命じられた藩士たちは、家財を取り片づけ、妻子を、縁故縁故を辿って、城下の町、在の百姓に預けるなど、一藩は激しい混乱に陥った。
が、そこに思わざる反対が起った。それは、お目見得以下の軽輩の士が一致しての言い分であった。彼らは太平の世には、上士たちの命令を唯々諾々としてきいていた。が、一藩が危急に瀕すると、そこに階級の区別はだんだん薄れていた。階級が物をいわずして数が物をいうのであった。三百名に近い下士たちは、足軽組頭矢田半左衛門、大塚九兵衛を筆頭として、東下論に反対した。彼らの言い分はかなり筋道が通っていた。
関東へ下るということは、将軍家及び藩主
藩士たちは、武士の面目の上から、東下を潔しとし、恭順を
東下論の主張者である酒井孫八郎、杉山弘枝はおどろいて、下士たちの鎮撫方を、政治奉行の小森、山本に交渉した。二人は、彼ら自身恭順論者でありながら、必死に下士たちを
二人の死を、転機としたように――二人の死をまったくの犬死にするように、下士たちの恭順論は、いつの間にか藩論を征服していた。東下論者は、声を潜めてしまった。
藩老たちは、同夜左のごとき、一書を尾州藩へ送って、朝廷へ帰順の取成しを、嘆願したのである。
吉村又右衛門
沢
三輪権右衛門
大関五兵衛
服部
松平
次いで、同月十八日、官軍の先鋒が鈴鹿を越えたという報をきくと、同文の嘆願書を隣藩亀山藩へ送った。
二十一日、鎮撫使から御汰沙の手控えが、亀山藩の手を通して、桑名藩にいたされた。文面は、次の通りであった。
一藩の人々は、愁眉を開いた。帰順がいれられたからである。が、一藩の人々が愁眉を開いたと反対に、
七日に馳せ帰った宇多熊太郎、十日に帰った築麻市左衛門を筆頭とし、その後数日の間に、近畿の間で、桑名藩の本隊と分かれ、思い思いの道を取って本国の桑名に帰っていたものが、すべて十三人。彼らはいわゆる「浪花ヨリ分散ノ諸兵」であり、鳥羽伏見の戦場で、錦旗に向って発砲したものに違いなかった。
鎮撫使からの御汰沙によって、彼らがその本営に
幼年の主君万之助の乗った籠の後から、麻上下を付けて、白い鼻緒の草履を
万之助主従は、四日市の町に入ると、瓦町の法泉寺で四つ時まで休憩した後、亀山藩士の名川力弥に導かれて、官軍の本営真光寺に出頭した。万之助と重臣たちは式台の上に上ることを許された。十三人の敗兵たちは、白洲の上に
衣冠束帯の威儀を正した鎮撫使の橋本少将が、厳かな口調で、次のようにいい渡した。
一、本城ヲ掃除シ朝廷ニ可奉差上事
一、帯刀ノ者
十三人に対して、決った処分はいい渡されなかった。が、万之助及び重臣たちが、桑名に帰されずに、四日市の法泉寺に抑留されたように、十三人の敗兵は、鳥取藩士の警護に付されて、四日市の北一里にある海村、羽津の光明寺に幽閉されてしまった。そこからは、海蔵川原の刑場がつい目の先に見えていた。
二
桑名藩で、馬回り使番を勤めて、五十石の知行を取っていた
彼は、今年二十五歳の青年であった。父が、慶応元年の三月に死んだので、当時二十二になった格之介が跡目を相続した。翌慶応二年の春に、彼は妻のおもとを
新婚の夢
鳥羽伏見で、敵方に錦旗が
彼が、奈良から、伊賀街道を伊勢に
彼は故郷へ帰って来たものの、心ひそかに藩からのお
妻のおもとは、格之介の不時の帰宅を小躍りして
差し迫る一藩の大事に脅えながらも、蜜のような歓楽の日が、この若い夫婦の間に、幾日か過ぎた。それが、再び恐ろしい不幸によって、めちゃめちゃにされるまで。
敗兵お召出しの個条が、官軍からの御沙汰にあるときいたとき、格之介は色を失った。錦旗に発砲した以上、命がないかもしれない。そうした考えが、ひしひしと彼の胸に迫ってくる。愛妻のおもとと水杯を交わすとき、格之介は、不覚にも涙を流した。
三
光明寺に、十三人が閉じこめられてから数日経った。本堂に続いた二十畳に近い書院が、彼らの居室に当てられた。住持の好意によって、手回りの品物が給せられた。警護の鳥取藩士は、彼らにかなり寛大だった。が、生死の間に彷徨している彼らは、みんな
人間は、何かの感情に激すると、臆病者でもかなり潔く死ぬことがある。忠君とか愛国とか憤怒とか慷慨とか、そうした感激で、人は潔く死ねる。が、そうした感激がなく、死が
