父が開業をしていたので、花房はなぶさ医学士は卒業する少し前から、休課に父のもとへ来ている間は、代診の真似事まねごとをしていた。
 花房の父の診療所は大千住おおせんじゅにあったが、小金井きみ子という女が「千住の家」というものを書いて、くわしくこの家の事を叙述しているから、locoロコ citatoチタト としてここにはぜいせない。Monetモネエ なんぞは同じ池に同じ水草のえている処を何遍も書いていて、時候が違い、天気が違い、一日のうちでも朝夕の日当りの違うのを、人にあじわわせるから、一枚見るよりは較べて見る方が面白い。それは巧妙な芸術家の事である。同じモデルの写生を下手へたに繰り返されては、たまったものではない。ここらで省筆せいひつをするのは、読者に感謝してもらってもい。
 もっともきみ子はあの家の歴史を書いていなかった。あれを建てた緒方某おがたぼうは千住の旧家で、徳川将軍が鷹狩たかがりの時、千住で小休みをする度毎たびごとに、緒方の家が御用を承わることにまっていた。花房の父があの家をがらくたと一しょに買い取った時、天井裏から長さ三尺ばかりの細長い箱が出た。ふた御鋪物おんしきものと書いてある。御鋪物とは将軍の鋪物である。今は花房の家で、その箱に掛物が入れてある。
 火事にもわずに、だいぶ久しく立っている家と見えて、すこぶる古びが附いていた。柱なんぞは黒檀こくたんのように光っていた。硝子ガラスの器を載せた春慶塗しゅんけいぬりの卓や、白いシイツをおおうた診察用の寝台ねだいが、この柱と異様なコントラストをなしていた。
 この卓や寝台の置いてある診察室は、南向きの、一番広い間で、花房の父が大きい雛棚ひなだなのような台を据えて、盆栽を並べて置くのは、この室の前の庭であった。病人を見て疲れると、このひげの長いおきなは、目を棚の上の盆栽に移して、ひそかに自らたのしむのであった。
 待合まちあいにしてある次の間には幾ら病人がまっていても、翁は小さい煙管きせるで雲井を吹かしながら、ゆっくり盆栽をながめていた。
 午前に一度、午後に一度は、極まって三十分ばかり休む。その時は待合の病人の中を通り抜けて、北向きの小部屋に這入はいって、煎茶せんちゃを飲む。中年の頃、石州流の茶をしていたのが、晩年に国を去って東京に出た頃から碾茶ひきちゃめて、煎茶を飲むことにした。盆栽と煎茶とが翁の道楽であった。
 この北向きの室は、家じゅうで一番狭い間で、三畳敷である。何の手入もしないに、年々宿根しゅくこんが残っていて、秋海棠しゅうかいどうが敷居と平らに育った。その直ぐ向うは木槿もくげ生垣いけがきで、垣の内側にはまばらに高い棕櫚しゅろが立っていた。
 花房が大学にいる頃も、官立病院に勤めるようになってからも、休日に帰って来ると、ずこの三畳で煎茶を飲ませられる。当時八犬伝に読みふけっていた花房は、これをお父うさんの「三茶の礼」と名づけていた。
 翁が特に愛していた、蝦蟇出がまでという朱泥しゅでい急須きゅうすがある。わたり二寸もあろうかと思われる、小さい急須の代赭色たいしゃいろはだえPemphigusペンフィグス という水泡すいほうのような、大小種々のいぼが出来ている。多分焼く時に出来損ねたのであろう。この蝦蟇出の急須に絹糸の切屑きりくずのように細かくよじれた、暗緑色の宇治茶を入れて、それに冷ました湯をいで、しばらく待っていて、茶碗ちゃわんらす。茶碗の底には五立方サンチメエトル位の濃い帯緑黄色の汁が落ちている。花房はそれをめさせられるのである。
 甘みはかすかで、苦みの勝ったこの茶をも、花房は翁の微笑と共に味わって、それを埋合せにしていた。
 或日こう云う対坐の時、花房が云った。
「お父うさん。わたくしも大分理窟だけは覚えました。少しお手伝をしましょうか」
