優しき歌 □


 燕の歌

春来にけらし春よ春
  まだ白雪の積れども
         ――草枕


灰色に ひとりぼつちに 僕の夢にかかつてゐる
とほい村よ
あの頃 ぎぼうしゆとすげが暮れやすい花を咲き
山羊やぎが啼いて 一日一日 過ぎてゐた

やさしい朝でいつぱいであつた――
お聞き 春の空の山なみに
お前の知らない雲が焼けてゐる 明るく そして消えながら
とほい村よ

僕はちつともかはらずに待つてゐる
あの頃も 今日も あの向うに
かうして僕とおなじやうに人はきつと待つてゐると

やがてお前の知らない夏の日がまた帰つて
僕は訪ねて行くだらう お前の夢へ 僕の軒へ
あのさびしい海を望みと夢は青くはてなかつたと
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 うたふやうにゆつくりと‥‥


日なたには いつものやうに しづかな影が
こまかい模様を編んでゐた 淡く しかしはつきりと
花びらと 枝と 梢と――何もかも……
すべては そして かなしげに うつら うつらしてゐた

私は待ちうけてゐた 一心に 私は
見つめてゐた 山の向うの また
山の向うの空をみたしてゐるきらきらする青を
ながされて行く浮雲を 煙を……

古い小川はまたうたつてゐた 小鳥も
たのしくさへづつてゐた きく人もゐないのに
風と風とはささやきかはしてゐた かすかな言葉を

ああ 不思議な四月よ! 私は 心もはりさけるほど
待ちうけてゐた 私の日々を優しくするひとを
私は 見つめてゐた……風と 影とを……
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 あざみの花のすきな子に
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 □ やすらひ
     ――薊のすきな子に――


風は 或るとき流れて行つた
絵のやうな うすい緑のなかを、
ひとつのたつたひとつの人の言葉を
はこんで行くと 人は誰でもうけとつた

ありがたうと ほほゑみながら。
開きかけた花のあひだに
色をかへない青い空に
鐘の歌に溢れ 風は澄んでゐた、

気づかはしげな恥らひが、
そのまはりを かろい翼で
にほひながら 羽ばたいてゐた……

何もかも あやまちはなかつた
みな 猟人かりうども盗人もゐなかつた
ひろい風と光の万物の世界であつた。
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 □ 虹の輪


あたたかいかをりがみちて 空から
花を播き散らす少女の天使のてのひら
雲のやうにやはらかに 覗いてゐた
おまへは僕にもたれかかりうつとりとそれを眺めてゐた

夜が来ても 小鳥がうたひ 朝が来れば
くさむらに露の雫が光つて見えた――真珠や
滑らかな小石や刃金はがねの叢に ふたりは
やさしい樹木のやうに腕をからませ をののいてゐた

吹きすぎる風の ほほゑみに 撫でて行く
朝のしめつたその風の……さうして
一日ひとひが明けて行つた 暮れて行つた

おまへの瞳は僕の瞳をうつし そのなかに
もつと遠くの深い空や昼でも見える星のちらつきが
こころよく こよない調べを奏でくりかへしてゐた
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 □ 窓下楽

昨夜は 夜更けて
歩いて 町をさまよつたが
ひとつの窓はとぢられて
あかりは僕からとほかつた

いいや! あかりは僕のそばにゐた
ひとつの窓はとぢられて
かすかな寝息が眠つてゐた
とほい やさしい唄のやう!

こつそりまねてその唄を僕はうたつた
それはたいへんまづかつた
昔の こはれた笛のやう!

僕はあわてて逃げて行つた
あれはたしかにわるかつた
あかりは消えた どこへやら?
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 □ 薄明


音楽がよくきこえる
だれも聞いてゐないのに
ちひさきフーガが 花のあひだを
草の葉のあひだを 染めてながれる

窓をひらいて 窓にもたれればいい
土の上に影があるのを 眺めればいい
ああ 何もかも美しい! 私の身体の
外に 私を囲んで暖くかをりよくにほふひと

私は ささやく おまへにまた一度
――はかなさよ ああ このひとときとともにとどまれ
うつろふものよ 美しさとともに滅びゆけ!

やまない音楽のなかなのに
小鳥も果実このみも高い空で眠りに就き
影は長く 消えてしまふ――そして 別れる
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 □ 民謡

    ――エリザのために


いとは張られてゐるが もう
誰もがそれから調べを引き出さない
指を触れると 老いたかなしみが
しづかに帰つて来た……小さな歌のうつは

或る日 甘い歌がやどつたその思ひ出に
人はときをりこれを手にとりあげる
弓が誘ふかろい響――それは奏でた
(おお ながいとほいながれるとき)

――昔むかし野ばらが咲いてゐた
野鳩が啼いてゐた……あの頃……
さうしてその歌が人の心にやすむと

時あつて やさしい調べが眼をさます
指を組みあはす 古びた唄のなかに
――水車よ 小川よ おまへは美しかつた
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 鳥啼くときに

   式子内親王【ほととぎすそのかみやまの】による Nachdichtung


ある日 小鳥をきいたとき
私の胸は ときめいた
耳をひたした沈黙しじまのなかに
なんと優しい笑ひ声だ!

