日语文学作品赏析《頭ならびに腹》
とにかく、かう云ふ現象の中で、その詰み込まれた列車の乗客中に一人の横着さうな子僧が混つてゐた。彼はいかにも一人前の顔をして一席を占めると、手拭で鉢巻をし始めた。それから、窓枠を両手で叩きながら大声で唄ひ出した。
福ぢやア
ヨイヨイ、
福は福ぢやが、
お多福ぢや
ヨイヨイ。」
云たとて寒い。
何が寒かろ。
やれ寒い。
ヨイヨイ。」
そのとき、突然列車は停車した。暫く車内の人々は黙つてゐた。と、俄に彼等は騒ぎ立つた。
「どうした!」
「何んだ!」
「何処だ!」
「衝突か!」
人々の手から新聞紙が滑り落ちた。無数の頭が位置を乱して動揺めき出した。
「どこだ!」
「何んだ!」
「どこだ!」
動かぬ列車の横腹には、野の中に名も知れぬ寒駅がぼんやりと横たはつてゐた。勿論、其処は止るべからざる所である。暫くすると一人の車掌が各車の口に現れた。
「皆さん、此の列車はもうここより進みません。」
人々は息を抜かれたやうに黙つてゐた。
「H、K間の線路に故障が起りました。」
「車掌!」
「どうしたツ。」
「皆さん、この列車はもうここより進みません。」
「金を返せツ。」
「H、K間の線路に故障が起りました。」
「通過はいつだ?」
「皆さん、此の列車はもうここより進みません。」
車掌は人形のやうに各室を平然として通り抜けた。人々は車掌を送つてプラツトホームへ溢れ出た。彼等は駅員の姿と見ると、忽ちそれを巻き包んで押し襲せた。数箇の集団が声をあげてあちらこちらに渦巻いた。しかし、駅員らの誰もが、彼らの続出する質問に一人として答へ得るものがなかつた。ただ彼らの答へはかうであつた。
「電線さへ不通です。」
一切が不明であつた。そこで、彼ら集団の最後の不平はいかに一切が不明であるとは云へ、故障線の恢復する可き時間の予測さへ推断し得ぬと云ふ道断さは不埒である、と迫り出した。けれ共一切は不明であつた。いかんともすることが出来なかつた。従つて、一切の者は不運であつた。さうして、この運命観が宙に迷つた人々の頭の中を流れ出すと、彼等集団は初めて波のやうに崩れ出した。喧騒は呟きとなつた。苦笑となつた。間もなく彼らは呆然となつて了つた。しかし、彼らの賃金の返済されるのは定つてゐた。畢竟彼らの一様に受ける損失は半日の空費であつた。尚ほ引き返す半日を合せて一日の空費となつた。そこで、此の方針を失つた集団の各自とる可き方法は、時間と金銭との目算の上自然三つに分かれねばならなかつた。一つはその当地で宿泊するか、一つはその車内で開通を待つか、他は出発点へ引き返すべきかいづれであるか。やがて、荷物は各車の入口から降ろされ出した。人波はプラツトから野の中へ拡り出した。動かぬ者は酒を飲んだ。菓子を食べた。女達はただ人々の顔色をぼんやりと眺めてゐた。
所がかの子僧の歌は、空虚になつた列車の中からまたまた勢ひ好く聞え出した。
此の野郎
柳の毛虫
払ひ落せば
またたかる、
チヨイチヨイ。」
「皆さん。お急ぎの方はここへ切符をお出し下さい。S駅まで引き返す列車が参ります。お急ぎのお方はその列車でS駅からT線を迂廻して下さい。」
さて、切符を出すものは? 群衆は鳴りをひそめて互に人々の顔を窺ひ出した。何ぜなら、故障線の列車はいつ動き出すか分らなかつた。従つて迂廻線の列車とどちらが早く目的地に到着するか分らなかつた。
さて?
さて?
さて?
さて?
彼はその不可思議な魅力を持つた腹を揺り動かしながら群衆の前へ出た。さうして彼は切符を卓子の上へ差し出しながらにやにや無気味な薄笑ひを洩して云つた。
「これや、こつちの方が人気があるわい。」
すると、今迄静つてゐた群衆の頭は、俄に卓子をめがけて旋風のやうに揺らぎ出した。卓子が傾いた。「押すな! 押すな!」無数の腕が曲つた林のやうに。尽くの頭は太つた腹に巻き込まれて盛り上つた。
軈て、迂廻線へ戻る列車の到着したのはそれから間もなくのことであつた。群衆はその新しい列車の中へ殺到した。満載された人の頭が太つた腹を包んで発車した。跡には、踏み蹂じられた果実の皮が。風は野の中から寒駅の柱をそよそよとかすめてゐた。
すると、空虚になつて停つてゐる急行列車の窓からひよつこりと鉢巻頭が現れた。それは一人取り残されたかの子僧であつた。彼はいつの間にか静まり返つて閑々としてゐるプラツトを見ると、
「おッ。」と云つた。
しかし、彼は直ぐまた頭を振り出した。
出るでん出るえ、
煙は、のん残るえ、
残る煙は
しやん癪の種
癪の種。」
それから暫くしたときであつた。一人の駅員が線路を飛び越えて最初の確実な報告を齎した。
「皆さん、H、K間の土砂崩壊の故障線は開通いたしました。皆さん、H、K間の……」
しかし、乗客の頭はただ一つ鉢巻の頭であつた。しかし、急行列車は烏合の乗合馬車のやうに停車してゐることは出来なかつた。車掌の笛は鳴り響いた。列車は目的地へ向つて空虚のまま全速力で馳け出した。
子僧は? 意気揚々と窓枠を叩きながら。一人白と黒との眼玉を振り子のやうに振りながら。
梅よ、
桜よ、
牡丹よ、
桃よ、
さうは
一人で
持ち切れぬ
ヨイヨイ。」
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