「そうじゃろう。理窟はわしよりはえらいに違いない。むずかしい病人があったら、見て貰おう」
 この話をしてから、花房は病人をちょいちょい見るようになったのであった。そして翁の満足をち得ることも折々あった。
 翁の医学は Hufelandフウフェランド の内科を主としたもので、その頃もう古くなって用立たないことが多かった。そこで翁は新しい翻訳書を幾らか見るようにしていた。とフウフェランドは蘭訳らんやくの書を先輩の日本訳の書に引き較べて見たのであるが、新しい蘭書を得ることが容易たやすくなかったのと、多くの障碍しょうがいしのいで横文おうぶんの書を読もうとする程の気力がなかったのとのめに、昔読み馴れた書でない洋書を読むことを、翁は面倒がって、とうとう翻訳書ばかり見るようになったのである。ところが、その翻訳書のかずが多くないのに、善い訳は少ないので、翁の新しい医学の上の智識にはすこぶる不十分な処がある。
 防腐外科なんぞは、翁は分っている積りでも、実際本当には分からなかった。丁寧に消毒した手を有合ありあわせ手拭てぬぐいくような事が、いつまでも止まなかった。
 これに反して、若い花房がどうしても企て及ばないと思ったのは、一種の Coupクウ d'□ilドヨイユ であった。「この病人はもう一日は持たん」と翁が云うと、その病人はきっと二十四時間以内に死ぬる。それが花房にはどう見ても分からなかった。
 只これだけなら、少花房が経験の上で老花房に及ばないと云うに過ぎないが、実はそうでは無い。翁の及ぶべからざる処が別に有ったのである。
 翁は病人を見ている間は、全幅の精神をもって病人を見ている。そしてその病人が軽かろうが重かろうが、鼻風だろうが必死の病だろうが、同じ態度でこれに対している。盆栽をもてあそんでいる時もその通りである。茶をすすっている時もその通りである。
 花房学士は何かしたい事もしくはするはずの事があって、それをせずにしばらく病人を見ているという心持である。それだから、同じ病人を見ても、平凡な病だとつまらなく思う。Int□ressantエントレッサン の病症でなくてはき足らなく思う。又偶々たまたま所謂いわゆる興味ある病症を見ても、それを研究して書いて置いて、業績として公にしようとも思わなかった。勿論もちろん発見も発明も出来るならしようとは思うが、それを生活の目的だとは思わない。始終何か更にしたい事、する筈の事があるように思っている。しかしそのしたい事、する筈の事はなんだか分からない。或時は何物かが幻影の如くに浮んでも、捕捉することの出来ないうちに消えてしまう。女の形をしている時もある。種々の栄華の夢になっている時もある。それかと思うと、その頃碧巌へきがんを見たり無門関むもんかんを見たりしていたので、禅定ぜんじょうめいた contemplatifコンタンプラチイフ な観念になっている時もある。とにかく取留めのないものであった。それが病人を見る時ばかりではない。何をしていても同じ事で、これをしてしまって、片付けて置いて、それからというような考をしている。それからどうするのだか分からない。
 そして花房はその分からない或物が何物だということを、いて分からせようともしなかった。ただ或時はその或物を幸福というものだと考えて見たり、或時はそれを希望ということに結び付けて見たりする。その癖又それを得れば成功で、失えば失敗だというような処までは追求しなかったのである。
