歳晩さいばんのある暮方、自分は友人の批評家と二人で、所謂いわゆる腰弁街道こしべんかいどうの、裸になった並樹の柳の下を、神田橋かんだばしの方へ歩いていた。自分たちの左右には、昔、島崎藤村しまざきとうそんが「もっとかしらをあげて歩け」と慷慨こうがいした、下級官吏らしい人々が、まだただよっている黄昏たそがれの光の中に、蹌踉そうろうたる歩みを運んで行く。期せずして、同じく憂鬱な心もちを、払いのけようとしても払いのけられなかったからであろう。自分たちは外套がいとうの肩をすり合せるようにして、心もち足を早めながら、大手町おおてまち停留場ていりゅうばを通りこすまでは、ほとんど一言ひとこともきかずにいた。すると友人の批評家が、あすこの赤い柱の下に、電車を待っている人々の寒むそうな姿を一瞥すると、急に身ぶるいを一つして、
毛利もうり先生の事を思い出す。」と、独りごとのようにつぶやいた。
「毛利先生と云うのは誰だい。」
「僕の中学の先生さ。まだ君には話した事がなかったかな。」
 自分はいなと云う代りに、黙って帽子のひさしを下げた。これからしもに掲げるのはその時その友人が、歩きながら自分に話してくれた、その毛利先生の追憶ついおくである。――

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 もうかれこれ十年ばかり以前、自分がまだある府立中学の三年級にいた時の事である。自分の級に英語を教えていた、安達あだち先生と云う若い教師が、インフルエンザから来た急性肺炎はいえんで冬期休業の間に物故ぶっこしてしまった。それが余り突然だったので、適当な後任を物色する余裕がなかったからの窮策きゅうさくであろう。自分の中学は、当時ある私立中学で英語の教師を勤めていた、毛利もうり先生と云う老人に、今まで安達先生の受持っていた授業を一時嘱託した。
 自分が始めて毛利先生を見たのは、その就任当日の午後である。自分たち三年級の生徒たちは、新しい教師を迎えると云う好奇心に圧迫されて、廊下ろうかに先生の靴音が響いた時から、いつになくひっそりと授業の始まるのを待ちうけていた。所がその靴音が、日かげの絶えた、寒い教室の外にとどまって、やがてドアが開かれると、――ああ、自分はこう云ううちにも、歴々とその時の光景が眼に浮んでいる。ドアを開いてはいって来た毛利先生は、何よりさきその背の低いのがよく縁日の見世物に出る蜘蛛男くもおとこと云うものを聯想させた。が、その感じから暗澹たる色彩を奪ったのは、ほとんど美しいとでも形容したい、ひかり滑々かつかつたる先生の禿げ頭で、これまた後頭部のあたりに、種々しょうしょうたる胡麻塩ごましおの髪の毛が、わずかに残喘ざんぜんを保っていたが、大部分は博物はくぶつの教科書に画が出ている駝鳥だちょうの卵なるものと相違はない。最後に先生の風采を凡人以上に超越させたものは、その怪しげなモオニング・コオトで、これは過去において黒かったと云う事実を危く忘却させるくらい、文字通り蒼然たる古色を帯びたものであった。しかも先生のうすよごれた折襟には、極めて派手な紫の襟飾ネクタイが、まるで翼をひろげたのように、ものものしく結ばれていたと云う、驚くべき記憶さえ残っている。だから先生が教室へはいると同時に、期せずして笑をこらえる声が、そこここの隅から起ったのは、もとより不思議でも何でもない。
 が、読本とくほんと出席簿とを抱えた毛利もうり先生は、あたかも眼中に生徒のないような、悠然とした態度を示しながら、一段高い教壇に登って、自分たちの敬礼に答えると、いかにも人の好さそうな、血色の悪い丸顔に愛嬌あいきょうのある微笑を漂わせて、
「諸君」と、金切声かなきりごえで呼びかけた。
 自分たちは過去三年間、未嘗いまだかつてこの中学の先生から諸君を以てぐうせられた事は、一度もない。そこで毛利先生のこの「諸君」は、勢い自分たち一同に、思わず驚嘆の眼を見開かせた。と同時に自分たちは、すでに「諸君」と口を切った以上、その後はさしずめ授業方針か何かの大演説があるだろうと、息をひそめて待ちかまえていたのである。