最初、彼らは自分たちの境遇については、何も話さなかった。みんな注意して、それに触れるのを避けた。それに触れることが、誰にとっても不快であったからである。
「万之助様のお身の上は、どうなったであろう」
彼らの一人がいった。
「本城の明渡しは、もう無事に済んだかしらん」
他の一人がいった。
「紀州へ落ちた人たちは、あれからどうしたであろう。まさか、紀州家が見殺しにはしないだろう」
第三の人がいった。
彼らは、努めて自分たち以外の人々の身の上を心配しているように、お互いに見せかけた。が、そんなふうに話をし始めても、少しもはずまなかった。銘々自分自身、心のうちに自分たちの身の上を思う心が、暗澹としていたからである。
一日経ち二日経ち、彼らの生死の不安がますます濃くなってくるにつれ、彼らはもう他人のことなどは、話している余裕がなくなっていた。
二十七日の午後である。十三人の中では、いちばん軽輩の近藤小助という男が、とうとう口を切った。それは、皆が口に出したくて、しかも妙な外見から、口に出せなかった言葉である。
「時に、われわれは一体どうなるというのだろう。もう四日にもなるのに、なんの御沙汰もない」
彼は、小声で同僚にそう話しかけた。が、異常に緊張している十二人の耳は、小助の囁きをきき落さなかった。みんなは、一斉に小助の方を見た。
「さあ! それじゃて」いちばん年輩の足軽小頭が、小助の問を受けて答えた。「もう、なんとか御沙汰があるはずじゃが、もしかすると、京都へいったん伺いを立てたのかな。もしそれだと往復四日かかるとして、御沙汰があるのは、今日か明日じゃて。もう、どんなに遅くても二、三日じゃ」
「首が飛ぶのがかい」
小助は、蒼白い顔に苦笑をもらしながら、そういった。みんなは、じろりと小助の方を見た。その目には、不吉な不快な言葉を無遠慮に使う小助に対する非難が、一様に動いていた。
「いや、そうとは限るものか。朝廷の御主旨は万事御仁慈を旨とせられるというから、取るに足らぬ我々の命を召さるるはずはない、取越苦労はせぬものじゃ!」
足軽小頭は、小助を
「いや、お言葉じゃが、鎮撫使の参謀には、長州人がいるというからな。長州人と我々とは、元治以来、犬と猿のように
小助は、絶望したように、
鎮撫使からの、手控えのうちに、「浪花ヨリ分散ノ諸兵」と、指摘されてある以上、それは彼らに対する有罪の宣告文であった。彼らが刑罰を受けなければならぬことは明らかだった。刑罰を受けなければならぬ以上、彼らは死を覚悟する必要があった。こうした乱世にあっては、死罪以下の刑罰は、刑罰ではなかったからである。
「あはははは、みんなこれじゃこれじゃ。覚悟をしておれば、何も
十三人の中では、いちばん身分の高い築麻市左衛門が、左の手で首筋を叩きながら、快活に笑ったが、それに次いで、誰も笑い出す者はなかった。いや、市左衛門の笑い声までが、一種悲惨な調子を帯びて、消えて行った。
格之介は、縁側の柱にもたれて、皆の話をきかぬような顔をしながら、そのくせいちばん気にしてきいていた。首だとか覚悟だとかいうような言葉が話されるごとに、彼の目の前が暗くなるような気持になっていた。
彼はどう考え直しても、覚悟といったような心持を想像することができなかった。彼は殺されるという気持を、頭の中に思い浮べても、身震いがした。
が、格之介が嫌がろうが嫌がるまいが、死は刻々、十三人の身の上に襲いかかってくるように感ぜられた。
四
翌二十八日は、朝から快く晴れた。春が来たことが、幽囚の人たちにも感ぜられた。寺が高地にあるために、塀越しに伊勢湾の波が見えた。波の
空を覆う樫の梢を[#「空を覆う樫の梢を」は底本では「空を覆樫の梢を」]洩れた日の光が、庭の蒼い苔の上を照らしていた。庭の右手には、建仁寺垣があって、垣越しに墓地が見えた。山から出てきたらしいひたきが、赤と青の翼をひらめかしながら、午前中、墓石の上をあちこち飛び回っていた。
墓地は、黒い板塀に囲われていた。塀の向うには、草が蒼みかけようとする広い空地があった。そこで時々、警護の鳥取藩士が、調練をしていた。
