日语文学作品赏析《東京小品》
作者:芥川龍之介
来源:青空文库
2010-01-06 00:00
鏡
自分は無暗 に書物ばかり積んである書斎の中に蹲 つて、寂しい春の松の内を甚 だらしなく消光してゐた。本をひろげて見たり、好 い加減な文章を書いて見たり、それにも飽きると出たらめな俳句を作つて見たり――要するにまあ太平の逸民 らしく、のんべんだらりと日を暮してゐたのである。すると或日久しぶりに、よその奥さんが子供をつれて、年始旁々 遊びに来た。この奥さんは昔から若くつてゐたいと云ふ事を、口癖のやうにしてゐる人だつた。だからつれてゐる女の子がもう五つになると云ふにも関 らず、まだ娘の時分の美しさを昨日 のやうに保存してゐた。
その日自分の書斎には、梅の花が活 けてあつた。そこで我々は梅の話をした。が、千枝 ちやんと云ふその女の子は、この間中 書斎の額 や掛物 を上眼 でぢろぢろ眺めながら、退屈さうに側に坐つてゐた。
暫 くして自分は千枝ちやんが可哀 さうになつたから、奥さんに「もうあつちへ行つて、母とでも話してお出でなさい」と云つた。母なら奥さんと話しながら、しかも子供を退屈させない丈 の手腕があると思つたからである。すると奥さんは懐 から鏡 を出して、それを千枝ちやんに渡しながら「この子はかうやつて置きさへすれば、決して退屈しないんです」と云つた。
何故 だらうと思つて聞いて見ると、この奥さんの良人 が逗子 の別荘に病 を養つてゐた時分、奥さんは千枝 ちやんをつれて、一週間に二三度宛 東京逗子間を往復したが、千枝ちやんは汽車の中でその度に退屈し切つてしまふ。のみならず、その退屈を紛 らしたい一心で、勝手な悪戯 をして仕方がない。現に或時はよその御隠居 様をつかまへて「あなた、仏蘭西 語を知つていらつしやる」などととんでもない事を尋ねたりした。そこで奥さんも絵本を渡したり、ハモニカをあてがつたり、いろいろ退屈させない心配をしたが、とうとうしまひに懐鏡 を持たせて置くと、意外にも道中 おとなしく坐つてゐる事実を発見した。千枝ちやんはその鏡を覗 きこんで、白粉 を直したり、髪を掻 いたり、或は又わざと顔をしかめて見り、鏡の中の自分を相手にして、何時 までも遊んでゐるからである。
奥さんはかう鏡を渡した因縁 を説明して、「やつぱり子供ですわね。鏡さへ見てゐれば、それでもう何も忘れてゐられるんですから。」とつけ加へた。
自分は刹那 の間 、この奥さんに軽い悪意を働かせた。さうして思はず笑ひながら、こんな事を云つて冷評 した。
「あなただつて鏡さへ見てゐれば、それでもう何も忘れてゐられるんぢやありませんか。千枝 ちやんと違ふのは、退屈なのが汽車の中と世の中だけの差別ですよ。」
下足札
これも或松の内の事である。Hと云ふ若い亜米利加 人が自分の家へ遊びに来て、いきなりポケツトから下足札 を一枚出すと、「何 だかわかるか」と自分に問ひかけた。下足札はまだ木の□ がする程新しい板の面 に、俗悪な太い字で「雪の十七番」と書いてある。自分はその書体を見ると、何故 か両国 の橋の袂 へ店を出してゐる甘酒屋 の赤い荷を思ひ出した。が、元より「雪の十七番」の因縁 なぞは心得てゐる筈がなかつた。だからこの蒟蒻問答 の雲水 めいた相手の顔を眺めながら、「わからないよ」と簡単な返事をした。するとHは鼻眼鏡 の後 から妙な瞬 きを一つ送りながら、急ににやにや笑ひ出して、
「これはね。或芸者の記念品 なんだ。」
「へへえ、記念品 にしちや又、妙なものを貰つたもんだな。」
自分たちの間 には、正月の膳 が並んでゐた。Hはちよいと顔をしかめながら、屠蘇 の盃 へ口をあてて、それから吸物の椀 を持つた儘、□々 としてその下足札の因縁を辯じ出した。――
