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梅雨の晴れ間の暑い午後、東京都北区にある作家芥川龍之介の旧居跡を訪ねた。JR田端駅から7、8分、住宅街にある敷地に、今はマンションや一戸建ての民家が立っている。案内板がなければ見過ごしてしまいそうだ。

梅雨初霁的一个炎热午后,我拜访了位于东京都北区的作家芥川龙之介的旧宅。从JR田端站出发经7、8分钟,便到了位于住宅街的这片用地,现在这里伫立着公寓和独幢楼房。若不是指示牌,还差点看漏眼。

84年前の1927(昭和2)年7月も暑い夏だった。23日、東京地方は最高気温35度を示したが、翌24日未明になると雨がふりだし、連日の酷暑がやや和らいだ。

84年前的1927年(昭和2年)7月也是一个炎热的夏日。7月23日,东京地区记录的最高气温达35度,到了次日24日凌晨,忽降起了雨,连日来的酷暑得以缓和了几分。

朝、芥川の自宅寝室で、妻文子は、隣で寝ている夫の異変に気付いた。顔面蒼白(そうはく)で苦しそうな様子だった。すぐに近所の医者が呼ばれたが絶望的だった。胸元から遺書とおぼしき封書がこぼれ出た。深夜、芥川は2階の書斎で雨の音を聞きながら数通の遺書を書き、劇薬を飲んだのだった。35歳だった。

这天早晨,在芥川住宅的卧室里,妻子文子发现躺在旁边的丈夫有些异常。他颜色苍白,看起来很是痛苦。文子立即请来附近的医生,然而却已迟了一步。从芥川的胸口露出一封看似是遗书的书信。前日深夜,在潺潺雨声中,芥川在2楼的书房里写下了数封遗书,然后饮下了毒药。终年35岁。

知人友人が田端の家に続々と集まった。開設されて間もないラジオが芥川の死を報じた。当時小学5年生で後に作家になった一色次郎は、鹿児島市内の繁華街で、芥川の死を知らせる号外を拾った。

亲朋好友陆续聚集到田端的芥川宅来。当时开设不久的广播播放芥川去世的消失。作家一色次郎时为小学5年级学生,他在鹿儿岛市内的繁华街拾到了通告芥川死讯的号外。

午後9時ごろ、自宅近くの貸席で、友人の久米正雄が新聞記者相手に、遺書「或旧友へ送る手記」を発表した。自殺の動機に関する有名なくだりがしたためられていた。

何か僕の将来に対する唯(ただ)ぼんやりした不安である

午后9时许,在自家附近的宴会会场上,芥川的友人久米正雄向新闻记者展示了芥川遗书,即《与某位旧友的手记》。其中写下了关于自杀动机的一段著名记述。

“对于我的将来,我唯觉得一丝隐隐的不安”。

芥川家には、3人の幼い男児が残された。俳優・演出家になった長男比呂志は当時7歳。比呂志の3女芥川耿(てる)子さんは「父から龍之介について聞いたことはありませんが、母によると『自分はぜったいに自殺はしない』といっていたそうです。幼いときに父親を失い、寂しかったのでしょう」と言う。

芥川家留下了3个年幼的男孩。后来成为演员、表演家的长子比吕志当时7岁。比吕志的三女儿芥川耿子女士说道:“我从未听父亲说过龙之介的事,不过听母亲说,父亲曾说过“我自己绝不会去自杀”。年幼时就失去父亲,一定很寂寞吧”。

芥川の死は、そんな一家庭の不幸を超えて社会を揺るがした。新聞各紙は翌朝刊でいっせいに報じ、社会面のほぼ全部を埋めた新聞もあった。

芥川龙之介的死超出了一个家庭不幸的范围,对社会都是一个冲击。各大新闻报纸纷纷在翌日的早报上报道了这个消息,甚至有报纸几乎用上社会版的全部版面来做报道。

作家の死が、なぜ大ニュースになったのだろうか。「芥川は当代一の人気作家でしたからね。でもそれだけではありません」と、芥川の書簡を多数所蔵する山梨県立文学館の近藤信行館長は言う。自殺の直接の原因は、健康が悪化し、神経も病んでいたからとされる。文芸上の悩みもあった。だが、「社会的な背景も無視できません」。

作家的死为什么会成为一个大新闻呢?收藏了众多芥川书简的山梨县立文学馆馆长近藤信行说道:“因为芥川是当时屈指可数的当红作家呀。不过原因也不仅仅是这些”。自杀的直接原因一般认为是健康的恶化、神经症的病恼。当然也有文学上的苦闷。不过,“社会方面的背景也不容忽视”。

大正末から昭和初めは、大正デモクラシーの夕映えがまだ残り、普通選挙法が公布され、円本と呼ばれる安価な文学全集が競って出版された。銀座ではモダンボーイ、モダンガールが闊歩(かっぽ)した。

在大正末期到昭和初期,尚存留着大正民主运动的一点余霞,普通选举法被公布出来,时人唤作“一元本”的廉价文学全集竞相出版。银座街道上,“时尚女孩”、“时尚男孩”阔步前行。

一方で治安維持法公布、金融恐慌、第一次山東出兵と、次第にきな臭い空気が漂い始めた。芥川が自殺した27年は金融恐慌に伴う不況の絶頂期であり、首都を襲った関東大震災(23年)の記憶もまだ生々しかった。世界的にも「不安の哲学」が流行していた。芥川の死は、不況下で苦しむ中産階級の不安を反映し、左右思想に分裂する知識人の孤独を増幅させた。

而在另一面,带有硝烟味的空气也逐渐飘荡在世间,如治安维持法的公布、金融恐慌、第一次山东出兵等等。芥川龙之介自杀的1927年,正是伴随金融恐慌的经济衰退达到最顶点的时候,人们对袭击首都的关东大地震(1923年)还记忆犹新。世界上也到处流行着“不安的哲学”。芥川的死,反映出了在经济颓势下挣扎的中产阶级的不安,更加深了思想分裂为左右翼的知识分子的孤独。

同世代の作家広津和郎は芥川の不安について、「その頃の私などにも始終つきまとっていた、一つのどうにもならない気分であった」と回想している。熊本市で24歳の青年が芥川の写真の前でカミソリで喉(のど)をかき切ったのは、芥川の死の2日後だった。

同一辈的作家广津和郎对芥川的不安做了以下回想,“一种难以排遣的心情也始终跟随着那时的我。”就在芥川去世2天后,熊本市一位24岁的青年在芥川相前用剃刀割断了咽喉。

芥川の死の2年後に世界恐慌、4年後には満州事変が勃発し、事変翌年には5・15事件が起きた。わずか数年で、日本社会は「ぼんやりした不安」から「目の前にある恐怖」に直面することになる。

芥川去世的两年后,爆发了世界经济危机,四年后发生了满洲事变(九一八事变),次年又发生了5・15事件。仅仅在数年间,日本社会就从“隐隐的不安”,到了直接面对“眼前恐怖”的地步。

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