「おい、散歩にかないか。」と、縁側に立つて小さく口笛を吹いてゐた夫は言つた。
 薄暗い台所でしてゐた水の音や皿の音は一寸ちょっとの間やんで、「えゝ」と、勇みたつたやうな返事が聞えると、また前よりは忙しく水の音がしだした。
 暗い夜であつた。少しばかり強く風が渡ると、光りの薄い星が瞬きをして、黒いそこらの樹影こかげが、次ぎから次ぎへと素早くささやきを伝へて行く。便所はばかりの手拭ひ掛けがこと/\と、戸袋に当つて搖れるのがやむと、一頻ひとしきりひつそりと静かになつて、弱り切つた虫の音が、歯※はぐき[#「齦」の「齒」に代えて「歯」、11-7]にしみるやうに啼いてるのが耳だつて来る。
 初秋はつあきの夜気が、しみ/″\と身うちにめぐつて、何となく心持ちが引緊り、さあ「これからだぞ――」といふやうな気がするにつけても、訳もなく、灯とそれから人の匂ひが懐しい。暗い空に向つて、遙かに響きを伝へて来る甲武線の電車の音を聞いてゐると、その中の人達や、或はそれの吐き出される明るい街々やが、ぱあつと眼にうかんで来る。帯の間に両手をさし込んで、そんなことをぼんやり意識しながら、夫は猶縁側に立ち尽してゐると、台所の用をすませて妻がはいつて来た。
「ね、何処に行きませう?」といつも機嫌のいゝ時に見せるあどけない顔をして、箪笥たんすの上から鏡台を下して電燈の下に据ゑた。手水ちょうずを使つたものとみえて、お湯に刺激されたくびすぢや顔が冴え/″\と紅くなつてゐる。肌ぬぎになつた胸の左右に、二つの小さな丘のやうな乳が、白粉おしろいを塗つてゐる手先の運動につれて、伸びたりふくらんだりしてゐる。
「そんなにおしやれしなくたつていゝぢやないか、早くおしよ。」
「だつて………」と鏡の中で眼が笑ふ。
「ねえ、銀座に行つてみませうか? 随分暫く行つてみないから。」
「うむ。」
「そしてウーロン茶を飲むのよ。」
「うむ。」
 二人は何となく幸福であつた。そしてその幸福は、めつたに人が真似することの出来ない、又窺ひ知ることの出来ないものでゝもあるやうに、二人は心密かに得意であり、満足であつた。それは、いつでも夫婦の心がぴつたりとすきもなく合つた時に、神が用意して置かれる恵みのやうな心持ちであつた。
 髪を撫でつけてしまふと、濡れ手拭ひで二三度顔を叩いてみて、鏡に近く顔を寄せてみたり、眉を上げてみたり、頬を撫でゝみたりして、熱心に鏡をのぞき込んでゐた妻は、縁側の藤椅子に腰を掛けて、興ありさうにこちらをみてゐる夫の顔が映つてるのをみると、につと笑つてやう/\満足したやうに鏡のそばを離れた。その顔は、「私だつてお化粧をすりあ、ちつとは可愛くなるでせう?」といひたさうに少しすまして。
「さあ/\、早くしないと遅くなるよ。」と、夫は内心その心持ちを悟つて微笑しながら、わざと急きたてた。一つ間違つてすねだしたら最後、石のやうに冷たく固くなつてしまふ悪い癖――その呪はしい一面の性質が、一体この女の何処に潜んでるんだらうと、つく/″\不思議になつて眺められるほど――いや、そんなことはもう未来永劫忘れてしまつたやうに、今夜の妻のそぶりは、馬鹿に可愛らしかつた。
「えゝ。」と、こんな時には何を言はれても腹が立たないらしく、妻は猶にこ/\しながら箪笥の鍵を錠の中にさし入れた。「あなた、寒かあなくつて? わたしもう袷せをたつてをかしかあないわね?」