 しかし毛利先生は、「諸君」と云ったまま、教室の中を見廻して、しばらくは何とも口を開かない。肉のたるんだ先生の顔には、悠然たる微笑の影が浮んでいるのにかかわらず、口角こうかくの筋肉は神経的にびくびく動いている。と思うと、どこか家畜のような所のある晴々はればれした眼の中にも、絶えず落ち着かない光が去来きょらいした。それがどうも口にこそ出さないが、何か自分たち一同に哀願したいものを抱いていて、しかもその何ものかと云う事が、先生自身にも遺憾いかんながら判然と見きわめがつかないらしい。
「諸君」
 やがて毛利もうり先生は、こう同じ調子で繰返した。それから今度はその後へ、丁度その諸君と云う声の反響を捕えようとする如く、
「これからわたくしが、諸君にチョイス・リイダアを教える事になりました」と、いかにもあわただしくつけ加えた。自分たちはますます好奇心の緊張を感じて、ひっそりと鳴りを静めながら、熱心に先生の顔を見守っていた。が、毛利先生はそう云うと同時に、また哀願するような眼つきをして、ぐるりと教室の中を見廻すと、それぎりで急に椅子いすの上へ弾機バネがはずれたように腰を下した。そうして、すでに開かれていたチョイス・リイダアのかたわらへ、出席簿をひろげて眺め出した。この唐突たる挨拶の終り方が、いかに自分たちを失望させたか、と云うよりもむしろ、失望を通り越して、いかに自分たちを滑稽に感じさせたか、それは恐らく云う必要もない事であろう。
 しかし幸いにして先生は、自分たちが笑をもらすのに先立って、あの家畜のような眼を出席簿から挙げたと思うと、たちまち自分たちの級の一人を「さん」づけにして指名した。勿論すぐに席を離れて、訳読して見ろと云う相図あいずである。そこでその生徒は立ち上って、ロビンソン・クルウソオか何かの一節を、東京の中学生に特有な、気のいた調子で訳読した。それをまた毛利先生は、時々紫の襟飾ネクタイへ手をやりながら、誤訳は元より些細ささいな発音の相違まで、一々丁寧に直して行く。発音は妙に気取った所があるが、大体正確で、明瞭で、先生自身もこの方面が特に内心得意らしい。
 が、その生徒が席に復して、先生がそこを訳読し始めると、再び自分たちの間には、そこここから失笑の声が起り始めた。と云うのは、あれほど発音の妙を極めた先生も、いざ翻訳をするとなると、ほとんど日本人とは思われないくらい、日本語の数を知っていない。あるいは知っていても、その場に臨んでは急には思い出せないのであろう。たとえばたった一行を訳するにしても、「そこでロビンソン・クルウソオは、とうとう飼う事にしました。何を飼う事にしたかと云えば、それ、あの妙なけだもので――動物園に沢山いる――何と云いましたかね、――ええとよく芝居をやる――ね、諸君も知っているでしょう。それ、顔の赤い――何、猿? そうそう、その猿です。その猿を飼う事にしました。」
 勿論猿でさえこのくらいだから、少し面倒なことばになると、何度もその周囲を低徊した揚句でなければ、容易に然るべき訳語にはぶつからない。しかも毛利先生はその度にひどく狼狽ろうばいして、ほとんどあの紫の襟飾ネクタイを引きちぎりはしないかと思うほど、しきり喉元のどもとへ手をやりながら、当惑そうな顔をあげて、あわただしく自分たちの方へ眼を飛ばせる。と思うとまた、両手で禿げ頭を抑えながら、机の上へ顔を伏せて、いかにも面目なさそうに行きづまってしまう。そう云う時は、ただでさえ小さな先生の体が、まるで空気の抜けた護謨風船ごむふうせんのように、意気地いくじなくちぢみ上って、椅子いすから垂れている両足さえ、ぶらりと宙に浮びそうな心もちがした。それをまた生徒の方では、面白い事にして、くすくす笑う。そうして二三度先生が訳読を繰返すあいだには、その笑い声も次第に大胆になって、とうとうしまいには一番前の机からさえ、公然と湧き返るようになった。こう云う自分たちの笑い声がどれほど善良な毛利先生につらかったか、――現に自分ですら今日きょうその刻薄こくはくな響を想起すると、思わず耳をおおいたくなる事は一再いっさいでない。
