日语文学作品赏析《仇討姉妹笠》
舞台には季節にふさわしい、夜桜の景がかざられてあった。
奥に深々と見えているのは、祇園辺りの
上から下げられてある桜の釣花の、紙細工の花弁が枝からもげて、時々舞台へ散ってくるのも、なかなか風情のある
濃化粧の顔、高島田、金糸銀糸で
「独楽のはじまりは唐の
こういう声に連れて、楽屋の方からも東西々々という声が、さも景気よく聞こえてきた。
すると、あやめは赤毛氈を掛けた、
次の瞬間に見えたものは、翩翻と返って来た長紐と、鳥居の一所に静止して、キリキリ廻っている独楽とであった。
そうしてその次に起こったことは、土間に桟敷に充ち充ちていた、老若男女の見物が、拍手喝采したことであった。
しかし
あやめが黒地に金泥をもって、日輪を描き出した扇を開き、それをもって大独楽を受けたとたんに、その大独楽が左右に割れ、その中から
また見物たちは喝采した。
と、この時舞台に近い桟敷で、人々に交って見物していた二十五六歳の武士があったが、
「
色白の細面、秀でた眉、高い鼻、いつも微笑しているような口、細味ではあるが睫毛が濃く、光こそ鋭く強かったが、でも涼しい朗かな眼――主税は稀に見る美青年であった。
その主税の秀麗な姿が、曲独楽定席のこの小屋を出たのは、それから間もなくのことであり、小屋の前に延びている盛場の、西両国の広小路を、両国橋の方へ歩いて行くのが、群集の間に雑って見えた。
もう夕暮ではあったけれど、ここは何という雑踏なのであろう。
武士、町人、鳶ノ者、
無理もない! 歓楽境なのだから。
だから往来の片側には、屋台店が並んでおり、見世物小屋が立っており、
主税は橋の方へ足を進めた。
橋の上まで来た時である、
「おや」と彼は呟いて、左の袖へ手を入れた。
「あ」と思わず声をあげた。
袖の中には小独楽が入っていたからである。
(一体これはどうしたというのだ)
独楽を
が、ふと彼に考えられたことは、あやめが舞台から彼の袖の中へ、この独楽を投げ込んだということであった。
(あれほどの芸の持主なのだから、それくらいのことは出来るだろうが、それにしても何故に特に自分へこのようなことをしたのだろう?)
これが不思議でならなかった。
怪しの浪人
ふと心棒を指で摘み、何気なく一捻り捻ってみた。
「あ」と又も彼は言った。
独楽は掌の上で廻っている。
その独楽の心棒を中心にして、独楽の面に
「淀」という字がハッキリと見えた。
と、独楽は廻り切って倒れた。
同時に文字も消えてしまった。
「変だ」と
何の木で作られてある独楽なのか、作られてから幾年を経ているものか、それが上作なのか凡作なのか、何型に属する独楽なのか、そういう方面に関しては、彼は全く無知であった。が、そういう無知の彼にも、何となくこの独楽が凡作でなく、そうして制作されて以来、かなりの年月を経ていることが感じられてならなかった。
この独楽は直径二寸ほどのもので、全身黒く塗られていて、面に無数の筋が入っていた。
しかし、文字などは一字も書いてなかった。
「変だ」と同じことを呟きながら、なおも主税は独楽を見詰めていたが、また心棒を指で摘み、力を
独楽は烈しく廻り出し、その面へ又文字を現わした。しかし不思議にも今度の文字は、さっきの文字とは違うようであった。
「淀」という文字などは見えなかった。
その代わりかなりハッキリと「
「面の筋に細工があって、廻り方の強さ弱さによって、いろいろの文字を現わすらしい」
(そうするとこの独楽には秘密があるぞ)
主税はにわかに興味を感じて来た。
すると、その時背後から、
「お武家、珍しいものをお持ちだの」と錆のある声で言うものがあった。
驚いて主税は振り返って見た。
三十五六の浪人らしい武士が、微笑を含んで立っていた。
髪を総髪の
「珍らしいもの? ……何でござるな?」
主税は独楽を掌に握り、何気なさそうに訊き返した。
「貴殿、手中に握っておられるもので」
「ははあこれで、独楽でござるか。アッハッハッ、子供騙しのようなもので」
「子供騙しと仰せられるなら、その品拙者に下さるまいか」
「…………」
「子供騙しではござるまい」
「…………」
「その品どちらで手に入れられましたかな?」
「ほんの偶然に……たった今しがた」
「ほほう偶然に……それも今しがた……それはそれはご運のよいことで……それに引き換え運の悪い者は、その品を手中に入れようとして、長の年月を旅から旅へ流浪いたしておりまするよ」
「…………」
「貴殿その品の何物であるかを、ではご存知ではござるまいな?」
「左様、とんと、がしかし、……」
「が、しかし、何でござるな?」
「不思議な独楽とは存じ申した」
「その通りで、不思議な独楽でござる」
「廻るにつれて、さまざまの文字が……」
「さようさよう現われまする。独楽の面へ現われまする。で、貴殿、それらの文字を、どの程度にまで読まれましたかな?」
「淀という文字を目つけてござる」
「淀? ははア、それだけでござるか?」
「いやその他に荏原屋敷という文字も」
「ナニ荏原屋敷? 荏原屋敷? ……ふうん左様か、荏原屋敷――いや、これは
云い云い浪人は懐中へ手を入れ、古びた帳面を取り出したが、さらに腰の方へ手を廻し、そこから矢立を引き抜いて、何やら帳面へ書き入れた。
睨み合い
「さてお武家」と浪人は言った。
「その独楽を拙者にお譲り下されい」
「なりませぬな、お断りする」
はじめて主税はハッキリと言った。
「貴殿のお話
「ははあさては拙者の話によって……」
「さよう、興味を覚えてござる」
「興味ばかりではござるまい」
「さよう、価値をも知ってござる」
「独楽についての価値と興味とをな」
「さようさよう、その通りで」
「そうすると拙者の言動は、藪蛇になったというわけでござるかな」
「お気の毒さまながらその通りで」
「そこで貴殿にお
「さよう、推量いたしてござる」
「よいご推量、その通りでござる。……そこであからさまにお話しいたすが、その独楽を手中に入れようとする者、拙者一人だけではないのでござるよ。……拙者には幾人か同志がござってな、それらの者が永の年月、その独楽を手中に入れようとして、あらゆる苦労をいたしておるのでござる」
「さようでござるか、それはそれは」
「以前は大阪にありましたもので、それがほんの最近になって、江戸へ入ったとある方面よりの情報。そこで我ら同志と共々、今回江戸へ参りましたので」
「さようでござるか、それはそれは」
「八方探しましたが目つかりませなんだ」
「…………」
「しかるにその独楽の価値も知らず、秘密も知らぬご貴殿が、大した苦労もなされずに、楽々と手中へ入れられたという」
「好運とでも申しましょうよ」
「さあ、好運が好運のままで、いつまでも続けばよろしいが」
「…………」
「貴殿」と浪人は
「拙者か、拙者の同志かが、必ずその独楽を貴殿の手より……」
「無礼な! 奪うと仰せられるか!」
「奪いますとも、命を
「ナニ、命を殺めても?」
「貴殿の命を殺めても」
「
「アッハッハッ、そうでもござるまい。怖いのうと仰せられながら、一向怖くはなさそうなご様子。いや貴殿もしっかりものらしい。……ご藩士かな? ご直参かな? 拙者などとは事変わり、ご浪人などではなさそうじゃ。……衣装持物もお立派であるし。……いや、そのうち、我らにおいて、貴殿のご身分もご姓名も、探り知るでござりましょうよ。……ところでお尋ねしたい一儀がござる。……曲独楽使いの女太夫、
言われて
「存じませぬな、とんと存ぜぬ」
「ついそこの曲独楽の定席へ、最近に現われた太夫なので」
「さような女、存じませぬな」
「嘘言わっしゃい!」と忍び音ではあったが、鋭い声で浪人は言った。
「貴殿、その独楽を、浪速あやめより、奪い取ったに相違ない!」
「黙れ!」と主税は怒って呶鳴った。
「奪ったとは何だ、無礼千万! 拙者は武士だ、女芸人風情より……」
「奪ったでなければ貰ったか!」
「こやつ、いよいよ……
「切ろうとて切られぬわい。アッハッハッ、切られぬわい。……が、騒ぐはお互いに愚、愚というよりはお互いに損、そこで穏やかにまた話じゃ。……否」というとその浪人は、しばらくじっと考えたが、
「口を酸くして説いたところで、しょせん貴殿には拙者の手などへ、みすみすその独楽お渡し下さるまいよ、……そこで、今日はこれでお別れいたす。……だが、貴殿に申し上げておくが、その独楽貴殿のお手にあるということを、拙者この眼で見た以上、拙者か拙者の同志かが、早晩必ず貴殿のお手より、その独楽を当方へ奪い取るでござろう。――ということを申し上げておく」
言いすてると浪人は主税へ背を向け、夕陽が消えて宵が迫っているのに、なおも人通りの多い
闇に降る刃
その浪人の
(変な男だ)と口の中で呟き、やがて自分も人波を分け、浅草の方へ歩き出した。
歩きながら袖の中の独楽を、主税はしっかりと握りしめ、
――あの浪人をはじめとして、同志だという多数の人々が、永年この独楽を探していたという。ではこの独楽には
(駕籠にでも乗って行こうかしら?)
(いや)と彼は思い返した。
(暗い所へでも差しかかった時、あの浪人か浪人の同志にでも、突然抜身を刺し込まれたら、駕籠では防ぎようがないからな。……
用心しいしい歩くことに決めた。
平川町を通り堀田町を通った。
右手に定火消の長屋があり、左手に岡部だの小泉だの、三上だのという旗本屋敷のある、御用地近くまで歩いて来た時には、夜も多少更けていた。
御用地を抜ければ田安御門で、それを通れば自分の屋敷へ行けた。それで、主税は安堵の思いをしながら、御用地の方へ足を向けた。
しかし、小泉の土塀を巡って、左の方へ曲がろうとした時、
「居たぞ!」「捕らえろ!」「斬ってしまえ!」と言う、荒々しい男の声が聞こえ、瞬間数人の武士が殺到して来た。
(出たな!)と主税は刹那に感じ、真先に切り込んで来た武士を
すると、その時一人の武士が、主税を透かして見るようにしたが、
「や、貴殿は山岸氏ではないか」と驚いたように声をかけた。
主税も驚いて透かして見たが、
「何だ貴公、
「さようさよう鷲見
それは同じ田安家の家臣で、主税とは友人の関係にある、近習役の鷲見与四郎であった。
見ればその他の武士たちも、ことごとく同家中の同僚であった。
主税は唖然として眉をひそめたが、
「呆れた話じゃ、どうしたというのだ」
「申し訳ない、人違いなのじゃ」
言い言い与四郎は小鬢を掻いた。
「承知の通りのお館の盗難、そこで拙者ら相談いたし、盗人をひっ捕らえようといたしてな、今夜もお館を中心にして、四方を見廻っていたところ、猿廻しめに邂逅いたした」
「猿廻し? 猿廻しとは?」
「長屋の女小供の噂によれば、この頃若い猿廻しめが、しげしげお長屋へやって来て、猿を廻して銭を乞うそうじゃ」
「そこで、怪しいと認めたのじゃな」
「いかにも、怪しいと認めたのじゃ。……その怪しい猿廻しめに、ついそこで逢ったので、ひっ捕らえようとしたところ、逃げ出しおって行方不明よ」
「なに逃げ出した? それなら怪しい」
「……そこへ貴殿が土塀を巡って、突然姿をあらわしたので……」
「猿まわしと見誤ったというのか?」
「その通りじゃ、いやはやどうも」
「拙者猿は持っていない」
「御意で、いやはや、アッハッハッ」
「そそっかしいにも程があるな」
「程があるとも、一言もない、怪我なかったが幸いじゃ」
「すんでに貴公を斬るところだった。これから貴公たちどうするつもりじゃ」
「剛腹[#「剛腹」はママ]じゃ。このままではのう。……そこでこの辺りをもう一度探して……」
「人違いをして叩っ切られるか」
「まさか、そうそうは、アッハッハッ。……貴殿も一緒に探さぬかな」
「厭なことじゃ。ご免蒙ろう。……今日拙者は非番なのでな、そこで両国へ行ったところ、あそこへ行くと妙なもので、
「ははあ、その美形を呼び出して、船宿でか? ……こいつがこいつが!」
「何の馬鹿らしいそのようなこと。……もう女には飽きている身じゃ。……ただその美しい女太夫から、珍らしい物を貰うたので、これから
猿廻し
歩きながら考えた。
何故この頃お館には、金子などには眼をくれず、器物ばかりを狙って盗む、ああいう盗難があるのだろう? それも一度ならずも二度三度、頻々としてあるのだろう?
(ある何物かを手に入れようとして、それに関係のありそうな器物を、狙いうちにして盗んでいるようだ。……そのある物とは何だろう?)
これまで盗まれた器物について、彼は記憶を辿ってみた。
蒔絵の文庫、青銅の香爐、
(盗難も盗難だがこのために、お館の中が不安になり、お互い同士疑い合うようになり、憂鬱の気の漂うことが、どうにもこうにもやりきれない)
こう主税は思うのであった。
(お互い同士疑い合うのも、理の当然ということが出来る。お館の中に内通者があって、外の盗賊と連絡取ればこそ、ああいう盗みが出来るのだからなア。……そこで内通者は誰だろうかと、お互い同士疑い合うのさ)
主税はこんなことを考えながら、御用地の辺りまで歩いて来た。
御用地なので空地ではあるが、木も雑草も繁っており、石材なども置いてあり、祠なども立っており、水溜や池などもある。そういう林であり藪地なのであった。
と、その林の奥の方から、キ――ッという猿の啼声が、物悲しそうに聞こえてきた。
(おや)と主税は足を止めた。
(いかに藪地であろうとも、猿など住んでいるはずはない。……では話の猿廻しが?)
そこで主税は堰を飛び越え、御用地の奥の方へ分け入った。草の露が足をぬらし、木の枝が顔を払ったりした。
また猿の啼声が聞こえてきた。
で、主税は突き進んだ。
すると、果たして一人の猿廻しが、猿を膝の上へ抱き上げて、祠の裾の辺りへうずくまり、編笠をかむった顔を俯向けて、木洩れの月光に肩の辺りを明るめ、寂しそうにしているのが見えた。
「猿廻し!」と声をかけ、突然主税はその前へ立った。
「用がある、拙者と一緒に参れ!」
「あッ」と猿廻しは飛び上ったが、木の間をくぐって逃げようとした。
「待て!」
主税は足を飛ばせ、素早くその前へ走って行き、左右に両手を開いて叫んだ。
「逃げようとて逃がしはせぬ、無理に逃げればぶった斬るぞ!」
「…………」
しかし無言で猿廻しは、両手で猿を頭上に捧げたが、バッとばかりに投げつけた。
キ――ッと猿は宙で啼き、主税の顔へ飛びついて来た。
「馬鹿者!」
怒号して拳を固め、猿を地上へ叩き落とし、主税は猛然と躍りかかった。
だが、何と猿廻しの素早いことか、こんもり盛り上っている
すぐに姿が見えなくなった。
(きゃつこそ猿だ! なんという
主税は一面感心もし、また一面怒りを感じ、憮然として佇んだが、気がついて地上へ眼をやった。
叩き落とした猿のことが、ちょっと気がかりになったからである。
木洩れの月光が銀箔のような
(たしかこの辺りへ叩き落としたはずだが)
主税は地面へ顔を持って行った。
「あ」
声に出して思わず言った。
小独楽が
主税は袖を探ってみた。
袖の中にも小独楽はあった。
(では別の独楽なのだな)
地上の独楽を拾い上げ、主税は眼に近く持って来た。その独楽は大きさから形から、袖の中の独楽と同じであった。
「では」と呟いて左の掌の上で、主税は独楽を捻って廻し、月光の中へ掌を差し出し、廻る独楽の面をじっと見詰めた。
しかし、独楽の面には、なんらの文字も現われなかった。
(この独楽には細工はないとみえる)
いささか失望を感じながら、廻り止んだ独楽をつまみ上げ、なお
すると、独楽の面の手触りが何となく違うように思われた。
(はてな?)と主税は指に力を
不思議な老人
「おおそうか、蓋なのか」と、擦ったに連れて独楽の面が弛み、心棒を中心にして持ち上ったので、そう
独楽の中は
何か書いてあるようである。
そこで、紙を延ばしてみた。
(何だつまらない)と主税は呟き、紙を丸めて捨ようとしたが、
(いや待てよ、
ふとこんなように思われたので、またその紙へ眼を落とし、書かれてある数字を口の中で読んだ。
それから指を折って数え出した。
かなり長い間うち案じた。
「そうか!」と声に出して呟いた時には、主税の顔は硬ばっていた。
(ふうん、やはりそうだったのか、……しかし一体何者なのであろう?)
思いあたることがあると見えて、主税はグッと眼を据えて、空の一所へ視線をやった。
と、その視線の遥かかなたの、木立の間から一点の
その火はユラユラと揺れたようであったが、やがて宙にとどまって、もう揺れようとはしなかった。
(こんな夜更けに御用地などで、火を
重ね重ね起こる変わった事件に、今では主税は当惑したが、しかし好奇心は失われないばかりか、かえって一層増して来た。
(何者であるか見届けてやろう)
新規に得た独楽を袖の中へ入れ、足を早めて火光の見える方へ、木立をくぐり藪を巡って進んだ。
火光から数間のこなたまで来た時、その火光が龕燈の光であり、その龕燈は藪を背にした、栗の木の枝にかけられてある。――ということが見てとられた。
だがその他には何があったか?
その火の光に朦朧と照らされ、袖無を着、伊賀袴を穿いた、白髪白髯の老人と、筒袖を着、伊賀袴を穿いた、十五六歳の美少年とが、草の上に坐っていた。
いやその他にも居るものがあった。
例の猿廻しと例の猿とが同じく草の上に坐っていた。
(
(汝、猿廻しめ、人もなげな! 遠く逃げ延びて隠れればこそ、このような手近い所にいて、火まで燈して平然としているとは! 見おれ[#「見おれ」は底本では「見をれ」]、こやつ、どうしてくれるか!)
