誰しも一度は耳を傾けたことがある、虫の声ですが…、この虫の鳴き声を「声」として認識できるのは、世界中で日本人とポリネシア人だけという事実をご存知でしょうか。

虽然谁都曾听过虫鸣声,但你知道能够将虫鸣声作为“语言”识别出来的人,在世界上也只有日本人和波利尼西亚人吗?

日本語が作る脳

日语造就的大脑

東京医科歯科大学の角田忠信教授が、1987年1月にキューバのハバナで開かれた第一回国際学会「中枢神経系の病態生理学とその代償」に参加した時の事である。キューバではいまだ戦時体制が続いており、西側諸国からの参加者は角田教授一人だった。開会式の前夜に歓迎会が開かれ、東欧圏から大勢の科学者が参加していた。キューバ人の男性が力強いスペイン語で熱弁をふるう。

这是东京医科牙科大学的角田忠信教授参加1987年1月于古巴哈瓦那举办的第一届国际学会“中枢神经系的病态生理学及其代价”时发生的事。古巴当时仍保持着战时体制,来自西方国家的参加者也就只有角田教授一人。开幕式的前一天晚上举办了欢迎会,有许多来自东欧的科学家参加。古巴男性用强有力的西班牙语进行着激情澎湃的演说。

しかし、教授は会場を覆う激しい「虫の音」に気をとられていた。なるほど暑い国だな、と感心して、周囲の人に何という虫かと尋ねてみたが、だれも何も聞こえないという。教授には「蝉しぐれ」のように聞こえるのに!

然而,教授却注意到了充斥整个会场的强烈“虫鸣音”。“不愧是气候炎热的国家啊”,他不由感到钦佩。然而随后当他向周围人询问这是什么虫时,大家却都说什么都没听到。但这声音在教授听起来,简直就是“阵雨般的蝉鸣”。

午前2時頃、ようやくパーティが終わって、キューバ人の若い男女二人と帰途についたが、静かな夜道には、さきほどよりももっと激しく虫の音が聞こえる。教授が何度も虫の鳴く草むらを指して示しても、二人は立ち止まって真剣に聴き入るのだが、何も聞こえないようだ。不思議そうに顔を見合わせては、お疲れでしょうからゆっくりお休みください、というばかりであった。

凌晨两点左右,宴会终于结束,教授与两位年轻的古巴男女一起踏上归途,却在安静的夜路上听到了比刚才更为激烈的虫鸣音。尽管教授多次指出有虫在叫的草丛,两人也止步站在那里认真倾听,但还是什么都听不见。他们感到十分不可思议地面面相觑,最后只能说大概是因为太累了请好好休息。

教授は毎日、この二人と行動をともにしたが、3日目になってようやく男性は虫の音に気づくようになった。しかし、それ以上の感心は示さなかった。女性の方は、ついに一週間しても分からないままで終わった。どうも日本人の耳と、外国人の耳は違いがあるようだ。

教授每天都与这两人一同行动,直到第三日男性才终于注意到了虫鸣音。但也没表现出在这之上的感动。而另一位女性,一直过了一周都没能听到虫鸣音,最后就这样分别了。看来日本人的耳朵与外国人的耳朵似乎有些不同。

左脳と右脳

左脑与右脑

こうした聴覚の違いを切り口に、角田教授は日本人の脳が他の民族の脳と違う点を生理学的に追求してきた。その結果が驚くべき発見につながった。人間の脳は右脳と左脳とに分かれ、それぞれ得意分野がある。右脳は音楽脳とも呼ばれ、音楽や機械音、雑音を処理する。左脳は言語脳と呼ばれ、人間の話す声の理解など、論理的知的な処理を受け持つ。ここまでは日本人も西洋人も一緒である。

以这种听觉的不同为切入点,角田教授开始研究日本人的大脑与其他民族大脑的不同之处。结果有了令人惊讶的发现。人类的大脑分为左脑和右脑,有各自擅长的领域。右脑也被称为音乐脑,负责处理音乐、机械音和杂音。左脑则被称为语言脑,负责理解人类说话的声音等,进行逻辑性理性的处理。这些对日本人和西方人来说是相同的。