にほひのままの 花のいろ
飛び行く雲の ながれかた
指さし 目で追ひ――心なく
草のあひだに やすんでゐた

思ひきりうつとりとして 羽虫の
うなりに耳傾けた 小さい弓を描いて
その歌もやつぱりあの空に消えて行く

消えて行く 雲 消えて行く おそれ
若さの扉はひらいてゐた 青い青い
空のいろ 日にかがやいた!
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 甘たるく感傷的な歌


その日は 明るい野の花であつた
まつむし草 桔梗ききやう ぎぼうしゆ をみなへしと
名を呼びながら摘んでゐた
私たちの大きな腕の輪に

また或るときは名を知らない花ばかりの
花束を私はおまへにつくつてあげた
それが何かのしるしのやうに
おまへはそれを胸に抱いた

その日はすぎた あの道はこの道と
この道はあの道と 告げる人も もう
おまへではなくなつた!

私の今の悲しみのやうに くさむらには
一むらの花もつけない草の葉が
さびしく 曇つて そよいでゐる
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 ひとり林に……
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 □ ひとり林に‥‥


だれも 見てゐないのに
咲いてゐる 花と花
だれも きいてゐないのに
啼いてゐる 鳥と鳥

通りおくれた雲が 梢の
空たかく ながされて行く
青い青いあそこには 風が
さやさや すぎるのだらう

草の葉には 草の葉のかげ
うごかないそれの ふかみには
てんたうむしが ねむつてゐる

うたふやうな沈黙しじまに ひたり
私の胸は 溢れる泉! かたく
脈打つひびきが時を すすめる
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 真冬のかたみに‥‥

     Heinrich Vogeler gewidmet


追ひもせずに 追はれもせずに 枯木のかげに
立つて 見つめてゐる まつ白い雲の
おもてに ながされた 私の影を――
(かなしく 青い形は 見えて来る)

私はきいてゐる さう! たしかに
私は きいてゐる その影の うたつてゐるのを……
それは涙ぐんだ鼻声に かへらない
昔の過ぎた夏花のしらべを うたふ

□あれは頬白ほほじろ あれはひは あれは もみの樹 あれは
私……私は鶸 私は 樅の樹……□ こたへもなしに
私と影とは 眺めあふ いつかもそれはさうだつたやうに

影は きいてゐる 私の心に うたふのを
ひとすぢの 古い小川のさやぎのやうに
溢れるなみだの うたふのを……雪のおもてに――
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 浅き春に寄せて


今は 二月 たつたそれだけ
あたりには もう春がきこえてゐる
だけれども たつたそれだけ
昔むかしの 約束はもうのこらない

今は 二月 たつた一度だけ
夢のなかに ささやいて ひとはゐない
だけれども たつた一度だけ
そのひとは 私のために ほほゑんだ

さう! 花は またひらくであらう
さうして鳥は かはらずに啼いて
人びとは春のなかに笑みかはすであらう

今は 二月 雪のおもにつづいた
私の みだれた足跡……それだけ
たつたそれだけ――私には……
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優しき歌 □
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 序の歌


しづかな歌よ ゆるやかに
おまへは どこから 来て
どこへ 私を過ぎて
消えて 行く?

夕映が一日を終らせよう
と するときに――
星が 力なく 空にみち
かすかに囁きはじめるときに

そして 高まつて むせび泣く
げんのやうに おまへ 優しい歌よ
私のうちの どこに 住む?

それをどうして おまへのうちに
私は かへさう 夜ふかく
明るい闇の みちるときに?
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 □ 爽やかな五月に


月の光のこぼれるやうに おまへの頬に
溢れた 涙の大きな粒が すぢを曳いたとて
私は どうして それをささへよう!
おまへは 私を だまらせた……

【星よ おまへはかがやかしい
【花よ おまへは美しかつた
【小鳥よ おまへは優しかつた
……私は語つた おまへの耳に 幾たびも

だが たつた一度も 言ひはしなかつた
【私は おまへを 愛してゐる と
【おまへは 私を 愛してゐるか と

はじめての薔薇が ひらくやうに
泣きやめた おまへの頬に 笑ひがうかんだとて
私の心を どこにおかう?
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 □ 落葉林で