突き進んで躍りかかろうとした。しかし足が言うことをきかなかった。
と云って足が麻痺したのではなく、眼の前にある光景が、変に異様であり妖しくもあり、厳かでさえあることによって、彼の心が妙に
(しばらく様子を見てやろう)
木の根元にうずくまり、息を詰めて窺った。
老人は何やら云っているようであった。
白い顎鬚が上下に動き、そのつど肩まで垂れている髪が、これは左右に揺れるのが見えた。
どうやら老人は猿廻しに向かって、熱心に話しているらしかった。
しかし距離が遠かったので、声は聞こえてこなかった。
主税はそれがもどかしかったので、地を這いながら先へ進み、腐ちた大木の倒れている陰へ、体を伏せて聞耳を立てた。
「……大丈夫じゃ、心配おしでない、猿めの
こういう老人の声が聞こえ、
「
言葉に連れて地に倒れていた猿が、毬のように飛び上り、宙で二三度
「ね、ごらん」と老人は云った。
「あの通りじゃ、すっかり癒った。……いや
その時猿廻しは編笠を脱いで、恭しく
その猿廻しの顔を見て、主税は思わず、
「あッ」と叫んだ。それは女であるからであった。しかも両国の曲独楽使いの、女太夫のあやめであった。
隠語を解く
曲独楽使いの
しかも同一のその女が、自分へ二つの独楽をくれた。
そうしてその独楽には二つながら、秘密らしいものがからまっている。
(よし)と主税は決心した。
(女猿廻しを引っとらえ、秘密の内容を問いただしてやろう)
そこで、主税は立ち上った。
するとその瞬間に龕燈が消えて、いままで明るかった反動として、
主税の眼が闇に慣れて、木洩れの月光だけで林の中のようすが、朧気ながらも見えるようになった時には、女猿廻しの姿も、美童の姿も猿の姿も、眼前から消えてなくなっていた。
その翌日のことである、田安家の奥家老
「お館様これを」とこう言上して、一葉の紙片を差し出した。
泉水に水が落ちていて、その
一杯に数字が書いてあった。
「これは何だ?」と、中納言家は訊かれた。
「隠語とのことにござります」
「…………」
「昨夜近習の山岸主税こと、怪しき女猿廻しを、ご用地にて発見いたし、取り抑えようといたしましたところ、女猿廻しには逃げられましたが、その者独楽を落としました由にて、とりあえず独楽を調べましたところ、この紙片が籠められておりましたとか……これがその独楽にござります」
頼母は懐中から独楽を出した。
中納言家はそれを手にとられたが、
「これは奥の秘蔵の独楽じゃ」
「奥方様ご秘蔵の独楽?」
「うん、わしには見覚えがある、これは奥の秘蔵の独楽じゃ。……それにしても怪しい猿廻しとは?」
「近頃、ひんぴんたるお館の盗難、それにどうやら関係あるらしく……」
「隠語の意味わかっておるかな?」
「主税
「最初に『三十三』と記してあるが?」
「『こ』という意味の由にござります」
「『こ』という意味? どうしてそうなる?」
「いろは四十八文字の三十三番目が『こ』の字にあたるからと申しますことで」
「ははアなるほど」
「山岸主税申しますには、おおよそ簡単の隠語の種本は、いろは四十八文字にござりますそうで、それを上より数えたり、又、下より数えたりしまして、隠語としますそうにござります」
「すると二番目に『四十八』とあるが、これは『ん』の隠語だな」
「御意の通りにござります」
「三番目に『二十九』とあるが、……これは『や』の隠語だな」
「御意の通りにござります」
「その次にあるは『二十四』だから、言うまでもなく『う』の字の隠語、その次の『二十二』は『ら』の字の隠語、その次の『四十五』は『も』の字の隠語、『四十八』は『ん』の字の隠語、『四』は『に』の字の隠語、『三十五』は『て』の字の隠語。……これで全部終えたことになるが、この全部を寄せ集めれば……」
「こんやうらもんにて――となりまする」
「今夜裏門にて――いかにもそうなる」
「事件が昨夜のことにござりますれば、今夜とあるは昨夜のこと。で、昨夜館の裏門にて、何事かありましたと解釈すべきで……」
「なるほどな。……で、何事が?」
「山岸主税の申しまするには、お館の中に居る女の内通者が、
「館の中に居る女の内通者とは?」
「その数字の書体、女文字とのことで」
「うむ、そうらしい、わしもそう見た」
「それにただ今うかがいますれば、その独楽は奥方様の御秘蔵の品とか……さすれば奥方様の腰元あたりに、賊との内通者がありまして、そのような隠語を認めまして、その独楽の中へ密封し、ひそかに門外へ投げ出し、その外界の同類の手に渡し、昨夜両人裏門にて逢い……」
「なるほど」
「内通者がお館より掠めました品を、その同類の手に渡したか……あるいは今夜の悪事などにつき、ひそかに手筈を定めましたか……」
「うむ」と云うと中納言家には、眉の辺りに憂色を浮かべ、眼を半眼にして考え込まれた。
腰元の死
「頼母」
ややあって中納言家は口を開いた。
「これはいかにもお前の言う通り、館の中に内通者があるらしい。そうでなくてあのような品物ばかりが、次々に奪われるはずはない。……ところで頼母、盗まれた品だが、あれらの品を
「お大切の品物と存じまする」
「大切の由緒存じおるか?」
「…………」
「盗まれた品のことごとくは、柳営より下されたものなのじゃ」
「…………」
「我家のご先祖
「…………」
「それでわしはいたく心配しておるのじゃ。将軍家より賜わった品であるが故に、いつなんどき柳営からお沙汰があって、上覧の旨仰せらるるやもしれぬ。その時ないとは言われない。盗まれたなどと申したら……」
「お家の
「それも一品ででもあろうことか、幾品となく盗まれたなどとあっては……」
「家事不取り締りとして重いお咎め……」
「拝領の品であるが故に、他に遣わしたとは言われない」
「御意の通りにござります」
「頼母!」と沈痛の中納言家は言われた。
「この盗難の背後には、我家を呪い我家を滅ぼそうとする、[#「滅ぼそうとする、」は底本では「滅ぼそうとする。」]恐ろしい
「お館様!」と頼母も顔色を変え、五十を過ごした白い鬢の辺りを、神経質的に震わせた。
中納言家はこの時四十歳であったが、宗武卿以来聡明の血が伝わり、代々英主を出したが、当中納言家もその選に漏れず、聡明にして闊達であり、それが風貌にも現われていて鳳眼隆鼻高雅であった。
でも今は高雅のその顔に、苦悶の色があらわれていた。
「とにかく、内通者を至急見現わさねばならぬ」
「御意で。しかしいかがいたしまして?」
「これは奥に取り計らわせよう」
「奥方様にでござりまするか」
「うむ」と中納言家が言われた時、庭の築山の背後から女の悲鳴らしい声が聞こえ、つづいてけたたましい叫び声が聞こえ、すぐに庭番らしい小侍が、こなたへ走って来る姿が見えた。
「ご免」と頼母は一揖してから、ツカツカと縁側へ出て行ったが、
「これ源兵衛何事じゃ□」と庭番の小侍へ声をかけた。
小侍は走り寄るなり、地面へ坐り手をつかえたが、
「お腰元楓殿が築山の背後にて、頓死いたしましてござります」
「ナニ□」
頼母は胸を反らせ、
「楓殿が頓死□ 頓死とは?」
「奥方様のお
「お館様!」と頼母は振り返った。
「履物を出せ、行ってみよう」
中納言家には立って来られた。
「それでは余りお軽々しく……」
「よい、行ってみよう、履物を出せ」
庭番の揃えた履物を穿き、中納言家には庭へ出られた。
もちろん頼母は後からつづいた。
庭番の源兵衛に案内され、築山の背後へ行った時には、苦しさに身悶えしたからであろう、髪を乱し、胸をはだけた、美しい十九の腰元楓が、横倒しに倒れて死んでいる
第二の犠牲
手折った桜の枝が地に落ちていて、花が
中納言家は
「
こう頼母に囁くように云い、
「この頃に庭を手入れしたと見えるな」
頼母は庭番の源兵衛へ、奥医師の玄達を連れて来るように
「数日前に庭師を入れまして、樹木の植込み手入れ刈込み、庭石の置き換えなどいたさせました」
「そうらしいの、様子が変わっている」
改めて中納言家は四辺を見廻された。
桜の老樹や若木に雑って、棕櫚だの梅だの松だの楓だの、竹だの青桐だのが、趣深く、布置整然と植込まれてい、その間に珍奇な庭石が、春の陽に面を照らしながら、暖かそうに据えられてあった。
ずっとあなたに椿の林があって、その中に亭が立っていた。
間もなく幾人かの侍臣と共に、奥医師玄達が小走って来た。大奥の腰元や老女たちも、その後から
玄達はすぐに死骸の
「駄目か?」と中納言家は小声で訊かれた。
「全く絶望にござります」
玄達も小声で答えた。
「死因は何か?」
「さあその儀――いまだ不明にござりまする。……腹中の食物など調べましたなら……」
「では、外傷らしいものはないのだな」
「はい、いささかも……外傷らしいものは」
「ともかくも死骸を奥へ運んで、外科医宗沢とも相談し、是非死因を確かめるよう」
「かしこまりましてござります」
やがて楓の死骸は侍臣たちによって、館の方へ運ばれた。
「不思議だのう」と呟きながら、なお中納言家は佇んでおられた。
その間には侍臣や腰元たちは、楓を殺した敵らしいものが、どこかその辺りに隠れていないかと、それを探そうとでもするかのように、木立の間や岩の陰や、椿の林などへ分け入った。
広いといっても庭であり、植込みが繁っているといっても、たかが庭の植込みであって、怪しい者など隠れていようものなら、すぐにも発見されなければならなかった。
何者も隠れていなかったらしく、人々はポツポツと戻って来た。
と、不意に人々の間から、絹を裂くような女の悲鳴が聞こえた。
老女と一緒に来た腰元の中の一人、
狼狽して人々は飛び退いた。
その人の垣に囲まれたまま、萩枝は地上を転がり廻り、胸を掻き髪を□り、
「苦しい!
この日の宵のことであった。山岸
「ではもうあやめは居ないというのか」
「へい、この小屋にはおりません」
「つまり席を退いたのだな」
「と云うことになりましょうね」
どうにも云うことが曖昧であった。
それに何とこの辺りは、暗くそうして寂しいことか。
裏木戸に面した反対側は、小借長屋らしく思われたが、どうやら空店になっているらしく、ビッシリ雨戸がとざされていて、火影一筋洩れて来なかった。
洞窟の穴かのように、長方形に空いている木戸口にも、
「
こう主税は又訊いた。
「退いたとも何とも申しちゃアいません。ただ
「一体あやめはどこに住んでいるのだ?」
「さあそいつは……そいつはどうも……それより一体
かえって怪訝そうに勘兵衛は訊いた。
第三の犠牲
昼の中に来るのが至当なのであったが、昼の中彼は屋敷へ籠って――お館へは病気を云い立てて休み――例の独楽を廻しに廻し、現われて来る文字を寄せ集め、秘密を知るべく努力した。
しかし、結果は
というのは、その後に現われて来た文字は「に有りて」という四つの文字と「飛加藤の亜流」という訳のわからない、六つの文字に過ぎなかったからで……
そこで彼は夕方駕籠を飛ばせて、ここへ訪ねて来たのであった。そうしてあやめに逢いたいと言った。
すると勘兵衛という男が出て来て、極めて曖昧な言葉と態度で、あやめは居ないというのである。
「少し尋ねたい
主税はこっちでも曖昧味を現わし、
「それで訪ねて参ったのだが、居ないとあっては止むを得ぬの。どれ、それでは帰るとしようか」
「ま、旦那様ちょっとお待ちなすって」
勘兵衛の方が
「実は
「しかし
「それが貴郎様、居ないんで」
「宿所にもいない、ふうんそうか。一体宿所はどこなのだ?」
「へい、宿所は……さあ宿所は……神田辺りなのでございますが……それはどうでもよいとして、宿所にもいず小屋へも来ない。
「ふうん、昨夜消えてしまった。……猿廻しに身をやつして消えてしまったのではあるまいかな」
「え、何だって? 猿廻しにだって?」
勘兵衛はあっけにとられたように、
「旦那、そりゃア一体何のことで?」
(しまった)と主税は後悔した。
(云わでものことを口走ってしまった)
主税は口を噤んで横をむいた。
「こいつア変だ! 変ですねえ旦那! ……旦那何か知ってますね!」と勘兵衛はにわかにかさにかかり、
「あやめの
「黙れ!」と主税は一喝した。
「黙っておればこやつ無礼! 拙者を
「おお誘拐しだとも、誘拐しでなくて何だ! あやめの阿魔を誘拐して、彼女の持っている秘密を奪い、一儲けしようとするのだろう! ……が、そうならお気の毒だ! 彼女はそんな秘密などより、
「荏原屋敷だと□ おおその荏原屋敷とは……」
「そうれ、そうれ、そうれどうだ! 荏原屋敷まで知っている
と、これはどうしたことだろう。にわかに勘兵衛は悲鳴を上げ、両手で咽喉の辺りを掻き□ったかと思うと、前のめりにバッタリと地へ倒れた。
「どうした勘兵衛!」と主税は驚き、介抱しようとして屈み込んだ。
その主税の眼の前の地上を、小蛇らしいものが一蜒りしたが、
息絶えたらしい勘兵衛の体は、もう延びたまま動かなかった。
「どうしたどうした!」
「勘兵衛の声だったぞ」と小屋の中から人声がし、幾人かの人間がドヤドヤと、木戸口の方へ来るらしかった。
(巻添えを食ってはたまらない)
こう思った主税が身を飜えして、この露路から走り出したのは、それから間もなくのことであった。
白刃に囲まれて
この
昼間こそ人々は
そのお茶の水の森林地帯へ、山岸主税が通りかかったのは、
あやめが行方不明となった、勘兵衛という太夫元が、何者かに頓死させられた、この二つの意外な事件によって、さすがの彼も心を痛め、この時まであてなく江戸の市中を、さまよい歩いていたのであった。
(荏原屋敷とは何だろう?)
このことが彼の気になっていた。
独楽の隠語の中にもこの字があった。勘兵衛という男もこの言葉を云った。そうしてあやめという曲独楽使いも、この屋敷に関係があるらしい。
(
しかし、それとて非常に古い屋敷――大昔から一貫した正しい血統を伝えたところの、珍らしい旧家だということばかりを、人づてに聞いたばかりであった。
(がしかしこうなってみれば、その屋敷の何物かを調べてみよう)
主税はそんなように考えた。
独楽のことも勿論気にかかっていた。
――どれほどあの独楽を廻してみたところで、これまでに現われた隠語以外に、新しい隠語が現われそうにもない。そうしてこれまでの隠語だけでは、何の秘密をも知ることは出来ない。どうやらこれは隠語を隠した独楽は、あれ以外にも
(とすると大変な仕事だわい)
そう思わざるを得なかった。
しかし何より主税の心を、憂鬱に抑えているものは、頻々とあるお館の盗難と、猿廻しに変装したあやめとが、密接の関係にあることで、今日あやめを小屋へ訪ねたのも、その真相を探ろうためなのであった。
(猿廻しから得た独楽と隠語と、お館の中に内通者ありという、自分の意見とを松浦殿へ、今朝方早く差し上げたが、その結果女の内通者が、お館の中で見付かったかしら?)
考えながら主税は歩いて行った。
腐ちた大木が倒れていたり、水溜りに月光が映っていたり、藪の陰から狐らしい獣が、突然走り出て道を遮ったりした。
不意に女の声が聞こえた。
「あぶない! 気をおつけ!
瞬間に主税は地へ仆れた。
「あッ」
その主税の体へ
疾風迅雷も物かわと、二人目の武士が左横から、なお仆れている主税を目掛け、拝み討ちに切り付けた。
「わ、わ、わ、わ――ッ」とその武士は喚いた。脇腹から血を吹き出しているのが、木洩れの月光に黒く見えた。
その武士が足を空ざまにして、丸太ん棒のように仆れた時には、とうに飛び起き、飛び起きざまに引き抜き、引き抜いた瞬間には敵を斬っていた、小野派一刀流では無双の使い手の、山岸主税は返り血を浴びずに、そこに聳えていた大楠木の幹を、背負うようにして立っていた。
が、それにしても何と大勢の武士に、主税は取巻かれていることか!
数間を距てて十数人の人影が、抜身をギラギラ光らせながら、静まり返っているではないか。
(何物だろう?)と主税は思った。
しかし、問さえ発っせられなかった。
前から二人、左右から一人ずつ、四人の武士が殺到して来た。
(死中活!)
主税は躍り出で、前の一人の真向を割り、返す刀で右から来た一人の、肩を胸まで斬り下げた。
とは云え、その次の瞬間には、主税は二本の白刃の下に、身をさらさざるを得なかった。
しかし、辛うじてひとりの武士の、真向へ来た刀を巻き落とした。
でも、もう一人の武士の刀を、左肩に受けなければならなかった。
(やられた!)