ところが、虫の音をどちらの脳で聴くかという点で違いが見つかった。西洋人は虫の音を機械音や雑音と同様に音楽脳で処理するのに対し、日本人は言語脳で受けとめる、ということが、角田教授の実験であきらかになった。日本人は虫の音を「虫の声」として聞いているということになる。

但是,在虫鸣音是用哪个脑来听的这一点上发现了不同之处。角田教授通过实验发现,西方人是与机械音、杂音一样用音乐脑处理虫鸣音,而日本人则相对地用语言脑处理。由此得出,日本人是将虫鸣音当做“虫说的话”来倾听的。

キューバ人にとっては、会場を覆う激しい虫の音も、いつもの騒々しい雑音だと慣れてしまえば、意識にのぼらなくなってしまう。我々でも線路沿いに長年住んでいれば、騒音に慣れて、電車が通っても意識しなくなってしまうのと同じ現象なのだろう。しかし、虫の音は日本人は人の声と同様に言語脳で聞いているので、雑音として聞き流すことはできない。スペイン語の熱弁と激しい虫の音は、教授の左脳でぶつかっていたのだ。

对于古巴人来说,一旦习惯了充斥会场的激烈虫鸣音,只当作是平常的吵闹杂音,也就变得意识不到了。我们也有同样的现象,如果长年居住在铁路边上,习惯了噪音,即使有电车驶过也意识不到了。但因为虫鸣音对日本人来说是与人声一样用语言脑来听的,所以是不可能当做噪音一样置若罔闻的。西班牙语与激烈的虫鸣音,在教授的左脑中猛烈碰撞。

このような特徴は、世界でも日本人とポリネシア人だけに見られ、中国人や韓国人も西洋型を示すという。さらに興味深いことは、日本人でも外国語を母国語として育てられると西洋型となり、外国人でも日本語を母国語として育つと日本人型になってしまう、というのである。脳の物理的構造というハードウェアの問題ではなく、幼児期にまず母国語としてどの言語を教わったのか、というソフトウェアの問題らしい。

这种特征在世界上只有日本人和波利尼西亚人才有,而中国人和韩国人,也都与西方人有着相同的表现。更有意思的是,即使是日本人,只要是以外国的语言为母语养育长大的,对虫鸣音的反应也会表现为西方型。相反,即使是外国人,只要是以日语为母语养育长大的,也能表现出日本型。似乎导致这一特征的原因,并不是大脑的物理构造这种硬件问题,而是幼年最早被作为母语教授的语言是哪种这类后天的问题。

左脳か、右脳かの実験

左脑还是右脑的实验

この違いを考察する前に、こうした結果がどのような実験で得られたのか、簡単に見ておこう。人間の耳から脳への神経系の構造は、左耳から入った音の情報は右脳に行き、右耳から入ると左脳に行く、という交叉状態になっている。

在研究这种不同之前,这种结果是通过怎样的实验而得出的,让我们先来简单看一下。根据人类从耳朵到脑的神经系统的构造,从左耳进入的声音的情报会到达右脑,从右耳进入的声音则会到达左脑,形成一种交叉状态。

そこで、左右の耳に同時に違ったメロディーを流して、その後で、どちらのメロディーを聴きとれたかを調べると、常に左耳から聴いた方がよく認識されている事が分かる。これで音楽は、左耳、すなわち、右脳の方が得意だと分かる。同様に、違う言葉を左右から同時に聴かせると、右耳、すなわち左脳の方がよく認識する。我々がほとんどの場合、右耳に受話器をあてるのは、このためだそうだ。さらに複雑なテスト方法もあるが、これが最も基本的な実験方法である。

因此,如果在左右耳同时播放不同的旋律,再调查人在听哪一边的旋律,经常会发现大多都是在听左耳处的音乐。由此得出,音乐是左耳,即右脑的擅长领域。同样,在左右耳边说出不同的话时,则是右耳,即左脑多数在工作。在大多数情况下,我们都将电话听筒放在右耳,就是因为这个原因。当然也有更加复杂的检验方法,但这是最基本的实验方法。

