東京化学製造所は
盛に新聞で攻撃せられながら、
兎に
角一廉の大工場になった。
攻撃は職工の賃銀問題である。賃銀は上げて
遣れば好い。しかしどこまでも上げて遣るというわけには行かない。そんならその度合はどうして
極まるか。職工の生活の需要であろうか。生活の需要なんぞというものも、高まろうとしている
傾はいつまでも止まることはあるまい。そんなら工場の利益の幾分を職工に分けて遣れば好いか。その幾分というものも、極まった度合にはならない。
工場を立てて行くには金がいる。しかし金ばかりでは機関が運転して行くものではない。職工の多数の意志に対抗する工場主の一人の意志がなくてはならない。工場主は自分の意志で機関を運転させて行くのである。
社会問題にいくら高尚な理論があっても、いくら
緻密な研究があっても、
己は己の意志で遣る。職工にどれだけのものを与えるかは、己の意志でその度合が極まるのである。東京化学製造所長になって、二十五年の間に、初め基礎の
危かった工場を、兎に角今の地位まで高めた理学博士増田
翼はかく信じているのである。
製造所の創立第二十五年記念の宴会が紅葉館で開かれた。
何某の講談は塩原多助一代記の一節で、その
跡に時代な好みの
紅葉狩と世話に
賑やかな日本一と、ここの女中達の踊が二組あった。それから
饗応があった。
三
間打ち抜いて、ぎっしり客を詰め込んだ宴会も、存外静かに済んで、農商務大臣、大学総長、理科大学長なんぞが席を起たれた跡は、方々に群をなして女中達とふざけていた人々も、一人帰り二人帰って、いつの間にか広間がひっそりして来た。
もう十一時であろう。
今日の主人増田博士の周囲には大学時代からの親友が二三人、製造所の職員になっている少壮な理学士なんぞが居残って、
燗の熱いのをと命じて、手あきの女中達大勢に取り巻かれて、
暫く一
夕の名残を惜んでいる。
花房という、今年卒業して製造所に
這入った理学士に、
児髷に結った娘が酌をすると、花房が顧みながら云った。
「何だ。お前の
袖からは馬鹿に
好い
□がするじゃあないか。何を持っているのだ。」
「これなの。」
娘が絹のハンケチを取り出した。
「それだそれだ。□で思い出したが、ここの内に丁度お前のような
薫という子がいたが、あれはどうした。」
「薫さんはお内へ帰りましたの。」
「内は何だい。」
「お医者さんですわ。」
「おお方
誰かが
一旦内へ帰して置いて、それからお
上さんにするというようなわけだろう。」
「知りませんわ。」
こんな話をしているうちに、
聯想は聯想を生んで、台湾の
樟脳の話が始まる。
樺太のテレベン油の話が始まるのである。
増田博士は
胡坐を
掻いて、大きい
剛い目の
目尻に
皺を寄せて、ちびりちびり飲んでいる。抜け上がった額の下に光っている白目
勝の目は
頗る剛い。それに皺を寄せて笑っている処がひどく優しい。この矛盾が博士の顔に一種の
滑稽を生ずる。それで誰でも博士の機嫌の好い時の顔に対するときは、微笑を禁じ得ないのである。
誰やらが、樺太のテレベン油は非常な利益になりそうで、始て製造を試みた何某の着眼は実にえらいという評判だと云うと、黙って酒を飲んでいた博士が短い笑声を
洩した。
「あれか。あれは樺太へ立つ前に
己の処へ来たから、己が気を附けて
遣ったのだ。」
一同耳を
欹てた。この席にいるだけのものは、皆博士が人の功を奪うような人でないことを知っている。それだから、皆博士のこの
詞に信を置くのである。博士は再び無邪気らしい、短い笑声を
洩して語り続けた。
「あればかりではないよ。己の処へは己の思付を