あのやうに
あの雲が 赤く
光のなかで
死に絶えて行つた

私は 身をもたせてゐる
おまへは だまつて 脊を向けてゐる
ごらん かへりおくれた
鳥が一羽 低く飛んでゐる

私らに 一日が
はてしなく 長かつたやうに

雲に 鳥に
そして あの夕ぐれの花たちに

私らの 短いいのちが
どれだけ ねたましく おもへるだらうか
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 □ さびしき野辺


いま だれかが 私に
花の名を ささやいて行つた
私の耳に 風が それを告げた
追憶の日のやうに

いま だれかが しづかに
身をおこす 私のそばに
もつれ飛ぶ ちひさい蝶らに
手をさしのべるやうに

ああ しかし と
なぜ私は いふのだらう
そのひとは だれでもいい と

いま だれかが とほく
私の名を 呼んでゐる……ああ しかし
私は答へない おまへ だれでもないひとに
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 □ 夢のあと


【おまへの 心は
わからなくなつた
【私の こころは
わからなくなつた

かけた月が 空のなかばに
かかつてゐる 梢のあひだに――
いつか 風が やんでゐる
蚊の鳴く声が かすかにきこえる

それは そのまま 過ぎるだらう!
私らのまはりの この しづかな夜

きつといつかは (あれはむかしのことだつた)と
私らの こころが おもひかえすだけならば! ……

【おまへの心は わからなくなつた
【私のこころは わからなくなつた
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 □ また落葉林で


いつの間に もう秋! 昨日は
夏だつた……おだやかな陽気な
陽ざしが 林のなかに ざわめいてゐる
ひとところ 草の葉のゆれるあたりに

おまへが私のところからかへつて行つたときに
あのあたりには うすい紫の花が咲いてゐた
そしていま おまへは 告げてよこす
私らは別離に耐へることが出来る と

澄んだ空に 大きなひびきが
鳴りわたる 出発のやうに
私は雲を見る 私はとほい山脈やまなみを見る

おまへは雲を見る おまへはとほい山脈を見る
しかしすでに 離れはじめた ふたつのまなざし……
かへつて来て みたす日は いつかへり来る?
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 □ 朝に


おまへの心が 明るい花の
ひとむれのやうに いつも
眼ざめた僕の心に はなしかける
【ひとときの朝の この澄んだ空 青い空

傷ついた 僕の心から
とげを抜いてくれたのは おまへの心の
あどけない ほほゑみだ そして
他愛もない おまへの心の おしやべりだ

ああ 風が吹いてゐる 涼しい風だ
草や 木の葉や せせらぎが
こたへるやうに ざわめいてゐる

あたらしく すべては 生れた!
霧がこぼれて かわいて行くとき
小鳥が 蝶が 昼に高く舞ひあがる
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 □ また昼に


僕はもう はるかな青空やながれさる浮雲のことを
うたはないだらう……
昼の 白い光のなかで
おまへは 僕のかたはらに立つてゐる

花でなく 小鳥でなく
かぎりない おまへの愛を
信じたなら それでよい
僕は おまへを 見つめるばかりだ

いつまでも さうして ほほゑんでゐるがいい
老いた旅人や 夜 はるかな昔を どうして
うたふことがあらう おまへのために

さへぎるものもない 光のなかで
おまへは 僕は 生きてゐる
ここがすべてだ! ……僕らのせまい身のまはりに
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 □ 午後に


さびしい足拍子を踏んで
山羊やぎは しづかに 草を 食べてゐる
あの緑の食物は 私らのそれにまして
どんなにか 美しい食事だらう!

私の飢ゑは しかし あれに
たどりつくことは出来ない
私の心は もつとさびしく ふるへてゐる
私のおかした あやまちと いつはりのために

おだやかな獣の瞳に うつつた
空の色を 見るがいい!

〈私には 何が ある?
〈私には 何が ある?

ああ さびしい足拍子を踏んで
山羊は しづかに 草を 食べてゐる
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 □ 樹木の影に


日々のなかでは
あはれに 目立たなかつた
あの言葉 いま それは
大きくなつた!

おまへの裡に
僕のなかに 育つたのだ
……外に光が充ち溢れてゐるが
それにもまして かがやいてゐる

いま 僕たちはいこ
ふたりして持つ この深い耳に
意味ふかく 風はささやいて過ぎる

泉の上に ちひさい波らは
ふるへてやまない……僕たちの
手にとらへられた 光のために
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 □ 夢見たものは‥‥


夢見たものは ひとつの幸福
ねがつたものは ひとつの愛
山なみのあちらにも しづかな村がある
明るい日曜日の 青い空がある

日傘をさした 田舎の娘らが
着かざつて 唄をうたつてゐる
大きなまるい輪をかいて
田舎の娘らが 踊ををどつてゐる

告げて うたつてゐるのは
青い翼の一羽の 小鳥
低い枝で うたつてゐる

夢みたものは ひとつの愛
ねがつたものは ひとつの幸福
それらはすべてここに ある と

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