しかし何たる奇跡か! その武士は刀をポタリと落とし、その手が首の辺りを掻きむしり、前のめりにドッと地上へ倒れた。
勘兵衛の死に態と同じであった。
その時であった
「助太刀してあげてよ、ね、助太刀して!」
「参るぞーッ」という怒りの大音が、その時女の声を蔽うたが、一人の武士が大鷲さながらに、主税を目掛けて襲いかかった。
悄然たる太刀音がし、二本の刀が鍔迫り合いとなり、交叉された二本の白刃が、粘りをもって右に左に前に後ろに捻じ合った。
主税は刀の間から、相手の顔を凝視した。
両国橋で逢った浪人武士であった。
解けた独楽の秘密
「やあ
「両国橋で逢った浪人者!」
「そうよ」と浪人も即座に答えた。
「貴殿が手に入れた淀屋の独楽を、譲り受けようと掛け合った者よ。……隠すにもあたらぬ
「淀屋の独楽とは? 淀屋の独楽とは?」
「どうせ
二本の刀を交叉させ、鍔と鍔とを迫り合わせ、顔と顔とをひたと付けながら、覚兵衛はそう云うとグーッと押した。
それをやんわりと受けながら、主税は二歩ばかり後へ下った。
すると今度は山岸主税が、押手に出でてジリジリ[#「ジリジリ」は底本では「ヂリヂリ」]と進んだ。
二人の眼と眼とは暗い中で、さながら燠のように燃えている。
鍔迫り合いの危険さは、体の放れる一刹那にあった。遅れれば斬られ、
いぜんとして二人は迫り合っている。
そういう二人を中へ囲んで、飛田林覚兵衛の一味の者は、抜身を構え位い取りをし、隙があったら躍り込み、主税を討って取ろうものと、気息を呑んで機を待っていた。
と、あらかじめの計画だったらしい、
「やれ」と大音に叫ぶと共に、覚兵衛は烈しい体あたりをくれ、くれると同時に引く水のように、サーッと自身後へ引き、すぐに飜然と横へ飛んだ。
主税は体あたりをあてられて、思わずタジタジ[#「タジタジ」は底本では「タヂタヂ」]と後へ下ったが、踏み止まろうとした一瞬間に、相手に後へ引かれたため、体が延び足が進み、あたかも覚兵衛を追うかのように、覚兵衛の一味の屯している中へ、一文字に突き入った。
「しめた!」
「斬れ!」
「火に入る夏の虫!」
「わッはッはッ、斬れ、斬れ、斬れ!」
二声ばかり悲鳴が起こった。
バラバラと囲みが解けて散った。
乱れた髪、乱れた衣裳、敵の返り血を浴びて紅斑々! そういう姿の山岸主税は、血刀高々と頭上に捧げ、樫の木かのように立っている。
が、彼の足許には、死骸が二つころがっていた。
一人を取り囲んで十数人が、斬ろう突こうとしたところで、味方同士が邪魔となって、斬ることも突くことも出来ないものである。
そこを狙って敵二人まで、主税は討って取ったらしい。
地団太踏んで口惜しがったのは、飛田林覚兵衛であった。
「云い甲斐ない方々!」と杉の老木が、桶ほどの太さに立っている、その根元に突立ちながら、
「相手は一人、鬼神であろうと、討って取るに何の手間暇! ……もう一度引っつつんで斬り立てなされ! ……見られい
覚兵衛の言葉は事実であった。
愛する人を
「そうだ!」「やれ!」と覚兵衛の一味が、さながら逆浪の寄せるように、
「南無三宝! 方々待たれい! 火の光が見える、何者か来る! 目つけられては一大事! 残念ながら一まず引こう! 味方の死人
いかにも訓練が行き届いていた。その声に応じて十数人の、飛田林覚兵衛の一味達は、仆れている死人や負傷者を抱え、林を分け藪を巡り、いずこへともなく走り去った。
で、その後には気味の悪いような、
と、俄然主税の体が、刀をしっかりと握ったまま
心身まったく
そういう主税の仆れている体へ、降りかかっているのは落花であり、そういう主税の方へ寄って来るのは薄赤い燈の光であった。
そうして薄赤いその燈の光は、昨夜御用地の林の中で、老人と少年と女猿廻しとが、かかげていたところの龕燈の火と、全く同じ光であった。その龕燈の燈が近づいて来る。ではあの老人と少年と、女猿廻しとがその燈と共に、近付いて来るものと解さなければならない。
でもにわかにその龕燈の燈は、大藪の辺りから横に逸れ、やがて大藪の陰へかくれ、ふたたび姿を現わさなかった。
そこで又この境地はひっそりとなり、鋭い切先の一所を、ギラギラ月光に光らせた抜身を、いまだにしっかり握っている主税が、干鱈のように仆れているばかりであった。
時がだんだんに経って行った。
やがて、主税は気絶から覚めた。
誰か自分を呼んでいるようである。
そうして、自分の後脳の下に、暖かい柔らかい枕があった。
主税はぼんやり眼を開けて見た。
自分の顔のすぐの真上に、自分の顔へ蔽いかぶさるように、星のような眼と、高い鼻と、薄くはあるが大型の口と、そういう道具の女の顔が、
お高祖頭巾で顔を包んだ、
(あやめがどうしてこんな所に?)
気力は恢復してはいなかったが、意識は返っていた主税はこう思って、口に出してそれを云おうとした。
でも言葉は出せなかった。それ程に衰弱しているのであった。眼を開けていることも出来なくなった。そこで彼は眼を閉じた。
そう、主税に膝枕をさせ、介抱している女はあやめであった。鼠小紋の小袖に小柳繻子の帯、紫の半襟というその風俗は、女太夫というよりも、町家の若女房という風であり、お高祖頭巾で顔を包んでいるので、謎を持った秘密の女めいても見えた。
「山岸様、山岸主税様! お気が付かれたそうな、まア嬉しい! 山岸様々々々!」とあやめはいかにも嬉しそうに、自分の顔を主税の顔へ近づけ、情熱的の声で云った。
「それに致しましても何て
これがもし昼間であろうものなら、彼女の頬に赤味が注し、恥らいでその眼が潤んだことを、見てとることが出来たであろう。
勘兵衛や武士を殺した者は?
あやめがあの独楽を手に入れたのは、
すると、或日一人の武士が、
しかし、覚兵衛は断念しないで、その後もあやめを付け廻し、或いは嚇し或いは透かし[#「透かし」はママ]て、その子独楽を手中に入れようとした。それがあやめの疳に障り、感情的にその子独楽を、覚兵衛には譲るまいと決心した。と同時にその子独楽が、あやめには荷厄介の物に思われて来た。その中あやめは縁があって、江戸の両国へ出ることになった。
そこで浪速から江戸へ来た。するとどうだろう飛田林覚兵衛も、江戸へ追っかけて来たではないか。
こうして
舞台で孕独楽を使っていると、間近の桟敷で美貌の若武士が――すなわち山岸主税なのであるが、熱心に芸当を見物していた。ところが同じその桟敷に、飛田林覚兵衛もいて、いかにも子独楽が欲しそうに、眼を据えて見物していた。
(可愛らしいお方)と主税に対しては思い、(小面憎い奴)と覚兵衛に対しては感じ、この二つの心持から、あやめは
(孕独楽が後家独楽になろうとままよ、
あやめはそう思ったことであった。
そうして彼女は今日の昼席から、定席へも
でも彼女は夕方になった時、職場が恋しくなって来た。そこでこっそり出かけて行った。ところが裏木戸の辺りまで行って見ると、太夫元の勘兵衛と山岸主税とが、自分のことについて話しているではないか。そこで、彼女は
(どうで勘兵衛は遅かれ早かれ、妾が手にかけて殺さなければ、虫の納まらない奴なのだから、いっそ此処で殺してしまおう)
あやめは心をそう定めた。
で、手練の独楽の紐を――麻と絹糸と女の髪の毛とで、蛇のように強い弾力性を持たせて、独特に作った独楽の紐を、雨戸の隙から繰り出して、勘兵衛の首へ巻き付けて、締めて他愛なく殺してしまった。
(これで妾の一生の大事業の、一つだけを片付けたというものさ)
もっと苦しめて殺してやれなかったことに、心外さこそは覚えたが、殺したことには満足を感じ、彼女は紐を手繰り寄せ、
すると小屋から人が出て来るらしく、主税が急いで立ち去った。
そこであやめも空店から走り出し、主税の後を追っかけた。
主税が自分を両国広小路の、独楽の定席へ訪ねて来たのは、自分が主税の袖へ投げ込んだ独楽の、秘密を聞きたかったに相違ないと、そうあやめは思ったので、主税に逢ってそれを話そうと、さてこそ主税を追っかけたのであったが、愛を感じている相手だっただけに、突然近付いて話しかけることが、彼女のような女にも面伏せであり、そこでただ彼女は主税の行く方へ、後から従いて行くばかりであった。そのあげく、お茶の水のここへ来た。その結果がこの有様となった。
「山岸様!」とあやめは呼んで、膝の上に乗っている主税の顔へ、また自分の顔を近付けて行った。
「大藪の中から紐を繰り出し、お侍さんの一人を絞め殺しましたのは、このあやめでございます。……わたしの差し上げた独楽のことから、このような大難にお逢いなされ、あなた様にはさぞこのあやめが、憎い女に思われるでございましょうが、あなた様のお為に人間一人を、締め殺しましたことにお免じ下され、どうぞお許しなすって下さいまし」
教団の祖師
でも主税は返辞をしなかった。
ますます衰弱が激しくなり、又神気が朦朧となり、返辞をすることが出来ないからであった。
(このお方死ぬのではあるまいか?)
こう思うと彼女は悲しかった。
(
月の位置が移ったからであろう。梢から射していた月光が、円い巨大な柱のように、あやめと主税との二人の体の上へ、蛍草の色に降りて来ていた。その明るい光の輪の中では、産れて間もないらしい細い羽虫が、塵のように飛び交っていた。そうして明るい光の輪の底には、白芙蓉のように蒼白い、彫刻のように端正の、主税の顔が弱々しく、眼を閉じ口を閉じて沈んでいた。
(こうしてはいられない)
にわかにあやめは気がついて思った。
(町へ行って駕籠を雇って、主税様をお屋敷へお送りしなければ)
そこで、あやめは立ち上った。
この時から
お屋敷町のこの辺りは、この時刻には人通りがなく、犬さえ歩いてはいなかった。武家屋敷の武者窓もとざされていて、
伊賀袴を穿いた美少年が、手に持っている龕燈で、時々海鼠壁を照らしたりした。と、その都度壁の面へ、薄赤い光の輪が出来た。
龕燈を持った美少年を先に立て、その後から老人と女猿廻しとが、肩を並べて歩いて行くのであった。
「ねえお爺様……」と女猿廻しは云って、編笠は取って腰へ付け、星のような眼の、高い鼻の、薄くはあるが大型の口の、そういう顔を少し上向け、老人を仰ぎながら審かしそうに続けた。
「なぜたかが一本ばかりの木を、三十年も
「それはわしにも
袖無を着、伊賀袴を穿き、自然木の杖を突いた老人は、卯の花のように白い長い髪を、肩の辺りでユサユサ揺りながら、威厳はあるが優しい声で云った。
「なぜたかが一本ばかりのそんな木を、三十年もの間育てたかと、そういう疑いを抱くことよりそんなたかが一本ばかりの木を、迷わず怠らず粗末にせず、三十年もの間護り育てた、そのお方の根気と
「ええそれはそうかもしれませんけれど。……で、その木は何の木ですの?」
「
「それでたくさんのいろいろの人が、そのお方の所に伺って、お教えを乞うたと
「そうなのだよ、そうなのだよ。そんなに根気のよい、そんなに誠心の敬虔のお心を持ったお方なら、私達の持っている心の病気や、体の病気を癒して下されて、幸福な身の上にして下さるかもしれないと、悩みを持ったたくさんの人達が、そのお方の所へ伺って、自分たちの悩みを訴えたのだよ」
「するとそのお方がその人達の悩みを、みんな
「解り易い言葉でお説きなされて、心の病気と体の病気を、みんな除去って下されたのだよ」
「それでだんだん信者が増えて、大きな教団になったと有仰るのね」
「そうなのだよ。そうなのだよ」
「そのお方どんなお方ですの?」
「わしのような老人なのだよ」
「そのお方の名、何て有仰るの?」
「信者は
「飛加藤? 飛加藤とは?」
「戦国時代に現われた、心の邪な忍術使いでな、
植木師の一隊
「どうしてお偉いお祖師様のことを、飛加藤の亜流などというのでしょう?」
「祖師様のなさるいろいろの業が、忍術使いのまやかしの業のように、人達の眼に見えるからだよ」
「お爺さん、あなたもそのお祖師様の、信者のお一人なのでごさいますのね」
「ああそうだよ、信者の一人なのだよ」
「お爺さんのお名前、何て
「世間の人はわしの事を、飛加藤の亜流だと云っているよ」
「ではもしやお爺さんが、そのお偉いお祖師様では?」
しかし老人は返辞をしないで、優しい意味の深い微笑をした。
三人は先へ進んで行った。
背中の猿は眠ったと見えて、重さが少し加わって来た。それを女猿廻しは揺り上げながら、
(
(でも
こうも彼女には思われるのであった。
三人は先へ進んで行った。
やがて、四辻の交叉点へ出た。
それを左の方へ曲がりかけた時、右手の方から一隊の人数が、粛々とこっちへ歩いて来た。
根元の辺りを
車の上の植木はいずれも高価な、立派な品らしく見受けられたが、
その一隊が三人の前まで来た時、手を左右に振りながら、警戒するように『
「叱!」「叱!」と口々に云った。
一隊は二人の前を通り過ぎようとした。
すると、この辺りの屋敷へ呼ばれ、療治を済ませて帰るらしい、一人の按摩が向う側の辻から、杖を突きながら現われたが、その一隊の中へうっかりと入った。
「
数人の植木師が走って来て、一所へ集まって囁き合い、ひとしきりそこに混乱が起こった。
がすぐに混乱は治まって、一隊は粛々と動き出し、林は先へ進んで行った。しかし見れば
按摩の死骸が転がっているのである。
「お爺さん!」と恐ろしさに女猿廻しは叫んで、老人の腕に縋りついた。それを老人は抱えるようにしたが、
「
「何に、お爺さん、何に障わったから?」
「木へ! そう、一本の木へ!」
それから老人は歩き出した。三人はしばらく沈黙して歩いた。道がまた辻になっていた。
それを右へ曲がった時、屋敷勤めの仲間らしい男が、仰向けに道に仆れているのが見えた。
その男も死んでいた。
「お爺さん、またここにも!」
「障わったからじゃ。殺されたのじゃ」
「お爺さん、お爺さん、あなたのお力で……」
「あの木で殺された人間ばかりは、わしの力でもどうにもならない」
悪魔の一隊は今も近くの、裏通りあたりを通っていると見え、そうして又も人を殺したと見え、
「叱!」「叱!」という混乱した声が、三人の耳へ聞こえてきた。
美しき囚人
同じこの夜のことであった。
田安家の大奥の一室に、座敷牢が出来ていて、腰元風の若い女と、奥家老の松浦頼母とが、向かい合って坐っていた。
「
眼袋の出来ている尻下りの眼へ、野獣的の光を湛え、酷薄らしい薄い唇を、なめずるように舌で濡らしながら、頼母はネットリとお八重へ云った。
「
云うことは田安家の奥家老として、もっとも千万のことであり、問い方も厳しくはあったけれど、しかし頼母の声や態度の中には、不純な
「ご家老様」とお八重は云って、白百合のように垂れていた頸を、物憂そうに重々しく上げた。
「ご家老様へお尋ねいたしまするが、
「なにを馬鹿な、そのようなこと、わしは云わぬの、決して云わぬ」
「八重も申しはいたしませぬ」
「…………」
頼母は無言で眉をひそめたが、やがてその眉をのんびりさせると、大胆な美しいお八重の姿を、寧ろ感心したように眺めやった。
まことお八重は美しかった。年は二十二三でもあろうか、細々とした長目の頸は、象牙のように白く滑かであり、重く崩れて落ちそうな程にも、たくさんの髪の島田髷は、鬘かのように艶やかであった。張の強い涼しい眼、三ヶ月形の優しい眉、高くはあるがふっくりとした鼻、それが純粋の処女の気を帯びて、瓜実形の輪郭の顔に、綺麗に調和よく蒔かれている。
小造りの体に纏っている衣裳は、紫の
そういう彼女が牢格子の中の、薄縁を敷いた上に膝を揃えて、端然として坐っている姿は「美しい悲惨」そのものであった。牢の中は薄明るかった。というのは格子の外側に、頼母が提げて来たらしい、網行燈が置いてあって、それから射している幽かな光が、格子の間々から射し入って、明暗を作っているからであった。
「見上げたの、見上げたものじゃ」
ややあってから松浦頼母は、感心したような声で云った。
「武家に仕える女の身として、そういう覚悟は感心なものじゃ。……使命を仕損じた暁には、たとえ殺されても主人の名は云わぬ! なるほどな、感心なものじゃ」
しかし、何となくその云い方には、おだてるような所があった。そうしてやはり不純なものが、声の中に含まれていた。
「
網行燈の光に照らされ、猪首からかけて右反面が、薄
「いよいよ白状いたさぬとあれば、明日
お八重と女猿廻し
しかしお八重は「覚悟の前です」と、そういってでもいるかのように、髪の毛一筋動かさなかった。ただ
(どうしてこんなことになったのだろう?)と彼女は心ひそかに思った。
お八重は今から二年ほど前に、奥方様附の腰元として、雇い入れられた女なのであるが、今日の昼間奥方様に呼ばれ、奥方様のお部屋へ行った。すると奥方様は彼女に向かい、百までの数字を書いてごらんと云われた。不思議なことと思いながら、云われるままに彼女は書いた。彼女は部屋へ戻ってから、そのようにして数字を書かされた者が、自分一人ではなくて大奥全体の女が、同じように書かされたということを聞いて、少しばかり不安に思った。
すると、間もなく奥方様のお部屋へ、また彼女は呼び出された。行ってみると何とその部屋には、奥家老の松浦頼母がいて、一葉の紙片を突き出した。昨夜女猿廻しのお
頼母の訊問は烈しかった。
「隠語の文字と
「書きましてござります」
「お館の外の何者かと
「お言葉通りにござります」
「これほどの大事を女の身一つで、行なったものとは思われぬ、何者に頼まれてこのようなことをしたか?」
「わたくしの利慾からにござります。決して
「黙れ、浅はかな、隠し立ていたすか! 尋常な品物であろうことか、代々の将軍家より賜わった、当家にとっては至極の宝物ばかりを、選りに選って盗んだは、単なる女の利慾からではない。頼んだ者があるはずじゃ、何者が頼んだか名を明かせ!」
しかしお八重は口を
「お館の外の共謀者、何者であるか素性を申せ!」
「申し上げることなりませぬ」
この訊問に対しても、お八重は答えを拒んだのであった。
そこで、お八重は座敷牢へ入れられた。
すると、このような深夜になってから、頼母一人がやって来て、また訊問にとりかかったのであった。
(どうしてこんなことになったのだろう?)
(どうして秘密の隠語の紙が、ご家老様の手へなど渡ったのだろう?)
これが不思議でならなかった。
(女猿廻しのあのお葉が、では頼母様の手に捕らえられたのでは?)
お葉と
「
こう大事を打ち明けた。すると女猿廻しは考えこんだが、
「田安様の品物が盗まれました際、その責任は田安様の、
「それはまァ奥家老の松浦様へ」
「松浦へ! おお松浦頼母へ! ……では
それでお八重は女猿廻しのお葉が、何かの理由で松浦頼母に、深い怨みを抱いていることを、いち早く見て取ったが、しかしお葉がどういう
二つ目の独楽
とにかくこうして二人の女は、それ以来一味となり、お八重から渡す隠語を
(隠語の紙片が頼母様の手へ入った! ではお葉も頼母様のお手に、引っとらえられたのではあるまいか?)