一昨日あたりから、
「木村氏、その後は拙者が拝借したい」と一人がいうと、
「その次は、拙者に」
第三の人が、そばからいう。
料紙と硯とは、次から次へと渡った。そうして、午前中に五、六人も手紙を認めた。が、格之介はそうした心持になることができなかった。彼は覚悟とか遺書とか、そうしたことをできるだけ考えまいとした。自分の頭がそうした方面へ走るのをできるだけ制止した。王道をもって、新政の要義としている朝廷が、
桑名藩を罰するというのなら、藩主の
彼は、一生懸命にできるだけ有利に明るく考えようとした。が、同僚の誰彼が、遺書を認めているのを見ると、暗い穴の中へでも引きずり込まれるような、いやな心持がした。自分の明るい想像がめちゃめちゃに掻き乱されるのであった。
午後のことである。格之介の前に立ちはだかって、じっと空地の方を見ていた
「ああ、あそこへ家が建つのだな。だんだん暖かくなるのだから、普請にはいい
木村の言葉をきく前から、格之介はそれに気がついていた。さっきから、材木を積んだ一台の車が、どこからともなく、空地へ引かれて来ている。その材木を、大工らしい男が三人、車から下している。
ここに来てから、四日の間、ぼんやり床の間や天井や、庭や墓地などを見ていた格之介は、そうしたものに、かなり飽き飽きしていた。彼はこうして新しい
「うむ! 家を建てるのかな。が、こんな田圃の中にぽっつり建てるわけはない。木組をしてからどこかへ運んで行くのだろう」
彼は、心のうちでそんなことを考えながら、じっと大工たちの働くのを見ていた。
が、それを見ているのは、格之介と木村清八とだけではなかった。どんなに、死が迫ってきている時でも、人間は退屈をするものである。十三人の中で、さっきから碁を囲んでいる築麻市左衛門と宇多熊太郎との外は、みんな外へ出て大工の働くのを見ていた。
三人の大工は、材木を下してしまうと、銘々に手斧を使い始めていた。手斧が、木に食い入る音が澄み渡った早春の空気の中に、しばらくは、快く響いていた。
が、そのうちに縁側に立っている人々は、単純な大工の動作に飽いて、いつとなく部屋の中へ入ってしまった。格之介と清八とだけは、まだ縁側を離れなかった。
大工は、その材木で幾本となく高い柱をこさえていることは明らかだった。そして、一方の端を、土の中へでも打ち込むように尖らせているのだった。そのうちに、そうした丸い柱の数も格之介にはわかった。
大工は十本の柱を、こさえ上げてしまうと、今度は車に積み残してあった材木を下しにかかった。
見ると、それは幅が一尺ぐらい、長さが一間ぐらいあろうと思われる板だった。厚みは一寸にも近かった。板の数は、数えると五枚あった。
「
そばにいる清八が、首を傾げながら呟いた。格之介にもそれが不思議に感ぜられていた。彼も大工が何を作ろうとするのか、少しも見当がつかなかった。
そのうちに大工は、銘々一枚の板と二本の柱とを揃えると、板の両端へ一本ずつの柱を当てがった。
「おや!」と、思っているうちに、大工は道具箱から一尺に近い
今まで、好奇心だけで見ていた清八が、ちらりと格之介の顔を振り返った。清八の顔には、血の気がなかった。唇がびくびく動いた。それを見返した格之介が、もっとあわれな顔をしていたことはむろんである。二人は、さっきからうかうかと、獄門台が作られるのを見ていたのである。
「こりゃいかん! 諸君、あんなものを作っている。あんなものを」
清八は、救いを求めるような悲鳴をあげた。五、六人続いて、縁側に飛び出して来た。が、みんな一目見ると、色を変えてしまった。誰もなんともいわないで、縁側の上に釘付にされたように立っていた。
碁を囲んでいた築麻市左衛門までが、立ち上ってきた。さすがに彼も、一目見ると、かすかではあるが顔色が変った。
「うむ! 謎をかけおったな。われわれに、覚悟をせよという謎だな」
彼は重くるしい口調で、みんなの沈黙を破った。
いちばんおしまいに出て来た宇多熊太郎は、いちばん動じていなかった。
「もう諸君! 今夜がお別れじゃ! 刻限は明日の夜明けだな、案ずるに」
彼は苦笑しながら、みんなを見返った。
「五人だけは
