今日の支那の最大の悲劇は無数の国家的羅曼ローマン主義者即ち「若き支那」の為に鉄の如き訓練を与えるに足る一人のムッソリニもいないことである。

   小説

 本当らしい小説とは単に事件の発展に偶然性の少ないばかりではない。恐らくは人生に於けるよりも偶然性の少ない小説である。

   文章

 文章の中にある言葉は辞書の中にある時よりも美しさを加えていなければならぬ。

   又

 彼等は皆樗牛ちょぎゅうのように「文は人なり」と称している。が、いずれも内心では「人は文なり」と思っているらしい。

   女の顔

 女は情熱に駆られると、不思議にも少女らしい顔をするものである。もっともその情熱なるものはパラソルに対する情熱でも差支えない。

   世間智

 消火は放火ほど容易ではない。こう言う世間智の代表的所有者は確かに「ベル・アミ」の主人公であろう。彼は恋人をつくる時にもちゃんともう絶縁することを考えている。

   又

 単に世間に処するだけならば、情熱の不足などは患わずとも好い。それよりもむしろ危険なのは明らかに冷淡さの不足である。

   恒産


 恒産のないものに恒心のなかったのは二千年ばかり昔のことである。今日では恒産のあるものは寧ろ恒心のないものらしい。

   彼等

 わたしは実は彼等夫婦の恋愛もなしに相抱いて暮らしていることに驚嘆していた。が、彼等はどう云うわけか、恋人同志の相抱いて死んでしまったことに驚嘆している。

   作家所生の言葉

「振っている」「高等遊民」「露悪家」「月並み」等の言葉の文壇に行われるようになったのは夏目先生から始まっている。こう言う作家所生しょせいの 言葉は夏目先生以後にもない訣ではない。久米正雄君所生の「微苦笑」「強気弱気」などはその最たるものであろう。なお又「等、等、等」と書いたりするのも 宇野浩二君所生のものである。我我は常に意識して帽子を脱いでいるものではない。のみならず時には意識的には敵とし、怪物とし、犬となすものにもいつか帽 子を脱いでいるものである。或作家をののしる文章の中にもその作家の作った言葉の出るのは必ずしも偶然ではないかも知れない。

   幼児

 我我は一体何の為に幼い子供を愛するのか? その理由の一半は少くとも幼い子供にだけは欺かれる心配のない為である。

   又

 我我の恬然てんぜんと我我の愚を公にすることを恥じないのは幼い子供に対する時か、――或は、犬猫に対する時だけである。

   池大雅

大雅たいがは余程呑気のんきな人で、世情に疎かった事は、其室玉瀾ぎょくらんを迎えた時に夫婦の交りを知らなかったと云うのでほぼ其人物が察せられる。」
「大雅が妻を迎えて夫婦の道を知らなかったと云う様な話も、人間離れがしていて面白いと云えば、面白いと云えるが、丸で常識のない愚かな事だと云えば、そうも云えるだろう。」
 こう言う伝説を信ずる人はここに引いた文章の示すように今日もまだ芸術家や美術史家の間に残っている。大雅は玉瀾をめとった時に交合のことを行わなかったかも知れない。しかしその故に交合のことを知らずにいたと信ずるならば、――勿論もちろんその人はその人自身はげしい性欲を持っている余り、いやしくもちゃんと知っている以上、行わずにすませられるはずはないと確信している為であろう。

   荻生徂徠

 荻生徂徠おぎゅうそらいまめんで古人を罵るのを快としている。わたしは彼の煎り豆を噛んだのは倹約の為と信じていたものの、彼の古人を罵ったのは何の為か一向わからなかった。しかし今日考えて見れば、それは今人を罵るよりも確かに当り障りのなかった為である。

   若楓

 若楓わかかえでは幹に手をやっただけでも、もうこずえむらがった芽を神経のように震わせている。植物と言うものの気味の悪さ!

   蟇

 最も美しい石竹色せきちくいろは確かにひきがえるの舌の色である。

   鴉

 わたしは或雪霽ゆきばれの薄暮、隣の屋根に止まっていた、まっ青なからすを見たことがある。

   作家

 文を作るのに欠くべからざるものは何よりも創作的情熱である。その又創作的情熱を燃え立たせるのに欠くべからざるものは何よりも或程度の健康である。瑞典スエーデン式体操、菜食主義、複方ジアスタアゼ等を軽んずるのは文を作らんとするものの志ではない。

   又

 文を作らんとするものは如何なる都会人であるにしても、その魂の奥底には野蛮人を一人持っていなければならぬ。

   又

 文を作らんとするものの彼自身を恥ずるのは罪悪である。彼自身を恥ずる心の上には如何なる独創の芽も生えたことはない。

   又

 百足むかで ちっとは足でも歩いて見ろ。
 蝶 ふん、ちっとは羽根でも飛んで見ろ。

   又

 気韻は作家の後頭部である。作家自身には見えるものではない。し又無理に見ようとすれば、くびの骨を折るのにおわるだけであろう。

   又

 批評家 君は勤め人の生活しか書けないね?
 作家 誰か何でも書けた人がいたかね?