何 でもそれによると、Hの教師をしてゐる学校が昨日 赤坂 の或御茶屋で新年会を催 したのださうである。日本に来て間 もないHは、まだ芸者に愛嬌 を売るだけの修業も積んでゐなかつたから、唯出て来る料理を片つぱしから平 げて、差される猪口 を片つぱしから飲み干してゐた。するとそこにゐた十人ばかりの芸者の中に、始終彼の方 へ秋波 を送る女が一人 あつた。日本の女は踝 から下を除いて悉 く美しいと云ふHの事だから、勿論この芸者も彼の眼には美人として映じたのに相違ない。そこで彼も牛飲馬食 する傍 には時々そつとその女の方を眺めてゐた。
しかし日本語の通じないHにも、日本酒は遠慮なく作用する。彼は一時間ばかりたつ中 に、文字 通り泥酔 した。その結果、殆 ど座に堪へられなくなつたから、ふらふらする足を踏みしめてそつと障子 の外へ出た。外には閑静な中庭が石燈籠 に火を入れて、ひつそりと竹の暗をつくつてゐる。Hは朦朧 たる酔眼 にこの景色を眺めると、如何 にも日本らしい好 い心もちに浸 る事が出来た。が、この日本情調が彼のエキゾテイシズムを満足させたのは、ほんの一瞬間の事だつたらしい。何故 と云ふと彼が廊下 へ出るか出ないのに、後 を追つてするすると裾を引いて来た芸者の一人 が突然彼の頸 へ抱 きついたからである。さうして彼の酒臭い脣 へ潔 い接吻をした。勿論 それはさつきから、彼に秋波を送つてゐる芸者だつた。彼は大 に嬉しかつたから、両手でしつかりその芸者を抱いた。
ここまでは万事が頗 る理想的に発展したが、遺憾ながら抱 くと同時に、急に胸がむかついて来て、Hはその儘その廊下へ甚だ尾籠 ながら嘔吐 を吐いてしまつた。しかしその瞬間に彼の鼓膜 は「私はX子と云ふのよ。今度御独りでいらしつた時、呼んで頂戴」と云ふ宛転 たる嬌声 を捕へる事が出来た。さうしてそれを耳にすると共に、彼は恰 も天使の楽声 を聞いた聖徒 のやうに昏々 として意識を失つてしまつたのである。
Hは翌日の午前十時頃になつて、やつと正気 に返る事が出来た。彼はその御茶屋の一室で厚い絹布 の夜具に包まれて、横になつてゐる彼自身を見出した時、すべてが恰 も一世紀以前の出来事の如く感ぜられた。が、その中でも自分に接吻した芸者の姿ばかりは歴々として眼底に浮んで来た。今夜にもここへ来て、あの芸者に口をかけたら、きつと何を措 いても飛んで来るのに違ひない。彼はさう思つて、勢ひよく床の中から躍り出た。が、酒に洗はれた彼の頭脳には、どうしてもその芸者の名が浮んで来ない。名前もわからない芸者に口がかけられないのは、まだ日本の土を踏んで間 もない彼と雖 も明白である。彼は床の上に坐つた儘、着換をする元気も失つて、悵然 と徒 らに長い手足を見廻した。――
「だから、その晩の下足札 を一枚貰つて来たんだ。これだつてあの芸者の記念品 にや違ひない。」
Hはかう云つて、吸物椀 を下に置くと、松の内にも似合はしくない、寂しさうな顔をしながら、仔細 らしく鼻眼鏡をかけ直した。
漱石山房 の秋
夜寒 の細い往来 を爪先上 りに上 つて行 くと、古ぼけた板屋根の門の前へ出る。門には電燈がともつてゐるが、柱に掲 げた標札 の如きは、殆 ど有無 さへも判然しない。門をくぐると砂利 が敷いてあつて、その又砂利の上には庭樹の落葉が紛々 として乱れてゐる。
砂利と落葉とを踏んで玄関へ来ると、これも亦 古ぼけた格子戸 の外 は、壁と云はず壁板 と云はず、悉 く蔦 に蔽 はれてゐる。だから案内を請はうと思つたら、まづその蔦の枯葉をがさつかせて、呼鈴 の鈕 を探さねばならぬ。それでもやつと呼鈴 を押すと、明りのさしてゐる障子が開いて、束髪 に結 つた女中が一人 、すぐに格子戸の掛け金を外 してくれる。玄関の東側には廊下 があり、その廊下の欄干 の外 には、冬を知らない木賊 の色が一面に庭を埋 めてゐるが、客間の硝子 戸を洩 れる電燈の光も、今は其処 までは照らしてゐない。いや、その光がさしてゐるだけに、向うの軒先に吊 した風鐸 の影も、反 つて濃くなつた宵闇 の中に隠されてゐる位である。
