一

 細木香以は津藤つとうである。摂津国屋つのくにや藤次郎である。わたくしが始めて津藤の名を聞いたのは、香以の事には関していなかった。香以の父竜池りゅうちの事に関していた。摂津国屋藤次郎のとなえは二代続いているのである。
 わたくしは少年の時、貸本屋の本を耽読たんどくした。貸本屋がおいの如くに積みかさねた本を背負って歩く時代の事である。その本は読本よみほん書本かきほん、人情本の三種を主としていた。読本は京伝きょうでん馬琴ばきんの諸作、人情本は春水しゅんすい金水きんすいの諸作の類で、書本は今う講釈だねである。そう云う本を読み尽して、さて貸本屋に「何かまだ読まない本は無いか」と問うと、貸本屋は随筆類を推薦する。これを読んで伊勢貞丈ていじょうの故実の書等に及べば、大抵貸本文学卒業と云うことになる。わたくしはこの卒業者になった。
 わたくしは初め馬琴に心酔して、次で馬琴よりは京伝を好くようになり、また春水、金水を読み比べては、初から春水を好いた。丁度後にドイツの本を読むことになってからズウデルマンよりはハウプトマンが好だと云うと同じ心持で、そう云う愛憎をしたのである。
 春水の人情本には、デウス・エクス・マキナアとして、所々しょしょに津藤さんと云う人物が出る。情知なさけしりで金持で、相愛あいあいする二人を困厄の中から救い出す。大抵津藤さんは人の対話の内に潜んでいて形を現さない。それがめずらしく形を現したのは、梅暦うめごよみ千藤ちとうである。千葉の藤兵衛である。
 当時小倉袴こくらばかま仲間の通人がわたくしに教えて云った。「あれは摂津国屋藤次郎と云う実在の人物だそうだよ」と。モデエルと云う語はこう云う意味にはまだ使われていなかった。
 この津藤セニョオルは新橋山城町の酒屋の主人であった。その居る処から山城河岸がし檀那だんなと呼ばれ、また単に河岸の檀那とも呼ばれた。姓は源、うじは細木、定紋はひいらぎであるが、店の暖簾のれんには一文字の下に三角の鱗形うろこがたを染めさせるので、一鱗堂いちりんどうと号し、書を作るときは竜池りゅうちと署し、俳句を吟じては仙塢せんうと云い、狂歌を詠じては桃江園とうこうえんまたつる門雛亀とひなかめ、後に源僊みなもとのやまひとと云った。
 竜池は父を伊兵衛いへえと云った。伊兵衛は竜池が祖父の番頭であったのを、祖父が人物を見込んで養子にした。摂津国屋の店を蔵造くらづくりにしたのはこの伊兵衛である。奥蔵を建て増し、地所を買い添えて、山城河岸を代表する富家にしたのはこの伊兵衛である。
 伊兵衛は七十歳近くなって、竜池に店を譲って隠居し、山城河岸の家の奥二階に住んでいた。隠居した後も、道を行きつつ古草鞋ふるわらじを拾って帰り、水に洗い日にさらして自らきざみ、出入の左官に与えなどした。しかし伊兵衛は卑吝ひりんでは無かった。某年に芝泉岳寺で赤穂四十七士の年忌が営まれた時、棉服の老人が墓にもうでて、納所なつしょに金百両を寄附し、氏名を告げずして去った。寺僧が怪んで人に尾行させると、老人は山城河岸摂津国屋の暖簾の中に入った。

       二

 竜池は家を継いでから酒店さかみせを閉じて、二三の諸侯の用達ようたしを専業とした。これは祖先以来の出入先で、本郷五丁目の加賀中将家、桜田堀通の上杉侍従家、桜田かすみせきの松平少将家の三家がそのおもなるものであった。加賀の前田は金沢、上杉は米沢、浅野松平は広島の城主である。
 文政の初年には竜池が家に、父母伊兵衛夫婦が存命していて、そこへ子婦よめ某氏が来ていた。竜池は金兵衛以下数人の手代てだいを諸家へ用聞にり、三日式日さんじつしきじつには自身も邸々やしきやしき挨拶あいさつに廻った。加賀家は肥前守斉広卿ひぜんのかみなりのりきょうの代が斉泰卿なりやすきょうの代に改まる直前である。上杉家は弾正大弼斉定だんじょうのたいひつなりさだ、浅野家は安芸守斉賢あきのかみなりかたの代である。
 父伊兵衛は恐らくは帳簿と書出とにしか文字を書いたことはあるまい。しかるに竜池は秦星池はたせいちを師として手習をした。狂歌は初代弥生庵雛麿やよいあんひなまろの門人で雛亀ひなかめと称し、晩年にはもも本鶴廬もとかくろまた源仙げんせんと云った。また俳諧をもして仙塢せんうと号した。
 父伊兵衛は恐らくは遊所に足を入れなかったであろう。然るに竜池は劇場に往き、妓楼ぎろうに往った。竜池は中村、市村、森田の三座に見物に往く毎に、名題なだい役者を茶屋に呼んで杯を取らせた。妓楼は深川、吉原を始とし、品川へも内藤新宿へも往った。深川での相手は山本の勘八と云う老妓であった。吉原では久喜ひさき万字屋の明石あかしと云うお職であった。
 竜池が遊ぶ時の取巻は深川の遊民であった。桜川由次郎、鳥羽屋小三次、十寸見ますみ和十、乾坤坊けんこんぼう良斎、岩窪いわくぼ北渓、尾の丸小兼こかね竹内ちくない三竺さんちく、喜斎等がその主なるものである。由次郎は後に吉原に遷って二代目善孝ぜんこうと云った。和十は河東節かとうぶしの太夫、良斎は落語家、北渓は狩野かの家から出て北斎門に入った浮世絵師、竹内は医師、三竺、喜斎は按摩あんまである。
 竜池は祝儀の金を奉書につつみ、水引を掛けて、大三方にうずたかく積み上げて出させた。
 竜池は涓滴けんてきの量だになかった。杯は手に取っても、飲むまねをするに過ぎなかった。またいまだかつて妓楼に宿泊したことがなかった。
 為永春水はまだ三鷺さんろと云い、楚満人そまびとと云った時代から竜池と相識になってこの遊の供をした。竜池が人情本中に名をとどむるに至ったのはここもとづいている。
 竜池は我名のかくの如くに伝播でんぱせらるるを忌まなかった。ただにそれのみではない。竜池は自ら津国名所と題する小冊子をあらわして印刷せしめ、これを知友にわかった。これは自分の遊の取巻供を名所に見立てたもので、北渓の画がさしはさんであった。
 文政五年に竜池の妻が男子を生んだ。これは摂津国屋の嗣子で、小字おさなな子之助ねのすけと云った。文政五年はうまであるので、俗習にしたがって、それから七つ目のを以て[#「以て」は底本では「似て」]名となしたのである。二代目津藤として出藍しゅつらんほまれをいかがわしい境に馳せた香以散人はこの子之助である。