こういう実験で、いろいろな音で、左脳と右脳の違いを調べると、音楽、機械音、雑音は右脳、言語音は左脳というのは、日本人も西洋人も共通であるが、違いが出るのは、母音、泣き・笑い・嘆き、虫や動物の鳴き声、波、風、雨の音、小川のせせらぎ、邦楽器音などは、日本人は言語と同様の左脳で聴き、西洋人は楽器や雑音と同じく右脳で聴いていることが分かった。

在用这种实验与各种不同的声音详尽测试了左脑与右脑的不同之后,右脑负责音乐、机械音与杂音,左脑负责语言的声音,这一点日本人与西方人是相同的。不同的是,对于元音、哭声、笑声、叹息、昆虫和动物的鸣叫声、波浪、风雨的声音、小河的潺潺水声、传统乐器的声音等,日本人与语言一样用左脑来听,西方人则与乐器和杂音一样用右脑来听。

アメリカでの虫の音?

美国的虫鸣音?

虫の音と言えば、筆者にもこんな個人的な体験がある。ボストンから内陸部に車で2時間ほど入った人里離れた山中で、見晴らしの良い所があったので、車を止めて一休みしていると、昼間なのに虫がしきりに鳴いている。

说起虫鸣音,笔者也有一些个人的体验。在从波士顿往内陆方向乘车两小时进入远离村落的山中,看到了一处景致很好的地方,于是停下车休息一下,那时明明还是白天,昆虫却一直在不停地叫。

それを聞いているうちに、ふと、そう言えばカリフォルニアに4年も住んでいたが、虫の音に聴き入った覚えがないな、と気がついた。乾燥したカリフォルニアでも沿岸部にはかなり緑も多い。しかし私の記憶の中の光景では、なぜか常に豊かな緑がシーンと静まりかえっているのだ。やかましい蝉しぐれだとか、秋の夜長の虫の音だとかは、どうしても思い出せない。

一边听着这声音,忽然想起来自己也算是在加利福尼亚住了四年,却不曾听过虫鸣音。加利福尼亚虽然干燥,但沿岸地区还是有很多绿色植被。但在我的记忆里,却不知为什么那些茂盛的绿色植物一直是悄然无声的。对烦人的蝉鸣,秋夜中的虫鸣音什么的,一点印象都没有。

アメリカ人が虫というとまず思い浮かべるのは、モスキート(蚊)、フライ(蠅)、ビー(蜂)など、害虫の類だ。アメリカでは蜂はまだしも、蚊や蠅はほとんどお目にかからない。だからたまに蠅を見かけると、とんでもない不衛生な所だという感じがする。文明生活の敵だとして、とことん退治してしまったのだろうか?

美国人一说起昆虫,最先想起的就是蚊子、苍蝇、蜜蜂等害虫。在美国,蜜蜂还算好,蚊子和苍蝇却是大多见不到的。因此,偶尔见到苍蝇,就会觉得那真是个不卫生的地方。大概是作为文明生活的敌人,被彻底消灭了吧?

また昆虫を示す単語には、悪い語感が付随している場合が多い。「insect」には「虫けらのような人、卑しむべき人」という使い方があり、「bug」は、「悩ましい、てこずらせる」から、転じてソフトウェアの「バグ」などと使われる。日本語なら「虫けら」とか、蚤、シラミのイメージだ。

另外,用来指示昆虫的单词,也常带着些负面的语感。“insect”有指“如蝼蚁鼠辈一样的人,可鄙的人”的用法,“bug”有“恼人的,难缠的”的意思,也用于指代软件的“故障、缺陷”。而日语中,也给人“小虫、鼠辈”、跳蚤、虱子的印象。

虫はすべて害虫であり、その鳴く音も雑音と同様に聞くとなれば、蚊や蠅を退治する殺虫剤で、見境なく一緒に全滅させてしまったとしても無理はない。

昆虫全是害虫,其鸣叫声听上去又只跟杂音一样,因此用消灭蚊子和苍蝇的杀虫剂,将所有昆虫不加区分地就全部消灭也不是没有道理。

虫の音に聴き入る文化

倾听虫鸣音的文化

日本では対照的に、虫の音に聴き入る文化がある。現代でもコオロギ類の画像と鳴き声を納めたインターネットサイトから、飼育法を解説した書籍まで無数にある。「虫の声」という以下の童謡は、虫の音に聴き入る文化が子供の頃から親しまれている一例である。