   又

 あらゆる古来の天才は、我我凡人の手のとどかない壁上のくぎに帽子をかけている。もっとも踏み台はなかったわけではない。

   又

 しかしああ言う踏み台だけはどこの古道具屋にも転がっている。

   又

 あらゆる作家は一面には指物師さしものしの面目をそなえている。が、それは恥辱ではない。あらゆる指物師も一面には作家の面目を具えている。

   又

 のみならず又あらゆる作家は一面には店を開いている。何、わたしは作品は売らない? それは君、買い手のない時にはね。或は売らずとも好い時にはね。

   又

 俳優や歌手の幸福は彼等の作品ののこらぬことである。――と思うこともない訣ではない。


侏儒の言葉(遺稿)


   弁護

 他人を弁護するよりも自己を弁護するのは困難である。疑うものは弁護士を見よ。

   女人

 健全なる理性は命令している。――「なんじ、女人を近づくるなかれ。」
 しかし健全なる本能は全然反対に命令している。――「爾、女人を避くる勿れ。」

   又

 女人は我我男子には正に人生そのものである。即ち諸悪の根源である。

   理性

 わたしはヴォルテェルを軽蔑けいべつしている。若し理性に終始するとすれば、我我は我我の存在に満腔まんこう呪咀じゅそを加えなければならぬ。しかし世界の賞讃しょうさんに酔った Candide の作者の幸福さは!

   自然

 我我の自然を愛する所以ゆえんは、――少くともその所以の一つは自然は我我人間のようにねたんだり欺いたりしないからである。

   処世術

 最も賢い処世術は社会的因襲を軽蔑しながら、しかも社会的因襲と矛盾せぬ生活をすることである。

   女人崇拝

「永遠に女性なるもの」を崇拝したゲエテは確かに仕合せものの一人だった。が、Yahoo のめすを軽蔑したスウィフトは狂死せずにはいなかったのである。これは女性ののろいであろうか? 或は又理性の呪いであろうか?

   理性

 理性のわたしに教えたものは畢竟ひっきょう理性の無力だった。

   運命

 運命は偶然よりも必然である。「運命は性格の中にある」と云う言葉は決して等閑に生まれたものではない。

   教授

 若し医家の用語を借りれば、いやしくも文芸を講ずるには臨床的でなければならぬはずである。しかも彼等はいまかつて人生の脈搏みゃくはくに触れたことはない。殊に彼等の或るものは英仏の文芸には通じても彼等を生んだ祖国の文芸には通じていないと称している。

   知徳合一

 我我は我我自身さえ知らない。いわんや我我の知ったことを行に移すのは困難[#「困難」は底本では「因難」]である。「知慧ちえと運命」を書いたメエテルリンクも知慧や運命を知らなかった。

   芸術

 最も困難[#「困難」は底本では「因難」]な芸術は自由に人生を送ることである。もっとも「自由に」と云う意味は必ずしも厚顔にと云う意味ではない。

   自由思想家

 自由思想家の弱点は自由思想家であることである。彼は到底狂信者のように獰猛どうもうに戦うことは出来ない。

   宿命

 宿命は後悔の子かも知れない。――或は後悔は宿命の子かも知れない。

   彼の幸福

 彼の幸福は彼自身の教養のないことに存している。同時に又彼の不幸も、――ああ、何と云う退屈さ加減!

   小説家

 最も善い小説家は「世故せこに通じた詩人」である。

   言葉

 あらゆる言葉は銭のように必ず両面をそなえている。例えば「敏感な」と云う言葉の一面は畢竟ひっきょう臆病おくびょうな」と云うことに過ぎない。

   或物質主義者の信条

「わたしは神を信じていない。しかし神経を信じている。」

   阿呆

 阿呆はいつも彼以外の人人をことごとく阿呆と考えている。

   処世的才能

 何と言っても「憎悪する」ことは処世的才能の一つである。

   懺悔

 古人は神の前に懺悔ざんげした。今人は社会の前に懺悔している。すると阿呆や悪党を除けば、何びとも何かに懺悔せずには娑婆苦しゃばくに堪えることは出来ないのかも知れない。

   又

 しかしどちらの懺悔にしても、どの位信用出来るかと云うことはおのずから又別問題である。

   「新生」読後

 果して「新生」はあったであろうか?