貰いに来る奴が沢山あるのだ。むつかしく云えば落想とでも云うのかなあ。
独逸語なら
Einfaelle □とでも云うのだろう。しかし己は
嘘は言わないから、誰も落ち込みはしない。己は遣って来る人の性質や
伎倆や境遇を見て、その人に出来そうな
為事を授けるのだ。それで成功したものが、これまでに随分あるよ。妻がいつも
傍で聞いていてそういうのだ。あなたそんなにお金になるような事を沢山知っていらっしゃるなら、御自分で少しして御覧なすってはどうですと云うのだ。女なんというものは馬鹿なものだ。なんでも
余所でする事を好い事だと思っている。己には己の為事がある。己なんぞは会社の為事をして給料を貰っていりゃあ好いのだ。為事は一つありゃあ好いのだ。思付なんぞはいくらでもあるから、片っ端から人にくれて遣る。それを一つ
掴まえて為事にする奴が成功するのだ。中には己の思付で己より沢山金をこしらえるものもある。金が何だ。金くらい詰まらないものが、世の中にありゃあしねえ。」
博士はそろそろ
巻舌になって来た。博士は純粋の
江戸子で、何か話をして興に乗じて来ると、巻舌になって来る。これが平生寡言沈黙の人たる博士が、天賦の雄弁を発揮する時である。そして博士に親しい人々、今夜この席に居残っているような人々は、いつもこういう時の来るのを楽み待っているのである。
博士は
虚になった杯を、黙って
児髷の子の前に出して酒を注がせて、一口飲んで語り続けた。
「金が何だ。会社は事業をするために金がいる。己はいらねえ。
己達夫婦が飯を食って、餓鬼
共の学校へ行く
銭が出せれば好い。金を
溜めるようなしみったれは江戸子じゃあねえ。」
こういう話になると、独り博士の友達が喜んで聞くばかりではない。女中達も面白がって聞く。児髷の子供も、何か分からないなりに、その
爽快な
音吐に耳を傾けるのである。
胡麻塩頭を五分刈にして、金縁の目金を掛けている理科の教授
石栗博士が重くろしい語調で
喙を
容れた。
「一体君は本当の江戸子かい。」
「知れた事さ。江戸子のちゃきちゃきだ。親父は幕府の造船所に勤めていたものだ。それあの何とかいう
爺いさんがいたっけなあ。
勝安芳よ。勝なんぞも苦労をしたが、内の親父も苦労をしたもんだ。同じ苦労をしても、勝は
靱い命を持っていやぁがるから生きていた。親父はこっくり行き着いたのだ。病気も何もないのに死んだのだ。兄きは大鳥
圭介に附いて行っちまう。お袋と己とは広徳寺前の屋敷にぼんやりしていると、上野の戦争が始まった。門番で
米擣をしていた爺いが己を
負ぶって、お袋が系図だとか何だとかいうようなものを
風炉敷に包んだのを持って、逃げ出した。
落人というのだな。
秩父在に昔から己の内に縁故のある大百姓がいるから、そこへ逃げて行こうというのだ。
爺いの背中で、上野の焼けるのを見返り見返りして、
田圃道を逃げたのだ。秩父在では己達を歓迎したものだ。己の事を江戸の坊様と云っていた。」
「なんでも江戸の坊様に御馳走をしなくちゃあならないというので、
蕎麦に
鳩を入れて食わしてくれたっけ。
鴨南蛮というのはあるが、鳩南蛮はあれっきり食った事がねえ。」
「そうしていると
打毀という奴が来やがった。浪人ものというような奴だ。大勢で押し込んで来やがるのだ。親父がぴょこぴょこお辞儀をして、
酒樽の鏡を抜いて
馳走をしたもんだから、拍子抜がして素直に帰って行きゃあがった。ところが二三日するとまた遣って来やがった。
倅の方は利かねえ気の奴だったから、
野猪狩に持って行く鉄砲を打ち掛けた。そうすると奴共慌てて逃げてしまやぁがった。」
「そのうちに世間が段々静かになって来た。己は毎日毎日土蔵の