 それでもなお毛利先生は、休憩時間の喇叭らっぱが鳴り渡るまで、勇敢に訳読を続けて行った。そうして、ようやく最後の一節を読み終ると、再び元のような悠然たる態度で、自分たちの敬礼に答えながら、今までの惨澹さんたんたる悪闘も全然忘れてしまったように、落ち着き払って出て行ってしまった。そのあとを追いかけてどっと自分たちの間から上った、嵐のような笑い声、わざと騒々しく机のふたを明けたり閉めたりさせる音、それから教壇へとび上って、毛利先生の身ぶりや声色こわいろを早速使って見せる生徒――ああ、自分はまだその上に組長のしるしをつけた自分までが、五六人の生徒にとり囲まれて、先生の誤訳を得々とくとくと指摘していたと云う事実すら、思い出さなければならないのであろうか。そうしてその誤訳は? 自分は実際その時でさえ、果してそれがほんとうの誤訳かどうか、確かな事は何一つわからずに威張いばっていたのである。

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 それから三四日たあるひるの休憩時間である。自分たち五六人は、機械体操場の砂だまりに集まって、ヘルの制服の背を暖い冬の日向ひなたさらしながら、遠からずきたるべき学年試験のうわさなどを、口まめにしゃべり交していた。すると今まで生徒と一しょに鉄棒へぶら下っていた、体量十八貫と云う丹波たんば先生が、「一二、」と大きな声をかけながら、砂の上へ飛び下りると、チョッキばかりに運動帽をかぶった姿を、自分たちの中に現して、
「どうだね、今度来た毛利もうり先生は。」と云う。丹波先生はやはり自分たちの級に英語を教えていたが、有名な運動好きで、兼ねて詩吟しぎんが上手だと云う所から、英語そのものは嫌っていた柔剣道の選手などと云う豪傑連の間にも、大分だいぶ評判がよかったらしい。そこで先生がこう云うと、その豪傑連の一人がミットをもてあそびながら、
「ええ、あんまり――何です。みんなあんまり、よく出来ないようだって云っています。」と、がらにもなくはにかんだ返事をした。すると丹波先生はズボンの砂を手巾ハンケチではたきながら、得意そうに笑って見せて、
「お前よりも出来ないか。」
「そりゃ僕より出来ます。」
「じゃ、文句を云う事はないじゃないか。」
 豪傑はミットをはめた手で頭を掻きながら、意気地いくじなくひっこんでしまった。が、今度は自分の級の英語の秀才が、度の強い近眼鏡をかけ直すと、年に似合わずませた調子で、
「でも先生、僕たちは大抵たいてい専門学校の入学試験を受ける心算つもりなんですから、出来る上にも出来る先生に教えて頂きたいと思っているんです。」と、抗弁した。が、丹波先生は不相変あいかわらず勇壮に笑いながら、
「何、たった一学期やそこいら、誰に教わったって同じ事さ。」
「じゃ毛利先生は一学期だけしか御教えにならないんですか。」
 この質問には丹波先生も、いささか急所をつかれた感があったらしい。世故せこに長けた先生はそれにはわざと答えずに、運動帽をぎながら、五分刈ごぶがりの頭のほこりを勢よく払い落すと、急に自分たち一同を見渡して、
「そりゃ毛利先生は、随分古い人だから、我々とは少し違っているさ。今朝も僕が電車へ乗ったら、先生は一番まん中にかけていたっけが、乗換えの近所になると、『車掌、車掌』って声をかけるんだ。僕は可笑おかしくって、弱ったがね。とにかく一風変いっぷうかわった人には違いないさ。」と、たくみに話頭を一転させてしまった。が、毛利先生のそう云う方面に関してなら、何も丹波先生を待たなくとも、自分たちの眼をおどろかせた事は、あり余るほど沢山ある。
「それから毛利先生は、雨が降ると、洋服へ下駄げたをはいて来られるそうです。」
「あのいつも腰に下っている、白い手巾ハンカチへ包んだものは、毛利先生の御弁当じゃないんですか。」