   トルストイ

 ビュルコフのトルストイ伝を読めば、トルストイの「わが懺悔」や「わが宗教」のうそだったことは明らかである。しかしこの□を話しつづけたトルストイの心ほど傷ましいものはない。彼の□は余人の真実よりもはるかに紅血を滴らしている。

   二つの悲劇

 ストリントベリイの生涯の悲劇は「観覧随意」だった悲劇である。が、トルストイの生涯の悲劇は不幸にも「観覧随意」ではなかった。従って後者は前者よりも一層悲劇的に終ったのである。

   ストリントベリイ

 彼は何でも知っていた。しかも彼の知っていたことを何でも無遠慮にさらけ出した。何でも無遠慮に、――いや、彼も亦我我のように多少の打算はしていたであろう。

   又

 ストリントベリイは「伝説」の中に死は苦痛か否かと云う実験をしたことを語っている。しかしこう云う実験は遊戯的に出来るものではない。彼も亦「死にたいと思いながら、しかも死ねなかった」一人である。

   或理想主義者

 彼は彼自身の現実主義者であることに少しも疑惑を抱いたことはなかった。しかしこう云う彼自身は畢竟理想化した彼自身だった。

   恐怖

 我我に武器をらしめるものはいつも敵に対する恐怖である。しかもしばしば実在しない架空の敵に対する恐怖である。

   我我

 我我は皆我我自身を恥じ、同時に又彼等を恐れている。が、誰も卒直にこう云う事実を語るものはない。

   恋愛

 恋愛はただ性慾の詩的表現を受けたものである。少くとも詩的表現を受けない性慾は恋愛と呼ぶに価いしない。

   或老練家

 彼はさすがに老練家だった。醜聞を起さぬ時でなければ、恋愛さえ滅多にしたことはない。

   自殺

 万人に共通した唯一の感情は死に対する恐怖である。道徳的に自殺の不評判であるのは必ずしも偶然ではないかも知れない。

   又

 自殺に対するモンテェエヌの弁護は幾多の真理を含んでいる。自殺しないものはしないのではない。自殺することの出来ないのである。

   又

 死にたければいつでも死ねるからね。
 ではためしにやって見給え。

   革命

 革命の上に革命を加えよ。しからば我等は今日よりも合理的に娑婆苦をむることを得べし。

   死

 マインレンデルはすこぶる正確に死の魅力を記述している。実際我我は何かの拍子に死の魅力を感じたが最後、容易にその圏外に逃れることは出来ない。のみならず同心円をめぐるようにじりじり死の前へ歩み寄るのである。

   「いろは」短歌

 我我の生活に欠くべからざる思想は或は「いろは」短歌に尽きているかも知れない。

   運命

 遺伝、境遇、偶然、――我我の運命を司るものは畢竟ひっきょうこの三者である。自ら喜ぶものは喜んでも善い。しかし他を云々するのは僣越せんえつである。

   嘲けるもの

 他をあざけるものは同時に又他に嘲られることを恐れるものである。

   或日本人の言葉

 我にスウィツルを与えよ。しからずんば言論の自由を与えよ。

   人間的な、余りに人間的な

 人間的な、余りに人間的なものは大抵は確かに動物的である。

   或才子

 彼は悪党になることは出来ても、阿呆になることは出来ないと信じていた。が、何年かたって見ると、少しも悪党になれなかったばかりか、いつもただ阿呆に終始していた。

   希臘人

 復讐ふくしゅうの神をジュピタアの上に置いた希臘人ギリシアじんよ。君たちは何も彼も知りつくしていた。

   又

 しかしこれは同時に又如何に我我人間の進歩の遅いかと云うことを示すものである。

   聖書

 一人の知慧ちえは民族の知慧にかない。唯もう少し簡潔であれば、……

   或孝行者

 彼は彼の母に孝行した、勿論もちろん愛撫あいぶ接吻せっぷんが未亡人だった彼の母を性的に慰めるのを承知しながら。

   或悪魔主義者

 彼は悪魔主義の詩人だった。が、勿論実生活の上では安全地帯の外に出ることはたった一度だけでりしてしまった。

   或自殺者

 彼は或瑣末さまつなことの為に自殺しようと決心した。が、その位のことの為に自殺するのは彼の自尊心には痛手だった。彼はピストルを手にしたまま、傲然ごうぜんとこうひとごとを言った。――「ナポレオンでものみに食われた時はかゆいと思ったのに違いないのだ。」

