刺身の語源は魚を切り身にして盛り付ける際に、その魚の種類が特定できるように、使った魚の鰭(ヒレ)を切り身に刺し、区別し易くしたのが始まりと云われています。魚をよく知る者ならいざ知らず、詳しくない者にとっては、ヒレが刺して有ろうと無かろうとサッパリ?だと思いますが…

刺身一词据说起源于把鱼切成块、盛在盘子上时,为了能够弄清鱼的种类、便于人们区分,而把鱼鳍插在鱼肉上的做法。不过,懂鱼的人还好说,但对不懂的人来说,插不插鱼鳍都一样吧?

因みに、お頭付きの活き造りや、石、竹篭等の「食べることが出来ない」ものを皿に盛るのは、日本料理本来の姿ではありません。つまりルール違反!

顺便一提,附带头尾的生鱼片,或者把石头、竹篭等“不能吃的”东西放到盘子上,都不能算是传统的日本料理。可以说是违反规则了!

一般に刺身は、関東では「お刺身」と言い、関西では「お作り」と言われます。また、関東では赤身の魚が好まれ、関西では白身の魚が好まれる傾向があります。

刺身,在关东地区一般称作“お刺身”,而在关西地区则称作“お作り”。另外,在关东,红肉的生鱼片比较受欢迎,而在关西地区的人则比较喜欢白肉的生鱼片。

日本人で刺身を嫌いな人そう多くはありません。四方を海に囲まれ、多種多様な魚介類が新鮮なまま食卓に届けられるからです。刺身は特別な場合を除き鮮度が命です。これが内陸国家だとしたら刺身の文化は誕生しなかった筈です。洗練された盛り付けと調理技術に裏打ちされた刺身は世界に誇れる日本の食文化です。

讨厌刺身的日本人并不多。毕竟日本是一个四面环海的国家,每天都有各种各样新鲜的水产品送上饭桌。而刺身,除特殊情况,最重要的便是新鲜度了。如果日本是个内陆国家,这样的刺身文化想必是不会诞生的。兼具讲究的料理与拼盘技术的刺身,是日本享誉世界的饮食文化。

中国でも最近は「日本式の刺身」を出すレストランが増え、魚の生食に抵抗感を持たない人が増えて来てはいますが、気持ち悪がって箸を付けない人もまだ多いようです。

近年来,在中国也有越来越多的餐厅推出“日式刺身”,越来越多的人开始接受生食鱼类,但仍有许多人对此感到恶心、根本下不了筷子。

そんな中国ですが、魚を盛んに生で食べていた時代もあったようで、最も古い記録〈詩経〉では、 西周時代(紀元前823年)に宣王の重臣、 尹吉甫が北方征伐から勝利して帰国した際、祝宴で細く切った大根を雲のように散らし、その上に薄く切った鯉を盛り付けて出した様が記されています。まさに日本の刺身のルーツと言えなくもありません。

如此中国,也曾经历过一个盛行生食鱼类的时代。据最早记录《诗经》记载,西周时期(公元前823年),宣王的重臣——尹吉甫在征伐北方凯旋设宴之际,把萝卜切成丝,撒在盘子上,并在其上方摆上切薄了的生鲤鱼片。这可以说是日本刺身的起源了。

しかしこの記録以降、中国の文献からは魚の生食は全く姿を消しています。恐らくこれは歴代王朝が全て内陸に位置し、刺身に淡水魚を使わざるを得なかったが為に、淡水魚由来の寄生虫病が深刻化したからだと想像できます。

然而,这一记录之后,就再也找不到中国任何有关生食鱼类的文献了。而这大概是因为历代王朝都位于内陆,只能用淡水鱼作刺身,导致寄生虫病问题愈发严重吧。

醤油の登場と刺身

酱油的出现与刺身

刺身料理の普及は、調味料である醤油の登場と無関係ではありません。刺身料理の黎明期であった鎌倉時代には、膾(なます)にしたり、山葵(わさび)酢や生姜(しょうが)酢で食べていたものが、室町時代に入り醤油が登場すると、醤油に山葵を添えて食べることが普通になりました。しかし、この当時の醤油は非常に高価で、とても庶民の手が届くものではありませんでした。醤油が広まる(特に関東方面では)には、醤油の生産が飛躍的に伸びた江戸末期まで待つ必要がありました。