市左衛門がそういった。彼は獄門台の数を数えてみたのである。
格之介は、さっきから、止めようとしても止らない胴震いが、身体のどこからともなく、全身に伝わってくるのである。
獄門台の数が五つ。それを数えたときに、彼は自分の死首がその上に載っているような気がした。もうそれで、彼が殺されて、梟首されることは確かだった。十三人の中で八人まで軽輩の士である。お目見得以上の士は五人しかいない。彼はその五人の中で、家の格式がちょうど真ん中に位している。
「五人だけは、獄門になるのは分かった。が、後の八人はどうなるのだろう。斬首かな、それとも命だけは助かるかもしらん」
足軽の中で、いちばん年輩の男が、そういった。彼はまだ一
「助かる! たわけたことをいわれる! 今になって助かることを考える。積ってもみるがいい。五人の方々が梟首される以上、われわれが助かるはずがあるものか。武士たるものに、梟首は極刑じゃ。五人の方々を極刑にする以上、われわれを許すはずがない。打首だけなら、まだ仕合せじゃ。御覧なされい! 今にも、もう一台材木を引いた車が参るから」
加藤小助が、地獄の獄卒ででもあるように、憎らしげにそういった。そのくせ、彼の顔色にも人間らしい色が残っていなかった。
八人の軽輩の人たちは、加藤の言葉を不快に思った。が、その真実を認めないわけにはいかなかった。五人の上士たちが梟首にされる以上、残りの八人が、たとい梟首は免がれるにしても、打首だけは確かな事実だった。
ことに、五人の中に入っている格之介が死を免がれ得るような理由は、少しも考えられなかった。死は、ただ時の問題として、彼の前に迫ってきた。彼も、どうにかして死を待ち受ける準備をしなければならなかった。
獄門台が、すっかりでき上って、その気味の悪い格好をずらりと地上に並べている時だった。燃ゆる
それを見ると、宇多熊太郎は、縁側の板を踏み鳴らしながら怒った。
「ああ、あんないやなことをしやがる。あんな嫌がらせをする!」
が、怒り得るものは幸いだった。格之介は、それを見ると、恥も見栄もなく、身体ががたがたと震え出した。
五つの獄門台は、次々に塀に立てかけられた。真新しい材木が、古い板塀の上にまざまざと夕日の中に浮んでいる。
「ああ残念! 諸君、こんな汚らわしいものを見ていないで、障子を閉めようではござらぬか。武士たるものを、罪人同様に辱めおる。ああ、こうと知ったら、
宇多熊太郎は、
みんなは、部屋に入って、障子を閉めた。が、格之介には、障子越しに五つ並んだ獄門台がありありと見えた。
それきり、夕食の時まで、誰も一口も口をきかなかった。
夕食の膳が出ると、築麻市左衛門は、
「各々方、今夜はお別れでござる。我々に無礼を働く鳥取藩士への
十二人までは、さすがに悪びれたところはなかった。杯が、しめやかに回った。
が、格之介は、飯も
彼はどうしても死ぬ気にはなれなかった。切羽詰まって死ぬにしても、もう一度妻の顔が見たかった。もう一度妻と――妻と最後の名残を惜しみたかった。が、妻などということを考えないでも、死そのものが、どうしても嫌だった。彼は、どうにかして死にたくなかった。まして、殺された後に、自分の首が獄門台に晒されることを考えると、どんなことをしても死を免がれたかった。もう、とっぷりと暮れてしまった障子の外の闇のかなたに、白木の獄門台が、ずらりと並んでいることを考えると、水のような
そのあくる朝、桑名の藩士たちは銘々、覚悟を決めて床を離れた。が、起き
五
「臆病者! 卑怯者!」
十二人は、口々に格之介を
築麻市左衛門から、格之介逃亡の旨を、警護の鳥取藩士に申し出でた。さすがに、その推定された逃亡の理由まではいわなかった。
「
市左衛門は、格之介逃亡の理由を、こう説明した。
それをきいた鳥取藩の隊長は、苦い顔をした。
「それは近頃、心外なことじゃ。武士は敵味方に別れても相身互いじゃと存じたによって、かほどまで寛大な取扱いをいたしたのは、われらが寸志じゃに、それが各々方に分からなかったとは心外千万じゃ。いや、ようござる! 鎮撫使から預った大事な囚人を逃したとあっては、拙藩の恥辱でござるほどに、草を分けても探し出す所存でござる。各々方を信用したのが、拙者の不覚でござる」