「毛利先生が電車の吊皮つりかわにつかまっていられるのを見たら、毛糸の手袋が穴だらけだったって云う話です。」
 自分たちは丹波先生を囲んで、こんな愚にもつかない事を、四方からやかましく饒舌しゃべり立てた。ところがそれに釣りこまれたのか、自分たちの声が一しきり高くなると、丹波先生もいつか浮き浮きした声を出して、運動帽を指の先でまわしながら、
「それよりかさ、あの帽子が古物こぶつだぜ――」と、思わず口へ出して云いかけた、丁度その時である。機械体操場と向い合って、わずかに十歩ばかり隔っている二階建の校舎の入口へ、どう思ったか毛利もうり先生が、その古物の山高帽やまたかぼうを頂いて、例の紫の襟飾ネクタイ仔細しさいらしく手をやったまま、悠然として小さな体を現した。入口の前には一年生であろう、子供のような生徒が六七人、人馬ひとうまか何かして遊んでいたが、先生の姿を見ると、これは皆先を争って、丁寧に敬礼する。毛利先生もまた、入口の石段の上にさした日の光の中にたたずんで、山高帽をあげながら笑って礼を返しているらしい。この景色を見た自分たちは、さすがに皆一種の羞恥しゅうちを感じて、しばらくの間はひっそりと、にぎやかな笑い声を絶ってしまった。が、その中で丹波先生だけは、ただ、口をつぐむべく余りに恐縮と狼狽ろうばいとを重ねたからでもあったろう。「あの帽子が古物だぜ」と、云いかけた舌をちょいと出して、素早く運動帽をかぶったと思うと、突然くるりと向きを変えて、「一――」と大きくわめきながら、チョッキ一つの肥った体を、やにわに鉄棒へ抛りつけた。そうして「海老上えびあがり」の両足を遠く空ざまに伸しながら、「二――」と再び喚いた時には、もう冬の青空をあざやかに切りぬいて、楽々とその上にあがっていた。この丹波先生の滑稽なてれ隠しが、自分たち一同を失笑させたのは無理もない。一瞬間声を呑んだ機械体操場の生徒たちは、鉄棒の上の丹波先生を仰ぎながら、まるで野球の応援でもする時のように、わっとはやし立てながら、拍手をした。
 こう云う自分も皆と一しょに、喝采かっさいをしたのは勿論である。が、喝采している内に、自分は鉄棒の上の丹波先生を、半ば本能的に憎み出した。と云ってもそれだけまた、毛利先生に同情を注いだと云う訳でもない。その証拠にはその時自分が、丹波先生へ浴びせた拍手は、同時に毛利先生へ、自分たちの悪意を示そうと云う、間接目的を含んでいたからである。今自分の頭で解剖すれば、その時の自分の心もちは、道徳の上で丹波先生を侮蔑ぶべつすると共に、学力の上では毛利先生も併せて侮蔑していたとでも説明する事が出来るかも知れない。あるいはその毛利先生に対する侮蔑は、丹波先生の「あの帽子が古物こぶつだぜ」によって、一層然るべき裏書きをほどこされたような、ずうずうしさを加えていたとも考える事が出来るであろう。だから自分は喝采しながら、そびやかした肩越しに、昂然として校舎の入口を眺めやった。するとそこには依然として、わが毛利先生が、まるで日の光をむさぼっている冬蠅ふゆばいか何かのように、じっと石段の上にたたずみながら、一年生の無邪気な遊戯を、余念もなく独り見守っている。その山高帽子とその紫の襟飾ネクタイと――自分は当時、むしろ、わらうべき対象として、一瞥のうちに収めたこの光景が、なぜか今になって見ると、どうしてもまた忘れる事が出来ない。……

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 就任の当日毛利もうり先生が、その服装と学力とによって、自分たちに起させた侮蔑ぶべつの情は、丹波たんば先生のあの失策(?)があって以来、いよいよ級全体にさかんになった。すると、また、それから一週間とたたないある朝の事である。その日は前夜から雪が降りつづけて、窓の外にさし出ている雨天体操場の屋根などは、一面にもう瓦の色が見えなくなってしまったが、それでも教室の中にはストオヴが、赤々あかあかと石炭の火を燃え立たせて、窓硝子ガラスにつもる雪さえ、うす青い反射の光を漂わすひまもなく、けて行った。そのストオヴの前に椅子を据えながら、毛利先生は例の通り、金切声かなきりごえをふりしぼって、熱心にチョイス・リイダアの中にあるサアム・オヴ・ライフを教えていたが、勿論誰も真面目まじめになって、耳を傾けている生徒はない。ない所か、自分の隣にいる、ある柔道の選手の如きは、読本とくほんの下へ武侠世界ぶきょうせかいをひろげて、さっきから押川春浪おしかわしゅんろうの冒険小説を読んでいる。