相对比来说,在日本则有倾听虫鸣音的文化。现代还有收集蟋蟀的画像和鸣叫声的网站,和无数解说虫类饲养方法的书籍。以下名为《虫之声》的童谣就是倾听虫鸣音的文化受人们自小以来喜爱的一个例子。

あれ 松虫が鳴いている

哎呀呀,金蟋正在鸣叫

チンチロ チンチロ チンチロリン

咭嗯咭啰 咭嗯咭啰 咭嗯咭啰铃

あれ 鈴虫も鳴き出した

哎呀呀,铃虫也鸣叫了起来

リン リン リン リン リーン リン

铃铃铃铃 铃铃

秋の夜長を鳴きとおす

响彻了秋的漫漫长夜

ああ おもしろい 虫の声

啊 还真有趣 这虫儿的声音

 

この伝統は古代にまで遡る。

 

这一传统可以追溯到古代。

夕月夜心もしのに白露の置くこの庭にこおろぎ鳴くも

月夜中,令人伤感的白露落在庭院,蟋蟀在一旁鸣叫

(万葉集、しのに:しっとりと濡れて、しみじみした気分で)

(万叶集,しのに:空气潮湿,让人心情沉重)

近世では、明治天皇の御製が心に残る。

近代,明治天皇的诗歌则让人印象深刻。

ひとりしてしづかにきけば聞くままにしげくなりゆくむしのこゑかな

一人静かに耳を傾けると、虫の声がより一層繁く聞こえてくるという、いかにも精密な心理描写である。また虫の「声」という表現が、すでに虫の音も言語脳で聞くという角田教授の発見と符合している。もう一つ明治天皇の御歌を引いておこう。

意思是一个人静静地侧耳倾听,虫鸣声变得愈来愈频繁,是十分细致的心理描写。而称之为昆虫的“声音”这种表达,也与角田教授发现虫鸣音也是用语言脑来听的相符合。再引用一首明治天皇的诗歌吧。

虫声

さまざまの虫のこゑにもしられけり生きとし生けるものの思ひは

松虫や鈴虫など、さまざまな虫がさまざまな声で鳴いている。それらの声に「生きとし生けるもの」のさまざまな思いが知られる、というのである。人も虫もともに「生きとし生けるもの」として、等しく「声」や「思い」を持つという日本人の自然観がうかがわれる。虫の音も人の声と同様に言語脳で聞く、という日本人の特性は、この文化に見事に照応している。

意思是松虫、铃虫等各种各样的昆虫以各种各样的声音在鸣叫着,它们的声音中包含着“万物”各种各样的思想与感受。从中可以看出,日本人的自然观——人与昆虫都是“万物”,都拥有“声音”与“思想”。虫鸣音与人声都一样用语言脑来听,日本人的这一特性,与这个文化很好地呼应了起来。

犬は「ワンワン」、猫は「ニャーニャー」

狗“汪汪”,猫“喵喵”

角田教授の発見では、虫の音だけでなく、そのほかの動物の鳴き声、波、風、雨の音、小川のせせらぎまで、日本人は言語脳で聞いているという。これまた山や川や海まで、ありとあらゆる自然物に神が宿り、人間はその一員に過ぎないという日本古来からの自然観に合致している。

角田教授发现,不只是虫鸣音,其他动物的鸣叫声、波浪、风雨的声音、小河的水声,日本人都是用语言脑来听的。而这又与日本自古以来的自然观——山川湖海等一切自然事物都有神灵寄宿,而人类不过是其中一员——相符合。

幼稚園から小学校の4、5年ぐらいの日本の子供に、犬はなんといって鳴くかというと、ワンワンというにきまっているのです。マツムシはチンチロリンという。外国人に聞きますと、ひじょうに困るのです。なんというていいか一生懸命考えて記憶を呼び出して、ウォーウォーといったり、ワーワーと言ったり。