       三

 わたくしが香以の名を聞いたのは、かの人情本によって津藤の名を聞いたのと、余り遅速は無かったらしい。いなあるいは同時であったかも知れない。その後にはこの名のわたくしの耳目に触れたことが幾度いくたびであったか知れぬが、わたくしは始終深く心に留めずに、たちまち聞き忽ち忘れていた。そしてそのあいだ竜池香以の父子を混同していた。
 それからある時香以と云う名が、わたくしの記憶に常住することになった。それは今住んでいる団子坂の家に入った時からの事である。
 この家は香以に縁故のある家で、それを見出したのは当時存命していたわたくしの父である。父は千住で医業をしていたが、それをめてわたくしと同居しようとおもった。そして日々家を捜して歩いた。その時この家は眺望のい家として父の目に止まった。
 団子坂上から南して根津権現の裏門に出る岨道そばみちに似た小径こみちがある。これを藪下やぶしたの道と云う。そして所謂いわゆる藪下の人家は、当時根津のやしろに近く、この道の東側のみを占めていた。これに反して団子坂に近い処には、道の東側に人家が無く、道はがけの上を横切っていた。この家の前身は小径を隔ててその崖に臨んだ板葺いたぶきの小家であった。
 崖の上は向岡むこうがおかから王子に連る丘陵である。そして崖の下のはたけや水田を隔てて、上野の山と相対している。彼小家の前に立って望めば、右手に上野の山のはなが見え、この端と向岡との間が豁然かつぜんとして開けて、そこは遠く地平線に接する人家の海である。今のわたくしの家の楼上から、浜離宮の木立の上を走る品川沖の白帆の見えるのは、この方角である。
 父はこの小家に目を著けて、度々崖の上へ見に往った。小家には崖に面する窓があって、窓のうちにはいつも円頂のおうながいた。「綺麗な比丘尼びくに」と父は云った。
 父は切絵図を調べて、綺麗な比丘尼の家が、もと世尊院の境内であったことを知った。世尊院は今旧境内の過半を失って、西の隅に片寄っている。
 父はわたくしをいざなって崖の上へ見せに往った。わたくしはこの崖をもこの小家をも兼て知っていたが、まだ父程に心を留めては見なかったのである。眺望は好い。家は市隠の居処とも謂うべき家である。そして窓の竹格子の裡には綺麗な比丘尼がいた。比丘尼はもう五十を越していたであろう。もしおうなをも美人と称することが出来るなら、この比丘尼は美人であったと云いたい。
 父はわたくしの同意を得てから、この家を買おうとして、家の持主のたれなるかを問うことにした。団子坂の下に当時千樹園と云う植木屋があった。父は千樹園の主人を識っていたので、比丘尼の家の事を問うた。
 千樹園はこう云った。崖の上の小家は今住んでいる媼の所有である。媼は高木ぎんと云って、小倉と云うものの身寄である。小倉はもと質屋で、隠居してから香以散人の取巻をしていたが、あの家で世を去った。媼は多分あの家を売ることを惜まぬであろうと云った。

       四

 千樹園が世話をして、崖の上の小家を買う相談は、意外に容易たやすまとまった。高木ぎんの地所はもとやや広い角地面であったのを、角だけ先ず売ったので、跡は崖に面した小家のある方から、団子坂上の街に面した方へ鉤形かぎなりに残っている。その街に面した処に小さい町家が二軒ある。一つは地所も家も高木のもので、貸店かしだなになって居り、一つは高木の地所に鳶頭とびがしらの石田が家を建てて住んでいる。ぎんは取引が済んでこの貸店に移った。
 父は千住の大きい家を畳んで、崖の上の小家に越して来た。千住の家は徳川将軍が鷹野たかのに出る時、小休所こやすみじょにしたと云う岡田氏の家で、これにほとんど小さい病院のような設備がしてあったのである。父は小家に入って「身軽になったようだ」と云った。そこへわたくしは太田の原の借家から来て一しょになった。
 小家は三間に台所が附いている。三間は六畳に、三畳に、四畳半で、四畳半は茶室造である。後にこの茶室が父の終焉しゅうえんの所となった。
 茶室の隣の三畳に反古張ほぐばりふすまが二枚立ててある。反古は俳文の紀行で、文字と挿画さしえとが相半あいなかばしている。巻首には香以散人の半身像がある。草画ではあるが、円顔の胖大漢はんだいかんだと云うことだけは看取せられる。
 崖の上の小家は父の歿後に敗屋となって、補繕し難いためにこぼたれた。反古張りの襖も剥落はくらくし尽していた。今にして思えばこれは安政六年の夏に、香以が三十八歳で江の島、鎌倉をめぐった紀行の草稿であったらしい。
 崖の上の小家のあとは、今は過半空地になっている。大正四年に母が七十の賀をするかわりに、部屋を建ててもらいたいと云ったので、わたくしは母の指図に従って四畳半の見積を大工に命じた。そのうち母が大病になった。わたくしは母の存命中に部屋を落成させようとして工事を急いだ。五年三月に部屋は出来て、壁の中塗だけ済んだ。母はこれに臥所ふしどうつして喜んだが、間もなく世を去った。今わたくしが書斎にしているのがこの部屋で、壁は中塗のままである。昔崖の上の小家の台所であった辺が、この部屋の敷地である。
 父母と共に崖の上の小家に移った時から、わたくしは香以の名を牢記ろうきしている。既にしてわたくしはこの家の旧主人小倉が後に名を是阿弥ぜあみと云ったことを知った。香以は相摸国さがみのくに高座郡藤沢の清浄光寺の遊行上人ゆうぎょうしょうにんから、許多あまたの阿弥号を受けて、自ら寿阿弥と称し、次でこれを河竹其水かわたけきすいに譲って梅阿弥ばいあみと称し、その後また方阿弥と改め、その他の阿弥号は取巻の人々に分贈した。是阿弥はその一つだそうである。
 香以は明治三年九月十日に歿した。翌四年の一周忌を九月十日に親戚しんせきがした。後に取巻の人々は十月十日を期して、小倉是阿弥の家に集まって仏事を営み、それから駒込こまごめ願行寺がんぎょうじの香以が墓にもうでた。この法要の場所はすなわち崖の上の小家であったのである。

       五

 香以の子之助は少年の時けい北静廬きたせいろに学び、筆札を松本董斎とうさいに学んだ。静廬は子之助が十四歳の時、既に七十に達して、竹川町西裏町に隠居していた。子之助はわずかに字を識るに及んで、主に老荘の道を問うたそうである。董斎は董其昌とうきしょう風の書を以って名を得た人で、本石町塩河岸に住んでいた。
 子之助が生れてから人と成るまでの間には、年月をつまびらかにすべき事実が甚だ少い。文政六年には父竜池の師はた星池が六十一歳で歿した。子之助がはじめて二歳の時である。八年七月二十九日には祖父伊兵衛の妻が歿した。法諡ほうしを臨照院相誉迎月大姉だいしと云う。子之助が四歳の時である。十一年には父の友楚満人そまびとが狂訓亭春水と号した。子之助が七歳の時である。
 父竜池がこのころの友には、春水、良斎、北渓よりして外、なお勝田諸持もろもちがあった。諏訪町すわちょうの狂歌師千種庵ちくさあん川口霜翁そうおうの後をいで、二世千種庵と云う。一中節の名は都一閑斎である。後に別派を立てて宇治紫文とあらため、いけはたに住んだのがこの人である。竜池は当時北渓に席画を作らせ、諸持に狂歌の判をさせ、春水、良斎等を引き連れて花柳のちまたに遊んでいた。
 子之助は天保九年に十七歳になった頃から、料理屋、船宿に出入し、芸者に馴染なじみが出来、次で内藤新宿、品川の妓楼に遊んだ。
 天保十二年の頃には竜池、香以の父子が相踵あいついでクリジスに遭ったらしい。子之助とその姉とを生んだ竜池の妻はこの頃離縁になった。子之助の姉は外桜田堀通の上杉弾正大弼斉憲うえすぎだんじょうのたいひつなりのり[#ルビの「だんじょう」は底本では「だんじゅう」]の奥に仕えていた。竜池はついで三十間堀住の十人衆三村清左衛門の分家、竹川町の鳥羽屋三村清吉の姉すみをれて後妻とし、同時に山王町に別宅を構えてしょうを置いた。
 未だいくばくならぬに、竜池はまさ刑辟けいへきに触れむとしてわずかに免れた。これは女郎買案内を作って上梓じょうしし、知友の間にわかった事が町奉行の耳に入ったのである。さいわいに加賀町の名主田中平四郎がこれを知って、ひそかに竜池に告げた。竜池は急に諸役人に金をおくって弥縫びほうし、妾に暇をつかわし、別宅を売り、遊所通ゆうしょがよいを止めた。内山町の盲人百島勾当ももしまこうとうの家を遊所あそびどころとして諸持等をここつどえることになったのは当時の事である。
 子之助はこの年十二月下旬に継母の里方鳥羽屋に預けられた。これは新宿、品川二箇所の引手茶屋に借財を生じたためである。子之助時に二十歳であった。
 然るに竜池の遊所通はんでも、子之助のは罷まなかった。天保十三年三月の頃から五分月題ぶさかやきの子之助は丁稚でっち兼吉を連れて、鳥羽屋をで、手習の師匠松本、狂歌の宗匠梅屋鶴寿等をうことになったが、その帰途には兼吉を先に還らせて、自分は劇場妓楼に立ち寄った。兼吉は綽号あだなを鳥羽絵小僧と云った。想うに鳥羽屋の小僧で、容貌ようぼうが奇怪であったからの名であろう。即ち後の仮名垣魯文かながきろぶんである。
 劇場は木挽町こびきちょうの河原崎座であった。贔屓ひいきの俳優は八代目団十郎である。作者勝諺蔵かつげんぞうをば部屋に訪うてまじわりを結んだ。諺蔵は後の河竹新七である。
 妓楼は主に品川の島崎湊屋みなとや土蔵相摸どぞうさがみで、引手茶屋は大野屋万治方であった。湊屋のお染はもっとも久しい馴染であった。
 取巻は河原崎座の作者岩井紫玉、同座附茶屋の主人武田屋馬平、品川の幇間ほうかん富本登名太夫となたゆうおなじく熨斗太夫のしたゆう、桜川善二坊、その他俳諧師牧乙芽まきおつが、力士勢藤吾いきおいとうご等であった。紫玉は後の正伝節家元春富士、乙芽は後の冬映である。