 それがかれこれ二三十分も続いたであろう。その中に毛利先生は、急に椅子いすから身を起すと、丁度今教えているロングフェロオの詩にちなんで、人生と云う問題を弁じ出した。趣旨はどんな事だったか、さらに記憶に残っていないが、恐らくは議論と云うよりも、先生の生活を中心とした感想めいたものだったと思う。と云うのは先生が、まるで羽根を抜かれた鳥のように、絶えず両手を上げ下げしながら、あわただしい調子で饒舌しゃべった中に、
「諸君にはまだ人生はわからない。ね。わかりたいったって、わかりはしません。それだけ諸君は幸福なんでしょう。我々になると、ちゃんと人生がわかる。わかるが苦しい事が多いです。ね。苦しい事が多い。これでわたくしにしても、子供が二人ある。そら、そこで学校へ上げなければならない。上げれば――ええと――上げれば――学資? そうだ。その学資がるでしょう。ね。だから中々苦しい事が多い……」と云うような文句のあった事を、かすかに覚えているからである。が、何も知らない中学生に向ってさえ、生活難をうったえる――あるいは訴えない心算つもりでも訴えている、先生の心もちなぞと云うものは、元より自分たちに理解されよう筈がない。それより訴えると云うその事実の、滑稽こっけいな側面ばかり見た自分たちは、こう先生が述べ立てている中に、誰からともなくくすくす笑い出した。ただ、それがいつもの哄然たる笑声に変らなかったのは、先生の見すぼらしい服装と金切声かなきりごえをあげて饒舌しゃべっている顔つきとが、いかにも生活難それ自身の如く思われて、幾分の同情を起させたからであろう。しかし自分たちの笑い声が、それ以上大きくならなかった代りに、しばらくすると、自分の隣にいた柔道の選手が、突然武侠世界をさし置いて、虎のようないきおいを示しながら、立ち上った。そうして何を云うかと思うと、
「先生、僕たちは英語を教えて頂くために、出席しています。ですからそれが教えて頂けなければ、教室へはいっている必要はありません。もしもっと御話が続くのなら、僕は今から体操場へ行きます。」
 こう云って、その生徒は、一生懸命ににがい顔をしながら、恐しい勢でまた席に復した。自分はその時の毛利もうり先生くらい、不思議な顔をした人を見た事はない。先生はまるでらいたれたように、口を半ばけたまま、ストオヴの側へ棒立ちになって、一二分のあいだはただ、その慓悍ひょうかんな生徒の顔ばかり眺めていた。が、やがて家畜かちくのような眼の中に、あの何かを哀願するような表情が、きわどくちくりとひらめいたと思うと、急に例の紫の襟飾ネクタイへ手をやって、二三度禿げ頭を下げながら、
「いや、これはわたしが悪い。私が悪かったから、重々あやまります。成程諸君は英語を習うために出席している。その諸君に英語を教えないのは、私が悪かった。悪かったから、重々あやまります。ね。重々あやまります。」と、泣いてでもいるような微笑を浮べて、何度となく同じような事を繰り返した。それがストオヴの口からさす赤い火の光をななめに浴びて、上衣うわぎの肩や腰のり切れた所が、一層鮮に浮んで見える。と思うと先生の禿げ頭も、下げる度に見事な赤銅色しゃくどういろの光沢を帯びて、いよいよ駝鳥だちょうの卵らしい。