 しかしこの或物が父に無いということだけは、花房もとっくに気が付いて、初めは父がつまらない、内容の無い生活をしているように思って、それは老人だからだ、老人のつまらないのは当然だと思った。そのうち、熊沢蕃山くまざわばんざんの書いたものを読んでいると、志を得て天下国家を事とするのも道を行うのであるが、平生顔を洗ったり髪をくしけずったりするのも道を行うのであるという意味の事が書いてあった。花房はそれを見て、父の平生へいぜいを考えて見ると、自分が遠い向うに或物を望んで、目前の事をい加減に済ませて行くのに反して、父はつまらない日常の事にも全幅の精神を傾注しているということに気が附いた。宿場しゅくばの医者たるに安んじている父の r□signationレジニアション の態度が、有道者の面目に近いということが、朧気おぼろげながら見えて来た。そしてその時からにわかに父を尊敬する念を生じた。
 実際花房の気の付いた通りに、翁の及び難いところはここにそんじていたのである。
 花房は大学を卒業して官吏になって、半年ばかりも病院で勤めていただろう。それから後は学校教師になって、Laboratoriumラボラトリウム出入しゅつにゅうするばかりで、病人というものを扱った事が無い。それだから花房の記憶には、いつまでも千住の家で、父の代診をした時の事が残っている。それが医学をした花房の医者らしい生活をした短い期間であった。
 その花房の記憶にわずかに残っている事を二つ三つ書く。一体医者の為めには、軽い病人も重い病人も、贅沢薬ぜいたくぐすりを飲む人も、病気が死活問題になっている人も、ひとしくこれ casusカズス である。Casusカズス として取り扱って、感動せずに、冷眼に視ている処に医者の強みがある。しかし花房はそういう境界には到らずにしまった。花房はまだ病人が人間に見えているうちに、病人を扱わないようになってしまった。そしてその記憶には唯 Curiosaクリオザ が残っている。作者が漫然と医者の術語を用いて、これに Casuisticaカズイスチカ と題するのは、花房の冤枉えんおうとする所かも知れない。
 落架風らっかふう。花房が父に手伝をしようと云ってから、間のない時の事であった。丁度新年で、門口に羽根をいていた、花房の妹の藤子が、きゃっと云って奥の間へ飛び込んで来た。花月新誌の新年号を見ていた花房が、なんだと問うと、恐ろしい顔の病人が来たと云う。どんな顔かと問えば、只食い附きそうな顔をしていたから、二目と見ずに逃げて這入ったと云う。そこへ佐藤という、色の白い、髪を長くしている、越後えちご生れの書生が来て花房に云った。
「老先生が一寸ちょっといで下さるようにとおっしゃいますが」
「そうか」
 と云って、花房は直ぐに書生と一しょに広間に出た。
 春慶塗の、楕円形だえんけいをしている卓の向うに、翁はにこにこした顔をして、椅子いすり掛かっていたが、花房に「あの病人を御覧」と云って、顔で方角を示した。
 寝台ねだいの据えてあるあたりの畳の上に、四十しじゅう余りのおかみさんと、二十はたちばかりの青年とが据わっている。藤子が食い付きそうだと云ったのは、この青年の顔であった。
 色の蒼白あおじろい、面長おもながな男である。下顎したあご後下方こうかほうへ引っ張っているように、口をいているので、その長い顔がほとんど二倍の長さに引き延ばされている。絶えずよだれが垂れるので、畳んだ手拭であごを拭いている。顔位の狭い面積の処で、一部を強く引っ張れば、全体の形が変って来る。醜くくはない顔の大きい目が、外眦がいさいを引き下げられて、異様にひらいて、物に驚いたように正面を凝視している。藤子が食い付きそうだと云ったのも無理は無い。
 附き添って来たお上さんは、目のふちを赤くして、涙声で一度翁に訴えた通りを又花房に訴えた。
 お上さんの内には昨夜ゆうべ骨牌会かるたかいがあった。息子さんはたれやらと札の引張合いをして勝ったのが愉快だというので、大声に笑った拍子に、顎が両方一度にはずれた。それから大騒ぎになって、近所の医者に見て貰ったが、めてはくれなかった。このままで直らなかったらどうしようというので、息子よりはお上さんが心配して、とうとうられなかったというのである。