如果问从幼稚园到小学4、5年级的日本小孩狗是怎样叫的,他们一定会回答汪汪,要是问到蟋蟀,则会说咭嗯咭啰铃。但如果问外国人这样的问题,他们会显得非常困扰,总是拼命地思考着回想着该怎么说才好,最后有的回答woof woof,有的则回答wow wow。

(『右脳と左脳』p122 対談者の園原太郎・京都大学名誉教授(心理学)の発言)

(《右脑与左脑》p122 对谈者园原太郎·京都名誉教授(心理学)的发言)

日本の子供が「ワンワン」と答えるのは当然である。親が犬を指して「ワンワン」と教えるのであるから。同様に猫は「ニャーニャー」、牛は「モーモー」、豚は「ブウブウ」、小川は「サラサラ」、波は「ザブーン」、雨は「シトシト」、風は「ビュウビュウ」。まるで自然物はすべて「声」をもつかのようである。

日本小孩会回答“汪汪”是理所当然的,因为他们的父母就是指着狗说“汪汪”这样告诉他们的。同样地也告诉他们猫“喵喵”,牛“哞哞”,猪“噗噗”,小河“撒啦撒啦”,海浪“咋噗”,雨“淅淅沥沥”,风“嗖嗖”,仿佛自然界的一切事物都拥有各自的“声音”一样。

このような擬声語、擬音語が高度に発達しているという点が、日本語の特徴である。幼児がこれらを最初から学んでくれば、虫や動物の鳴き声も自然音もすべて言語の一部として、言語脳で処理するというのも当然かもしれない。あるいは、逆に、言語脳で処理するから、言語の一部として擬声語、擬音語が豊かに発達したのか?

拟声词、拟音词高度发达这一点,是日语的特征。如果幼儿从小开始就学习这些拟声词,那么将昆虫和动物的鸣叫声和自然事物的声音都当做语言的一部分,用语言脑来处理也就是理所当然的了。或者,也可能是相反地,因为是用语言脑处理的,所以拟声词与拟音词才能作为语言的一部分如此发达吗?

いずれにしろ、自然音を言語脳で受けとめるという日本人の生理的特徴と、擬声語・擬音語が高度に発達したという日本語の言語学的特徴と、さらに自然物にはすべて神が宿っているという日本的自然観との3点セットが、見事に我々の中に揃っているのである。

总之,用语言脑来处理自然事物声音的日本人的生理特征,拟声词、拟音词高度发达的日语语言学特征,再加上自然事物中都寄宿着神灵的日本自然观这三点,都很好地体现在我们身上。

人種ではなく、母国語の違い

不是人种,而是母语的差别

角田教授の発見で興味深いのは、自然音を言語脳で受けめるという日本型の特徴が、日本人や日系人という「血筋」の問題ではなく、日本語を母国語として最初に覚えたかどうかという点で決まるということである。

在角田教授的发现中十分有意思的是, 用语言脑来处理自然事物的声音这一日本特征,并不是日本人或日裔的“血脉”问题,而是是否日语为母语这一点所决定的问题。

その端的な例として、南米での日系人10人を調査したデータがある。これらの日系人は1名を除いて、ポルトガル語やスペイン語を母国語として育った人々で、その脳はすべて西洋型であった。唯一日本型を示した例外は、お父さんが徹底的な日本語教育を施して、10歳になるまでポルトガル語をまったく知らずに過ごした女性であった。その後、ブラジルの小学校に入り、大学まで出たのだが、この女性だけはいまだに自然音を言語脳でとらえるという完全な日本型だった。

有10位南美日裔的调查数据可以作为一个鲜明的例子。这些日裔中,除了一位,其他都是以葡萄牙语或西班牙语为母语养育长大的人,他们的大脑也都是西方型。其中唯一一位例外的日本型女性,她的父亲对其实施彻底的日语教育,直到10岁之前都完全没有接触过葡萄牙语。之后,虽然也进入巴西的小学就读,一直读到大学毕业,但只有这位女性至今都还用语言脑处理自然事物的声音,是完全的日本型。