これがお八重の現在の不安であった。
(いやいや決してそんなことはない!)
お八重はやがて打ち消した。
(でも隠語を認めた紙片が、頼母様のお手へ入った以上、それを封じ込めてやったあの独楽が、頼母様のお手へ入ったことは、確かなことといわなければならない!)
これを思うとお八重の胸は、無念と口惜しさに煮えるのであった。
(淀屋の独楽を奪い取れ! これがあの方のご命令だった。……淀屋の独楽を奪い取ろうとして、妾は二年間このお屋敷で、腰元奉公をしていたのだ。そうしてようやく目的を達し、淀屋の独楽を奪い取ったら、すぐに他人に奪い返されてしまった。何と云ったらいいだろう!)
代々の将軍家から田安家へ賜わった、数々の器類を奪ったのも、目的の一つには相違なかったが、真の目的はそれではなくて、淀屋の独楽を奪うことであった。
彼女は田安家へ入り込むや否や、淀屋の独楽の在場所を探した。と、教えられてきた淀屋の独楽と、そっくりの型の独楽を奥方妙子様が、ご秘蔵なされていることを知った。しかし一つだけ不思議なことには、その独楽は淀屋の独楽と違って、いくら廻しても独楽の面へ、一つとして文字を現わさなかった。
「では淀屋の独楽ではないのだろう」と思って、お八重は奪うことを躊躇した。ところが此頃になって老女の一人が「あの独楽は以前には廻す毎に、文字を現わしたものでございますが、いつの間にやらその事がなくなって、この頃ではどのように廻したところで、文字など一字も現われません」と話した。
「ではやはり奥方様お持ちの独楽は、淀屋の独楽に相違ない」とそうお八重は見極めをつけ、とうとうその独楽を昨日奪って、折柄塀外へ来たお葉の手へ、投げて素早く渡したのであった。今夜裏門にて――と隠語に書いたのは、望みの品物を奪い取ったのだから、もうこの屋敷にいる必要はない。でお葉に裏門まで来て貰って、一緒にこの屋敷から逃げ出そうと思い、さてこそそのように書いたのであった。
「ご家老様」とお八重は云って、今までじっと俯向いて、膝頭を見詰めていた眼を上げて、頼母の顔を正視した。
「隠語を記しましたあの紙片を、ご家老様には何者より?」
「あれか」
すると松浦頼母は複雑の顔へ一瞬間、冷笑らしいものを漂わせたが、
「
「え――ッ、まア! いえいえそんな!」
物に動じなかったお八重の顔が、見る見る蒼褪め眼が血走った。
お八重の受難
そういうお八重を松浦頼母は、嘲笑いの眼で見詰めたが、
「去年の秋御殿で催された、観楓の酒宴以来
頼母はお八重を嘗めるように見たが、
「わしであったはずじゃ、頼母であったはずじゃ」
云い云い頼母は老いても衰えない、盛り上っている肉太の膝を、お八重の方へニジリ[#「ニジリ」は底本では「ニヂリ」]寄せた。
お八重は
その日、夜になって座が乱れた。お八重は酒に酔わされたので、醒まそうと思って庭へ出た。と、突然背後から、彼女に触れようとする者があった。お八重は驚いて振り返ってみると、意外にも奥家老の松浦頼母で、
「
すると、そこへちょうど折よく、これも酒の酔いを醒まそうとして、通り掛かった山岸主税が、
「や、これはご家老様にはお八重殿にご酔興なそうな。アッ、ハッ、ハッ、お気の毒千万、そのお八重殿とわたくしめとは、夫婦約束いたした仲でござる。わたくしめの
ところがこれが縁となって、お八重と主税とは恋仲となり、
「お八重」と頼母は唆かすように云った。
「今日の昼主税めわしの所へ参り、『私こと昨夜お館附近を、見廻り警戒いたしおりましたところ、怪しい女猿廻しめが、ご用地附近におりましたので、引っとらえようといたしましたところその猿廻しめは逃げましたが、独楽を落としましてござります。調べましたところ独楽に細工あって、隠語を認めましたこのような紙片が、封じ込めありましてございます。隠語を解けば――コンヤウラモンニテ、と。……思うにこれはお館の中に、女猿廻しの一味が居りまして、それと連絡をとりまして、お館の大切な器類を、盗み出したに相違なく、しかも女猿廻し一味のものは、女に相違ござりませぬ。何故と申せば隠語の文字、女文字ゆえでござりまする。左様、女にござりまする! 奥方様付のお腰元、お八重殿にごさりまする! わたくしお八重殿の文字の癖をよく存じておりまする』とな。……」
「嘘だ嘘だ! 嘘でごさりまする! 主税殿が何でそのようなことを!」
手を握りしめ歯切りをし、お八重はほとんど狂乱の様で、思わず声高に叫ぶように云った。
「
「フッフッフッ、ハッハッハッ、可哀そうや可哀そうやのうお八重、
ここで頼母はお八重の顔を、上眼使いに盗むように見たが、
「だが、座敷牢へは入れたものの、其方の考え一つによって命助ける術もある。お八重、強情は張らぬがよい、この頼母の云うことを聞け! 頼母
陥穽から男が
すると、お八重の蒼白の顔へ、サッと血の気の注すのが見えたが、
「えい穢らわしい、何のおのれに!」
次の瞬間にお八重の口から、絹でも裂くように叫ばれたのは、憎悪に充ちたこの声であった。
「たとえ打ち首になろうとも、逆磔刑にされようとも、
「黙れ!」と忍び音ではあったけれど、怒りと憎悪との鋭い声で、突然頼母は一喝したが、ヌッとばかりに立ち上った。
「何かと言えば主税様! そうか、それほど山岸主税が、
と、その瞬間「あッ」という悲鳴が、お八重の口から迸り、忽然としてそのお八重の姿が、座敷牢から消えてなくなり、その代わりにお八重の坐って居た箇所へ、畳一畳ばかりの長方形の穴が、黒くわんぐりと口を開けた。
「お殿様、上首尾です」――こうその男は
「そうか。そこで、気絶でもしたか?」
「ノンビリとお眠りでございます。……やんわりとした積藁の上に、お八重様にはお眠ねで」
「強情を張る女には、どうやらこの手がよいようだのう」
「死んだようになっている女の子を、ご介抱なさるのは別の味で……ところでお殿様お下りなさいますか? ……すこし
「まさか穴倉の底などへは。……命じて置いた場所へ運んで行け」
「かしこまりましてございます」
奥眼と云われる窪んだ眼、鉤鼻と云われる険しい鼻、そういう顔をした四十五六歳の、陥穽から抽け出て来た男は、また陥穽の中へ隠れようとした。
と、頼母は声をかけた。
「八重めが途中で正気に返ったら、猿轡など噛ませて声立てさせるな。よいか勘兵衛、わかったろうな」
「わかりましてござります」
その男――勘兵衛は頷いて云った。
勘兵衛? いかにもその男は、両国広小路の曲独楽の
しかしそういうさまざまの疑問を、座敷牢の中へ残したまま、勘兵衛は陥穽の中へ消えてしまった。と、下っていた陥穽の蓋が、自ずと上へ刎ね上り、陥穽の口を閉ざしてしまった。
頼母が網行燈をひっさげて、座敷牢から立去った後は、闇と
それから
同じ廓内の一所に、奥家老松浦頼母の屋敷が、月夜に厳めしく立っていた。その屋敷の北の隅に、こんもりとした植込に囲まれ、主屋と別に建物が立っていた。
土蔵造りにされているのが、この建物を陰気にしている。
と、この建物の一つの部屋に、山岸主税が高手籠手に縛られ、柱の傍に引き据えられてい、その周囲に五人の覆面の武士が、刀を引き付けて警戒してい、その前に淀屋の独楽の一つを、膝の上へ載せた松浦頼母が、主税を睨みながら坐ってい、そうしてその横に浪人組の頭の、飛田林覚兵衛が眼を嘲笑わせ、これも大刀を膝の前へ引き付け、主税を眺めている光景を、薄暗い燭台の黄色い光が朦朧として照していた。
それにしてもどうして山岸主税が、こんな所に縛られているのだろう?
そうして何故に飛田林覚兵衛が、こんな所へ現われて、松浦頼母の家来かのように、悠然と控えているのだろう?
悪家老の全貌
お茶の水で
すると、屋敷の門前で、五人の覆面武士に襲撃された。まだ主税は身心衰弱していたので、他愛もなく捕らえられ、目隠しをされて運ばれた。
その目隠しを取られたところが、今居るこの部屋であり、自分の前には意外も意外、主家の奥家老である松浦頼母と、自分を襲った浪人の頭、飛田林覚兵衛がいるではないか!
夢に夢見るという心持、これが主税の心持であった。
「主税」と頼母は威嚇するように云った。
「淀屋の独楽を所持しおること、飛田林覚兵衛より耳にした。その独楽を当方へ渡せ!」
それから頼母は自分の膝の上の独楽を、
「これが二つ目の淀屋の独楽じゃ。以前は田安殿奥方様が、ご秘蔵あそばされていたものじゃ。が、拙者代わりの品物を作り、本物とすり換えて本物の独楽は、
「左様で」と初めて飛田林覚兵衛は、星の入っている薄気味悪い眼を、ほの暗い燭台の燈に光らせながら、
「拙者、松浦様の家来なのだ。淀屋の独楽を探そうため、浪速くんだりまで参ったのじゃ。浪速あやめが独楽を持っていた。で、取ろうといたしたところ、あの女め強情に渡しおらぬ。そのうち江戸へ来てしまった。そこで拙者も江戸へ帰って、どうかして取ろうと苦心しているうちに、チョロリと貴殿に横取りされてしまった。と知った時松浦様へ、すぐご報告すればよかったのだが、独楽を探そうために長の年月、隠れ扶持をいただいておる拙者としては、自分の力で独楽を手に入れねばと、そこで貴殿を襲ったのじゃが、ご存知の通り失敗してしもうた。そこでとうとう我を折って、今夜松浦様へ小鬢を掻き掻き、つぶさに事情をお話しすると、では主税めを捕らえてしまえとな。……で、こういう有様となったので」
「主税」と今度は松浦頼母が、宥めすかすように猫撫声で云った。
「淀屋の財宝が目つかった際には、幾割かの分はくれてやる。その点は充分安心してよろしい。だから云え、どこにあるか。淀屋の独楽がどこにあるか。……それさえお前が云ってくれたなら、人を遣わして独楽を持って来させる。そうしてそれが事実淀屋の独楽であったら、即座に
「黙れ!」と主税は怒声を上げた。
「逆臣! いや悪党!」
乱れた鬢髪、血走った眼、蒼白の顔色、土気色の口、そういう形相を燭台の燈の、薄暗い中で強ばらせ、
「お館様の寛大仁慈に、
主税は満身の力を
生きている勘兵衛
「馬鹿者、騒ぐな、静かに致せ!」
「縄は解けぬ、切れもしないわい! ……お前がこの場で執るべき道は、お前の持っておる独楽をわしに渡し、わしの一味配下となるか、それともあくまで強情を張って、淀屋の独楽をひし隠しに隠し、わしの配下に殺されるか、さあこの二つの道しかない! ……生きるつもりか、死ぬつもりか□ どうだ主税、どっちに致す!」
頼母は改めてまた主税を見詰めた。
しかし主税は返事さえしないで、憎しみと怒りとの籠った眼で、刺すように頼母を睨むばかりであった。
そういう主税を取り囲んで、まだ覆面を取らない五人の浪人は、すわといわば主税を切り伏せようと、刀の柄へ手をかけている。飛田林覚兵衛は例の気味の悪い、星の入っている眼を天眼に据えて、これも刀の柄へ手をかけながら、松浦頼母の横手から、主税の挙動を窺っていた。
部屋の
「そうか」と頼母はやがて云った。
「物を云わぬな、黙っているな、ようし、そうか、では憂目を!」
覚兵衛の方へ顔を向け、
「こやつにあれを見せてやれ!」
覚兵衛は無言で立ち上り、隣室への
何がそこに有ったろう?
猿轡をはめられ腕を縛られ、髪をふり乱した腰元のお八重が、桔梗の花の折れたような姿に、畳の上に横倒しになってい、それの横手に
「お八重!」と思わず声を筒抜かせ、主税は猛然と飛び立とうとした。
「動くな!」と瞬間、覆面武士の一人が、主税の肩を抑えつけた。
「お八重、どうして、どうしてここへは□ おおそうしてその有様は□」
お八重は顔をわずかに上げた。起きられないほど弱っているらしい。こっちの部屋から襖の
「お八重さんばっかりに眼をとられて、あっしを見ねえとは
胡座から立て膝に直ったかと思うと、こう勘兵衛が
「見忘れたんでもござんすまいに」
「わりゃア勘兵衛!」と主税は叫んだ。
「死んだはずの勘兵衛が!」
「いかにも殺されたはずの勘兵衛で、へへへ!」と白い歯を見せ、
「あの時あっしア確かにみっしり、締め殺されたようでござんすねえ。……殺そうとした奴ア
「それでは
重ね重ねの意外の事件に、主税は心を顛倒させながら、
恋人が盗賊とは
「あたぼうよ、ご家来でさあ……もっとも
「
「お喋舌り坊主めが、何だベラベラと」
それから主税の
「主税」と頼母は横柄の態度で、主税を上から見下ろしたが、
「
「…………」
主税は無言で頼母を見上げた。余り意外のことを云われたので、その言葉の意味が受け取れず、で、呆然としたのであった。
「代々の将軍家より当田安家に対し下し賜わった名器什宝を、盗み出した盗人こそ、そこに居る腰元八重なのじゃ!」
驚かない主税をもどかしがるように、頼母は言葉に力を
「…………」
しかし、依然として主税は無言のまま、頼母の顔を見上げていた。
と、静かに主税の顔へ、ヒヤリとするような凄い笑いが浮かんだ。
(この姦物め、何を云うか! そのような出鱈目を云うことによって、こっちの心を惑わすのであろう。フフン、その手に乗るものか)
こう思ったからである。
「主税!」と頼母は吼えるように喚いた。しかし、今度は
「女猿廻しより得たと申して、今朝
「嘘だ!」と悲痛の主税の声が、腹の底から絞るように出た。
「八重が、八重殿が、盗人などと! 嘘だ! 信じぬ! 嘘だ嘘だ!」
しかし見る見る主税の顔から、血の気が消えて鉛色となった。
(もしや!)という疑惑からのことであろう。
そうして彼の眼――主税の眼は、頼母から離れて隣の部屋の、お八重の方へ移って行った。
「あッはッはッ、そう思うであろう。……恋女の八重が館の盗人! これは信じたくはあるまいよ。……が、事実は事実なのでのう、信じまいとしても駄目なのじゃ。……念のため八重自身の口から、盗人の事実を語らせてやろう」
勘兵衛の方へ顔を向けると、
「その猿轡はずしてやれ」と頼母は冷然とした声で云った。
つと勘兵衛の手が伸びた時には、お八重の口は自由になっていた。
「八重殿!」と、それを見るや山岸主税は、ジリジリ[#「ジリジリ」は底本では「ヂリヂリ」]とそっちへ膝を進め、
「よもや、八重殿! 八重殿が□」
「山岸様!」とお八重は叫んだ。倒れていた体を起き返らせ、主税の方へ胸を差し出し、髪のふりかかった蒼白の顔を、苦痛に歪めて主税の方へ向け、歯ぎしるような声でお八重は叫んだ。
「深い事情はござりまするが、お館の数々の器類を、盗み出しましたはこの
その次の瞬間には彼女の体は、前のめりに倒れていた。そこから烈しい泣き声が起こった。畳へ食いついて泣き出したのである。
主税の全身に顫えが起こった。そうして彼の体も前のめりに倒れた。背の肉が波のように蜒っている。恋人八重が盗人とは! これが彼を男泣きに泣かせたのらしい。
そういう二人を
「八重が盗人であるということ、これで
ここで頼母は言葉を切り、また二人をじろり見て、
「それともあくまで強情を張って、淀屋の独楽を渡さぬとなら、この場において
極重悪木の由来
この頃
と、静かに三人は足を止めた。
行手に大名屋敷の土塀が見え、裏門らしい大門が見え、その前へ植木師の一隊が、植木を積んだ車を囲み、月光の中に黒く固まり、動かずに佇んだからであった。
大名屋敷は田安家であった。
と、白い髪を肩の辺りで揺るがせ、白い髯を胸の辺りで顫わせ、深い感情を抑え切れないような声で「
「数日前に『極重悪木』を、彼ら田安家へ植え込んで、腰元を数人殺したそうだが、今夜も田安家へ植え込もうとしておる。……彼、
「お爺さん」とお葉は恐ろしそうに訊いた。
「極重悪木と
「
「その東海林自得斎という男、何をしてどこに居りますの?」
「日本一大きな植木師として、秩父山中に住んでいるのだよ。
「そういう大きな植木師をしながら、人を殺す恐ろしい毒の木を、東海林自得斎は育てて居りますのね」
「いいや、今では数を殖やしているのさ。三十年もの間研究して極重悪木を作り上げたのだから、今ではその数を殖やしているのだよ。……憎いと思う人々の屋敷へ植え込んで、そこの人を根絶しにするためにな」
「その恐ろしい木が、極重悪木が、田安家へ植えこまれたと仰有るのね! 今夜も植えこまれると仰有るのね! まあ、こうしてはいられない! お八重様があぶない、お八重様のお命が!」
お葉は夢中のように歩き出した。
田安家の横手の土塀の前へ、女猿廻しのお葉が現われたのは、それから間もなくのことであった。
土塀の上を蔽うようにして、植込の松や楓や桜が、林のように枝葉を繁らせ、その上に月がかかっていて、その光が枝葉の間を通して、お葉の体へ光の
「飛加藤の亜流」という老人と別れて、一人此処へ来たお葉なのであった。でも何のために此処へ来て、何をしようとするのであろう。
意外な邂合
「藤八よ」とお葉は云って、背中の小猿を揺り起こした。
「さあこれを持って木へ登って、木の枝へしっかり巻きつけておくれ」
腰に挟んでいた一丈八尺の紐を、お葉は取って小猿へ渡した。と直ぐに小猿が土塀を駆け上り、植込の松の木へ飛び付いた姿が、黒く軽快に月光に見えた。でも直ぐに小猿は飛び返って来た。紐が松の枝から土塀を越して、お葉の手にまで延びている。間もなくその紐を手頼りにし、藤八猿を肩にしたまま、塀を乗り越えるお葉の姿が、これも軽快に月光に見えた。
紐を
(お八重様の居り場所どこかしら?)
