彼の詩集の本屋に出たのは三年ばかり前のことだつた。彼はその仮綴かりとぢの処女詩集に『夢みつつ』と言ふ名前をつけた。それは巻頭の抒情詩ぢよじやうしの名前を詩集の名前に用ひたものだった。
  夢みつつ、夢みつつ、
  日もすがら、夢みつつ……
 彼はこの詩の一節ごとにかう言ふリフレエンを用ひてゐた。
 彼の詩集は何冊も本屋の店に並んでゐた。が、誰も買ふものはなかつた。誰も? ――いや、かならずしも「誰も」ではない。彼の詩集は一二冊神田かんだ古本屋ふるぼんやにも並んでゐた。しかし「定価一円」と言ふ奥附のあるのにもかかはらず、古本屋の値段は三十銭乃至ないし二十五銭だつた。
 一年ばかりたつたのち、彼の詩集は新らしいまま、銀座ぎんざ露店ろてんに並ぶやうになつた。今度は「引ナシ三十銭」だつた。行人かうじんは時々紙表紙かみべうしをあけ、巻頭の抒情詩に目を通した。(彼の詩集は幸か不幸か紙の切つてない装幀さうていだつた。)けれども滅多めつたに売れたことはなかつた。そのうちにだんだん紙も古び、仮綴かりとぢの背中もいたんで行つた。
  夢みつつ、夢みつつ、
  日もすがら、夢みつつ……
 三年ばかりたつたのち、汽車は薄煙うすけむりを残しながら、九百八十六部の「夢みつつ」を北海道ほくかいだうへ運んで行つた。
 九百八十六部の「夢みつつ」は札幌さつぽろの或物置小屋の砂埃すなほこりの中に積み上げてあつた。が、それはしばらくだつた。彼の詩集は女たちの手に無数の紙袋かみぶくろに変り出した。紙袋は彼の抒情詩を横だの逆様さかさまだのに印刷してゐた。
  夢みつつ、夢みつつ、
  日もすがら、夢みつつ……
 半月ばかりたつたのち是等これらの紙袋は点々と林檎畠りんごばたけの葉かげにかかり出した。それからもう何日になることであらう。林檎畠を綴つた無数の林檎は今は是等の紙袋の中に、――紙袋をかした日の光の中におのづから甘みを加へてゐる、青あをとかすかに□ひながら。
  夢みつつ、夢みつつ、
  日もすがら、夢みつつ……
(大正十四年四月)

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