脇で日なたぼっこをしていた。頭の上の処には、大根が
注連縄のように干してあるのだな。百姓の内でも段々
厭きて来やがって、もう江戸の坊様を大事にしなくなった。鳩南蛮なんぞは食わしゃあしねえ。」
「ある日の事、かますというものに入れた里芋を出しやがって餓鬼共にむしらせていやぁがるのだ。餓鬼は大勢いたのだ。むしって芽の所を出して見て、芽の
闕けた奴は食う方へ入れる。芽の満足でいる奴は植える方へ入れるのだ。己が立って見ていると、江戸の坊様も手伝ってお
遣なさいと抜かしやぁがる。
大ぶ江戸の坊様を安く踏むようになりゃあがったんだな。こうなっちゃあ
為方がねえ。己もそこへ
胡座を
掻いて里芋の
選分を遣っ附けた。ところが己はちびでも江戸子だ。こんな事は朝飯前だ。
外の餓鬼が
笊に一ぱい遣るうちに、己は二はい遣るのだ。百姓
奴びっくりしやぁがった。そして
言草が好いや。里芋の
選分は江戸の坊様に限ると抜かしやぁがる。」
「そのうち、もう江戸へ帰っても好さそうだというので、お袋と一しょに帰って来た。兄きは今の戸山学校の処に押し
籠められていたものだ。お袋は早く兄きが内へ帰られるようにというので、小さい不動様の掛物を柱に掛けて、その前へ線香を立てて、朝から晩まで拝んでいた。」
「そこへ兄きがひょっこり帰って来た。お袋が馬鹿に喜んで、こうして毎日拝んだ
甲斐があると云って不動様の掛物の方へ指ざしをしたのだ。そうすると、兄きは妙な奴さ。ふうん、おっ母さんはこんな物を拝んだのですかと云って、ついと立って掛物の前に行って、香炉に立ててある線香を引っこ抜くのだ。己はどうするかと思って見ていたよ。そうすると、兄きは線香の燃えている
尖を不動様の目の所に追っ附けて焼き抜きゃがるのだ。片っ方が焼穴になったら、また片っ方へ押っ附けて焼き抜きゃあがるのだ。とうとう両方共焼穴にしてしまやぁがった。」
「兄きは妙な奴だったよ。それ何とか云ったっけ。うん、田口
卯吉というのだ。あれなんぞが友達だったのだ。旧思想の破壊というような事に、恐ろしく
力瘤を入れていたのだな。不動様の罰だか、親の罰だか、知らねえが、間もなく病気になって死んじまやぁがった。」
「まあ言って見れば、
Fanatiker というような人間だったのだな。古くなったがらくたを取り片附けなけりゃあならない時代には、あんな焼けな人間も道具かも知れない。兄きなんぞも、
廻り合せでは大きい
為事をしたのかも知れねえんだよ。」
「己なんぞも西洋の学問をした。でも己は不動の目玉は焼かねえ。ぽつぽつ遣って行くのだ。里芋を
選り分けるような工合に遣って行くのだ。兄きなんぞの前へ里芋の泥だらけな奴なんぞを出そうもんなら、かます
籠め百姓の
面へ
敲き附けちまうだろうよ。」
「己は化学者になって好かったよ。化学なんという奴は丁度己の性分に合っているよ。酸素や水素は液体にはならねえという。ならねえという間はその積りで遣っている。液体になっても別に驚きゃあしねえ。なるならなるで遣っている。
元子は切ったり
毀したりは出来ねえ。
Atom は
atemnein で切れねえんだという。切れねえという間はその積りで遣っている。切れたって別に驚きゃあしねえ。切れるなら切れるで遣っている。同じ江戸子でも、己は兄きのような
Fanatiker とは違うんだ。どこまでもねちねちへこまずに遣って行くのも江戸子だよ。ああ馬鹿に
饒舌ったな。もう何時だろう。」
花房は小さい金時計を出して見た。
「十二時です。」
「そうか。諸君は車が待たせてあるから好いが、己はぐずぐずすると電車に乗りはぐれる。さあ、行こう行こう。」
(明治四十三年二月)