逆に朝鮮人・韓国人はもともと西洋型なのだが、日本で日本語を母国語として育った在日の人々は、完全な日本型になっている。

相反,朝鲜人、韩国人虽然本来是西方型,但在日本以日语为母语而养育长大的人,则会变成完全的日本型。

こう考えると、西洋型か日本型かは人種の違いではなく、育った母国語の違いである可能性が高い。「日本人の脳」というより、「日本語の脳」と言うべきだろう。角田教授の今までの調査では、日本語と同じパターンは世界でもポリネシア語でしか見つかっていない。

这样看来,西方型和日本型很有可能并不是由于人种的不同,而是由于母语不同所导致的。与其说是“日本人的大脑”,不如说是“日语的大脑”。而角田教授至今的调查中,在全世界所发现的与日语相同模式的只有波利尼西亚语而已。

違うがゆえに独創的なものが生まれる

不同进而产生出独创的事物

日本語による脳の違いとは、我々にとってどのような意味を持つのだろうか? 理論物理学者の湯川秀樹博士は、角田教授との対談でこう語る(『右脳と左脳』p114)。

因日语而导致的大脑的不同,对我们来说又有怎样的意义呢?理论物理学者汤川秀树博士在与角田教授的对谈中这样说道。(《右脑与左脑》p114)

つまり日本人はいままでなんとなく情緒的であるというていた。(西欧人が)論理的であるのに対して、より情緒的であるといっていたのが、構造的、機能的、あるいは文化といってもいいけれども、そういうところに対応する違いがあったということが、角田さんのご研究ではっきりしたわけです。

也就是说日本人至今为止是或多或少有些情绪化的。与西欧人的逻辑性相比,虽然我们较为情绪化,但在构造、机能方面,或者也可以说是文化方面,在这些地方也有相对应的不同,这一点在角田先生的研究中清楚地显示了出来。

そうするとそこで私が考えますことは、その違うということを生かすという方向です。違うということは上とか下とかいうことではなくて、その違いということを生かす。(中略)違うがゆえに独創的なものが生まれるのである。西洋に比べてあかん、劣っているという考え方が根深くあったけれども、そういう受け取り方をしたら劣等感を深める一方です。

由此我所考虑的是,能够活用这一不同的方向。所谓不同不是指比其他人好或是比其他人差,而是我们要使这一不同发挥作用。(中略)不同能进而产生出独创的事物。不能与西方相比,我们不如他们这样的想法虽然已经根深蒂固,但就这样接受了只会让我们的劣等感越来越深。

「違うがゆえに独創的なものが生まれる」とは、独創的な中間子理論でノーベル賞を受賞した湯川博士の言葉だけに重みがある。日本語の脳の違いは人類の多様性増大に貢献しているわけで、「虫の音に耳を傾ける文化」などは人類全体の文化をより豊かにする独創的なものと言える。

“不同能进而产生出独创的事物”这句话,只有由以独创介子理论获得诺贝尔奖的汤川博士来说才有重量。由于日语的大脑的不同对人类多样性增多做出的贡献,“倾听虫鸣音的文化”也可以说是更加丰富人类全体文化的独创产物。

こうした「生きとし生けるもの」の「声」に耳を傾けるという自然に対する敬虔な姿勢は、今後「宇宙船地球号」の中ですべての生命と共生していくために貴重な示唆を与えうる。

这种倾听“万物”“声音”的对自然虔诚的姿态,为今后在“地球号宇宙飞船”中与所有生命的共同生存提供了重要的启示。

我々が受け継いだこの「日本語の脳」の違いを意識的に極め、その独創性をよりよく発揮していくことは、我々日本人の全世界に対する責務とも言えるだろう。

有意识地研究我们继承的这个“日语大脑”的不同,并更好地发挥其独创性,可以说是我们日本人对于全世界的责任与义务。

声明:本双语文章的中文翻译系沪江日语原创内容,转载请注明出处。中文翻译仅代表译者个人观点,仅供参考。如有不妥之处,欢迎指正。

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