お葉は眼を四方へ配った。
三卿の筆頭であるところの、田安中納言家のお屋敷であった。客殿、本殿、脇本殿、
(奥方様付きのお腰元ゆえ、大奥にお
といっていつ迄も植込の中などに、身を隠していることも出来なかったので、
(建物の方へ忍んで行ってみよう)
で、彼女は植込を出て、本殿らしい建物の方へ、物の陰を辿って歩いて行った。
この構内の一画に、泉水や築山や石橋などで、
それにしてもあやめはほんの
短かい短かい時間の間に、あるいは女猿廻しお葉となり、あるいは曲独楽使いのあやめとなる! この女の本性は何なのであろう?
正体不可解の浪速あやめは、石橋の袖に佇みながら、頭巾と肩とをわけても鮮かに、月の光に曝しながら、正面に見えている建物の方を、まじろぎもせず眺めていたが、やがてその方へ歩き出した。
と、築山の裾を巡った。
とたんに彼女は「あッ」と叫んで、居縮んだように佇んだ。同時に彼女の正面からも、同じような「あッ」という声が聞こえた。見ればそこにも女がいて、あやめの顔を見詰めながら、居縮んだように立っている。それは女猿廻しのお葉であった。
おお、では二人のこの女は、別々の女であるのだろうか! そうとしか思われない。
それにしても何と二人の女は、その顔立から肉付から、年恰好から
お茶の水で主税を助けたあやめは、辻駕籠を雇って主税を乗せて彼の屋敷へまで送ってやった。
でも彼女は心配だったので、見え隠れに駕籠の後をつけて、彼の屋敷の前まで来た。と五人の覆面武士が現われ、主税を手籠めにして担いで逃げた。
(一大事!)と彼女は思い、その一団の後を追った。が、この構内へ入り込んだ時には、その一団はどこへ行ったものか、姿がみえなくなっていた。
(どうあろうと主税様をお助けしなければ)
そこで、あやめは主税を探しにかかった。
その結果がこうなったのである。
双生児の姉妹
「まあお前は妹!」
「お
あやめとそうしてお葉の口から、こういう声のほとばしったのは、それから間もなくのことであり、その次の瞬間には二人の女は、抱き合ったままで地に坐っていた。
お高祖頭巾をかむった町女房風のあやめと、猿廻し姿のお葉とが、搦み合うようにして抱き合って、頬と頬とをピッタリ付けて、烈しい感情の昂奮から、忍び泣きの音を洩らしている姿は、美しくもあれば妖しくもあった。
築山の裾に茂っているのは、満開の花をつけた
「お葉や! おおおおその姿は! ……猿廻しのその姿は! ……別れてから経った日数は十年! ……その間中わたしは雨につけ風につけ、一日としてお前のことを、思い出さなかったことはなかったのに! ……
妹お葉の背へ両手を廻し、それで抱きしめ抱きしめながら、喘ぐようにあやめは云うのであった。
「お姉様、あやめお姉様!」と、姉の胸の上へ顔を埋め、しゃくりあげながらお葉は云った。
「十年前に……お姉様が……不意に家出をなされてからというもの……わたしは、毎日、まアどんなに、お帰りなさる日をお待ちしたことか! ……いつまでお待ちしてもお帰りにならない。……そのうちだんだんわたしにしましても、お家にいることが苦痛になり……それでとうとう同じ年の、十二月の雪の日に、お姉様と同じように家出をし……」
「おお、まアそれではお前も家出を……」
「それからの憂艱難と申しましたら……世間知らずの身の上が祟って……
「お葉や、わたしも、そうだった。今のわたしの身分といったら、曲独楽使いの太夫なのだよ! ……荏原屋敷の娘、
泉水で鯉が跳ねたのであろう、鞭で打ったような水音がした。
高く
「お葉や」とやがてあやめは云った。
「わたし決心をしたのだよ。一生の大事を遂げようとねえ」
「お姉様」とお葉も云った。
「わたしも、わたしも、そうなのです! 一生の大事を遂げようと、決心したのでございます!」
「わたし、
「お姉様」とお葉は云って、ヒタとあやめの顔を見詰め、
「わたしは、主馬之進をそそのかして、そういう悪事を行なわせた、主馬之進の兄にあたる、田安家の奥家老、
「え□」とあやめは仰天したように、
「お葉や、一体、それは一体! ……」
「おお、お姉様お姉様、あなたはご存知ないのです。……お姉様よりも六七ヶ月後に、家出をいたしたこのお葉ばかりが、知っていることなのでございます。……その六七ヶ月の間中、わたしは主馬之進という人間の素性を、懸命に探ったのでございます。その間幾度となく立派な
「知らなかった、わたしは! まるで知らなかった! ……でもどうしてそんな立派な、田安中納言様の奥家老が、実の弟を荏原屋敷へ入れたり、自身微行して訪ねて行ったり?」
「慾からですお姉様、慾からです! ……それも大きな慾から! ……」
荏原屋敷の秘密
どこから話したらよかろうかと、思案するかのようにお葉は黙って、あやめの顔を見守った。
「高麗郡の高麗家と同じように、荏原郡の荏原屋敷が、天智天皇様のご治世に、高麗の国から移住して来た人々の、その
「その移住して来た人々が、高麗の国から持って来た宝を、荏原屋敷で保管して、代々伝えたということも、お姉様にはご存知ですわねえ。……でも、その宝物は長い年月の間に、持ち出されて使い果たされ、尋常の人間の智慧ぐらいでは、絶対に発見することの出来ない、宝物の
「ところが今から百五十年前、元禄年間に大財産が、その隠匿所へこっそりと、仕舞い込まれたということですの」
「まあ」とあやめも唾を呑み、握られている手を握り返したが、
「どういう財産? どういう素性の?」
「
「まあ淀屋の? 淀辰のねえ」
「それをどうして知ったものか、松浦頼母が知りまして、美貌の弟の
「おおなるほどそうなのかえ、そうして財産の隠匿場所を……」
「そうなのですそうなのです、時々やって来る頼母と一緒に、主馬之進めはその隠匿場所を……」
「
「いいえお姉様わたしはそれ前に、ここのお腰元のお八重様のお命を……それよりお姉様こそどうしてここへ?」
「ここのご家臣の山岸主税様の、お命をお助けいたそうとねえ……」
こうして
崩折れる美女
「独楽を渡して配下になるか、それとも拒んで殺されるか? 即答することも困難であろう。しばらく二人だけで考えるがよい」
こう云って頼母が配下を引き連れ、主屋の方へ立ち去ったので、二人だけとなってしまったのである。
一基の燭台には今にも消えそうに、蝋燭の火がともってい、その光の穂を巡りながら、小さい蛾が二つ飛んでいる。
顔に乱れた髪をかけ、その顔色を蒼白にし、衣紋を崩した主税の体は、その燭台の
(もともと偶然手に入った独楽だ。頼母にくれてやってもよい。莫大な金高であろうとも、淀屋の財産など欲しいとは思わぬ。……しかしこのように武士たる自分を、恥かしめ、虐み、威嚇した頼母の、配下などには断じてなれない。と云って独楽を渡した上、頼母の配下にならなければ、自分ばかりかお八重の命をさえ、頼母は取ると云っている。残忍酷薄の彼のことだ、取ると云ったら取るだろう。……命を取られてたまるものか?)
無心に蛾の方へ眼を向けたまま、こう主税は思っていた。
一つの蛾が朱筆の穂のような
(ではやっぱり頼母の意志に従い、淀屋の独楽を渡した上、彼の配下になる以外には、他に手段はないではないか)
逆流する血の気を
(そうだ独楽を渡した上、あなた様の配下になりますると、偽りの誓言を先ず立てて、ともかくも命を助かろう。その余のことはそれからで出来る)
何よりも命を保たなければと、主税はそれを思うのであった。
(それにしてもお八重が盗人とは! お館の宝物の数々を盗んだ、その盗人がお八重だとは!)
これを思うと彼は発狂しそうであった。
(恋人が盗人とは! それも尋常の盗人ではない、お館を破滅に導こうとする、獅子身中の虫のような盗人なのだ!)
見るに忍びないというような眼付をして、主税は隣室の方へ眼をやった。
そこにお八重が突っ伏していた。
こっちの部屋から流れこんで行く
泣き声は聞こえてはこなかったが、畳の上へ両袖を重ね、その袖の上へ額を押しつけ、片頬を主税の方へわずかに見せ、その白いふっくりした艶かしい片頬を、かすかではあるが規則正しく、上下に揺すって動かしているので、しゃくりあげていることが窺われた。
それは可憐で痛々しくて、叱られて泣いている子供のような、あどけなさをさえ感じさせる姿であった。
(あの子が、お八重が、何で盗人であろう!)
そういう姿を眼に入れるや、主税は猛然とそう思った。
(これは何かの間違いなのだ!)
「お八重殿」と
「真実を……どうぞ、本当のことを……お話し下され、お話し下され! ……盗人などと……嘘でござろうのう」
狂わしい心持で返事を待った。
と、お八重は顔を上げた。
宵闇の中へ夕顔の花が、不意に一輪だけ咲いたように、上げたお八重の顔は蒼白かった。
「山岸様!」と、その顔は云った。
「八重は死にます! ……殺して下さりませ! ……八重は盗人でござります! ……深い事情がありまして……あるお方に頼まれまして……お館の数々のお宝物を、盗んだに相違ござりませぬ。……
花が不意に散ったように、お八重の顔は沈んで袖の上へ消えた。
泣き声が細い糸のように引かれた。
(そうか、やっぱり盗人なのか)
主税は首を膝へ垂れた。
(深い事情があるといった。そうだろう! その事情は?)
泣き声はなおも断続して聞こえた。
(事情によっては許されもするが……)
(あるお方に頼まれたという。何者だろう、頼んだものは?)
「ここを出たい!」と声に出して、主税は思わずそう叫んだ。
縄を千切って、お八重を助け出して、ここを出たい! ここを出たい!
しかし、縄は切れようともしない。
時がだんだん経って行く。
廊下に向いて立てられてある襖が、向う側から開いたのは、それから間もなくのことであった。
(来たな、頼母め!)と主税は睨んだ。
しかるに、部屋の中へ入って来たのは、赤いちゃんちゃんこを着た小猿であった。
「猿!」と主税は思わず叫んだ。
途端に、小猿は飛びかかって来た。
「こやつ!」
しかし藤八猿は、主税の体にかかっている縄を、その鋭い歯で食い切り出した。
どこからともなく口笛の音が、猿の所業を鼓舞するかのように、幽かに幽かに聞こえてきた。
第二の独楽の文字
この頃主屋の一室では、覚兵衛や勘兵衛を相手にして、松浦
「これに現われて来る文字というものが、まことにもって訳の
云い云い頼母は握っていた独楽を、畳の上で捻って廻した。幾台か立ててある燭台から、華やかな
「屋の財宝は」という五つの文字であった。
「屋の字の上へ淀という字を入れれば、淀屋の財宝はという意味になって、これはまアまア解るにしても、その後に出る文字が解らないのだ」
頼母はまた手を延ばし独楽を捻った。烈しく廻る独楽の面へは、「代々」という二つの文字と「守護す」という三つの文字と「見る日は南うしろ北」という、九つの文字とが現われた。
「この意味はまったく解らないのう?」
頼母の声は当惑していた。
「が、主税めの持っている独楽を奪い、それへ現われ出る文字と合わせたら、これらの文字の意味は解るものと思う。どっちみち淀屋の財宝についての、在場所を示したものに相違ないのだからのう」
「その主税めもうそろそろ、決心した頃かと存ぜられます」と
「誰もが命は惜しいもので。独楽は渡さぬ、配下にもならぬなどと、彼とてよもや申しますまい」
「そりゃアもう云うまでもないことで」とつづいて勘兵衛が合槌を打った。
「ましてや独楽を献上し、お殿様の配下になりさえすれば、お八重様という美しいお腰元と、夫婦になれるというのですからねえ。……が、そうなるとお殿様の方は?」と頼母の方へ厭な眼を向け、
「そうなりまするとお殿様の方は、お八重様をご断念なされるので?」
「またお
「性懲りもなく又ベラベラと」
「これは、えへ、えッヘッヘッ」
勘兵衛は亀のように首を縮めた。
覆面をしていた五人の浪人も、今は頭巾を脱ぎすてて、遥か末座に居並んで、つつましく酒を飲んでいる。
(八重! くれるには惜しい女さ)
ふと頼母はこう思った。
(が、独楽には換えられぬ。……それに主税というような、敵ながら立派な若い武士を、味方にすることが出来るのなら、女一人ぐらい何の惜しむものか)
その主税が主謀者となり、
「誰か参って主税と八重の様子を、それとなく見て参れ」
浪人たちの方へ頼母は云った。
二人の浪人が立ち上り、
「
「は」
「頂戴」
「さあさあ飲め」
賑かに盃が廻り出した。
たちまち烈しい足音が、廊下の方から聞こえてきたが、出て行った二人の浪人の中、坂本というのが走り帰って来た。
「一大事! 一大事でござりまする……主税め縄を切り八重を助け……部屋を脱け出し庭の方へ! ……本庄殿は主税に斬られ! ……拙者も一太刀、左の肩を!」
見ればなるほどその浪人の肩から、胸の方へ血が流れ出ていた。
「行け!」と頼母は吼えるように叫び、猛然として躍り上った。
「主税を捕らえろ! 八重を捕らえろ! ……手に余らば斬って捨ろ!」
一同一斉に部屋を走り出た。
独楽を奪われる
八重を小脇に引っ抱え、血に濡れた刀をひっさげて、
猿によって縛めの縄を切られ、勇躍してお八重へ走り寄り、その縛めの縄を解いた。すると、そこへ二人の武士が来た。やにわに一人を斬り伏せて、お八重を抱え廊下を走り、雨戸を蹴破り庭へ出た。
そういう山岸主税であった。
すぐに月光が二人を照らした。その月光の蒼白いなかに、二つの女の人影があったが、
「山岸様!」
「お八重様!」
と、同時に叫んで走り寄って来た。
「あッ、そなたはあやめ殿!」
「まあまああなたはお葉様か!」
主税とお八重とは驚いて叫んだ。
「事情は後から……今は遁れて! ……こっちへこっちへ!」と叫びながら、あやめは門の方へ先頭に立って走った。
後につづいて一同も走った。開けられてある門を出れば、田安家お屋敷の廓内であった。
木立をくぐり建物を巡り、
(一人二人叩っ斬ってやろう)
今まで苦しめられた鬱忿と、女たちを逃がしてやる手段としても、そうしなければなるまいと主税は咄嗟に決心した。
「拙者にかまわず三人には、早く土塀を乗り越えて、屋敷より外へお出でなされ。……拙者は
云いすてると主税は引っ返した。
「それでは
「お葉や、お前はお八重様を連れて……」
「あい。……それでは。……お八重様!」
二人の女は先へ走った。主税の正面から浪人の一人が、命知らずにも斬り込んで来た。
「怨、晴らすぞ!」と主税は喚き、片膝折り敷くと思ったが、抜き持っていた刀を横へ払った。斬られた浪人は悲鳴と共に、手から刀を氷柱のように落とし、両手で右の脇腹を抑え、やがて仆れてノタウチ廻った。
すると、その横をひた走って、あやめの方へ突き進む男があった。
「八重!
あやめをお八重と間違えたらしく、こう叫んで大手を拡げたのは、太夫元の勘兵衛であった。
「
お高祖頭巾をかなぐり捨たあやめは、
「わりゃアあやめ!」と仰天し、勘兵衛も震えながら音をあげた。
「どうしてここへ□ こんな夜中に!」――でもようやく元気を取り戻すと、
「生き返ったのよ、業が深いからのう。……あんな生温い締め方では……」
「そうか、それじゃアもう一度」
あやめの手が素早く内懐中から抜かれて、高く頭上へ振りかぶられた。瞬間「わーッ」と勘兵衛は叫び、両手で咽喉を掻きむしった。
「これでもか! これでもか! これでもか」
ピンと延びている紐を
「くたばれ! 殺す! 今度こそ殺す! ……お父様の
「山岸氏参るぞ――ッ」と、もう一人の浪人と、主税の横から迫ったのは、
「南部氏……主税は……貴殿へお任せ! ……拙者はお八重を!」と浪人へ叫び、二人の女を追っかけた。
頼母は一旦は走り出たが、部屋へ置いて来た独楽のことが、気にかかってならなかった。
それで屋敷へ取って返し、廊下を小走り部屋へ入った。
「あッ」
頼母は立縮んだ。
赤いちゃんちゃんこを着た一匹の小猿が、淀屋の独楽を両手に持ち、胸の辺りに支えて覗いているではないか。
頼母はクラクラと眼が廻った。
「…………」
無言で背後から躍りかかった。
その頼母の袖の下をくぐり、藤八猿は独楽を握ったまま、素早く廊下へ飛び出した。
「はーッ」と不安の溜息を吐き、後を追って頼母も廊下へ出た。数間の先を猿は走っている。
「はーッ」
頼母はよろめきながら追った。猿は庭へ飛び下りた。頼母も庭へ飛び下りたが、猿の姿は見えなかった。
頼母はベタベタと地へ坐った。
「取られた! ……独楽を! ……淀屋の独楽を! ……猿に! ……はーッ……猿に! 猿に!」
恋のわび住居
それから一月の日が経った。桜も散り
三間ほどある部屋のその一つ、夕陽の射している西向きの部屋に、三味線を膝へ抱え上げ、あやめが一人で坐っていた。
いつも逢うては何の恋ぞも
あやめの声には艶があった。よく慣らされている咽喉から出て、その声は細かい節となり、悩ましい初夏の午さがりを、いよいよ悩ましいものにした。
少し汗ばんでいる額の辺りへ、ばらりとほつれた前髪をかけ、薄紫の半襟から脱いた、白蝋のような頸を前に傾げ、潤いを持たせた切長の眼を、半眼にうっとりと見ひらいて、あやめは唄っているのであった。
都鳥
「主税さま、何をしておいで?」
そとから舞い込んで来たらしい、
「例によりまして例の如くで」
主税の声が襖のむこうから、物憂そうに聞こえてきた。
「あやめ殿にはご機嫌そうな、三味線を弾いて小唄をうとうて」
「そう覚しめして?」と眉と眉との間へ、縦皺を二筋深く引き、
「昼日中なんの機嫌がよくて、三味線なんか弾きましょう」
「…………」
主税からの返事は聞こえてこなかった。
「ねえ主税様」と又あやめは云った。
「心に悶えがあったればこそ、座頭の
隣室からは返事がなく、幽かな空咳が聞こえてきた。
不平そうにあやめは立ち上ったが、開けられてある障子の間から、縁側や裏庭が見え、卯の花が雪のように咲いている、垣根を越して麦や野菜の、広々とした青い畑が、数十町も
(何だろう? 人だかりがしているよ)
あやめは縁側へ出て行って、畑の中の野道の上に、十数人の男女が集まっているのへ、不思議そうに視線を投げた。
しかし距離が大分遠かったので、野道が白地の帯のように見え、人の姿が蟻のように見えるだけであった。
そこであやめは眼を移し、はるかあなたの野の涯に、起伏している小山や谷を背に、林のような木立に囲まれ、宏大な屋敷の立っているのを見た。
あやめにとっては実家であり、不思議と怪奇と神秘と伝説とで、有名な荏原屋敷であった。
あやめはしばらくその荏原屋敷を、
怪老人の魔法
野道の上に立っているのは、例の「
不思議な事件が行なわれていた。
美少年が手にした龕燈の光を、地面の一所へ投げかけていた。夕陽が強く照っている地面へ、龕燈の光など投げかけたところで、光の度に相違などないはずなのであるが、でもいくらかは違っていて、やはりそこだけが琥珀色の、微妙な色を呈していた。
と、その光の圏内へ、棒が一本突き出された。飛加藤の亜流という老人が、自然木の杖を突き出したのである。円味を帯びたその杖の先が、地面の一所を軽く突いて、一つの小さい穴をあけると、その穴の中から薄緑色の芽が、筆の穂先のように現われ出で、見る見るうちにそれが延びて、やがて可愛らしい双葉となった。
「これは変だ」「どうしたというのだ」「こう早く草が延びるとは妙だ」と、たかっていた人々は、恐ろしさのあまり飛退いた。双葉はぐんぐんと生長を続け、蔓が生え、それが延び、蔓の左右から葉が生い出でた。二尺、三尺、一間、三間!