硝子 戸から客間を覗 いて見ると、雨漏 りの痕 と鼠の食つた穴とが、白い紙張りの天井 に斑々 とまだ残つてゐる。が、十畳の座敷には、赤い五羽鶴 の毯 が敷いてあるから、畳の古びだけは分明 でない。この客間の西側(玄関寄り)には、更紗 の唐紙 が二枚あつて、その一枚の上に古色 を帯びた壁懸けが一つ下つてゐる。麻の地に黄色に百合 のやうな花を繍 つたのは、津田青楓 氏か何かの図案らしい。この唐紙 の左右の壁際 には、余り上等でない硝子戸の本箱があつて、その何段かの棚の上にはぎつしり洋書が詰まつてゐる。それから廊下に接した南側には、殺風景 な鉄格子 の西洋窓の前に大きな紫檀 の机を据ゑて、その上に硯 や筆立てが、紙絹 の類や法帖 と一しよに、存外 行儀 よく並べてある。その窓を剰 した南側の壁と向うの北側の壁とには、殆 ど軸の挂 かつてゐなかつた事がない。蔵沢 の墨竹 が黄興 の「文章千古事 」と挨拶 をしてゐる事もある。木庵 の「花開万国春 」が呉昌蹟 の木蓮 と鉢合 せをしてゐる事もある。が、客間を飾つてゐる書画は独りこれらの軸ばかりではない。西側の壁には安井曾太郎 氏の油絵の風景画が、東側の壁には斎藤与里 氏の油絵の艸花 が、さうして又北側の壁には明月禅師 の無絃琴 と云ふ艸書 の横物 が、いづれも額になつて挂 かつてゐる。その額の下や軸の前に、或は銅瓶 に梅もどきが、或は青磁 に菊の花がその時々で投げこんであるのは、無論奥さんの風流に相違あるまい。
もし先客がなかつたなら、この客間を覗いた眼を更に次の間 へ転じなければならぬ。次の間と云つても客間の東側には、唐紙 も何もないのだから、実は一つ座敷も同じ事である。唯此処 は板敷で、中央に拡げた方一間 あまりの古絨毯 の外 には、一枚の畳も敷いてはない。さうして東と北と二方 の壁には、新古和漢洋の書物を詰めた、無暗に大きな書棚が並んでゐる。書物はそれでも詰まり切らないのか、ぢかに下の床 の上へ積んである数 も少くない。その上やはり南側の窓際に置いた机の上にも、軸 だの法帖 だの画集だのが雑然と堆 く盛 り上つてゐる。だから中央に敷いた古絨毯 も、四方に並べてある書物のおかげで、派手 なるべき赤い色が僅 ばかりしか見えてゐない。しかもそのまん中には小さい紫檀 の机があつて、その又机の向うには座蒲団 が二枚重ねてある。銅印 が一つ、石印 が二 つ三 つ、ペン皿に代へた竹の茶箕 、その中の万年筆、それから玉 の文鎮 を置いた一綴 りの原稿用紙――机の上にはこの外 に老眼鏡 が載せてある事も珍しくない。その真上 には電燈が煌々 と光を放つてゐる。傍 には瀬戸火鉢 の鉄瓶が虫の啼 くやうに沸 つてゐる。もし夜寒 が甚しければ、少し離れた瓦斯煖炉 にも赤々と火が動いてゐる。さうしてその机の後 、二枚重ねた座蒲団の上には、何処 か獅子 を想はせる、背 の低い半白 の老人が、或は手紙の筆を走らせたり、或は唐本 の詩集を飜 したりしながら、端然 と独り坐つてゐる。……
漱石山房 の秋の夜 は、かう云ふ蕭條 たるものであつた。
自分は
その日自分の書斎には、梅の花が
奥さんはかう鏡を渡した
自分は
「あなただつて鏡さへ見てゐれば、それでもう何も忘れてゐられるんぢやありませんか。
下足札
これも或松の内の事である。Hと云ふ若い
「これはね。或芸者の
「へへえ、
自分たちの
しかし日本語の通じないHにも、日本酒は遠慮なく作用する。彼は一時間ばかりたつ
ここまでは万事が
Hは翌日の午前十時頃になつて、やつと
「だから、その晩の
Hはかう云つて、
砂利と落葉とを踏んで玄関へ来ると、これも
もし先客がなかつたなら、この客間を覗いた眼を更に次の
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