 が、この気の毒な光景も、当時の自分にはいたずらに、先生の下等な教師根性を暴露したものとしか思われなかった。毛利先生は生徒の機嫌きげんをとってまでも、失職の危険を避けようとしている。だから先生が教師をしているのは、生活のために余儀なくされたので、何も教育そのものに興味があるからではない。――おぼろげながらこんな批評をたくましゅうした自分は、今は服装と学力とに対する侮蔑ばかりでなく、人格に対する侮蔑さえ感じながら、チョイス・リイダアの上へ頬杖ほおづえをついて、燃えさかるストオヴの前へ立ったまま、精神的にも肉体的にも、火炙ひあぶりにされている先生へ、何度も生意気なまいきな笑い声を浴びせかけた。勿論これは、自分一人に限った事でも何でもない。現に先生をやりこめた柔道の選手なぞは、先生が色を失って謝罪すると、ちょいと自分の方を見かえって、狡猾こうかつそうな微笑をもらしながら、すぐまた読本の下にある押川春浪おしかわしゅんろうの冒険小説を、勉強し始めたものである。
 それから休憩時間の喇叭らっぱが鳴るまで、わが毛利先生はいつもよりさらにしどろもどろになって、あわれむべきロングフェロオを無二無三むにむさんに訳読しようとした。「Life is real, life is earnest.」――あの血色の悪い丸顔を汗ばませて、絶えず知られざる何物かを哀願しながら、こう先生の読み上げた、のどのつまりそうな金切声かなきりごえは、今日こんにちでもなお自分の耳の底に残っている。が、その金切声の中に潜んでいる幾百万の悲惨な人間の声は、当時の自分たちの鼓膜こまくを刺戟すべく、余りに深刻なものであった。だからその時間中、倦怠けんたいに倦怠を重ねた自分たちの中には、無遠慮な欠伸あくびの声を洩らしたものさえ、自分のほかにも少くはない。しかし毛利先生は、ストオヴの前へ小さな体を直立させて、窓硝子をかすめて飛ぶ雪にも全然頓着せず、頭の中の鉄条ゼンマイが一時にほぐれたようないきおいで、絶えず読本をふりまわしながら、必死になって叫びつづける。「Life is real, life is earnest. ―― Life is real, life is earnest.」……

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 こう云う次第だったから、一学期の雇庸こよう期間がすぎて、再び毛利もうり先生の姿を見る事が出来なくなってしまった時も、自分たちは喜びこそすれ、決して惜しいなどとは思わなかった。いや、その喜ぶと云う気さえ出なかったほど、先生の去就きょしゅうには冷淡だったと云えるかも知れない。殊に自分なぞはそれから七八年、中学から高等学校、高等学校から大学と、次第に成人おとなになるのに従って、そう云う先生の存在自身さえ、ほとんど忘れてしまうくらい、全然何の愛惜も抱かなかったものである。
 すると大学を卒業した年の秋――と云っても、日が暮れると、しばしば深いもやが下りる、十二月の初旬近くで、並木の柳や鈴懸すずかけなどが、とうに黄いろい葉をふるっていた、あるあまあがりの夜の事である。自分は神田の古本屋ふるほんやを根気よくあさりまわって、欧洲戦争が始まってから、めっきり少くなった独逸ドイツ書を一二冊手に入れた揚句あげく、動くともなく動いている晩秋のつめたい空気を、外套がいとうの襟に防ぎながら、ふと中西屋なかにしやの前を通りかかると、なぜかにぎやかな人声と、暖い飲料とが急に恋しくなったので、そこにあったカッフェの一つへ、何気なにげなく独りではいって見た。
 ところが、はいって見るとカッフェの中は、狭いながらがらんとして、客の影は一人もない。置き並べた大理石のテエブルの上には、砂糖壺の鍍金めっきばかりが、冷く電燈の光を反射している。自分はまるで誰かにあざむかれたような、寂しい心もちを味いながら、壁にはめこんだ鏡の前の、テエブルへ行って腰を下した。そうして、用を聞きに来た給仕に珈琲コオヒイを云いつけると、思い出したように葉巻を出して、何本となくマチをった揚句あげく、やっとそれに火をつけた。すると間もなく湯気の立つ珈琲茶碗が、自分のテエブルの上に現れたが、それでも一度沈んだ気は、外に下りているもやのように、容易な事では晴れそうもない。と云って今古本屋から買って来たのは、字のこまかい哲学の書物だから、ここでは折角の名論文も、一頁と読むのは苦痛である。そこで自分は仕方がなく、椅子の背へ頭をもたせてブラジル珈琲とハヴァナと代る代る使いながら、すぐ鼻の先の鏡の中へ、漫然と煮え切らない視線をさまよわせた。