蔓は三間も延びたのである。
と、忽然蔓の
「わッ」
人々は声をあげ、驚きと賞讃と不気味さをもって、夕顔のような白い花を、まぶしそうにふり仰いで眺めた。
「アッハッハッ、幻じゃ!
夕顔の花から二間ほど離れ、夕顔の花を仰ぎ見ながら、杖に寄っていた飛加藤の亜流は、払子のような白髯を顫わせながら、皮肉に愉快そうにそう云った。
「何で夕顔がこのように早く、このように大きく育つことがあろう! みんなケレンじゃ、みんな詭計じゃ! わしは不正直が嫌いだから、ほんとうのことを云っておく、みんなこいつはケレンじゃと。……ただし、印度の婆羅門僧は、こういうことをケレンでなく、実行するということだが、わしは一度も見たことがないから、真偽のほどは云い切れない。……しかしじゃ、皆さん、生きとし生けるものは、ことごとく愛情を基としていて、愛情あれば生長するし、愛情がなければ育たない。だからあるいはわしという人間が、特に愛情を強く持って『夕顔の花よお開き』と念じ、それだけの経営をやったなら、夕顔の花はその愛に感じ、多少は早く咲くかもしれない。……いやそれにしても
突然高く自然木の杖が、夕顔の花と向かい合い、夕焼の空へかざされた。そうしてその杖が横へ流れた途端、夕顔の蔓の一所が折れ、夕顔の花が人間の顔のように、グッタリと垂れて宙に下った。
同時に獣の悲鳴のような声が、たかっている人達の間から起こり、すぐに乾いている野道から、パッと
見れば一人の人間が、首根ッ子を両手で抑え、野道の上を、塵埃の中を、転げ廻りノタウッている。
意外にもそれは勘兵衛であった。二度までも浪速あやめによって、締め殺されたはずの勘兵衛であった。
怨める美女
その距離が遠かったので、縁に立って見ているあやめの眼には、こういう
あやめは座敷へ引き返し、
「あッ!」と主税は思わず叫んだ。
「何をなさる、これは乱暴!」
でももうその時には主税の体は、
「悪
主税は寝たままで顔を上げて見た。すぐ眼の上にあるものといえば、衣裳を通して窺われる、ふっくりとしたあやめの胸と、紫の艶めかしい半襟と、それを抜いて延びている滑らかな咽喉と、俯向けている顔とであった。
その顔の何と異様なことは! 眼には涙が溜まり唇は震え、頬の色は蒼褪め果て、まるで全体が怨みと悲しみとで、塗り潰されているようであった。そうしてその顔は主税の眼に近く、五寸と離れずに寄って来ていたので、普通より倍ほどの大きさに見えた。
「情無しのお方! 情知らずのお方!」
椿の花のような唇が開いて、雌蕊のような前歯が現われたかと思うと、咽ぶような訴えるような、あやめの声がそう云った。
「松浦
高い長い鼻筋の横を、涙の紐が伝わった。
「ねえ主税さま」とあやめは云って、
「こう貴郎さまの身近くに寄って、貴郎さまを見下ろすのは、これで二度目でございますわねえ。一度はお茶ノ水の夜の林で、覚兵衛たちに襲われて、貴郎さまがお怪我をなさいました時。……あの時妾は心のたけを、はじめてお打ち明けいたしましたわねえ……そうして今日は心の怨みを! ……でも、この次には、三度目には? ……いえいえ三度目こそは妾の方が、貴郎さまに介抱されて……それこそ本望! 女の本望! ……」
涙が主税の顔へ落ちた。しかし主税は眼を閉じていた。
(無理はない)と彼は思った。
(たとえば蛇の生殺しのような、そんな境遇に置いているのだからなあ)
一月前のことである、松浦頼母の屋敷の乱闘で、云いかわしたお八重とは別れ別れとなった。あやめの妹だという女猿廻しの、お葉という娘とも別れ別れとなった。殺されたか捕らえられたか、それともうまく遁れることが出来て、どこかに安全に住んでいるか? それさえいまだに不明であった。
三下悪党
しかし主税は田安家お長屋へ、帰って行くことは出来なかった。いずれ
そこで主税は自然の成り行きとして、浪人の身の上になってしまった。そうしてこれも自然の成り行きとして、あやめと一緒に住むようになった。
「おりを見て
あやめとしてはこういう心持から、又、一方主税としては、「淀屋の財宝と荏原屋敷とは、深い関係があるらしいから、探ってみよう」という心持から、二人合意で荏原屋敷の見える、ここの農家の
しかるに二人して住んでいる間も、主税に絶えず思い出されることは、云いかわした恋人お八重のことで、従って自ずとそれが口へ出た。そうでない時には淀屋の独楽を廻し、これまでに現われ出た文字以外の文字が、なお現われはしまいかと調べることであった。
しかしもちろん主税としては、あやめの寄せてくれる思慕の情を、解していないことはなく、のみならずあやめは自分の
(あやめの心に従わなければ……)
このように思うことさえあった。
しかし恋人お八重の生死が、凶とも吉とも
が、今になってそのあやめから、このように激しく訴えられては、主税としては無理なく思われ、心が動かないではいられなかった。
堅く眼を閉じてはいたけれど、あやめの泣いていることが感じられる。
(決して嫌いな女ではない)
なかば恍惚となった心の中で、ふと主税はそう思った。
(綺麗で、情熱的で、覇気があって、家格も血統も立派なあやめ! 好きな女だ好きな女だ! ……云いかわしたお八重という女さえなければ……)
恋人ともなり夫婦ともなり、末長く暮らして行ける女だと思った。
(しかもこのように俺を愛して!)
カッと[#「カッと」は底本では「カツと」]胸の奥の燃えるのを感じ、全身がにわかに汗ばむのを覚えた。
(いっそあやめと一緒になろうか)
悲しみを含んだ甘い感情が、主税の心をひたひたと浸した。
あやめは涙の眼を見張って、主税の顔を見詰めている。
涙の
いつか夕陽が消えてしまって、野は
横倒しになっている主税の足許に、その縁を白く
と、その独楽を睨みながら、障子の外の縁側の方へ、生垣の裾から這い寄って来る、
二つ目の独楽を持って
田安屋敷の乱闘の際に、あやめによって独楽の紐で、首を締められ一旦は死んだが、再び業強く生き返り、勘兵衛はその翌日からピンシャンしていた。
そうして今日は頼母のお供をし、頼母の弟の
淀屋の独楽さえ置いてある。
(凄いような獲物だ)と勘兵衛は思った。
(独楽を引っ攫って荏原屋敷へ駆けつけ、頼母様へ献上してやろう)
勘兵衛はこう心を
まだ痛む首根っ子を片手で抑え、別の片手を縁のふちへかけ、開いている障子の隙間から、部屋の中を窺っている勘兵衛の姿は、迫って来る宵闇の
頼母の屋敷で奪い取った、二つ目[#「二つ目」は底本では「二つの目」]の淀屋の独楽を、
(この家じゃアないかしら?)と思案しながら佇んだ。
藤八猿の着ている赤いちゃんちゃんこと、お葉の冠っている白手拭とが、もう蚊柱の立ち初めている門の、宵闇の中で際立って見えた。
(案内を乞うて見ようかしら?)
思い惑いながら佇んでいる。
田安屋敷の乱闘のおり、幸いお葉も遁れることが出来た。でも姉のあやめとも、腰元のお八重とも、姉の恋人だという山岸主税とも、一緒になれずに一人ぼっちとなった。
(姉さんが恋しい、姉さんと逢いたい。主税様の行方が解ったら、姉さんの行方も解るかも知れない)
ふとお葉はこう思って、今日の昼こっそり田安家のお長屋、主税の屋敷の方へ行ってみた。すると幸いにも主税の親友の、
「馬込のこうこういう百姓家の
主税にとって鷲見与四郎は、親友でもあり同志でもあった。――頼母の勢力を覆えそうとする、その運動の同志だったので、与四郎へだけは自分の住居を、主税はそっと明かしていたのであった。
聞かされたお葉は躍り上って、すぐに馬込の方へ足を向け、こうして今ここへやって来たのであった。
(この家らしい)とお葉は思った。
(考えていたって仕方がない。案内を乞おう、声をかけてみよう。……いいえそれより藤八を舞わして、座敷の中へ入れてみよう)
お葉は肩から藤八猿を下ろした。
藤八猿は二つ目の淀屋の独楽を、大切そうに手に持ったまま、地面へヒラリと飛び下りた。
藤八猿はこの独楽を手に入れて以来、玩具のようにひどく気に入っていると見え、容易に手放そうとはしないのである。
「今日の最後の芸当だよ、器用に飛び込んで行って舞ってごらん」
人間にでも云い聞かせるように云って、お葉は土間へ入って行った。
蝋燭の燈の下で
「お猿廻しましょう」と声がかかり、赤いちゃんちゃんこを着た藤八猿が、奥の部屋へ毬のように飛び込んで来たので主税とあやめとははっとした。
「まあ藤八だよ!」と叫んだのは、襟を掻き合わせたあやめであり、
「独楽を持っている、淀屋の独楽を!」と、つづいて叫んだのは主税であった。
その前で藤八猿は独楽を持ったまま、綺麗に
「捕らえろ! 捕らえて淀屋の独楽を!」
二人が藤八猿を追っかけると、猿は驚いて門口の方へ逃げた。それを追って門口まで走った……
と、土間の宵闇の中に、女猿廻しが静かに立っていた。
「ま、やっぱりあやめお姉様!」
「お前は妹! まアお葉かえ!」
この頃勘兵衛は野の道を、荏原屋敷の方へ走っていた。
(こいつを頼母様へ献上してみろ、俺、どんなに褒められるかしれねえ。……それにしてもあやめと主税とが、あんな所に住んでいようとは。……頼母様にお勧めして、今夜にも捕らえて処刑してやらなけりゃア。……)
飛加藤の亜流という老人も、それにたかっていた人々も、とうに散って誰もいない野の道を、小鬼のように走りながら、そんなことを思っているのであった。
空には星がちらばってい、荏原屋敷を囲んでいる森が、遥かの行手に黒く見えていた。
やがてこの夜も更けて真夜中となった。
と、荏原屋敷の一所に、ポッツリ蝋燭の燈が点った。
森と、土塀と、植込と、三重の囲いにかこわれて、大旗本の下屋敷かのように、荏原屋敷の建物が立っていた。歴史と
その屋敷の一所に、蝋燭の燈が点っているのであった。
四方を木々に囲まれながら、一宇の
独楽は勘兵衛が今日の宵の口に、主税とあやめとの住居から奪い、頼母に献じたその独楽で、この独楽を頼母は手に入れるや、部屋で即座に廻してみた。幾十回となく廻してみた。と、独楽の蓋にあたる箇所へ、次々に文字が現われて来た。
「淀」「荏原屋敷」「に有りて」「飛加藤の亜流」等々という文字が現われて来た。……でももうそれ以上は現われなかった。ではどうしてこんな深夜に、庭の亭の卓の上などで、改めて独楽を廻すのだろう?
それは荏原屋敷の伝説からであった。
伝説によるとこれらの亭は、荏原屋敷の祖先の高麗人が、高麗から持って来たものであり、それをここへ据え付ける場合にも、特にその卓の面は絶対に水平に、据えられたと云い伝えられていた。そういう意味からこの亭のことを、「水平の亭」と呼んで、遥かあなたに杉の木に囲まれた「
まだ解けぬ謎
「絶対に水平のあの卓の上で、淀屋の独楽をお廻しになったら、別の文字が現われはしますまいか」
ふと気がついたというように、深夜になって頼母へそう云ったのは、主馬之進の妻の松女であった。
「なるほど、それではやってみよう」
でも卓の上で廻しても、独楽の面へ現われる文字は、あれの他には何もなかった。
「駄目だのう」と頼母は云って、落胆したように顔を上げた。
「あれ以上に文字は現われないのであろうよ。……この独楽に現われたあれらの文字と、以前にわしの持っていた独楽へ現われた文字、それを一緒にして綴ってみようではないか。何らかの意味をなすかもしれない」
「それがよろしゅうございましょう」
こう云ったのは主馬之進であった。主馬之進は頼母の弟だけに、頼母にその容貌は酷似していたが、俳優などに見られるような、厭らしいまでの色気があって、
「この独楽へ現われた文字といえば『淀』『荏原屋敷』『有りて』『「飛加藤の亜流』という十五文字だし、
「飛加藤の亜流とは何でしょう?」
主馬之進の妻の松女が訊いた。
彼女はもう四十を過ごしていた。でも美貌は失われていなかった。大旗本以上の豪族であるところの、荏原屋敷の主婦としての貫禄、それも体に備わっていた。あやめやお葉の母親だけあって、品位なども人に立ち勝っていた。が、蝋燭の燈に照らされると、さすが小鼻の左右に深い
「飛加藤の亜流と申すのはな」と、頼母は松女を見い見い云った。
「白昼に龕燈をともしなどして、奇行をして世間を歩き廻っている、隠者のような老人とのことで。……勘兵衛めがそう云いましたよ。今日も夕方この近くの野道で、怪しい行ないをいたしましたとかで……」
「その飛加藤の亜流とかいう老人が、代々財宝を守護するなどと、文字の上に現われました以上は、その老人を捕らえませねば……」
「左様、捕らえて糺明するのが、万全の策には相違ござらぬが、その飛加藤の亜流という老人、どこにいるのやらどこへ現われるのやら、とんと我らにしれませぬのでな」
「それより……」と主馬之進が口を出した。
「『見る日は南』という訳のわらぬ文句が、隠語の中にありまするが、何のことでございましょうな?」
「それがさ、わしにも
「この文句だけが独立して――他の文句と飛び離れて記されてあるので、何ともわしにも意味が解らぬ。……だがしかしそれだけに、この文句の意味が解けた時に、淀屋の財宝の真の在場所が、解るようにも思われる……」
「三つ目の淀屋の独楽を目つけ出し、隠語を探り知りました時、この文句の意味も自ずから解けると、そんなように思われまするが」
「そうだよそうだよわしもそう思う。が、三つ目の淀屋の独楽が、果たしてどこにあるものやら、とんとわしには解らぬのでのう」
三人はここで黙ってしまった。
屋敷の構内に古池でもあって、そこに
と、ふいにこの時
三人はハッとして顔を見合わせた。と、すぐに悲鳴が聞こえ、つづいて物の仆れる音がした。三人は思わず立ち上った。
するとこの亭を
母娘は逢ったが
「曲者だ!」
「追え!」
「それ向こうへ逃げたぞ!」
「斬られたのは近藤氏じゃ」
こんな声が聞こえてきた。そうして覚兵衛と勘兵衛とが、
「行ってみよう」と頼母は云って、榻から立ち上って歩き出した。
「それでは私も」と主馬之進も云って兄に続いて亭を出た。
亭には一人松女だけが残った。
松女は寂しそうに卓へ倚り、両の肘を卓の上へのせ、その上へ顔をうずめるようにし、何やら物思いに耽っていた。燃え尽きかけている蝋燭の燈が、白い細い
といつの間に現われたものか、その松女のすぐの
猿廻し姿のお葉であった。じっと松女を見詰めている。その様子が何となく松女を狙い、襲おうとでもしているような様子で……
と、不意にお葉の片手が上り、松女の肩を抑えたかと思うと、
「お母様!」と忍び音に云った。
松女はひどく驚いたらしく、顔を上げると、
「誰だえ□」と訊いた。
「お母様、わたしでございます」
「お母様だって? このわたしを! まアまアまア失礼な! 見ればみすぼらしい猿廻しらしいが、夜ふけに無断にこんな所へ来て、わたしに向かってお母様などと! ……怪しいお人だ、人を呼ぼうか!」
「お母様、お久しぶりねえ」
「…………」
「お別れしたのは十年前の、雪の積もった日でございましたが、……お母様もお変わりなさいましたこと。……でも
「お葉□」
それは
「ほんに……お前は……おお……お葉だ! お葉だ!」
グラグラと体が傾ぎ、前のめりにのめったかと思うと、もう
「不孝者! お葉! だいそれた不孝者! 親を捨て家出をして! ……」
やがて松女の感情の籠った、途切れ途切れの声が響いた。
「でも……それでも……とうとうお葉や、よく帰って来ておくれだったねえ。……どこへもやらない、どこへもやらない! 家に置きます。
「お母様!」と、お葉は烈しく云った。
「あのお部屋へ参ろうではございませんか!」
「何をお云いだ、え、お葉や! あのお部屋へとは、お葉やお葉や!」
「あのお部屋へ参ろうではございませんか。……あのお部屋へお母様をお連れして、懺悔と浄罪とをさせようため、十年ぶりにこのお葉は、帰って来たのでございます!」
「お葉、それでは、それではお前は?」
「知っておりました、知っておりました! 知っておればこそこのお葉は、この罪悪の巣におられず、家出をしたのでございます!」
「そんな……お前……いえいえそれは!」
「悪人! 姦婦! 八ツ裂きにしてやろうか! ……いえいえいえ、やっぱりお母様だ! ……わたしを、わたしを、いとしがり可愛がり、
「いいえ妾は……いいえこの手で……」
「存じております、何のお母様が、何の悪行をなさいましたものか! ……ただお母様はみすみすズルズルと、引き込まれただけでございます。……ですから妾は申しております。懺悔なされて下さりませと……」
「行けない、妾は、あの部屋へは! ……あの時以来十年もの間、雨戸を閉め切り開けたことのない、あの建物のあのお部屋なのだよ。……堪忍しておくれ、妾には行けない!」
恋と敵のあいだ
「おお、まアそれではあのお部屋は、十年間
「復讐? お葉や、復讐とは?」
「わたしにとりましては実のお父様、お母様にとりましては最初の
「ヒエーッ、それでは主馬之進を!」
「お父様を殺した主馬之進を殺し、お父様の怨みを晴らすのさ。……さあお母様参りましょう!」
お葉は、
この頃亭から少し離れた、閉扉の館の
主税が片手に握っているものは、血のしたたる抜身であった。
それにしてもどうして主税やあやめや、お葉までが荏原屋敷へ、この夜忍び込んで来たのであろう?