   或左傾主義者

 彼は最左翼の更に左翼に位していた。従って最左翼をも軽蔑けいべつしていた。

   無意識

 我我の性格上の特色は、――少くとも最も著しい特色は我我の意識を超越している。

   矜誇

 我我の最も誇りたいのは我我の持っていないものだけである。実例。――Tは独逸語ドイツご堪能たんのうだった。が、彼の机上にあるのはいつも英語の本ばかりだった。

   偶像

 何びとも偶像を破壊することに異存を持っているものはない。同時に又彼自身を偶像にすることに異存を持っているものもない。

   又

 しかし又泰然と偶像になりおおせることは何びとにも出来ることではない。勿論天運を除外例としても。

   天国の民

 天国の民は何よりも先に胃袋や生殖器を持っていないはずである。

   或仕合せ者

 彼は誰よりも単純だった。

   自己嫌悪

 最も著しい自己嫌悪の徴候はあらゆるものにうそを見つけることである。いや、必ずしもそればかりではない。その又□を見つけることに少しも満足を感じないことである。

   外見

 由来最大の臆病者おくびょうものほど最大の勇者に見えるものはない。

   人間的な

 我我人間の特色は神の決して犯さない過失を犯すと云うことである。

   罰

 罰せられぬことほど苦しい罰はない。それも決して罰せられぬと神々でも保証すれば別問題である。

   罪

 道徳的並びに法律的範囲に於ける冒険的行為、――罪は畢竟こう云うことである。従って又どう云う罪も伝奇的色彩を帯びないことはない。

   わたし

 わたしは良心を持っていない。わたしの持っているのは神経ばかりである。

   又

 わたしは度たび他人のことを「死ねば善い」と思ったものである。しかもその又他人の中には肉親さえ交っていなかったことはない。

   又

 わたしは度たびこう思った。――「俺があの女にれた時にあの女も俺に惚れた通り、俺があの女を嫌いになった時にはあの女も俺を嫌いになれば善いのに。」

   又

 わたしは三十歳を越した後、いつでも恋愛を感ずるが早いか、一生懸命に抒情詩じょじょうしを作り、深入りしない前に脱却した。しかしこれは必しも道徳的にわたしの進歩したのではない。唯ちょっとはらの中に算盤そろばんをとることを覚えたからである。

   又

 わたしはどんなに愛していた女とでも一時間以上話しているのは退窟たいくつだった。

   又

 わたしは度たびうそをついた。が、文字にする時はかく、わたしの口ずから話した□はいずれも拙劣を極めたものだった。

   又

 わたしは第三者と一人の女を共有することに不平を持たない。しかし第三者が幸か不幸かこう云う事実を知らずにいる時、何か急にその女に憎悪を感ずるのを常としている。

   又

 わたしは第三者と一人の女を共有することに不平を持たない。しかしそれは第三者と全然見ず知らずの間がらであるか、或は極く疎遠の間がらであるか、どちらかであることを条件としている。

   又

 わたしは第三者を愛する為に夫の目をぬすんでいる女にはやはり恋愛を感じないことはない。しかし第三者を愛する為に子供を顧みない女には満身の憎悪を感じている。

   又

 わたしを感傷的にするものはただ無邪気な子供だけである。

   又

 わたしは三十にならぬ前に或女を愛していた。その女は或時わたしに言った。――「あなたの奥さんにすまない。」わたしは格別わたしの妻に済まないと思っていたわけではなかった。が、妙にこの言葉はわたしの心にみ渡った。わたしは正直にこう思った。――「或はこの女にもすまないのかも知れない。」わたしは未だにこの女にだけは優しい心もちを感じている。

   又

 わたしは金銭には冷淡だった。勿論もちろん食うだけには困らなかったから。

   又

 わたしは両親には孝行だった。両親はいずれも年をとっていたから。

   又

 わたしは二三の友だちにはたとい真実を言わないにもせよ、□をついたことは一度もなかった。彼等も亦□をつかなかったから。

   人生

 革命に革命を重ねたとしても、我我人間の生活は「選ばれたる少数」を除きさえすれば、いつも暗澹あんたんとしているはずである。しかも「選ばれたる少数」とは「阿呆と悪党と」の異名に過ぎない。

   民衆

 シェクスピイアも、ゲエテも、李太白りたいはくも、近松門左衛門も滅びるであろう。しかし芸術は民衆の中に必ず種子を残している。わたしは大正十二年に「たとい玉は砕けても、かわらは砕けない」と云うことを書いた。この確信は今日こんにちでも未だに少しも揺がずにいる。

   又

 打ち下ろすハンマアのリズムを聞け。あのリズムの存する限り、芸術は永遠に滅びないであろう。(昭和改元の第一日)

   又

 わたしは勿論失敗だった。が、わたしを造り出したものは必ず又誰かを作り出すであろう。一本の木の枯れることは極めて区々たる問題に過ぎない。無数の種子を宿している、大きい地面が存在する限りは。 (同上)

   或夜の感想

 眠りは死よりも愉快である。少くとも容易には違いあるまい。 (昭和改元の第二日)

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