「古池や蛙飛びこむ水のをと」という芭蕉の有名な俳句がある。いうまでもなくこの俳句の主役は音である。

“寂静一古池,忽有蛙入之,水声响不止”这是芭蕉有名的俳句。不用多说,此句“声音”是主角。

だが、その音も「ボチャン」とか「ポチャン」ではつまらない。それは丁度、水に飛び込んでいる蛙の絵や、そのまわりに丸く画かれた波紋を連想するくらい馬鹿気ている。僕らの感性は日常知らぬまに汚されているもので、そういう汚れた感性でこの句を受けとったら、むしろ滑稽になってしまう。 いうなら、古池や蛙の姿など見なくともいいのである。

只不过,如果单用“扑通”“噗嗤”这种拟声词也未免太过乏味无趣。就如同恰好联想到青蛙跳入水中的画面,以及它周围荡起的一池涟漪般,显得滑稽可笑。我们的感性已经在不知不觉中被污染了,用这般愚钝的感性来品读这个句子时,当然会有滑稽的感觉。要我说,古池呀、青蛙呀,不看也罢。

ただ耳だけの世界がそこにある。蛙の飛び込んだ水の音、つかの間の余韻、そのかすかなききとり難いものを追って耳は限りない静寂に出会っていく。

只不过,声音的世界却真真实实地存在着。青蛙跳入水中的声音,瞬间的余韵,耳朵追随着这转瞬即逝的声响,遭遇无止尽的寂静。

「古池」という言葉は、 この限りない静寂のために絶対欠かすことができなかったというふうにみえる。

“古池”这一词语,可以说是营造无止尽寂静所不可或缺的元素。

そういう芭蕉の耳はまた、「閑さや岩にしみいる蝉の声」という俳句を生んだ。蝉の声を「しみいる」ときいた耳は並大抵ではないが、もちろん蝉は油蝉か桜蝉(ニイニイ蝉)であろう。夏の山の中などできくその声は、とても「閑さ」などといえたものではない。

芭蕉的耳朵又创作出这样的俳句:“闲静一何极,蝉声浸入青岩里”。用“浸入”来形容蝉声的耳朵非等闲之物,当然,蝉指的是油蝉或樱蝉。夏日山中聒噪的蝉叫声,实在是不能用“闲静”来形容吧。

けれどもそうして激しく耳を打っているうちに、やがて耳鳴りのように無感覚になって、いつの間にか深い静寂にとり囲まれていく。

不过,在耳朵备受噪音搅扰时,最终也会如同耳鸣般毫无感觉,不知不觉中陷入了深深的寂静。

だがその静寂を意識すれば直ちに蝉の声が耳にもどってくるといった、意識と無意識の間を去来する遠近の感情を僕らがよく知っているから、「岩にしみいる」という句に圧倒されるのではあるまいか。芭蕉の耳はその遠近を実感として捉えた。凡庸な耳では到底ききとることのできぬ変化を、眼前の岩にしみいる響きとききわけたというふうである。

一旦意识到这般寂静,蝉鸣声又会立即卷土重来,不正是因为这是我们常常深有体会地在意识有无之间来来回回、忽近忽远的情绪,才被“浸入青岩里”这句所震撼住吗?它捕捉到了芭蕉耳朵对声音远近变化的感知。将平庸耳朵中毫无变化的声音,用浸透于眼前青石的声响表现了出来。

これらの俳句から、僕らは芭蕉の音に対する感性を窺い知ることができる。そしてまたその感性は、芭蕉の俳句を愛している僕らに通じ、芭蕉以前の古い日本の耳に通じているに相違ない。それを一つの音に没入することのできる耳、あるいは閑寂の緊張を知る耳といってもいいだろう。音楽を生み出したヨーロッパの耳とも、好んで打楽器の刺激的な響きを打ち鳴らすたぐいの東洋の耳とも異なった、ある独自の感性を明かしている。

从这些俳句中,我们可以窥探出芭蕉对于声音感性的认知。这份感性,传达给了热爱芭蕉俳句的我们、肯定也传到给了芭蕉之前更古早的日本之耳。那是一个可以吞没任何声响的耳朵,也可以说是一副熟知闲静的紧张感的耳朵。与创造音乐的欧洲之耳、爱好打击乐追求刺激性声响的东洋之耳不同,有一种独自的感性。