「どうだね」
 と、翁は微笑ほほえみながら、若い学士の顔を見て云った。
「そうですね。診断は僕もお上さんに同意します。両側下顎脱臼りょうそくかがくだっきゅうです。昨夜ゆうべ脱臼したのなら、直ぐに整復が出来る見込です」
って御覧」
 花房は佐藤にガアゼを持って来させて、両手の拇指おやゆびを厚く巻いて、それを口にし入れて、下顎を左右二箇所で押えたと思うと、後部を下へぐっと押し下げた。手をゆるめると、顎は見事に嵌まってしまった。
 二十の涎繰よだれくりは、今まで腮を押えていた手拭で涙を拭いた。お上さんもたもとから手拭を出してうれし涙を拭いた。
 花房はしたり顔に父の顔を見た。父は相変らず微笑んでいる。
「解剖を知っておるだけの事はあるのう。始てのようではなかった」
 親子が喜び勇んで帰ったあとで、翁はことばいでこう云った。
「下顎の脱臼は昔は落架風と云って、或る大家は整復の秘密を人に見られんように、大風炉敷おおぶろしきを病人の頭からかぶせて置いて、術を施したものだよ。骨の形さえ知っていれば秘密は無い。皿の前の下へ向いて飛び出している処を、背後うしろへ越させるだけの事だ。学問は難有ありがたいものじゃのう」
 一枚板。これは夏のことであった。瓶有村かめありむらの百姓が来て、せがれが一枚板になったから、来て見て貰いたいと云った。佐藤が色々容態を問うて見ても、只繰り返して一枚板になったというばかりで、その外にはなんにも言わない。言うすべを知らないのであろう。翁は聞いて、丁度暑中休みで帰っていた花房に、なんだか分からないが、余り珍らしい話だから、往って見る気は無いかと云った。
 花房は別に面白い事があろうとも思わないが、訴えのことばに多少の好奇心を動かされないでもない。とにかく自分が行くことにした。
 蒸暑い日の日盛りに、車で風を切って行くのは、かえって内にいるよりは好い心持であった。田と田との間に、堤のように高く築き上げてある、長い長い畷道なわてみちを、汗を拭きながらいて行く定吉に「暑かろうなあ」と云えば「なあに、寝ていたって、暑いのは同じ事でさあ」と云う。一本一本のはんの木から起るせみの声に、空気の全体がかすかにふるえているようである。
 三時頃に病家に著いた。杉の生垣いけがきの切れた処に、柴折戸しおりどのような一枚のとびらを取り付けた門を這入ると、土を堅く踏み固めた、広い庭がある。穀物を扱う処である。乾き切った黄いろい土の上に日が一ぱいに照っている。狭く囲まれた処に這入ったので、蝉の声が耳をふさぎたい程やかましく聞える。その外には何の物音もない。村じゅうが午休ひるやすみをしている時刻なのである。
 庭の向うに、横に長方形に立ててある藁葺わらぶきの家が、建具をことごとくはずして、開け放ってある。東京近在の百姓家の常で、向って右に台所や土間が取ってあって左の可なり広い処を畳敷にしてあるのが、只一目に見渡される。
 縁側なしに造った家の敷居、鴨居かもいから柱、天井、壁、畳まで、bitumeビチュウム の勝った画のように、濃淡種々の茶褐色に染まっている。正面の背景になっている、濃い褐色に光っている戸棚の板戸の前に、煎餅布団せんべいぶとんを敷いて、病人が寝かしてある。家族の男女が三四人、涅槃図ねはんずを見たように、それを取り巻いている。まだ余りよごれていない、病人の白地の浴衣ゆかたが真白に、西洋の古い戦争の油画で、よく真中にかいてある白馬のように、目を刺激しげきするばかりで、周囲の人物も皆褐色である。
「お医者様が来ておくんなされた」
 と誰やらが云ったばかりで、って出迎えようともしない。男も女も熱心に病人を目守まもっているらしい。