       六

 竜池の水引を掛けた祝儀は壮観ではあっても、費す所は甚だ多きに至らなかった。これに反して子之助は、人にあたうる物に種々の趣向を凝らし、その値の高下を問わなかった。丸利、丸上、山田屋等の袋物店に払う紙入、煙草入の代は莫大ばくだいであった。既にして更衣ころもがえの節となった。子之助はひとえ羽織とあわせとを遊所に持て来させて著更え、脱ぎ棄てた古渡唐桟こわたりとうざんの袷羽織、糸織の綿入、琉球紬りゅうきゅうつむぎの下著、縮緬ちりめんの胴著等を籤引くじびきで幇間芸妓に与えた。
 竜池は子之助の遊蕩がいよいよ募って、三村氏が放任して顧みぬことを聞き知り、自ら手を下してこれを制せようとした。六月中旬の事である。子之助が品川の湊屋にいると、竜池は四手よつでを飛ばして大野屋に来た。そして子之助に急用があるから来いと言って遣った。
 子之助は父をおそれて、湊屋の下座敷から庭に飛び下り、海岸の浅瀬をわたって逃げようとしたが、使のものに見附けられてとらえられた。
 竜池は子之助をらっして帰り、幸町さいわいちょうの持地面に置いてある差配人佐兵衛に預けた。そして勘当の手続をしようとした。しかし手代等の扱によって、子之助は山城河岸に帰り、父の監督を受けることとなった。
 さいわいに竜池は偽善を以て子を篏制かんせいしようとはしなかった。自分の地味な遊には子之助を侍せしめて、これに教うるに酒色のむしろにあっても品位をおとさぬ心掛を以てした。子之助の態度はここに一変した。これが子之助の二十一歳になった時の事である。
 竜池の贔屓にした七代目団十郎は、この年六月二十二日に江戸を追放せられ、竜池の親しい友為永春水はこの年七月十三日に牢死ろうしした。これも間接に山城河岸の父子をして忌諱ききを知らしむるなかだちとなったであろう。
 これから安政三年に至るまでの間には記すべき事が少い。しばらく二三の消息を注すれば、先ず天保十四年に河原崎座が、先に移った中村、市村両座と共に猿若町さるわかちょうに移って、勝諺蔵が立作者柴晋助しばしんすけとなった。芝宇田川町にいたからである。河竹新七の名はしばらく立ってから、三代目桜田治助の勧に依っていだ。嘉永元年六月二十七日に、子之助の祖父伊兵衛が七十余歳で歿した。法諡ほうしは繁誉宝寿徳昌善士である。墓は願行寺先塋せんえいの中にある。竜池の師、静廬もこの年八十三歳で歿した。寿阿弥曇□じゅあみどんちょうの歿したのも同年である。寿阿弥と竜池父子とは相識ではあっただろうが、そのまじわり奈何いかんつまびらかにしない。しかし後に子之助は清浄光寺から寿阿弥号を受けて、間接に真志屋の阿弥号を襲いだのである。三年に竜池の友諸持が都派を脱して宇治紫文と称した。安政元年に竜池父子の贔屓にした八代目団十郎が自刃した。二年は地震の年である。江戸遊所の不景気は未曾有で、幇間は露肆ろし天麩羅てんぷらを売り、町芸妓は葭簀張よしずばりにおでん燗酒かんざけひさいだそうである。山城河岸の雨露はこれをうるおし尽すことが出来なかったであろう。
 安政三年の夏竜池は病にした。次で九月二十日に世を去った。法諡は白誉雲外竜池善士と云う。また願行寺に葬られた。手代等は若檀那子之助の前途を気遣って、大坂町に書肆を開いている子之助の姉婿あねむこ摂津国屋伊三郎を迎えて、家督相続をさせようとした。子之助の姉は上杉家の奥をさがって婿を取り、分家を立てていたのである。然るに子之助の継母三村氏すみは、義理ある子之助を廃嫡の否運に逢わせては、自分の庇護ひごが至らぬように世間の目から見られようと云って、手代等の議を拒んだ。子之助はついに山城河岸の本家をいだ。時に年三十五である。ついでに云う、竜池の狂歌の師初代弥生庵雛麿ひなまろは竜池と同年同月に歿した。

       七

 父竜池の後を継いで二世藤次郎となった子之助は、継母三村氏すみその他の親族、最故参の金兵衛以下大勢の手代の手前があるので、暫くは謹慎を守っていたが、四十九日の配物くばりものが済んだ頃から遊所に通いはじめ、ようやく馴れては傍人ぼうじんの思わくをも顧みぬようになった。女房はまだ部屋住でいた時に迎えて、もう子供が二人ある。里方は深川木場の遠州屋太右衛門である。しかし女房も岳父しゅうともただ手をつかねて傍看する外無かった。
 王侯貴人が往々文芸の士を羅致らちして、声威を張り儀容を飾る具となすように、藤次郎は俳諧師、狂歌師、狂言作者、書家、彫工、画工と交って、その多数を待つことほとんど幇間とえらぶことが無かった。父竜池はつねに狂歌をもてあそんだが、藤次郎はこれに反しておもに俳諧に遊んだ。その友をつどえた席は、長谷川町の梅の家、万町よろずちょう柏木亭かしわぎてい等であった。
 藤次郎は子之助時代に鯉角りかくと号し、一に李蠖りかくとも署していたが、家を継いだ後、関為山いざんから梅の本の称を受け、更に晋永機しんえいきに晋の字を貰い、自ら香以と号し、また好以、交以、孝以とも署した。たまたま狂歌を作るときは何廼屋なにのやと署した。
 劇場では香以は河原崎権十郎を贔屓にした。後の九代目団十郎である。香以は贔屓の連中を組織して、荒磯連あらいそれんなづけ、その掟文おきてぶみと云うものを勝田諸持に書かせた。九代目の他日の成功は半香以の庇蔭ひいんったのである。また八代目が自刃した後、権十郎の実父七代目団十郎の寿海老人が江戸に還っていたので、香以はこれをも贔屓にした。この父子のほか、俳優にして香以の雨露に浴したものには、なお市川小団次、中村鴻蔵こうぞう、市川米五郎、松本国五郎等がある。
 香以の通った妓楼は初め吉原江戸町一丁目玉屋山三郎方で、後角町すみまち稲本楼である。玉屋には濃紫こむらさき、稲本には二世小稲がいた。引手茶屋は玉屋に通った時、初め近江屋おうみや半四郎、後大坂屋忠兵衛、稲本に通った時仲の町の鶴彦つるひこであった。
 香以が取巻はほとんど数え尽されぬ程あった。中にはこれを取巻にまじうるはあるいは酷に失するかも知れぬと思われる人もある。しかし区別して論ずることもまた容易でない。
 俳諧師には既に挙げた為山、永機の外、鳥越等栽、原田梅年、牧冬映、野村守一がある。梅年は後六世雪中庵と称した。嵐雪、吏登、蓼太りょうた、完来、対山、梅年と云う順序だそうである。守一、通称は新蔵、鶴歩庵かくほあんと云った。
 狂歌師には勝田諸持とその子福太郎と、室田鶴寿、石橋真国がある。福太郎は綽号あだなを油徳利と云った。後に一中節において父の名をぎ、二世紫文となった人である。鶴寿は梅屋と云った。通称は又兵衛、長谷川町の待合茶屋である。真国は通称七兵衛である。
 狂言作者には河竹新七、次で瀬川如皐じょこうがある。新七は元の柴晋助しばしんすけである。
 彫工には石黒某がある。画家には取巻に算すべからざる人もあるが、松本交山、狩野晏川あんせん、月岡芳年、柴田是真、鳥居清満、辻花雪、福島隣春ちかはる、四方梅彦がある。傭書家には宮城玄魚がある。
 商人もしくは商家の隠居には先ず小倉阿猿おさるがある。団子坂の質屋の隠居で、後に是阿弥と云った。阿心庵是仏がある。谷中三河屋の主人である。大津屋古朴こぼくがある。船宿の隠居である。金屋仙之助の竺仙ちくせんがある。竹川町のせり呉服商である。
 医師に石川甫淳ほじゅんがある。外科専門であった。俳諧の号を雁伍がんごと云った。
 落語家には乾坤坊良斎、五明楼玉輔たますけ、春風亭柳枝、入船米蔵がある。玉輔は馬生ばしょうの後の名である。講談師には二代目文車、桃川燕国えんこく、松林伯円がある。燕国は後の如燕じょえんである。