 かう相談するやうに首をかしげて言つてはゐるものゝ、その実さつきからもうちやんと心に決めてゐたので、飽きるほど著古して襟垢のついた単物ひとえものよりか、たとひ少し位時節は早くても、袷せを著て出ようと密かに楽しんでゐるのであつた。
「あゝ、僕はその著物きものが好きさ、そいつが一番よく似合ふよ。」と、夫はその著物を二人で買ひに出た夜の記憶をよび起しながら言つた。
「さう。」
 両前を合せて赤い腰紐をぎゆうつとしめながら、一二歩歩いてみて少し短いのを、かかとで後のすそを踏へてのばしながらにつこりした。その時、袷せといつてはこれ一枚きりないこと、それも縫ひ直しのたもとの先に継ぎの当つてるやうなものであることなどを何気なしに言はうとしたが、そんなことを言つて夫の心を刺激してはよくないと思つて止した。「あの人は今にきっと働くだらう。そしたらわたしの著物だつてきつと快く買つて下さる!」
 何もも今はこれで満足であつた。夫がこれまで二人の生活を支へてゐた会社を止してしまつてから、もう三月にもなるのに、内心はともかくも表面は存外平気らしくみえるのが、時々烈しく心の中に非難されるのであつたが、今は十分夫の心持ちに理屈もつけられゝば、同情も出来、殊に、常にはあんまりよく腑に落ちてない会社を止した動機が、全く夫のいふ通りに男の意地をたてたもので、さうしなければならなかつたのだらうと理解も出来るし、明らかにそれがかえって得意にも思はれるのであつた。
 久しく忘れてゐた身じまひのあとのすが/\しい気分が、軽い自惚うぬぼれまでひき起して、帯や半襟やの色彩いろどりがいくらか複雑に粧はれたのを、鏡の中に満足さうに見た。
「これで一かどの別嬪べっぴんさんが出来上つたつていふところだね。」
「あら!」
「いや全くだよ。馬鹿に今夜は綺麗にみえるよ。」
 満更それがひやかしでもなさゝうに聞えたので、一寸すねようとしたのを妻は止してしまつたが、それも、夫の目には今なんにも比較するものがないからだといふことには気がつかなかつた。
「お待ち遠うさま、さあまゐりませう。」
「おい、おまへ錠をどこに置いたい?」と、兵児帯へこおびをぐる/\巻き直しながら、玄関に下駄を揃へてゐる妻に声をかけた。
「わたし、持ちましたよ。」
 雨戸を繰る音ががら/\と響いた。
「まあ暗い。」
 二人はやう/\外に出た。
 あゝ初秋はつあきの一夜! なんといふ新しい生々とした気分が二人に満ちてゐることだらう! 口には出さないがお互に同じ心持ちを感じあつて、人通りの少ない暗い道は手を握り合つて歩いた。
「随分久しぶりね。」と、道々妻は幾度か繰り返した。
 暗くなつたり明るくなつたりする停車場の電燈の下に、夫は妻の、妻は夫の晴々しい顔を見てゐた。肌寒いほど稍々やや強く、風は吹いては過ぎた。やがて、闇の中に眼を輝かしながら、生きものゝやうに電車が走つて来た。
 どや/\と乗り込んだ一群れの人に交つて二人は明るい車の中にその姿を置いた。久しく家に燻ぶつてゐたので、訳もなく向く人達の眼にも一寸面伏おもぶせなやうな気がして、妻は夫の指してくれた空席に急いで腰を下した。そしてその前の吊皮つりかわに下つてゐる夫の袖の下からそろ/\とあたりを見廻した。