 鏡の中には、二階へ上る楷子段はしごだんの側面を始として、向うの壁、白塗りのドア、壁にかけた音楽会の広告なぞが、舞台面の一部でも見るように、はっきりと寒くうつっている。いや、まだそのほかにも、大理石のテエブルが見えた。大きな針葉樹の鉢も見えた。天井から下った電燈も見えた。大形な陶器の瓦斯煖炉ガスだんろも見えた。その煖炉の前を囲んで、しきりに何か話している三四人の給仕の姿も見えた。そうして――こう自分が鏡の中の物象を順々に点検して、煖炉の前に集まっている給仕たちに及んだ時である。自分は彼等に囲まれながら、その卓に向っている一人の客の姿に驚かされた。それが、今まで自分の注意に上らなかったのは、恐らく周囲の給仕にまぎれて、無意識にカッフェの厨丁コックか何かと思いこんでいたからであろう。が、その時、自分が驚いたのは、何もいないと思った客が、いたと云うばかりではない。鏡の中に映っている客の姿が、こちらへは僅に横顔しか見せていないにも関らず、あの駝鳥だちょうの卵のような、禿げ頭の恰好と云い、あの古色蒼然としたモオニング・コオトの容子ようすと云い、最後にあの永遠に紫な襟飾ネクタイの色合いと云い、わが毛利もうり先生だと云う事は、一目ですぐに知れたからである。
 自分は先生を見ると同時に、先生と自分とを隔てていた七八年の歳月を、咄嗟とっさに頭の中へ思い浮べた。チョイス・リイダアを習っていた中学の組長と、今ここで葉巻の煙を静に鼻から出している自分と――自分にとってその歳月は、決して短かかったとは思われない。が、すべてを押し流す「時」の流も、すでに時代を超越したこの毛利先生ばかりは、如何いかんともする事が出来なかったからであろうか。現在この夜のカッフェで給仕とテエブルを分っている先生は、宛然えんぜんとして昔、あの西日にしびもささない教室で読本を教えていた先生である。禿げ頭も変らない。紫の襟飾ネクタイも同じであった。それからあの金切声かなきりごえも――そういえば、先生は、今もあの金切声を張りあげて、せわしそうに何か給仕たちへ、説明しているようではないか。自分は思わず微笑を浮べながら、いつかひき立たない気分も忘れて、じっと先生の声に耳を借した。
「そら、ここにある形容詞がこの名詞を支配する。ね、ナポレオンと云うのは人の名前だから、そこでこれを名詞と云う。よろしいかね。それからその名詞を見ると、すぐ後に――このすぐ後にあるのは、何だか知っているかね。え。お前はどうだい。」
「関係――関係名詞。」
 給仕の一人がどもりながら、こう答えた。
「何、関係名詞? 関係名詞と云うものはない。関係――ええと――関係代名詞? そうそう関係代名詞だね。代名詞だから、そら、ナポレオンと云う名詞の代りになる。ね。代名詞とは名に代ることばと書くだろう。」
 話の具合では、毛利先生はこのカッフェの給仕たちに英語を教えてでもいるらしい。そこで自分は椅子いすをずらせて、違った位置からまた鏡をのぞきこんだ。すると果してそのテエブルの上には、読本らしいものが一冊開いてある。毛利先生はその頁を、しきりに指でつき立てながら、いつまでも説明にきる容子ようすがない。この点もまた先生は、依然として昔の通りであった。ただ、まわりに立っている給仕たちは、あの時の生徒と反対に、皆熱心な眼を輝かせて、目白押めじろおしに肩を合せながら、あわただしい先生の説明におとなしく耳を傾けている。