       八

 専業の幇間ほうかんで、当時山城河岸の家へ出入していたものは、桜川善孝、荻江おぎえ千代作、都千国、菅野すがののん子等である。千国は初の名が荻江露助、後に千中と云う。玄冶店げんやだなに住んでいた。また吉原に往った時に呼ばれたものは都有中うちゅうおなじく権平、同米八、清元千蔵、同仲助、桜川寿六、花柳鳴助等である。中にも有中は香以がその頓才とんさいを称して、常にかたわらに侍せしめた。
 吉原の女芸者は見番大黒屋庄六方から、きわ、ぎん、春、つる等が招かれた。きわは後花柳寿輔の妻になった。春は当時既に都権平の妻になっていた。駿河屋の鶴は間もなく香以の囲物かこいものにせられた。
 香以は暫く吉原に通っているうちに、玉屋の濃紫を根引した。その時濃紫が書いたのだと云って「紫の初元結に結込めし契は千代のかためなりけり」と云う短冊が玉屋に残っていた。本妻は濃紫との折合が悪いと云って木場へ還された。濃紫は女房くみとなり、次でふさと改めた。これは仲の町の引手茶屋駿河屋とくのかかえ鶴が引かせられたより前の事である。
 家にいての香以の生活は余り贅沢ぜいたくではなかった。料理は不断南鍋町みなみなべちょうの伊勢勘から取った。蒲焼かばやきが好で、尾張屋、喜多川が常に出入した。特に人に馳走ちそうをする時などは、大抵数寄屋町の島村半七方へ往った。香以を得意の檀那としていた駕籠屋かごやは銀座の横町にある方角と云う家で、郵便のない当時の文使ふみづかいに毎日二人ずつの輿丁よていが摂津国屋に詰めていた。
 濃紫が家に来た後も、香以の吉原通はまなかった。遊に慣れたものは燈燭とうしょくつらねた筵席えんせきの趣味を忘るることを得ない。次の相手は同じ玉屋の若紫であった。
 ある日香以は松本交山を深川富が岡八幡宮はちまんぐうの境内に訪うて、交山が松竹を一双の金屏風きんびょうぶに画いたのを見た。これはそれがしが江戸町一丁目和泉屋平左衛門の抱泉州に贈らむがために画かせたものであった。
 香以はこの屏風を横奪して、交山には竹川町点心堂のあんに、銀二十五両を切餅きりもちとして添えておくった。当時二十五両包を切餅と称したからである。交山は下戸であった。
 香以は屏風巻上始末を書いて悪摺あくずりらせ、知友の間にわかった。そして屏風を玉屋山三郎に遺った。しかし山三郎にはこの屏風は女郎の床には立てぬと云う一札を入れさせたのである。
 安政四年になって銀鎖ぎんぐさり煙草入たばこいれ流行はやった。香以は丸利にあつらえて数十箇を作らせ、取巻一同に与えた。古渡唐桟こわたりとうざんの羽織をそろい為立したてさせて、一同にあたえたのもこの頃である。
 この年の春竹川町の三村氏が香以に応挙のこい一幅を贈った。香以はこれを獲て応挙の鯉三十六幅を集めようと思い立った。書画骨董商等こつとうしょうらは京阪地方をまで捜して幅数を揃えた。しかし交山、柴田是真等に示すに、その大半は贋物がんぶつであった。香以は憤って更に現存の画家三十六人を選んで鯉を画かせた。そして十一月に永機を招いて鯉の聯句を興行した。その時配った半歌仙には鳥居清満が鯉の表紙画をかき、香以がしばらくのつらねに擬した序を作った。その末段はこうである。「点ならござれ即点に、素襖すあをかきのへたながら、大刀たちの切字や手爾遠波てにをはを、正して点をかけ烏帽子ゑぼし、悪くそしらば片つはし、棒を背負しよつた挙句の果、此世の名残執筆の荒事、筆のそつ首引つこ抜き、すゞりの海へはふり込むと、ほゝうやまつてまうす。」
 この年の秋猿若町市村座で、河竹新七作網摸様燈籠菊桐あみもようとうろのきくきりが興行せられた。享保中の遊女玉菊の事に網打七五郎の事を併せて作ったものである。香以は河原崎権十郎、市川小団次の二人に引幕一張ずつを贈り、芸者おさんに扮した市川米五郎と桜川善孝に扮した中村鴻蔵との衣裳いしょう持物を寄附した。これは皆権十郎を引き立てるためであった。
 香以が浅草日輪寺で遊行上人に謁し、阿弥号許多あまたを貰い受けたのもこの頃の事である。香以自己は寿阿弥と号し、いくばくもなくこれを河竹新七に譲って、梅阿弥と更めた。この年香以は三十六歳であった。