このことは梵鐘一つを見てもわかる通りで、日本のように山に囲まれた土地の多い国では鐘の響きが霧のようにあたりに立ち込め、うずを巻きながらゆっくりと無限の空間に吸い込まれていく。寺男は、その消えていく頃合を見計らってまた次の鐘を打つのである。

这就像钟楼上的梵钟一般一目了然,在日本这种众多土地被群山环绕的国家中,钟鸣声就如同雾霭一样笼罩在周围,如同旋涡般慢慢地将周围无限的空间吸入。寺院负责敲钟的僧侣也会看准钟声消失的界限,敲响下一轮钟声。

それは非常にゆるやかなリズムをつくり、鳴る鐘の音よりはむしろ余韻そのものを楽しむといった趣がある。

这其实是在创造一种非常平稳舒畅的旋律,比起钟鸣的声响,沉浸在钟声的余韵中更有趣味。

一方、ヨーロッパの事情に通じている友人の一人、戸田邦雄によれば、ヨーロッパの寺の鐘は日本の鐘とは大分様子が違うようである。

另一方面,根据一个非常熟悉欧洲情况的友人户田邦雄所说,欧洲寺庙的钟和日本的钟有着很大的区别。

そういわれれば、僕も何度か映画などで見ているが、寺男はたれさがった綱にぶらさがるようにして鐘を鳴らす。その運動はかなり敏捷で、ときには何本もの綱に飛び移って幾つもの鐘を鳴らしている。それは鳴る鐘の音一つ一つに耳の注意を集めようとするかのようで、そのためにも幾つもの異なった音の鐘が必要といった按配である。

听他这么一说,我才想到好几次在电影中看到过,欧洲寺院的僧侣将下沉的绳索拉扯着撞到钟上发出声响。他们的动作十分敏捷,有时还会飞快移动着接连敲打好几座钟。对于钟声人们要逐一集中注意力,因此必须要准备好几个声色不同的钟。

ところで、蛙が水に飛び込む音や、蝉の声にかぎらず、自然の物音は総じて単一である。なかには、「芭蕉野分して盥に雨を聞く夜哉」という俳句の通り、さまざまな音度を含んだ物音もあるにはあるが、しかし芭蕉の耳は激動する台風の響きに奪われているのではなく、実は「盥に」雨をきいている。いうなら動の中に静を求めて充足する耳、あるいは多様より単一にひかれる耳というべきであろうか。

然而,无论是青蛙如水的声响、还是蝉鸣之声,自然的声音终归是单一的。其中也有像俳句“风狂雨暴卷芭蕉,大盆听雨秋夜遥”所描述的一样,自然中也有包含各种各样声音的声响,不过芭蕉的耳朵并没有被激烈台风的声音夺取魂魄,而是在盆中听雨。总而言之,这是一双善于捕捉以动衬静的耳朵,或者也可以说是一双能将多重声响单一化的耳朵吧。

しかもその単一への味到はまことに徹底したものがあって、ときには蕪村の俳句、「春の海終日のたりのたり哉」に見るように気の遠くなるような単一を前にする。騒音の中に暮らす現代人にはちょっと縁遠い話のようだが、この単一への味到は、対象に没入して己を無にするという、その無我の境に発する心情にほかなるまい。

而且,这种单一的声响值得彻底地玩味一番,偶尔也会有芜村的俳句“春之海,终日轻轻荡漾”一般,将若隐若现的单一感呈现在眼前。这可能是与生活在噪音中的现代人无缘的话题,对单一的体味无疑是全身心投入对象中,将自我消解成无的无我境界的感受。

蕪村の身も心も、その無我によって、春の浜辺に打ってはかえす果てしない波の音の中にとけ込んでいって、あとはただ、のたりのたりとした海だけが一面に広がっているという光景である。思うに日本の耳はそのようにして松籟を愛し、筧の音を楽しんできた。

芜村也是身心都陷入了无的状态,融化在了来回拍打春日岸滩的浪花的声响中,剩下的便是缓缓起伏的海面一望无际向外扩展的光景吧。我想,日本的耳朵就像这样,喜欢松涛之声、喜水筒之音吧。

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