 自分は鏡の中のこの光景を、しばらく眺めている間に、毛利先生に対する温情が意識の表面へ浮んで来た。一そ自分もあすこへ行って、先生と久闊きゅうかつを叙し合おうか。が、多分先生は、たった一学期の短い間、教室だけで顔を合せた自分なぞを覚えていまい。よしまた覚えているとしても――自分は卒然そつぜんとして、当時自分たちが先生に浴びせかけた、悪意のある笑い声を思い出すと、結局名乗なのりなぞはあげない方が、はるかに先生を尊敬する所以ゆえんだと思い直した。そこで珈琲コオヒイが尽きたのを機会しおにして、短くなった葉巻を捨てながら、そっとテエブルから立上ると、それが静にした心算つもりでも、やはり先生の注意をみだしたのであろう。自分が椅子を離れると同時に、先生はあの血色の悪い丸顔を、あのうすよごれた折襟を、あの紫の襟飾ネクタイを、一度にこちらへふり向けた。家畜かちくのような先生の眼と自分の眼とが、鏡の中で刹那せつなあいだ出会ったのは正にこの時である。が、先生の眼の中には、さっき自分が予想した通り、果して故人に遇ったと云う気色けしきらしいものも浮んでいない。ただ、そこに閃いていたものは、例の如く何ものかを、常に哀願しているような、いたましいなざしだけであった。
 自分は眼を伏せたまま、給仕の手から伝票を受けとると、黙ってカッフェの入口にある帳場ちょうばの前へ勘定に行った。帳場には自分も顔馴染かおなじみの、髪を綺麗に分けた給仕頭きゅうじがしらが、退屈そうに控えている。
「あすこに英語を教えている人がいるだろう。あれはこのカッフェで頼んで教えて貰うのかね。」
 自分は金を払いながら、こう尋ねると、給仕頭は戸口の往来を眺めたまま、つまらなそうな顔をして、こんな答を聞かせてくれた。
「何、頼んだわけじゃありません。ただ、毎晩やって来ちゃ、ああやって、教えているんです。何でももう老朽ろうきゅうの英語の先生だそうで、どこでもやとってくれないんだって云いますから、大方暇つぶしに来るんでしょう。珈琲一杯で一晩中、坐りこまれるんですから、こっちじゃあんまり難有ありがたくもありません。」
 これを聞くと共に自分の想像には、咄嗟とっさに我毛利先生の知られざる何物かを哀願している、あの眼つきが浮んで来た。ああ、毛利先生。今こそ自分は先生を――先生の健気けなげな人格を始めて髣髴ほうふつし得たような心もちがする。もし生れながらの教育家と云うものがあるとしたら、先生は実にそれであろう。先生にとって英語を教えると云う事は、空気を呼吸すると云う事と共に、寸刻といえどもめる事は出来ない。もしいて止めさせれば、丁度水分を失った植物か何かのように、先生の旺盛おうせいな活力も即座に萎微いびしてしまうのであろう。だから先生は夜毎に英語を教えると云うその興味に促されて、わざわざ独りこのカッフェへ一杯の珈琲をすすりに来る。勿論それはあの給仕頭きゅうじがしらなどに、暇つぶしを以てもくさるべき悠長な性質のものではない。まして昔、自分たちが、先生の誠意を疑って、生活のためとあざけったのも、今となっては心から赤面のほかはない誤謬ごびゅうであった。思えばこの暇つぶしと云い生活のためと云う、世間の俗悪な解釈のために、我毛利先生はどんなにか苦しんだ事であろう。元よりそう云う苦しみの中にも、先生は絶えず悠然たる態度を示しながら、あの紫の襟飾ネクタイとあの山高帽やまたかぼうとに身を固めて、ドン・キホオテよりも勇ましく、不退転の訳読を続けて行った。しかし先生の眼の中には、それでもなお時として、先生の教授を受ける生徒たちの――恐らくは先生が面しているこの世間全体の――同情を哀願するひらめきが、傷ましくも宿っていたではないか。
 刹那せつなあいだこんな事を考えた自分は、泣いていか笑って好いか、わからないような感動に圧せられながら、外套の襟に顔をうずめて、□々そうそうカッフェの外へ出た。が、あとでは毛利先生が、明るすぎて寒い電燈の光の下で、客がいないのをさいわいに、不相変あいかわらず金切声かなきりごえをふり立て、熱心な給仕たちにまだ英語を教えている。
「名に代ることばだから、代名詞と云う。ね。代名詞。よろしいかね……」
(大正七年十二月)

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