       九

 安政五年の三月市村座に、江戸桜清水清玄と云う狂言が演ぜられた。場面は仲の町引手茶屋の前である。源之助の番頭新造が吉六の俳諧師東栄の胸倉を取っている。これは東栄が所謂いわゆる性悪しょうわるをして、新造花川にそむいたために、曲輪くるわの法でまゆり落されそうになっているところである。鴫蔵しぎぞう竹助の妓夫ぎふが東栄を引き立てて暖簾のれんの奥に入る。次で国五郎、米五郎、小半次、三太郎、島蔵の侍等さぶらいらが花道を出て、妓夫に案内せられて奥に入る。三十郎の遊女揚巻父押上村新兵衛が白酒売となって出る。侍等が出て白酒を飲んで価を償わずに花道へ入る。小団次の黒手組助六が一人の侍の手をじ上げて花道から出て侍等をこらす。侍等は花道を逃げ入る。この時権十郎の紀伊国屋文左衛門が暖簾をかかげて出る。そのこしらえは唐桟の羽織を著、脇差わきざしを差し駒下駄こまげた穿いている。背後うしろには東栄が蛇の目傘を持って附いている。合方は一中節を奏する。文左衛門は助六を呼んで戒飭かいちょくする。舞台が廻ると、揚巻の座敷である。文左衛門が揚巻の身受をして助六にめあわせる。揚巻は初め栄三郎、後梅幸であった。
 狂言の文左衛門は、この頃遊所で香以を今紀文ととなえ出したにちなんで、この名をりて香以を写したものである。東栄は牧冬映である。二人の衣裳持物はすべて香以のおくりもので文左衛門の銀装ぎんごしらえの脇差は香以の常にびた物である。この狂言の作者は香以の取巻の一人河竹新七であった。吉六は東栄にふんした後、畢生ひっせい東鯉と号したが、東は東栄の役を記念したので、鯉は香以の鯉角から取ったのである。
 この年八月二十六日に市川権十郎は芸道にはげみ、贔屓に負かぬと云う誓文せいもんを書き、父七代目団十郎の寿海老人に奥書をさせて香以に贈った。
 香以のこの頃往った妓楼は稲本、相方は二代目小稲であった。所謂いわゆる側去そばさらずの取巻は冬映、最も愛せられていた幇間は都有中であった。
 有中はもと更紗染屋さらさそめやの出身で、遊芸には通じていても文字を識らなかった。そこで貸本に由って知識を求め、最も三国志を喜んだ。香以は有中が口を開けば孔明を称するのを面白がって、金を出して遣って孔明祭を修せしめた。今の富豪が乃木祭を行う類である。それからは有中に陣大鼓の綽号あだなが附けられた。
 香以はこの年三十七歳であった。恐らくはその盛名の絶頂に達した時であっただろう。取巻の一人勝田諸持は、この年二月二十二日に六十八歳で歿した。かの学者の渋江抽斎しぶえちゅうさい、書家の市河米庵、ないし狂歌師仲間の六朶園ろくだえん荒井雅重、家元仲間の三世清元延寿太夫等と同じく、虎列拉コレラに冒されたのかも知れない。諸持は即ち初代宇治紫文である。
 安政六年には香以の身代がやや傾きはじめたらしい。前田家、上杉家等の貸附はほぼ取り立ててしまい、家に貯えた古金銀はおおむ沽却こきゃくせられたそうである。しかし香以の豪遊は未だ衰えなかった。
 香以はこの年江の島、鎌倉、金沢を巡覧した。同行したものは為山、等栽、永機、竺仙等であった。小倉是阿弥の茶室の張交はりまぜになっていた紀行が果してこの遊を叙したものであったなら、一行には女も二三人加わっていたはずである。有中は供に立つ約束をして置きながら、出発の間に合わなかったので、三枚肩の早打で神奈川台へ駆け附け、小判五枚の褒美を貰い、駕籠舁かごかきも二枚貰った。
 香以は途次藤沢の清浄光寺にもうで、更に九つの阿弥号を遊行上人から受けて人に与えた。

       十

 香以は旅から帰った後、旧に依って稲本に通っていた。相方は小稲であった。然るにこの頃同じ家に花鳥と云う昼三ちゅうさんがいた。花鳥は恐るべき経歴を有していた。ある時は人の囲いものとなっていて情夫と密会し、いとまを取る日に及んで、手切金を強請した。ある時は支度金を取って諸侯のしょうに住み込み、故意に臥所ふしどいばりして暇になった。そしてその姿態は妖艶ようえんであった。
 花鳥は廊下で香以に逢うごとに秋波しゅうはを送った。あるゆうべ小稲が名代床みょうだいどこへ往って、香以がひとり無聊ぶりょうに苦んでいると、花鳥の使に禿かぶろが来た。香以はうっかり花鳥の術中に陥った。
 数日の後であった。大引過おおびけすぎの夜は寂としていた。香以は約をんで花鳥の屏風の中に入った。たちまち屏風をあららかに引き退けて飛び込んだものがある。それは小稲の番新ばんしん豊花であった。
 香以は豊花にいて往かれて座敷に坐った。鶴彦は急使を以て迎えられた。巽育たつみそだちの豊花が甲走った声にいざなわれて、無遠慮な男女は廊下に集まり、次の間の障子は所々らした指尖で穿たれた。
 この時留女とめおんなとして現われたのは芸者きわである。豊花と鶴彦とを次の間に連れて往って、小稲花鳥へ百両ずつの内済金を出すことに話を附け、それを香以に取り次いだ。しかし香以のふところには即金二百両の持合せがなかった。
 きわは豊花を待たせて置いて、稲本をで、兼て香以の恩を受けた有中、米八、権平等を座敷々々に歴訪して、財布の底をはたかせたが、その金は合計五十両には足らなかった。きわは高利の金を借りて不足を補った。
 香以はやみに紛れて茶屋へ引き取り、きわにはことばを尽して謝し、「金は店からすぐ届ける」と云いおわって四手よつでに乗り、山城河岸へ急がせた。
 これは香以が三十八歳の時の事であった。この年三月二十三日に、贔屓役者七代目団十郎の寿海老人が、猿若町一丁目の家に歿した。香以は鶴寿と謀って追善の摺物すりものを配った。画は蓮生坊れんしょうぼうに扮した肖像で、豊国がかいた。香以の追悼の句の中に「かへりみる春の姿や海老えびから」と云うのがあった。
 文久元年の夏深川に仮宅のある時であった。香以は旧交をたずねて玄魚、魯文の二人を数寄屋町すきやちょうの島村半七方に招いた。取持には有中、米八が来た。宴を撤してから舟を鞘町河岸さやちょうがしし、松井町の稲本に往った。小稲花鳥はもういなかった。三代目小稲と称していたのは前の小稲の突出つきだし右近である。香以は玄魚と魯文との相方あいかたを極めさせ、自分は有中、米八を連れて辞し去った。
 この年香以は四十歳であった。香以は旧に依って讌遊えんゆうを事としながら、漸く自己の運命を知るに至った。「年四十露に気の附く花野かな。」山城河岸の酒席に森枳園きえんが人をしっしたと云う話も、この頃の事であったらしい。
 文久二年は山城河岸没落の年である。香以は店を継母に渡し、自分は隠居して店から為送しおくりを受けることとし、妾鶴にはいとまり、妻ふさとせがれ慶次郎とを連れて、浅草馬道の猿寺さるでら境内に移った。蕭条しょうじょうたる草のいおかどには梅阿弥の標札が掛かっていた。

       十一

 猿寺の侘住わびずまいに遷った香以は、山城河岸の店から受ける為送しおくりの補足を売文の一途に求めた。河竹新七の紹介に由って、市村座の作者になり、番附に梅阿弥の名を列する。梅の本の名を以てして俳諧の判をする。何廼屋なにのやの名を以てして狂歌の判をする。注文に依って店開の散しを書く。此等はもとよりこの時に始まったのではない。文淵堂ぶんえんどう所蔵の「狂歌本朝二十四孝」「狂歌調子笛」等は早く嘉永六年に印刷せられたものである。ただそれが職業となったのである。しかしこの職業は幾何いくばくの利益をももたらさなかった。
 これに反して所謂いわゆる庵室は昔馴染の芸人等の遊所となった。俳優中では市川新車、おなじく市蔵、同九蔵、板東家橘かきつ等が常の客であった。新車は後の門之助、家橘は後の五代目菊五郎である。香以は今芸人等と対等の交際をする身の上になって、祝儀と云うものは出さぬが、これにきょうする酒飯の価はいささかの売文銭のく償う所ではなかった。何時頃いつごろからの事か知らぬが、香以の家の客には必ずぜんが据えられ、さい塩辛しおからなど一二品に過ぎぬが、膳の一隅には必ず小い紙包が置いてあった。それには二分金がはいっていたそうである。香以はまた負債にくるしめられて、猿寺の収容陣地から更に退却しなくてはならなくなった。これが香以の四十一歳になった年である。
 文久三年の春であった。親戚某が世話をして、香以は下総国千葉郡寒川の白旗八幡前に退隠した。寒川は漁村である。文字を識って俳諧の心得などのあるものは、わずかに二三人に過ぎない。香以は浜の砂地に土俵を作らせ、村の子供を集めて相撲を取らせて、勝ったものには天保銭一枚の纏頭はなを遣りなどした。
 しかし寒川と日本橋との間をば魚介を運ぶ舟が往来する。それに託して河竹新七、永機、竺仙等は書を寄せて香以を慰めた。またたまには便船して自ら訪うこともあった。当時この人々は濃紫のおふさが木綿著物にたすきを掛けて、かいがいしく立ち働くのを見て感心したそうである。「針持つて遊女老いけり雨の月」は香以が実境の句であった。
 ある日天気が好くて海がおだやかなので、香以は浜辺に出ていた。そこへ一隻の舟が著いて、中から江戸の相撲が大勢出た。香以が物めずらしさに顔を見ると、小結以上の知人しるひともいた。相撲は香以を認むるや否やうなずき合って進み寄って、砂の上に平伏した。「これはこれは、河岸の檀那、御機嫌宜ごきげんよろしゅう、こちらに御逗留ごとうりゅうでございますか。どうぞ初日には御見物を。」相撲を迎えに出た土地の人達は、皆驚いて目をみはった。「摂津国屋の隠居はえらい人だと見えて、関取衆が土下座をさっしゃる」と囁き合ったそうである。香以は交肴まぜざかなかごを相撲等に贈って、これがために一月余の節倹をした。
 香以は文久三年から慶応二年まで、足掛四年寒川に住んでいた。四十二歳から四十五歳に至る間である。この間元治元年には梅屋鶴寿が歿した。慶応元年には辻花雪が歿した。花雪は狂歌合と云うことを始めた人である。
 慶応二年に香以は山城河岸に帰った。今は家業の振わぬ店の隠居で、昔の友にも往来ゆききするものが少かった。この頃新堀に後藤進一と云うものがあって、新堀小僧の綽名あだなを花柳のちまたに歌われ、すこぶる豪遊に誇っていた。後藤は香以の帰京を聞いて、先輩としてこれを饗せむと思い立ち、木場の岡田竜吟りゅうぎんと云うものにはかり、香以が昔の取巻、芳年、梅年、紫玉、竺仙等を駆り集め、香以を新橋の料理屋に招いた。香以は「倒されたる大いなるもの」として、この席におもてさらすことを喜ばなかったが、忍んで後藤等の請を容れた。