刺身料理的普及,与酱油这一调味料的出现并不是毫无关系的。在刺身料理的黎明期——镰仓时代,人们一般会把刺身做成醋拌生鱼丝,或蘸着山葵醋、生姜醋吃。但自室町时代,酱油出现,往生鱼片上蘸酱油和山葵便成了普遍的吃法,然而当时的酱油价格十分昂贵,一般庶民只能望尘莫及。说到酱油的大范围普及(特别是关东地区),那就要等到酱油生产实现飞跃性进步的江户末期了。

江戸の外食文化・寿司と煮売りの登場

江户的外食文化·寿司与煮卖的出现

江戸の街では宝永(1704~1710年)の頃まで、街道の立場(たてば)より外には、食事ができる所が全く無く、享保(1716~1735年)の中頃までは、丸の内から浅草観音に行くまでの途中には何も無く、弁当や水筒を持たない者は、大変困ったそうです。

宝永年间(1704-1710年)之前,江户街道在驿站开外的地方,完全没有可供人饮食的地方。享保年间(1716-1735年),从丸之内到浅草观音之间的路段也是什么都没有,让没带便当、水壶的人十分困扰。

それが宝暦(1751~1763年)前後になると、中橋広小路(中央通りと八重洲通りの交差点辺り)に煮しめを売る店が5,6軒できたとあり。この頃、既に醤油が使われ始めたことが判ります。また、今川小路に蕎麦を売る店が2,3軒でき、寛延(1748~1750年)の頃に奥州街道の道筋の室町、本町(関東大震災後の区画整理で町名改正があり、今の町名の場所ではない)の辺りに2,3軒食べ物やできた程度だったそうで、今の東京の飲食店がひしめく状態とからは想像もできない時代です。

到了宝历年间(1751-1763年)前后,中桥广小路(中央街与八重洲街交叉点附近)出现五、六家售卖煮食的小店。当时人们已经开始使用酱油了。另外,今川小路也出现了两、三家售卖荞麦面的店铺。而在宽延年间(1748-1750年),奥州街道的室町、本町(关东大地震后因区划整理而更改了町名,与现今的地点不同)附近,似乎只有两三家售卖食物的店铺。与饮食店林立的现代东京相对比,那真是一个令人难以想象的时代。

元禄の大火(1703年・水戸様火事) の時に焼け跡で田楽を売り出した者がいて、食べ物に困っていた人々で大変繁盛し、歴々の士もこぞって食べたとの記録があります。

元禄大火之时曾有人在废墟售卖田乐烧,在缺乏食物的人群中十分受欢迎,甚有一群赫赫有名的武士集体食用的记录。

この翌年の飢饉の際には、江戸のあちらこちらに「煮売り」ができたそうで、今で言う「惣菜屋」はしりです。商いの形態には3種類で、場所を定めず売り歩く「行商」と、人の集まるところで売る「辻売り」、それと店を構える者とがあります。これが江戸の街頭にて食べ物を売った初めで、当然一番早くからあったのが行商だったようです。

到次年闹饥荒时,江户各处开始出现“煮卖”,就像现在的“副食店”一样。买卖的形式有3种,分别是边走边卖的“行商”、定点在人群密集处的“街头摊贩”以及店铺营业。这就是江户街头食品贩卖的开端,而最早出现的,自然是行商了。

この「煮売り」が何時頃から始まったかは定かではありませんが、寛文元年(1661~1672年)12年の12月23日に「煮売りの夜商い禁止令」が出ていますので、それ以前にあったことだけは確かなようです。また寛文10年の7月には、午後6時以降の煮売りの商いを禁じていますので、この頃には既に「煮売り」の店舗営業が定着していたことが推察できます。

至于“煮卖”是从什么时候开始出现的,至今并没有一个清晰的界定。但宽文元年(1661-1672年)12年的12月23日曾颁布过《煮卖夜商禁止令》,可以确定在此以前便有“煮卖”。另外,宽文10年7月曾下令禁止下午6点后经营“煮卖”,由此可以推断出此时已有固定经营“煮卖”的店铺。

「煮売り」を利用した人々は、おおむね一般庶民と階級の低い人達に限られていたようです。

光顾“煮卖”的人,基本上都是些一般庶民和阶级较低的人们。

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