 花房の背後うしろに附いて来た定吉は、左の手で汗を拭きながら、げて来た薬籠やくろうの風呂敷包を敷居のきわに置いて、台所の先きの井戸へ駈けて行った。直ぐにきいきいと轆轤ろくろきしる音、ざっざっと水をこぼす音がする。
 花房はしばらく敷居の前に立って、内の様子を見ていた。病人は十二三の男の子である。熱帯地方の子供かと思うように、ひどく日に焼けた膚の色が、白地の浴衣で引っ立って見える。筋肉のまった、細く固く出来た体だということが一目で知れる。
 暫く見ていた花房は、駒下駄こまげたを脱ぎ棄てて、一足敷居の上に上がった。その刹那せつなの事である。病人は釣り上げたこいのように、煎餅布団の上で跳ね上がった。
 花房は右の片足を敷居に踏み掛けたままで、はっと思って、左を床の上へ運ぶことを躊躇ちゅうちょした。
 横に三畳の畳を隔てて、花房が敷居に踏み掛けた足の撞突とうとつが、波動を病人の体に及ぼして、微細な刺戟が猛烈な全身の痙攣けいれんいざない起したのである。
 家族が皆じっとして据わっていて、起って客を迎えなかったのは、百姓の礼儀を知らない為めばかりではなかった。
 診断は左の足を床の上に運ぶ時に附いてしまった。破傷風である。
 花房はそっとそばに歩み寄った。そして手を触れずに、やや久しく望診していた。一枚の浴衣を、胸をあらわして著ているので、ほとんど裸体も同じ事である。全身の筋肉が緊縮して、体は板のようになっていて、それが周囲のあらゆる微細な動揺に反応はんおうして、痙攣を起す。これは学術上の現症記事ではないから、一々の徴候は書かない。しかし卒業して間もない花房が、まだ頭にそっくり持っていた、内科各論の中の破傷風の徴候が、何一つわすれられずに、印刷したように目前に現れていたのである。鼻の頭に真珠を並べたようにみ出している汗までが、約束通りに、遺れられずにいた。
 一枚板とは実に簡にして尽した報告である。知識のわたくしに累せられない、純樸じゅんぼくな百姓の自然の口からでなくては、こんなことばの出ようが無い。あの報告は生活の印象主義者の報告であった。
 花房は八犬伝の犬塚信乃いぬづかしのの容体に、少しも破傷風らしい処が無かったのを思い出して、心のうち可笑おかしく思った。
 そばにいた両親のかわがわる話すのを聞けば、この大切な一人息子は、夏になってから毎日裏の池で泳いでいたということである。体中にきむしったようなきずの絶えない男の子であるから、病原菌の浸入口はどこだか分からなかった。
 花房は興味ある casusカズス だと思って、父に頼んでこの病人の治療を一人で受け持った。そしてその経過を見に、度々瓶有村の農家へ、炎天をおかして出掛けた。途中でひどい夕立にって困った事もある。
 病人は恐ろしい大量の Chloralクロラアル を飲んで平気でいて、とうとう全快してしまった。
 生理的腫瘍しゅよう。秋の末で、南向きの広間の前の庭に、木葉が掃いても掃いてもまる頃であった。丁度土曜日なので、花房は泊り掛けに父の家へ来て、診察室の西南にしみなみに新しく建て増した亜鉛葺トタンぶきの調剤室と、その向うに古いなつめの木の下に建ててある同じ亜鉛葺の車小屋との間の一坪ばかりの土地に、その年沢山実のなった錦茘支れいしつるの枯れているのをむしっていた。
 その時調剤室の硝子窓ガラスまどを開けて、佐藤が首を出した。
一寸ちょっと若先生に御覧を願いたい患者がございますが」
「むずかしい病気なのかね。もうおっさんが帰っておいでになるだろうから、またせて置けばいじゃないか」
「しかしもうだいぶ長く待せてあります。今日の最終の患者ですから」
「そうか。もうあとみんな帰ったのか。道理でひどく静かになったと思った。それじゃあ余り待たせても気の毒だから、僕が見ても好い。一体どんな病人だね」