       十二

 主人側の後藤等はこの宴会の興を添えむために、当時流行の幇間松廼家花山まつのやかざんを呼んだ。花山は裸踊を以て名を博した男である。犢鼻褌とくびこんをだに著けずに真裸になって踊った。しかのみならず裸のままで筆にし難い事をもした。主人側のこれを呼んだのは、もとより流に随って波を揚げたのであるが、その中で紫玉一人は兼て花山の所為しょいにくんでいたので、もし我目前で尾籠びろうの振舞をしたら、懲して遣ろうと待ち構えていた。
 芳年が紫玉の意をはかって、これを花山に告げた。花山はすくいを茶弘に求めた。茶弘は新橋界隈かいわいに幅を利かせていた侠客きょうかくで、花山が親分として戴いていたのである。
 茶弘は花山の請を容れた。筵会の場所は自分の縄張の内である。単身これに赴いてまさに屈辱を受けんとしているものは自分の子分である。この請を容れぬわけには行かない。しかし何の手段を以てこれを救おうか。茶弘はこう考えて、最も簡易な買収の法を取った。後藤の取巻一同には茶弘の祝儀包が配られた。
 紫玉は包を座上になげうって茶弘をののしった。後藤が折角の催もこの殺風景のために興を破られて客は程なく散じた。
 香以は累を後藤に及さんことを恐れて、翌日紫玉を家に呼んで諭した。紫玉をして罪を茶弘に謝せしめようとしたのである。しかし紫玉は聴かなかった。材能さいのう伎芸ぎげいを以て奉承するは男芸者の職分である。廉恥を棄てて金銭を貪るものとするは、そのあえてせざる所である。紫玉が花山を排したのは曲が花山にあったのである。紫玉が祝儀をしりぞけたのは曲が茶弘にあったのである。紫玉は堅くこの説を持して動かなかった。
 香以はむことを得ぬので、人に託して後藤と茶弘との和解を謀った。二人は久保町の売茶亭に会見して、所謂いわゆる手打をしたそうである。これは香以が四十五歳の時の事である。後藤は後に名を庄吉と改めて米の仲買を業としていた。
 慶応三年に辻花雪三回忌の影画合かげえあわせ「くまなきかげ」が刊行せられて、香以は自らこれに序した。巻中の香以の影画にはかみに引いた「針持つて」の句の短冊がしてある。わたくしの看たこの書は文淵堂の所蔵である。
 明治元年に山城河岸の店はとざされた。当時香以の姉夫あねむこは細木伊三郎と称して、山王町に書肆しょしを開いていた。山王町は今の宋十郎町である。香以はふさと慶次郎とを連れて、この伊三郎方に同居した。時に年四十七であった。
 明治三年九月に香以は病に臥して、十日に瞑目めいもくした。年四十九。法諡ほうしは梅余香以居士。願行寺なる父祖の塋域えいいきに葬られた。遺稿の中に。
冬枯れてゐたは貴様か梅の花
紅梅に雪も好けれど加減もの
只遊ぶうきくさも経る月日かな
つごもりや由なき芥子けしの花あかり
盗まれむねぎも作りて後の月
待事のありげに残るのみかな
の高い水に砂吐くしゞみかな
地に著かぬ中ぞ長閑のどけき舞ふ木葉
 自像
花に売る一本物や江戸鰹えどがつを
 自傲じごう
霧晴て皆こちら向く山のなり
 寒川さむかわ
鰺切あぢきりの鈍くも光る寒さかな
 所思
わびぬれば河豚ふぐを見棄てて菜大根
 絶筆
おのれにもきての上か破芭蕉やればせう
 明治四年十月十日の事である。親戚の営むべき一周忌にわざと一月遅れて、昔香以の恩蔭をこうむった人々が、団子坂の小倉是阿弥の家に集まって旧を話し、打連れて墓に詣でた。諸持、鶴寿、花雪、交山は死して既に久しく、書家董斎とうさいの如きは、香以と同じ年の四月に死んでいる。狩野晏川かのうあんせん、河竹新七、其角堂きかくどう永機、竺仙、紫玉、善孝等はこのむれうちにいた。
此墓の落葉むかしの小判哉  永機
 香以去後に凋落ちょうらくして行く遊仲間のさまを示さむがために、此に二三の人の歿年を列記する。為山は明治十一年、玄漁は十三年、隣春ちかはるは十五年、等栽は二十三年、是真は二十四年、晏川あんせんと清満とは二十五年、永機は三十七年である。
 香以の履歴はおもに資料を仮名垣魯文の「再来紀文廓花街」に仰いだ。今紀文曲輪くるわの花道とむのだそうである。鈴木春浦さんが小説の種にもと云って貸してくれた本を、遺忘のために手抄して置いたのである。
 その他根本吐芳とほうさんの「大通人香以」の如きも、わたくしは参照した。しかし根本氏といえども、わたくしと同じく魯文の文に拠ったことであろう。鈴木氏の筆記にかかる益田香遠、久保田米仙二家の談話、弟潤三郎の蔵儲ぞうちょに係る竺仙事橋本素行の刊本「恩」はわたくしのために有益であった。

