优秀奖

「 古詩・越し」

張玉如(合肥学院)

「ねえねえ、玉如ちゃん、土曜の詩歌祭り行く?」

「行かない。せっかくの週末だし、寝るよー。」

「でもさ、今年の祭りに日本からの吟詩舞使節団が出演するって聞いたよ。外国人が遠くからわざわざうちのような小さい町に来るのは珍しくない?」

「それはそうだけど。」

私の故郷である馬鞍山市太白町は『詩仙』と呼ばれる李白が晩年を過ごし、永眠するまで詩と共に歩んだ最後の場所だ。ここに残った詩の名作とエピソードを記念するため、毎年、重陽節の頃、「馬鞍山中国李白詩歌祭」が行われている。私にも外国から来る人を一目見てみたい。けど、中国人ではなく日本人が古詩を朗読するなんて聞いたこともない。そんな疑問を浮かべつつ、その日は日常と変わらない日々を過ごしていった。

こうして友達の誘いを断り、土曜日はようやくのんびりグースかできるかと思いきや、いつも一番起きる母が朝早々に大音量でテレビをつけた。小さなまちでも大きな祭りに、母は自然と心が湧いていた。しかし、私ののどかな休日を奪った母は恨んでも恨みきれない。

「ほら、始まったよ。日本人の出番。」期待に胸を膨らませる母の顔は、文字通りわくわくしていた。

それに対して私は「えっ、全員お年寄りなの?遠くから来て大丈夫かな?」と対照的にドキドキな心持になった。

そうしてそんな私の心配をよそに、テレビはゆるゆると音楽が流し始めた。詩吟を基本としながらも、自国の文化である書道とダンスを組み合わせている。指揮の下、20人以上の日本人が次々と舞台を縦横無尽にかけ回り、情趣たっぷりとふくんだ声で李白が持っている雄大な志と豪壮な気概を表している。彼らの目に映るその限りない希望の光はスクリーンを隔てても私の心を溶かしていった。

「なんでこの人たちは漢詩にそれほど情熱があるのだろう。古文で書かれた漢詩の意味を本当に理解できるのかな」あの祭りからずっと私は考えていた。思えば、若者にはそのように情熱的に物事を取り組むことが少なくなったと思う。ルームメートの一人が大学に入ったばかりのごろ、「私はヨガをする。美しい女性になるためにも今から頑張らなきゃ」とギラギラと目を輝かせながら私に言った。あの高らかな宣言から数ヶ月、気づいたときには彼女はヨガへの興味がなくなっていた。私は気になって「なんでやめたの?」と聞いてみた。

「いやー、二ヶ月も頑張ってきたけど、一向に痩せる兆しも見えなくて挫折しちゃったよ。私は結果にコミットできなかったわー」と返事してくれた。

私は彼女らしいと思いながらも、みんな簡単に辞めていくんだなーと心の中に引っかかったものを感じた。それは怖さと言ってもいい。情熱という言葉がどこか若者の中からいなくなってしまっている気が私はしたのだ。じゃあそれと比較して、あのお年寄りたちはなんのだろうか。情熱の元はどこからやってくるのだろうか。そのとき私はまだわからないままであった。

しかし、当時どうしても理解できなかった彼らの気持ちが、日本語ととともに歩んできたこの四年目に迎えるにあたって、何となくわかるような気がした。

それは文化の違いに引き寄せられたからだと思う。

文化の違いは時に互いに疎遠にする材料にもなるが、その文化の違いによって逆に興味を持つようになった人もいる。あの日本人たちの情熱はそれを証明している最高の例なのではないだろうか。お年寄りでさえ、言葉を越えて自分たちの人生を謳歌している。若い世代として、彼らに負けるわけにはいかない。摩擦が存在しているからこそ、お互いにより深く理解し合うきっかけを作ってくれるのではないだろうか。ひっそりとしかし確実に両国の間に友好の種を蒔いたり、交流の扉を開いてくれたりした摩擦から逃げることなく、きちんと向き合う姿勢が若い世代として取るべきな態度だと思う。立ちはだかる壁を私たち若者の力でどんどん乗り越えられれば、太陽の下で輝く美しい中日の未来が見えてくると私は信じている。

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