自分たちの持っていた淀屋の独楽は何者かに奪われてしまったけれど、藤八猿から得た独楽によって、幾行かの
そこで主税はその隠語を、
あやめはあやめで又思った。
(
双方の
さて三人忍び込んでみれば、天の助けというのでもあろうか、頼母がい、勘兵衛がいた。
(よし、それでは次々に、機をみて討って取ってやろう)
木陰に隠れて
と、構え内を警護していた、頼母の家来の覆面武士の一人に、見現わされて誰何された。主税はその覆面武士を、一刀の下に斬り仆した。と、大勢がこの方面へ走って来た。主税はあやめを引っ抱えて、木立の陰へ隠れたのであるが、どうしたのかお葉は一人離れて、亭の方へ忍んで行った。声をかけて止めようと思ったが、声をあげたら敵の者共に、隠れ場所を知られる不安があった。そこで二人は無言のまま見過ごし、ここに忍んでいるのであった。……
二人の眼前にみえているものは、主税に斬り仆された覆面武士を囲んで、同僚の三人の覆面武士と、頼母と主馬之進と飛田林覚兵衛と、絞殺したはずの勘兵衛とが、佇んでいる姿であった。
飛び出していって斬ってかかることは、二人にとっては何でもなかったが、敵は大勢であり味方は二人、返り討ちに遇う心配があった。
二人は
閉扉の館
「曲者を探せ!」という烈しい怒声が、頼母の口からほとばしったのは、それから間もなくのことであった。
俄然武士たちは四方へ散った。そして二人の覆面武士が主税たちの方へ小走って来た。
「居たーッ」と一人の覆面武士が叫んだ。
だがもうその次の瞬間には、躍り上った主税によって、斬り仆されてノタウッていた。
「
そこを横からあやめが突いた。
その武士の仆れるのを後に見捨て、
「主税様、こっちへ」と主税の手を引き、あやめは木立をくぐって走った。……
案内を知っている自分の屋敷の、木立や茂や築山などの多い――障害物の多い構内であった。
あやめは逃げるに苦心しなかった。木立をくぐり藪を巡り、建物の陰の方へあやめは走った。
とうとう建物の裏側へ出た。二階づくりの古い建物は、杉の木立を周囲に持ち、月の光にも照らされず、黒い一塊のかたまりのように、静まり返って立っていた。
それは
と、建物の一方の角から、数人の武士が現われた。
飛田林覚兵衛と頼母と家来の、五人ばかりの一団で、こちらへ走って来るらしかった。
すると、つづいて
主税とあやめとは振り返って見た。
十数人の姿が見えた。
主馬之進と勘兵衛と、覆面の武士と屋敷の
一方には十年間開いたことのない、閉扉の館が城壁のように、高く険しく立っている。そしてその反対側は古沼であった。
泥の深さ底が知れず、しかも
逃げようにも逃げられない。
敵を迎えて戦ったなら、大勢に無勢殺されるであろう。
(どうしよう)
(ここで死ぬのか)
(おお、みすみす返り討ちに遇うのか)
その時何たる不思議であろう!
閉扉の館の裏の門の扉が、内側から自ずとひらいたではないか!
二人は夢中に駆け込んだ。
すると、扉が内側から、又自ずと閉ざされたではないか。
屋内は真の闇であった。
死ぬ運命の二人
「不思議だな、消えてしまった」
抜いた刀をダラリと下げて、さも審しいというように、頼母はこう云って主馬之進を眺めた。主馬之進も抜き身をひっさげたまま、これも審しいというように、
「一方は閉扉の館、また一方は底なしの古沼、前と
「沼へ落ちたのではございますまいか?」
覚兵衛が横から口を出した。
「沼へ落ちたのなら水音がして、あっしたちにも聞こえるはずで」と勘兵衛が
「ところが水音なんか聞こえませんでしたよ。……天に昇ったか地にくぐったか、面妖な話ったらありゃアしない」
「主馬!」と頼母は決心したように云った。
「主税とあやめとの隠れ場所は、閉扉の館以外にはないと思うよ。
「兄上! しかし、そればかりは……」と主馬之進は夜眼にも知られるほどに、顔色を変え胴顫いをし、
「ご勘弁を、平に、ご勘弁を!」
「覚兵衛、勘兵衛!」と頼母は叫んだ。
「この館の戸を破れ!」
「いけねえ、殿様ア――ッ」と勘兵衛は喚いた。
「そいつア
「臆病者揃いめ、
飛田林覚兵衛はその声に応じ、閉扉の館の戸へ躍りかかった。
が、戸は容易に開かなかった。
「方々お手伝い下されい」
覚兵衛はそう声をかけた。
覆面をしている頼母の家来たちは、すぐに覚兵衛に手を貸して、館の戸を破りだした。
この物音を耳にした時、屋内の闇に包まれていた主税とあやめとはハッとなった。
「主税様」とあやめは云った。
「頼母や主馬之進たちが戸を破って……」
「うむ、乱入いたすそうな。……そうなってはどうせ切り死に……」
「切り死に? ……
亡魂の招くところ
たちまちふいに闇の部屋の中へ、一筋の薄赤い光が射した。
(あっ)と二人ながら驚いて、光の来た方へ眼をやった。
奥の部屋を境している襖があって、その襖が細目に開いて、そっちの部屋にある
「
「あけずの館に燈火の光が! ……では誰かがいるのです! ……恐ろしい、おおどうしよう!」
主税も恐怖を
「そういえば閉扉の館の戸が、内から自ずと開きましたのも、不思議なことの一つでござる。……そこへ燈火の光が射した! ……いかにも、さては、この古館には、何者か住んで居るものと見える! ……どっちみち助からぬ二人の命! ……敵の手にかかって殺されようと、怪しいものの手にかかって殺されようと、死ぬる命はひとつでござれば、怪しいものの正体を……」と主税はヌッと立ち上った。
「では
でも二人が隣部屋へ入った時には、薄赤い光は消えてしまった。
(さては心の迷いだったか)
(わたしたちの眼違いであったのかしら)
二人は茫然と闇の中に、手を取り合って佇んだ。この間も戸を破る烈しい音が、二人の耳へ聞こえてきた。
と、又も同じ光が、廊下をへだてている襖の隙から、幽かに薄赤く射して来た。
(さては廊下に!)
あやめと主税とは、夢中のようにそっちへ走った。
しかし廊下へ出た時には、その光は消えていた。
が、廊下の一方の詰の、天井の方から同じ光が、気味悪く朦朧と射して来た。
二階へ登る階段があって、その頂上から来るらしかった。
二人はふたたび夢中の様で、階段を駈け上って二階へ登った。しかし二階へ上った時には、その光は消えていて、闇ばかりが二人の
悪漢毒婦の毒手によって、無残に殺された男の
こう思えば思われる。
これが二人を怯かしたのである。
「主税様
あやめは前歯を鳴らしながら云った。
「うむ」と主税も呻くように云った。
「亡魂などにたぶらかされ、うろついて生恥さらすより、斬り死にしましょう、斬り死にしましょう」
階段の方へ足を向けた。
すると、又も朦朧と、例の薄赤い燈火の光が、廊下の方から射して来た。
「あッ」
「又も、執念深い!」
今は主税は恐怖よりも、烈しい怒りに駆り立てられ、猛然と廊下へ突き進んだ。
その後からあやめも続いた。
しかし、廊下には燈火はなく、堅く閉ざされてあるはずの雨戸の一枚が、細目に開けられてあるばかりであった。
二人はその隙から
三階造りの頂上よりも高く、特殊に建てられてある閉扉の館の、高い高い二階から眺められる夜景は、随分美しいものであった。主屋をはじめ諸々の建物や、おおよその庭木は眼の下にあった。土塀なども勿論眼の下にあった。月は澄みきった空に漂い、その光は
庭上の人影
間もなく死ぬ運命の二人ではあったが、この美しい夜の景色には、うっとりとせざるを得なかった。
ふいにあやめが驚喜の声をあげた。
「まア梯子が! ここに梯子が!」
いかさま廊下の欄干ごしに、一筋の梯子が懸かっていて、それが地にまで達していた。
それはあたかも二人の者に対して、この梯子をつたわって逃げ出すがよいと、そう教えてでもいるようであった。
「いかにも梯子が! ……天の与え! ……それにしても何者がこのようなことを!」
主税も驚喜の声で叫んだ。
「不思議といえば不思議千万! ……いやいや不思議といえばこればかりではない! ……
「きっと誰かが……お父様の霊が、……わたしたちの運命をお憐れみ下されて、それで様々の不思議を現わし、救って下さるのでございましょうよ。……さあ主税様、この梯子をつたわり、ともかくも戸外へ! ともかくも戸外へ!」
「まず
「あい」とあやめは褄をかかげ、梯子の桟へ足をかけた。
「あッ、しばらく、あやめよお待ち! ……何者かこっちへ! 何者かこっちへ!」
見れば月光が蒼白く明るい、眼の前の庭を二つの人影が、組みつほぐれつ、追いつ追われつしながら、梯子の裾の方へ走って来ていた。
二人は素早く雨戸の陰へかくれ、顔だけ出して窺った。
夜眼ではあり遠眼だったので、庭上の人影の何者であるかが、主税にもあやめにもわからなかったが、でもそれはお葉と松女なのであった。
「さあお母様あの館で――十年戸をあけないあけずの館で、懺悔浄罪なさりませ! ……あの館のあの二階で、御寝なされていたお父様の臥所へ、古沼から捕った毒虫を追い込み、それに噛せてお父様を殺した……罪悪の巣の館の二階で、懺悔なさりませ懺悔なさりませ!」
母の松女の両手を掴み、引きずるようにして導きながら、お葉は館の方へ走るのであった。
行くまいともがく松女の姿は、捻れ捩れ痛々しかった。
「お葉やお葉や堪忍しておくれ、あそこへばかりは
しかし二人が閉扉の館の、裾の辺りまで走りついた時、二人ながら「あッ」と声をあげた。
二階の雨戸が開いており、梯子がかかっているからであった。
「あッあッ雨戸が開いている! ……十年このかた開けたことのない、閉扉の館の雨戸が雨戸が! それに梯子がかかっているとは!」
松女は梯子の根元の土へ、恐怖で、ベッタリ仆れてしまった。
その母親の
しかし直ぐお葉は躍り上って叫んだ。
「これこそお父様のお導き! お父様の霊のお導き! ……妻よここへ来て懺悔せよと、怒りながらも愛しておられる、お父様の霊魂が招いておる証拠! ……そうでなくて何でそうも厳重に、十年とざされていた閉扉の館の、雨戸が自然と開きましょうや! ……梯子までかけられてありましょうや!」
母親の手をひっ掴み、お葉は梯子へ足をかけた。
「お母様!」と松女を引き立て、
「さあ一緒に、一緒に参って、お父様にお逢いいたしましょう! いまだに浮かばれずに迷っておられる、悲しい悲しいお父様の亡魂に!」
月下の殺人
「お葉かえ!」とその途端に、二階から女の声がかかった。
お葉は無言で二階を見上げた。
欄干から半身をのり出して、あやめが下を見下ろしている。
「あッ、お姉様! どうしてそこには?」
しかしあやめはそれには答えず、松女の姿へじっと眼をつけ、
「お葉やお葉や、そこにいるのは?」
「お母様よ! お姉様!」
「お母様だって?
「…………」
「良人殺しの松女という女かえ!」
「…………」
「よくノメノメとここへは来られたねえ」
「いいえお姉様」とお葉は叫んだ。
「わたしがお母様をここまで連れて……」
「お前がお母様を? 何のために?」
「お父様を殺したあのお部屋へ、お母様をお連れして懺悔させようと……」
「その悪女、懺悔するかえ?」
「あやめや!」とはじめて松女は叫んだ。
連続して起こる意外の出来事に、今にも発狂しようとして、やっと正気を保っている松女が、
「あやめや……お前までが……この屋敷へ! ……いいえいいえ生みの家へ……おおおお帰っておいでだったのか! ……あやめや、あんまりな、あんまりな言葉! ……悪女とは! 懺悔するかえとは! ……わたしは、あれから、毎日々々、涙の乾く暇もないほどに、後悔して後悔して……」
「お黙り!」と絹でも引裂くような声が、――あやめの声が遮った。
「わたしは
「あやめや、それも恐ろしいからだよ。……あのお方の怨みが恐ろしく、わたしの罪業が恐ろしく、その館が恐ろしく……」
「おおそうとも、恐ろしいとも! この館は今も恐ろしいのだ! ……恐ろしいのも色々だが、今のこの館の恐ろしさは、又もやむごたらしい人殺しが、行なわれようとしていることさ!」
「また人殺しが? 誰が、誰を?」
「お前さんの良人の主馬之進と、主馬之進の兄の松浦頼母とが、たくさんの眷族をかたらって、わたしとわたしの恋しい人とを、この館へとりこめて、これから殺そうとしているのさ。……お聞き、聞こえるだろう、戸をこわしている音が! ……館の裏の戸をぶちこわして、この館へ乱入し、わたしたちを殺そうとしているのさ! ……あッ、しめた! いいことがある! ……お葉やお葉やその女を捉え、ここへおよこし、引きずり上げておくれ! 人質にするのだよその女を! ……もう大丈夫だ、殺されっこはない。その女を人質に取っておいたら、いかな主馬之進や頼母でも、わたしたちを殺すことは出来ないだろうよ。……」
松女の腕を
松女を中へ取り籠めて、あやめとお葉と主税とが、刀や短刀を抜きそばめ、闇の二階の部屋の中に、息を殺して突立ったのは、それから間もなくのことであった。
裏戸の破られた音が聞こえた。
乱入して来る足音が聞こえた。
間もなく階段を駈け上る、数人の足音が聞こえてきた。
「よし降り口に待ちかまえていて……」と、主税は云いすて三人を残し、階段の降り口へ突進して行った。
頼母の家来の一人の武士が、いつの間に用意したか弓張提燈をかかげて、階段を駆け上り姿を現わした。
その脳天を真上から、主税は一刀に斬りつけた。
わッという悲鳴を響かせながら、武士は階段からころがり落ちた。
「居たぞ!」
「二階だ!」
「用心して進め!」
声々が階下から聞こえてきた。
さまよう娘
この頃植木師の一隊が、植木車を数台囲み、荏原屋敷の土塀の外側を、山の手の方へ進んでいた。車には植木が一本もなかった。
どこかのお屋敷へ植木を植えて、車をすっかり空にして、自分たちの本拠の秩父の山中へ、今帰って行く途中らしい。
二十人に近い植木師たちは、例によって袖無しに伊賀袴を穿き、山岡頭巾をかむった姿で、粛々として歩いていた。
その中に一人女がいた。意外にもそれはお八重であった。
やはり袖無しを着、伊賀袴を穿き、山岡頭巾をかむっている。
肩を落とし、首を垂れ、
松浦頼母の一味によって、田安様お屋敷の構内で、お八重もあのとおり迫害されたが、でも辛うじて構内から遁れた。すると、そこに
彼女は植木師たちに助けを乞うた。植木師たちは承知して、彼女に彼らの衣裳を着せ、追って来た頼母の家来たちの眼を、巧みにくらませて隠してくれた。
それからというもの彼女はその姿で、植木師たちと一緒に住み、植木師たちと一緒に出歩き、恋人主税の行方を探し、今日までくらして来たのであった。
主税もお葉もその姉のあやめも、無事に田安邸から遁れ出たという、そういう消息は人伝てに聞いたが、どこに主税が居ることやら、それはいまだに解らなかった。
植木師たちの本拠は秩父にあったが、秩父から直接植木を運んで、諸家へ植え込みはしないのであった。
まず秩父から運んで来て、本門寺つづきの丘や谷に、その植木をとりこにして置き――そこが秩父の出店なのであるが――そこから次々に植木を運んで、諸家へ納めるようにしているのであった。ところがとりこにして置いたたくさんの植木が、今日ですっかり片付いてしまった。
そこで彼らは本拠の秩父へ、今夜帰って行くことにし、今歩いているのであった。……
(わたしには他に行くところはない。わたしも秩父へ行くことにしよう)
お八重はこう悲しく心に決めて、彼らと一緒に歩いているのであった。
(主税様はどこにどうしておられるやら。……)
思われるのは恋人のことであった。
ほとんど江戸中残るところなく、主税の行方を探したのであったが、けっきょく知ることが出来なかった。
秩父山中へ行ってしまったら、――又、江戸へでる機会はあるにしても、秩父山中にいる間は、主税を探すことは出来ないわけであって、探すことさえ出来ないのであるから、まして逢うことは絶対に出来ない。
このことが彼女には悲しいのであった。
(いっそ江戸へ残ろうかしら?)