       十三

 本郷の追分を第一高等学校の木柵もくさくに沿うて東へ折れ、更に北へ曲る角が西教寺と云う寺である。西教寺の門前を過ぎて右にきりの花の咲く寄宿舎の横手を見つつ行けば、三四軒の店が並んでいて、また一つ寺がある。これが願行寺である。
 願行寺は門が露次の奥に南向に附いていて、道を隔てて寄宿舎と対しているのは墓地の外囲そとがこいである。この外囲がもとまばらな生垣で、大小高低さまざまの墓石が、道行人の目に触れていた。今は西教寺も願行寺も修築せられ、願行寺の生垣は一変して堅固な石塀いしべいとなった。ただ空にそびえて鬱蒼うっそうたる古木の両三株がその上をおおうているだけが、昔の姿を存しているのである。
 わたくしはある日香以が一家の墓を訪おうと思って、願行寺の門を入った。門内の杉の木立の中に、紺飛白こんがすり浴衣ゆかたを著た壮漢が鉄唖鈴てつあれいを振っていて、人の来たのを顧みだにしない。本堂の東側から北裏へ掛けて並び立っている墓石を一つ一つ見て歩いた。日はもう傾きかかって来るに、尋ぬる墓表は見附からなかった。
 たちま穉子おさなごの笑う声がしたので、わたくしは振り向いて見た。顔容かおかたちの美くしい女が子を抱いてたたずんで、わたくしの墓表の文字を読んで歩くのを見ていた。
 わたくしは捜索を中止して、「あなたはお寺の方ですか」と問うた。
「はい。どなたのお墓をおたずねなさいますのです。」女の声音こわねは顔色と共にはればれとしていて、陰鬱なる周囲の光景には調和していなかった。
「摂津国屋と云うものです。苗字はさいきでしょうか。」魯文の記事には「さいき」とも「ほそき」とも傍訓がしてあるが、わたくしは「さいき」が正しいよみであるのを、たまたま植字者が「ほそき」と誤ったものかと思っていたのである。
「では細いと云う字を書くのでしょう。」この女は文字を識っていた。
「そうです。御存じでしょうか。」
「ええ、存じています。あの衝当つきあたりにあるのが摂津国屋の墓でございます。」抱かれている穉子おさなごはわたくしを見て、しきりに笑っておどり上がった。
 わたくしは女に謝して墓にまいった。わたくしはなんだか新教の牧師の妻とでも語ったような感じがした。
 本堂の東側の中程に、真直まっすぐに石塀に向って通じている小径こみちがあって、その衝当つきあたりに塀を背にし西に面して立っているのが、香以が一家の墓である。
 向って左側には石燈籠が立ててあって、それに「津国屋」と刻してある。
 墓は正方形に近く、やや横の広い面の石に、上下二段に許多あまたの戒名がり附けてあって、下にはおのおの命日が註してある。

       十四

 摂津国屋の墓石には、遠く祖先にさかのぼって戒名が列記してあるので、香以の祖父から香以自身までの法諡ほうしは下列の左の隅に並んでいる。
 もうおわって帰る時、わたくしはまた子を抱いた女のそばを通らなくてはならなかった。わたくしは女に問うた。
「親類の人が参詣さんけいしますか。」
「ええ。余所よそへおよめに往った方が一人残っていなすって、忌日には来られます。芝の炭屋さんだそうで、たしか新原元三郎と云う人のおかみさんだと存じます。住職は好く存じていますが、只今留守でございます。なんなら西教寺とこちらとの間に花屋が住っていますから、聞いて御覧なさいまし。」
 わたくしは再び女に謝して寺を出た。そして往来に立ち止って花屋を物色した。
 西教寺と願行寺との間の町家は皆新築の小さい店になっている。その間に挟まれて、ほとんど家とは云い難い程の小家の古びたのが一軒あって、葭簀よしずが立て廻してある。わたくしはそれを見て、かつてその前にしきみのあるのを見たことを想起した。
 わたくしは葭簀の中に這入った。家の内はもうほとんど真暗である。ひとみを定めて見れば、老いさらぼうた翁媼おううんうずくまっている。家も人も偶然開化の舌にめ残されたかと感ぜられる。またお伽話とぎばなしの空気がやみうちに浮動しているかとも感ぜられる。
「もしもし」と云うと、おきなが立って出迎えた。おうなは蹲ったままでいた。
「願行寺にある摂津国屋の墓を知っているでしょうね」と、わたくしは問うた。しかし翁も媼も耳が遠いので、わたくしは次第に声を大くして二三度繰り返さなくてはならなかった。
 奥にいる媼が先にわたくしのことばを聞き分けて、「あのほそきさんですか」と云った。わたくしは此に依って一度香以の苗字を「ほそき」と訓むこととして、この稿を排印に付した。しかしかの香以と親しかった竺仙が「さいき」と書するを見て、なお「さいき」と正しかるべきを思った。
 わたくしは香以のすえの芝にいる女の名を問いその夫の名をもたしかめようと思ったが、二人共何一つ知らなかった。
 ただ媼がこんな事を言った。「大そうお金持だったそうでございますね。あの時本の少しばかりでいから、お金が残して置いて貰われたらと、いつもそうおっしゃいます。」
 わたくしは翁の手に小銀貨をわたして、樒を香以が墓に供することを頼んだ。
「承知いたしました。もう暮れましたから明朝の事にいたしましょう」と、翁は答えた。
 わたくしはその後願行寺の住職を訪おうともせずにいて、遂に香以の裔の事をつまびらかにせぬままに、この稿を終ってしまった。頃日このごろ高橋邦太郎さんに聞けば、文士芥川龍之介さんは香以の親戚だそうである。もし芥川氏の手にってこの稿のあやまりただすことを得ば幸であろう。

       十五

 疇昔ちゅうせきの日わたくしは鹿嶋屋清兵衛かじまやせいべえさんの逸事に本づいて、「百物語」をあらわした。文中わたくしの鹿嶋屋をことばに、やや論讃に類するものがあった時、一の批評家がわたくしの「僭越」を責めた。そのつまびらかなることは今わたくしの記憶に存せぬが、彼批評家には必ずや文集があるべく、これをひもといたら、百物語評を検出することもまた容易であろう。
 鹿嶋屋は「大尽」である。寒生のわたくしがその境界をうかがい知ることを得ぬのは、乞丐こつがいが帝王の襟度きんど忖度そんたくすることを得ぬと同じである。ここにおいてや僭越のそしりが生ずる。
 人生の評価は千殊万別である。父が北千住に居った時、家に一があった。肥白ひはくにして愛想好く、挙止もまた都雅であった。然るにこの婢の言う所は、一々わたくし共兄弟姉妹の耳を驚かした。
 婢はいとけなくして吉原の大籬おおまがきつかえ、忠実を以て称せられていた。その千住の親里に帰ったのは、年二十をえたのちである。
 婢は「おいらん」を以て人間のもっとも尊貴なるものとしている。公侯伯子男の華族さんも、大臣次官の官員さんも婢がためには皆野暮なお客である。貸座敷の高楼大厦とそのうちにある奴婢ぬひ臧獲ぞうかくとは、おいらんを奉承し装飾する所以ゆえんの具で、貸座敷の主人はいかに色をさかんにし威を振うとも此等これらの雑輩に長たるものに過ぎない。
 婢の思量感懐はことごとくおいらんを中心として発動している。婢の目を以て視れば、吉原は文、吉原以外は野、吉原は華、吉原以外はである。それは吉原がおいらんのいますレジダンスだからである。
「よしや、何かお話をしておくれ」と弟が云う。よしは婢の名であった。
「さあ、いらっしゃい。お話をいたしましょう。」よしは台所の板の間におとなしくすわって、弟を円くうずだかひざの上に招き寄せる。声は清くほがらかである。「昔おいらんがございました。そのおいらんは目っかちでございました。そこへお客がまいりました。そのお客はあばたでございました。朝お客が帰る時、おいらんが送って出て、柚子ゆず来なますえと申しました。そら、あばたの顔は柚子見たいでございましょう。するとお客が、目っかち四っかち時分には来ようよと申しましたとさ。」よしのお伽話にはおいらんとお客とのみが人物として出るのである。
 人生の評価は千殊万別である。仏も王とすべく、魔も王とすべきである。大尽王香以、清兵衛を立つるときは、微塵数のパルヴニュウは皆守銭奴となって懺悔ざんげし、おいらん王を立つるときは、貞婦烈女も賢妻良母も皆わけしらずのおぼことなって首をるるであろう。
 名僧智識の宗教家王たるべきが如く、小説家王たるべきものもあろう。碩学せきがく大儒たいじゅの哲学者王たるべきが如く、批評家王たるべきものもあろう。出版業者王たるべきものもあろう。新聞経営者王たるべきものもあろう。人生の評価は千殊万別である。
 わたくしは伊沢蘭軒、渋江抽斎を伝した後、たまたま来ってこの細木香以を伝した。※才せんさい[#「車+全」、583-6]わたくしの如きものが敢て文を作れば、その選ぶ所の対象の何たるを問わず、またつとめて論評にわたることを避くるにかかわらず、僭越は免れざる所である。
(大正六年九・十月)