 まづ安心したことには、あまり気早過ぎはしなかつたかと内心気にしてゐたのであつたが、車内の人の半分近くも袷せをてゐたことであつた。それに味方を得たやうな落ちつきが出来て、つひ真向ひに腰かけてゐる女が、妙にぢろ/\見てゐるのを大膽に見返してやつた。女に女が対手あいてになる時には、無意識に自分を対手に比較するもので、まづ縹緻きりょうの好し悪し愛嬌の有無、著物きものの品質を調べて、まだ得心がいかない時には、その柄合ひの見たてゞその人の趣味を判断したりする。でその女は、いやに人をさげすんだやうに見る癖によつて反感を買つたばかりでなく、すべてに於いて弾ねかへすやうな軽いにくみを妻に感じさせた。けれども縹緻はよかつた。――それも俗な男に好かれさうな――と妻の心の呟きはつけ加へたけれども。身なりも、馬鹿にけば/\しくはあつたけれど立派であつた。いや敢てその女ばかりでなく、今夜のすべての女は、美しくあり立派であるやうな気がした。みんながみんな、真新しい柄合ひの著物を著て、心安げになんの屈託もなく振舞つてゐるやうに見える。それにつけても、これがわたしの精一つぱいのおつくりなんだと思ふと、妙に身窄みすぼらしく自分の肩のあたりが眺められる。
 そつと夫の顔色を窺ふと、窓の外に走つて闇から闇にちら/\する街の灯にその眼はとらわられてゐて、さつき暗い道の一つの軒燈の光りで見た時のやうな、自分にのみ心を傾けてゐるやうな、純一な顔ではなかつた。その瞳にはさま/″\な社会の色が反映してゐた。
 二人は萬世橋の停車場を出て、光りの海のやうな須田町の交叉点の方に紛れて行つた。
「乗る?」
「歩きませうよ。」
 二人は肩を並べるために、忙しく行き違ふ人をけながら、片側の家並やなみ[#「家並やなみみ」はママ]を銀座の方へと歩き出した。
「ねえ。」
「ん。」
「今電車の中で、わたしの直ぐ向ひに腰かけてた女があつたでせう?」
「うむ。」
「随分いやなやつね、傲慢な顔をして。」
「だけど、別嬪だつたねえ。」
 妻はちらりと夫の顔を見た。
「あなた、あんなのがお好き?」
「僕は好き嫌ひを言つてるんぢやないよ、一寸美人だつたつていふのさ。」
 妻は再び夫の顔を見て黙つた。「男つてものはどうしてあんな女を好くのだらう?」と、すぐに物事をかたよせて考へてしまつて、その男つてものは――に、夫を非難する意味も含めて、心密かに思つた。何よりも妻には、今の夫の言葉の調子が気に喰はないのであつた。
 歩いても/\、明るい灯と賑かな店が続いた。軽々しい淡々しい夏めいたものはみな取りのけられて、早くも冬の仕度をうながすやうな気分が、その店々の装飾にみられた。
「あゝ、すつかり秋だねえ。」と、夫は消息ためいきをつくやうにして言つた。
 すきを窺ひ寄るやうに、なんとはない不安が、その胸のうちに入りくんで来るやうなのを覚えてゐた。漠然としたものではあるが、男子の志といつたやうなものゝ焦慮が、事新しく世の中といふことを思はせた。そんなことをぼんやりと考へてゐたので、
「まあ、随分思ひ切つたやうないゝ柄!」と立ちどまつた妻の言葉を遙かに遠いものでも眺めるやうな心持ちで聞いた。そして一寸はそれが何のことだかわからなかつた。
 妻は美しい新柄でかざされた呉服屋の飾り窓にとかく気をひかれて、なくてならない自分達の冬着を揃へる時のことを空想しながらしきりに胸算用をして歩いてゐるうちに、メリンス屋の店に下げてある友禅形に目をとめて、思はず嘆美するやうに声を放つたのであつた。そしてそれについて別段夫の言葉や態度は予期してゐなかつたのだけれど、今ぼんやりと振向いた夫の顔をみて、急に我にかへつたやうになると共に、不思議に反抗するものがその心のうちに沸きかけて来た。その夫の顔は、自分とはなんの交渉もなささうに、澄んで引緊つてゐた。
 二人はお互に離れ/″\になつた心持ちを感じ合つた。そしてそれを引返さうと試みれば試みるほど、益々あらぬかたに反れてくやうであつた。