でも一人江戸へ残ったところで、
奉公をすれば奉公先の屋敷へ、体をしばられなければならないし、と云ってまさかに門付などになって、人の家の門へなどは立てそうもなかった。
(わたしには主税様は諦められない)
月光が霜のように地面を明るめ、彼女の影や植木師たちの影を、長く細く曳いていた。
荏原屋敷の土塀に添って、なお一行は歩いていた。
と、土塀を抜きん出て、植込がこんもり茂っていたが、その植込の葉の陰から、何物か躍り出して宙を飛び、お八重の肩へ飛び移った。
「あれッ」とさすがに驚いて、お八重は悲鳴をあげ飛び上ったが、そのお八重の足許の地面へ、お八重の肩から飛び下りた物が、赤いちゃんちゃんこを着た小猿だったので、お八重は驚きを繰り返して叫んだ。
「まア、お前は藤八じゃアないかえ!」
さよう、それはお葉の飼猿、お八重もよく知っている藤八猿であった。
奇怪な邂逅
藤八猿が居るからには、持主のお葉がいなければならない。――とお八重はそう思った。お葉に逢って訊ねたならば、恋人主税のその後の
(このお屋敷の土塀を越して、藤八猿は来たはずだった!)
裾にまつわる藤八猿を、自由に裾にまつわらせながら、お八重は荏原屋敷の土塀を見上げた。土塀を高くぬきん出て、繁った植込の枝や葉が建物の姿を隠している。
(人声や物音がするようだが?)
(何か間違いでも起こったのかしら?)
(それとも
なおもお八重は聞き澄ました。物音は間断なく聞こえてくる。
主税の
(妾、屋敷内へ入って行ってみようか?)
でもどこから入れるだろう? 土塀を乗り越したら入れるかもしれない。
けれどそんなことをしているうちに、植木師の一隊は彼女を見捨て秩父山中へ行ってしまうにちがいない。
現に彼女が思案に余って、土塀を眺めて佇んでいる間に、植木師の一隊は彼女から離れて、一町も先の方を歩いているのだから。……
(どうしよう? どうしたらよかろう?)
地団太を踏みたい心持で、彼女は同じ所に立っていた。
でも、間もなく彼女の姿が、土塀に上って行くのが見えた。
恋人の消息が知れるかも知れない。――この魅力が荏原屋敷へ、彼女をとうとう引き入れたのであった。
月光に照らされたお八重の姿が、
高い二階建ての館の二階へ、地上から梯子がかかってい、閉ざされている鎧のような雨戸が、一枚だけ開いている。そうして館の裏側と、館の屋内から人声や物音が、間断なく聞こえてくるようであった。
(やはり何か事件が起こっているのだよ)
お八重は二階を見上げながら、しばらく
すると、あけられてある雨戸の隙から、薄赤い
飛加藤の亜流は雨戸の隙から出て、梯子をソロソロと降り出した。
飛加藤の亜流が地へ下り立ち、お八重と顔を合わせた時、お八重の口から迸しり出たのは、「叔父様!」という言葉であった。
「姪か、お八重か、苦労したようだのう」
飛加藤の亜流はこう云って、空いている片手を前へ出した。
お八重はその手へ縋りついたが、
「叔父様、どうしてこのような所に……」
「わしは飛加藤の亜流なのだよ、どのような所へでも入り込まれるよ。……お前の父親、わしの実兄の、
「まあ叔父様、そのようなことまで……」
「わしは飛加藤の亜流なのだよ、どのようなことでも知っている……」
「では、叔父様には、淀屋の独楽の――
「
「最後の一個は? 叔父様どこに?」
「それは云えぬ、今は云えぬ! ……勿論わしは知っているが」
聞こえる歌声
「では叔父様、独楽にまつわる、淀屋の財宝の所在も?」
「淀屋の財宝を守護する者こそ、この飛加藤の亜流なのだよ」
「…………」
「この荏原屋敷の先代の主人は、わしの教の弟子なのじゃ。そうして淀屋の財宝は、この荏原屋敷に隠されてあるのじゃ。淀屋の財宝の所在について、わしの知っているのは当然であろう」
「…………」
「おいで、お八重」と飛加藤の亜流は云って、館を巡って歩き出した。
「眼には眼をもって、歯には歯をもって……因果応報の恐ろしさを、若いお前に見せてあげよう」
お八重は飛加藤の亜流の後から、胸を踊らせながら
この頃館の裏口では、頼母と主馬之進とが不安そうに、破壊された戸口から
そこへ屋内から走り出して来たのは、
「大変なことになりましてございます。
大息吐いて注進する後から、お
「坂本様も宇津木殿も、斬り仆されましてございます。とてもこいつア
「ナニ家内が捕虜にされた□」とさすがの主馬之進も仰天したらしく、
「それは一大事うち捨ては置けない! ……方々お続き下されい!」と屋内へ夢中で駈け込んだ。
「では拙者も」と、それにつづいて覚兵衛が屋内に駈け込めば、
「それじゃアあっしももう一度」と勘兵衛も意気込んで駈け込んだ。
(夫婦の情愛は別のものだな)と後に残った頼母は呟き、戸口から屋内を覗き込んだ。
(臆病者の主馬ではあるが、女房が敵の手に捕らえられたと聞くや、阿修羅のように飛び込んで行きおった。……ところで
頼母にとっては
で、危険な屋内などへは、入って行く気にはなれないのであった。
太刀音、掛け声、悲鳴などが、いよいよ烈しく聞こえてはきたが、頼母ばかりはなお門口に立っていた。
するとその時老人の声が、どこからともなく聞こえてきた。しかもそれは歌声であった。
(はてな?)と頼母は聞き耳を立てた。
そうしてその歌声は林の奥の、古沼の方から聞こえてくる。
「見る日は南と云ったようだな」と頼母は思わず声に出して云った。
(見る日は南というこの言葉は、独楽の隠語の中に有ったはずだ。その言葉を詠み込んだ歌を歌うからには、その歌の意味を知っていなければならない)
頼母は歌の聞こえた方へ、足を空にして走って行った。
歌の主を引っ捕らえ、歌の意味を
歌声は林に囲繞された大古沼の方から聞こえてきた。
頼母は林の中へ走り込んだ。
でも林の中には人影はなく、
秘密は解けたり!
そうして林の一方には、周囲五町もある大古沼が、葦だの萱だのに岸を茂らせ、水面に浮藻や落葉を浮かべ、曇った鏡のように月光に光り、楕円形に広がっていた。そうして沼の中央に在る、岩で出来ている小さい島の、岩の頂にある小さい祠が、鳥の形に見えていた。
でも人影はどこにもなかった。失望して頼母は佇んだ。
と、又もや歌声が、行手の方から聞こえてきた。
(さてはむこうか)と頼母は喜び、
茨と灌木と蔓草とで出来た、小丘のような藪があったが、その藪の向こう側から、男女の話し声が聞こえてきた。
(さては?)と頼母は胸をドキつかせ、藪の横から向こう側を覗いた。
一人の娘と一人の老人とが、草に坐りながら話していた。
老人は白髪白髯の、神々しいような人物であったが、しかしそれは一向見知らない人物であった。しかし、女の方はお八重であった。田安中納言家の腰元で、そうして自分が想いを懸けた、その美しいお八重であった。
(これは一体どうしたことだ。こんな深夜にこんな所に、お八重などがいようとは?)
夢に夢見る心持で、頼母は一刹那ぼんやりしてしまった。
しかし、老人の膝の
(独楽がある! 淀屋の独楽が! 三つ目の独楽に相違ない!)
この時老人が話し出した。
「ね、この独楽へ現われる文字は『真昼頃』という三つの文字と『
「でも、そんな和歌が淀屋の財宝と、どんな関係があるのでございます?」と好奇心で眼を輝かせながら、お八重は息をはずませて訊いた。
「淀屋の財宝の
「ではどこかの中央に?」
「この屋敷の中央に?」
「この屋敷の中央とは?」
「荏原屋敷は大昔においては、沼を中央にして作られていたものさ」
「まア、では、財宝は古沼の中に?」
「沼の中央は岩の小島なのさ」
「まア、では、沼の小島の内に?」
「小島の中央は祠なのだ」
「では淀屋の財宝は祠の中に隠されてあるのね」
「そうだ」と老人は感慨深そうに云った。
「そうしてそのことを知っている者は、荏原屋敷の先代の主人と、この飛加藤の亜流だけなのさ。そうしてそのことを記してあったのは、三つの淀屋の独楽だけだったのさ。その独楽は以前には三つながら、荏原屋敷にあったのさ。ところがいつの間にか三つながら、荏原屋敷から失われてしまった。だがその中の一つだけは、ずっとわしが持っていた。……それにしても淀屋の独楽を巡って、幾十人の者が長の年月、悲劇や喜劇を起こしたことか。……でも、いよいよ淀屋の独楽が、一所に集まる時期が来た。……お八重、わしに
地上の独楽を懐中に納め、龕燈を取り上げて飛加藤の亜流は、やおら草から立ち上った。
お八重もつづいて立ち上ったが、
「でも叔父様、船もないのに、沼を渡って、どうして小島へ……」
因果応報
「ナーニ、わしは飛加藤の亜流だよ。どんなことでも出来る人間だよ。そうしてわしに
二人は沼の方へ歩いて行った。
藪の陰に佇んで、見聞きしていた頼母は太い息を吐き、
「さてはそういう事情だったのか」と声に出して呟いた。
(淀屋の独楽の隠語は解けた。淀屋の財宝の在場所も知れた)
このことは頼母には有り難かったが、飛加藤の亜流とお八重とが揃って、財宝の所在地へ行くということが、どうにも不安でならなかった。
(財宝を二人に持ち出されては、これまでの苦心も水の泡だ)
こう思われるからであった。
(俺も沼の中の島へ行こう)
――頼母は飛加藤の亜流の後を追い、沼の方へ小走った。
頼母が沼の縁へ行きついた時、彼の眼に不思議な光景が見えた。
月光に薄光っている沼の上を、飛加藤の亜流という老人が、植木師風のお八重を連れ、まるで平地でも歩くように、悠々と歩いて行くのであった。重なっていた浮藻が左右に別れ、水に浮いて眠っていた鴨の群が、これも左右に別れるのさえ見えた。
(水も泥も深い沼だのに、どうして歩いて行けるのだろう?)
超自然的の行動ではなくて、水中に堤防が作られていて、陸からはそれが見えなかったが、飛加藤の亜流には
(そうだ、飛加藤の亜流には、出来ないことはないはずだった。水を渡ることなど何でもないのだろう。……飛加藤の亜流にさえ
頼母は沼の中へ入って行った。
しかし数間とは歩けなかった。水が首まで彼を呑んだ。蛭、長虫が彼を目指し、四方八方から泳ぎ寄って来た。
「助けてくれーッ」と悲鳴を上げ、頼母は岸へ帰ろうとした。
しかし深い泥が彼の足を捉え、彼を底の方へ引き込んだ。
突然彼の姿が見えなくなり、彼の姿の消えた辺りへ、泡と渦巻とが現われた。
と、ふいにその水面へ、一つの独楽が浮かび上った。頼母の持っていた独楽であって、水底に沈んだ彼の懐中から、水の面へ現われたのであった。独楽にも長虫はからみ付いていた。そうしてその虫は島を指して泳いだ。飛加藤の亜流とお八重との姿が、その島の岸に立っていた。そっちへ独楽は引かれて行く。
髪を乱し襟を拡げ、返り血を浴びた主税がその間に立ち、血にぬれた刀を中段に構え、開いている雨戸から射し込んでいる
その
階段の下からは罵る声や怒声が、怯かすように聞こえてくる。
しかし登っては来なかった。
これ迄に登って行った者一人として、帰って来る者がないからであった。決死の主税に一人のこらず、二階で討って取られたからであった。
しかしにわかにその階下から、主馬之進の声が聞こえてきた。
「お松、お松、お松は二階か! 心配するな、俺が行く!」
つづいて勘兵衛の声が聞こえる。
「旦那、あぶねえ、まアお待ちなすって! ……とてもあぶねえ、うかつには行けねえ! ……行くなら皆で、みんなで行きやしょう! ……覚兵衛殿、覚兵衛殿、あんたが真先に!」
しかし飛田林覚兵衛の声は、それに対して何とも答えなかった。
「お松、お松!」と主馬之進の声が、また悲痛に聞こえてきた。
「すぐ行くぞよ、しっかりしてくれ!」
「勘兵衛放せ、えい馬鹿者!」
つづいて階段を駆け上る音がし、階段口を睨んでいる主税の眼に、主馬之進の狂気じみた姿が映った。
「…………」
人々の運命
(来たな!)と主税は
「あなた!」とさながら
「お松!」と叫んで
「…………」
「…………」
が、その瞬間あやめとお葉とが、左右から飛鳥のように躍りかかり、
「お父様の
「お父様の敵!」とお葉も叫び、主馬之進の脇腹を
グタグタと主馬之進は仆たれが、必死の声を絞って叫んだ。
「ま、待ってくれ! 少し待ってくれ! どうせ殺されて死んでゆく
「主馬之進殿オーッ」
松女は松女で、主馬之進へ取り縋り、
「あなたが御兄上の頼母様ともども、わたくしの家へ接近なされ、先代の主人わたくしの良人と、何くれとなく懇意になされ、やがては荏原屋敷の家政へまで、立ち入るようになりましたので、苦々しく思っておりましたところ、わたくし良人の申しますには『わしはもう長の病気、余命わずかと覚悟しておる。わがなき後はこの大家族の、荏原屋敷を切り廻してゆくこと、女のお前ではとうてい出来ない。幸い主馬之進殿そなたに対し、愛情を感じておるらしく、それに主馬之進殿の兄上は、田安家の奥家老で権勢家、かたがた都合がよいによって、
「その御先代の死態だが……」
いよいよ迫る死の息の下で、主馬之進は云いついだ。
「変死、怪死、他殺の死と、人々によって噂され、それに相違なかったが、しかし決してこの主馬之進が、手をくだして殺したのでもなく、
しかしこれ以上断末魔の彼には、言葉を出すことが出来なくなったらしい、両手で虚空を握むかと見えたが、体をのばして動かなくなった。
「あやめよ、お葉よ、二人の娘よ!」と、これは精神の過労から、死相を呈して来た松女は叫んだ。
「お前たちの母は、荏原屋敷の主婦は、おおおお決してお前たちの、思い込んでいたような悪女でないこと……お
「お母様アーッ」
「お母様アーッ」
意外の事の真相に、心を顛動させた二人の娘は、左右から母へすがりついた。
「そうとは知らずお母様を怨み……」
「そうとは知らず主馬之進殿を殺し……」
「わたしたちこそどうしよう!」
「お母様アーッ」
「主馬之進様アーッ」
「いやいや」と、本当に最後の息で、主馬之進は言葉を発した。
「やっぱりわしは殺されていい男……荏原屋敷を横領し、隠されてある淀屋の財宝を、ウ、奪おう、ト、取ろうと……殺されていい身じゃ殺されていい身じゃ」
まったく息が絶えてしまった。
途端に松女もガックリとなった。
この時階段の上り口から、勘兵衛の狼狽した喚き声が聞こえた。
「
バタバタと階段から駈け下りる音が、けたたましく聞こえてきた。
しかし、その音は中途で止んで、呻き声が聞こえてきた。見れば階段の中央の辺りに、勘兵衛の体が延びていた。
紐が首に捲き付いている。
そうしてその紐は
「古沼から蝮を捕らえて来て、この座敷へ投げ入れて、直々お父様を殺した
勘兵衛の体が二階へ上るや、あやめは勘兵衛に引導を渡し、脇差で勘兵衛の咽喉をえぐった。
ある時は主馬之進の若党となり、ある時は見世物の太夫元となり、ある時は荏原屋敷の
なお
こうして今までは修羅の巷として、叫喚と悲鳴とで充たされていた屋敷は、静寂の場と化してしまった。わけてもあけずの館の二階は、無数の死骸を抱いたまま凄じい静かさに包まれていた。
と、その部屋へ雨戸の隙から、子供のような物が飛び込んで来た。
それは藤八猿であった。
乱闘の際に
でも古沼の縁まで来た時、その独楽にも飽きたと見え、沼を目掛けて投げ込んだ。
と独楽は自ずと動いて、小島の方へ進んで行った。飛加藤の亜流が超自然の力で、独楽を島の方へ招いたのでもあろうか。いややはり長虫が巻き付いていて、島の方へ泳いで行ったからである。
お八重よりも一層生死を共にし、苦難に苦難を重ねたところの、あやめと主税[#「主税」は底本では「主悦」]とは夫婦になり、一旦は辛労で気絶したものの、息吹き返した貞婦の松女や、妹娘のお葉と一緒に、荏原屋敷に住むようになったのは、それから間もなくのことであり、そういう事実をさぐり知り、主税[#「主税」は底本では「主悦」]との恋を断念したお八重は、父の許秩父の山中へも帰らず、飛加藤の亜流の弟子となり、飛加藤の亜流に従って、世人を説き廻ったということである。
淀屋の財宝はどうなったか? 一つに集まった独楽と一緒に、いぜんとして古沼の島の中にあるか、飛加藤の亜流やお八重の手により、他の場所へ移されたか? 謎はいまだに謎として、飛加藤の亜流とお八重以外には、知る者一人もないのであった。しかし飛加藤の亜流の教義が、その後ますます隆盛になり、善人に対し善事に対し、飛加藤の亜流は惜気もなく、多額の金子を与えたというから、淀屋の財宝はその方面に、浄財としてあるいは使われたのかもしれない。
松女がその後有髪の尼として、清浄の生活を継続し、良人や主馬之進をとむらいながら、主税[#「主税」は底本では「主悦」]夫婦やお葉によって孝養されたということや、お葉が良縁を求めながら、その優しい心持から、藤八猿を可愛がり、いつまでも手放さなかったというようなことは、あえて贅言する必要はあるまい。
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