隊長は、かなり憤慨して、開き直った。
市左衛門も、相手から寛大な取扱いという言葉をきくと、むっとした。武士たるものに、汚らわしい刑具を見せつけて侮辱を与えておきながら、よくもそんなしらじらしいことがいえると思った。
「ふむ! あれで寛大な取扱いと申さるるか」
彼は、吐き出すようにいった。
「いかにも」隊長は、
「いわれな!」市左衛門は、中途で激しく
市左衛門の目は血走った。もし、彼が帯刀を許されていたならば、彼の手はきっと、その
市左衛門に指さされて、鳥取藩の隊長は、墓地を越えて、板塀の方を見た。彼の目にも、黒い板塀とはっきりした対照をなしてぬっと突き出ている獄門の首台が、目に映った。それを一瞥したときに、彼は明らかに狼狽した。
「やあ! これはこれは、いかい不念じゃ。許されい、許されい」
詫びようとする隊長を押えて、市左衛門は勝ち誇ったようにいった。
「われわれは武士でござる。あのように御親切に悟されいでも、腹を切る覚悟は、平生からいたしてござる。今日か、ただしは明日か、時刻をさえ知らして下されば、それでたくさんじゃ」
市左衛門の憤慨を頷きながらきいていた隊長は、彼の言葉の終るのを待って態度を改めた。
「それはとんでもないお考え違いじゃ。拙者の不念から、部下のもののいたした粗相じゃ。各々方にあのような不吉なものを見せて、なんとも申しわけがござらぬ。お気に止められるな。各々方を処刑、そのような御沙汰は気もないことじゃ。いや、昨夜も本営へ参ってきいた噂によれば、桑名藩の方は、主従ともなんのお
そういって、彼は次のように話をした。
ちょうど、有栖川宮の先発たる橋本少将、柳原侍従が、錦旗を擁して伊勢へ入ったと同時に、近江から美濃へ入った官軍の別働隊があった。彼らは、赤報隊と称して、錦の御旗を先頭に立て、二百人に近い同勢が、鎮撫使の
高須の、松平
「獄門台は、右のような次第で作らせたものでござる。地上においては、調練の邪魔になるほどに、あのような粗相をいたしたのでござろう。不念の段は、拙者から幾重にもお詫びいたす。許されい、許されい。これはとんでもない粗相じゃった、はははははは。が、間違いで、めでたいめでたい」
きいているうちに、桑名藩の人々の相好が崩れていた。隊長の語り終った頃には、それが湧き立つような哄笑に変っていた。彼らは、腹を抱えて笑いながらも、目にはいっぱいの涙を湛えていた。
六
その誤解は、うちとけた哄笑で済んでしまったけれど、鳥取藩士の格之介に対する追及は、それでは済まなかった。彼らは藩の面目にかかわる一大事だから、どうあっても探し出すと揚言した。東海道筋には、官軍が満ち満ちている故に、江戸へ下り得るはずはない、近在に潜んでいるに違いないとあって、十人、二十人、隊を組んで、鳥取藩士は四日市、桑名、名古屋を中心に、美濃、伊勢、尾張の三国の村々在々を隈なく捜索した。その中の一隊は、
桑名の西北六里、濃州街道に添うて、
火のない窯の中からおどろいて飛び出したのは、格之介であった。彼は自分の家の若党の実家を頼って、人目に遠い山中の窯の中に、かくまわれていたのであった。彼は官兵を見ると狼狽した。捕えられることは、彼にとっては死を意味していた。彼は、身を翻して、窯の
「えい! まだ逃げおる! 未練なやつじゃ、射て! 射て! かまわぬ、射て!」
隊長は苛って叫んだ。
二、三人の兵士が、新式のゲーベル銃で折敷の構えをした。激しい銃声が、山村の静かな空気を動かした。格之介のやせた細長い身体が、雑木の幹の間でくるくる回ったかと思うと、
越えて数日、海蔵川原に並んで立っていた五つの獄門台から、赤報隊の元凶たちの
捨札には達筆で、次のように書いてあった。
戊辰二月
格之介を除いた十二人の人々は、その年の四月、なんのお咎めもなく無事に帰藩を許された。
格之介の逃亡の理由が分かるにつれ、桑名藩士も官軍の人たちも、格之介が
が、どうして格之介をわらうことができよう。彼は確かに、自分の首が載る獄門台が作られるのを見ていたのである。
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