「もう土地の医師の処を二三軒廻って来た婦人の患者です。最初誰かに脹満ちょうまんだと云われたので、水を取って貰うには、外科のお医者が好かろうと思って、誰かの処へ行くと、どうも堅いからがんかも知れないと云って、針を刺してくれなかったと云うのです」
「それじゃあ腹水か、腹腔ふくこうの腫瘍かという問題なのだね。君は見たのかい」
「ええ。波動はありません。既往症を聞いて見ても、肝臓に何か来そうな、取り留めた事実もないのです。酒はどうかと云うと、いやではないと云います。はてなと思って好く聞いて見ると、飲んでも二三杯だと云うのですから、まさか肝臓に変化をきたす程のこともないだろうと思います。栄養は中等です。悪性腫瘍らしい処は少しもありません」
「ふん。とにかく見よう。今手を洗って行くから、待ってくれ給え。一体医者が手をこんなにしてはたまらないね、君」
 花房は前へ出した両手の指のよごれたのを、かがめて広げて、人につかみ付きそうな風をして、佐藤に見せて笑っている。
 佐藤が窓を締めて引っ込んでから、花房はゆっくり手を洗って診察室に這入った。
 例の寝台のあしの処に、二十二三の櫛巻くしまきの女が、半襟はんえりの掛かった銘撰めいせん半纏はんてんを着て、絹のはでな前掛を胸高むなだかに締めて、右の手を畳にいて、体を斜にして据わっていた。
 琥珀色こはくいろを帯びた円い顔の、目のふちが薄赤い。その目でちょいと花房を見て、直ぐに下を向いてしまった。Clienteクリアント としてこれに対している花房も、ひどくこびのある目だと思った。
「寝台に寝させましょうか」
 と、附いて来た佐藤が、知れ切った事を世話焼顔に云った。
「そう」
 若先生に見ていただくのだからと断って、佐藤が女に再び寝台に寝ることを命じた。女は壁の方に向いて、前掛と帯と何本かのひもとを、随分気長に解いている。
「先生が御覧になるかも知れないと思って、さっきそのままで待っているように云っといたのですが」
 と、佐藤は言分けらしくつぶやいた。掛布団もない寝台の上でそのまま待てとは女の心を知らない命令であったかも知れない。
 女は寝た。
ひざを立てて、楽に息をしておいで
 と云って、花房は暫くり合せていた両手の平を、女の腹に当てた。そしてちょいと押えて見たかと思うと「聴診器を」と云った。
 花房は佐藤の卓の上から取って渡す聴診器を受け取って、へその近処に当てて左の手で女の脈を取りながら、聴診していたが「もうよろしい」と云って寝台を離れた。
 女は直ぐに着物の前を掻き合せて、起き上がろうとした。
「ちょっとそうして待っていて下さい」
 と、花房が止めた。
 花房に黙って顔を見られて、佐藤は機嫌きげんを伺うように、小声で云った。
「なんでございましょう」
「腫瘍は腫瘍だが、生理的腫瘍だ」
「生理的腫瘍」
 と、無意味に繰り返して、佐藤はあきれたような顔をしている。
 花房は聴診器を佐藤の手に渡した。
「ちょっと聴いて見給え。胎児の心音が好く聞える。手の脈と一致している母体の心音よりは度数が早いからね。」
 佐藤は黙って聴診してしまって、忸怩じくじたるものがあった。
「よく話してきかせてってくれ給え。まあ、套管針とうかんしんなんぞを立てられなくて為合しあわせだった」
 こう云って置いて、花房は診察室を出た。
 子が無くて夫に別れてから、裁縫をして一人で暮している女なので、外の医者は妊娠にんしんに気が附かなかったのである。
 この女の家の門口にかっている「おん仕立物」とお家流いえりゅうで書いた看板の下をくぐって、若い小学教員が一人度々出入をしていたということが、のちになって評判せられた。

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