「わたしはあの人の為めにこんな苦労をしてゐるのだ、そして不如意な生活に別段悪るい顔も見せないでゐるのをいゝことにして、当り前だといはぬばかりに、そこのところをちつとも考へてくれやしない。わたしのこの身なりの見窄みすぼらしさはどうだらう? これが私の身上ありだけのものだつて言つたなら、世の中の女達はまあどんなにわたしを憐むことだらう? 僅かばかり持つてゐたものは、今のところみんなお米の代にかはつてしまつたんだもの。」と妻がおもへば、
「女つてものはどうしてあゝ物質的なもんだらう。気持ちがせまくて、偏つてゐて、わがまゝで、自分のことより外は何も考へてゐないんだ、きさま達に男の心持ちなんてものが解るもんか。著物きものが出来ないといふことを最大の条件にして、さも/\おれを意気地なしだと思つてゐやがる! 飛切りいゝ柄がぶら下つてゐたつてそれがどうなんだい! へんそれがおれへ当てつけの積りなんかい?」と夫は心に呟いた。
 お互に黙りあつて歩いてるうちに、二人はいゝ加減くたびれて来た。それでもやう/\のことで目的の銀座に近づいた時には、そこに二人とも何かを期待するやうな心持ちであつた。
 人の往き来は一層繁く、灯影ほかげはまた一段と輝かしく、暗いけれど高い空にほんのりと余光をあげてゐた。風を切つて行きちがふ電車のあおりを喰つて、街樹の柳がすうと枝を靡かせて行く。
 活々いきいきとした雑閙ざっとうと、華々しい灯の飾りの中にその姿を現はせば現はすほど、妻は自分の体から光りなり色彩なりを吸ひ取られて行くやうなのを確かに覚えた。自惚れはいつか影もなく去り、自ら足り、自ら満足を感じた心も姿を隠して、たゞぐわん/\するやうな物の響きに、散歩を楽しまうとした心もめちやくちやに掻き乱されてしまつた。そしてたゞなんともいへぬ不思議なものゝ圧迫を感じるばかりであつた。
 知らず/\台湾喫茶店の前まで来た時、夫は一寸たちどまつて、ぐん/\行きすぎやうとする妻に声を掛けた。
「おい、寄らないのかい?」
 妻は夫から眼を外らして黙つてゐた。そして夫が咎めるやうな顔をしてそばに寄つて来た時、
「お金もないのに止しませうよ。」と言つた。
 しかしそれは今の今まで思ひも寄らなかつたことで、そこの前を通り過ぎる時軽く投げた一と目に、美しい女下駄をちらと入口に見てから、急に入るのが厭になつたのであつた。どのやうに綺麗な立派な女がそこにゐようかと、それが怖しかつたのだ。
 最後の希望のぞみは切れた。それをいくらか楽しみにもし、そこでなるべく気持ちを直して帰る積りでもあつたのだけれど、今言ひ切つた言葉は丁度戦ひを挑んだやうなものであつた。二人の心の保ち合ひは破れた。妻は決して夫の顔を振り向きはしなかつたけれど、その眼がちらと光つたのを感じ、勝手にしろと言つたやうに足早に歩き出したのを知つた。
 いよ/\、休むことが出来ないのを知つた足は、非常な速力をもつて疲労つかれを訴へて来た。何物をも見、何物をも考へずに二人はたゞ歩いた。
 やがて、
「帰らう。」
「えゝ。」
 かう簡単な会話が交はされた。
 夫はつか/\と赤い灯の柱の下につき進んで行つた。
 間もなく、夫は前から、妻は後から、お互にお互を心のうちに非難しあひながら電車に乗つた。
 二人とも此上もない不快な心持ちを、神の罰に受けながら。

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