       ――――――――――――――――――――

 右の細木香以伝は匆卒そうそつに稿を起したので、多少の誤謬ごびゅうを免れなかった。わたくしはここにこれを訂正して置きたい。
 香以伝の末にわたくしは芥川龍之介さんが、香以の族人だと云うことを附記した。幸に芥川氏はわたくしに書を寄せ、またわたくしを来訪してくれた。これは本初対面の客ではない。打絶えていただけの事である。
 芥川氏のいわく。香以には姉があった。その婿むこが山王町の書肆しょし伊三郎である。そして香以は晩年をこの夫婦の家に送った。
 伊三郎の女をともと云った。儔は芥川氏にいた。龍之介さんは儔の生んだ子である。龍之介さんのあらわした小説集「羅生門」中に「孤独地獄」の一篇がある。その材料は龍之介さんが母に聞いたものだそうである。この事は龍之介さんがわたくしをうに先だって小島政二郎さんがわたくしに報じてくれた。
 わたくしはまた香以伝に願行寺の香以の墓にもうでる老女のあることを書いた。そしてその老女が新原元三郎という人の妻だと云った。芥川氏に聞けば、老女は名をえいと云う。香以の嫡子が慶三郎で、慶三郎の女がこのえいである。えいの夫の名は誤っていなかった。
 わたくしはえいが墓参の事を言うついでに附記したい。それは願行寺のしきみ売の翁媼おううんの事である。えいの事をわたくしの問うたこの翁媼は今や亡き人である。先日わたくしは第一高等学校の北裏を歩いて、ふと樒屋の店のとざされているのに気が付いたので、近隣の古本屋をおとずれて、翁媼の消息を聞いた。翁は四月頃に先ず死し、まだ百箇日の過ぎぬ間に、媼もいで死したそうである。わたくしは多少心を動さざることを得なかった。これを記している処へ、丁度宮崎虎之助さんの葉書が来た。「合掌礼拝らいはい。森君よ。ずっと向うに見えて居るのは何でしょう。あれは死ですね。最も賢き人は死をしかと認めて居ますね。十二月七日。祈祷きとう。」
 次にわたくしは芥川氏に聞いた二三の雑事をしるして置く。香以の氏細木は、正しくは「さいき」とむのだそうである。しかし「ほそき」と呼ぶ人も多いので、細木氏自らも「ほそき」と称したことがあるそうである。
 芥川氏は香以の辞世の句をわたくしに告げた。わたくしは魯文の記する所に従って、「絶筆、おのれにもあきての上か破芭蕉」の句を挙げて置いた。しかし真の辞世の句は「梅が香やちよつと出直す垣隣かきどなり」だそうである。梅が香の句は灑脱しゃだつの趣があって、この方が好い。
 芥川氏の所蔵に香以の父竜池が鎌倉、江の島、神奈川を歴遊した紀行一巻がある。上木し得るまでに浄写した美麗な巻で、一勇斎国芳の門人国友の挿画数十枚が入っている。
 この游は安政二年乙卯おつぼう四月六日に家を発し、五日間の旅をして帰ったものである。巻首に「きのとのといへるとし、同じ月始の六日」と云ってある。また巻末に添えられた六山寅の七古の狂詩に、「四海安政乙卯年」「袷衣四月毎日楽」「往来五日道中穏」等の句がある。乙卯おつぼうは冬大地震のあった年である。
 巻中に名を烈している一行は洒落翁、国朝、仙鶴、宗理、仙廬(晴閑斎)、経栄、小三次(鳥羽)、国友、鳶常、仙窩、料虎、按幸(按摩幸助)、以上十二人である。洒落翁は竜池であろう。この中に伊三郎がいたそうであるが、その号をつまびらかにしない。香以は「親爺おやじの供をしては幅が利かぬから御免だ」と云って往かなかったそうである。
 一行が帰るとき迎えに出た人々は、香以、雁伍(石川甫淳)、余瓶、以白、集雨(玄々真人)以上五人である。
「巣へもどる親まつにほのもろ音哉。香以。」
 跋文ばつぶんは香以が自ら草している。その他数人の歌俳及古今体狂詩が添えてある。
 按ずるに乙卯は竜池の歿する前年で、香以は三十四歳になっていた。わたくしの芥川氏に聞いた事はほぼ此に尽きている。
 わたくしに香以の事を語った人は、独り芥川氏のみではない。一知人はこう云う事を言った。「明治の初年に今戸橋の傍に湊屋みなとやという芸者屋があった。主人は河野と云って背の低い胖大漢はんだいかんであった。その妻は吉原の引手茶屋湊屋の女みなというもので、常にみいちゃんと呼ばれていた。芸者屋の湊屋と号するも、吉原の湊屋の号より取ったものであった。明治四年二月の頃、この家の抱えは貫六、万吉、留八の三人であった。この河野は香以の息だと聞いた。」この話は正確を保し難い。かつ未だ芥川氏にも尋ねて見ない。しかし河野が果して香以の息であったならば、即慶三郎のなれの果ではなかろうか。
 香以の交遊諸人に関しても、わたくしは二三の報を得た。尾道の古怪庵加藤氏は云う。「香以伝に香以の友晋永機を出し、その没年を明治三十七年としたのは誤であろう。今の機一君の父も永機、祖父も永機であった。香以の友は祖父の方であろう。そして明治三十七年に没したと云うは父の方であろう。」わたくしは其角堂の世系を詳にせぬから、あるいはかくの如き誤をなしたかも知れない。そこで浅草の文淵堂主人に問い合せた。文淵堂の答書はこうである。「香以の友であった永機はまた九代目市川団十郎、五代目尾上菊五郎とも交が深かった。団十郎の筆蹟は永機そっくりであった。この永機は明治初年の頃に向島の三囲みめぐり社内の其角堂に住み、のち芝円山辺に家を移して没した。没した日は明治三十七年一月十日で、行年八十二歳であった。寺は其角と同じく二本榎上行寺である。」文淵堂のことに従えば、わたくしの記事には誤がなかったらしい。なお考うべきである。
 香以のその他の友に関して、近隣の梅本高節さんは語った。「香以の友阿心庵是仏が谷中三河屋の主人なることは伝に見えていた。是仏の俗称は斎藤権右衛門であった」と云うのである。わたくしはこれを聞いて始て是仏の狩谷矩之の生父なることを知った。斎藤権右衛門には三子があった。長を権之助という。是が四世清元延寿太夫である。諸書にこの人の俗称を源之助と書してあるが、あるいは後に改めたものか。仲は狩谷三平懐之(□斎望之の実子)の養子三右衛門矩之である。季が父の称をいで権右衛門と云い、質店の主人となったと云う。
 梅本氏はまた香以の今一人の友小倉是阿弥の事を語った。「是阿弥は高木氏で、小倉はその屋号であった。その団子坂上の質商であったことは伝に云うが如くである。是阿弥の妻をぎんと云って、その子を佐平と云った。また佐平に息真太郎、むすめ啓があった。然るに佐平もその子女も先ず死して、未亡人ぎんが残った。これが崖上がけうえの家の女主人であった。」わたくしは此に由って、父が今の家を是阿弥の未亡人の手から買い取ったと云うことを知った。
 香以の他の友人二人の事は文淵堂主人が語った。石橋真国と柴田是真との事である。「石橋真国は語学に関する著述未刊のもの数百巻を遺した。今松井簡治さんの蔵儲ぞうちょに帰している。所謂いわゆるやわらかものには『隠里の記』というのがある。これは岡場所の沿革を考証したものである。真国は唐様からようの手を見事に書いた。職業は奉行所の腰掛茶屋の主人であった。柴田是真は気□きがいのある人であった。香以とは極めて親しく、香以の摺物すりものにはこの人の画のあるものが多い。是真の逸事にこう云う事がある。ある時是真は息と多勢の門人とを連れて吉原に往き、にわかを見せた。席上には酒肴しゅこうを取り寄せ、門人等に馳走した。然るに門人中坐容を崩すものがあったのを見て、大喝して叱した。遊所に足を容るることをば嫌わず、物にこだわらぬ人で、その中に謹厳な処があった。」
(大正六年九月―十月)

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