日语文学作品赏析《蒐書》
作者:芥川龍之介
来源:青空文库
2010-01-06 00:00
元来僕は何ごとにも執着 の乏しい性質である。就中 蒐集 と云ふことには小学校に通 つてゐた頃、昆虫の標本 を集めた以外に未嘗 熱中したことはない。従つてマツチの商標は勿論 、油壺でも、看板でも、乃至 古今 の名家の書画でも必死に集めてゐる諸君子 には敬意に近いものを感じてゐる。時には多少の嫌悪 を交 へた驚嘆 に近いものを感じてゐる。
書籍も亦 例外ではない。僕も亦商売がら多少の書籍をも蔵してゐる。が、それも集めたのではない。寧 ろおのづから集まつたのである。もし集めた書籍であるとすれば、其処 に何か全体に通ずる脈絡 を具 へてゐなければならぬ。しかし僕の架上 の書籍は集まつた書籍である証拠 に、頗 る糅然 紛然 としてゐる。脈絡 などと云ふものは薬にしたくもない。
では全然無茶苦茶 かと云ふと、必 しも亦 さうではない。少くとも僕の架上 の書籍は僕の好みを示してゐる。或はいろいろの時期に於 ける好みの変遷を示してゐる。その点では――僕と云ふものを示してゐる点では僕の作品と選ぶ所はない。僕は以前架上の書籍を買ひ入れた年月 の順に記 し、その書籍の持ち主の一生の変化を暗示 する小品を書いて見ようかと思つた。が、西洋人の書いたものに余り似寄 りの話を見た為、とうとうそれなりになつてしまつた。それなりになつてしまつたのは勿論天下の為に幸福である。しかし架上の書籍なるものの鏡のやうに持ち主を映 すことは兎 に角 何か懐しい、さもなければ何か気味の悪い事実であると云はなければならぬ。(この故に売り立てに「さしもの」をするのは他人の作品に筆を入れるのと同じ位道徳的に不都合 である。)
蒐集家 のみの知る喜びや悲しみはかう云ふ僕には恵まれてゐない。何しろ本屋をひやかしてゐたり、或はカタロオグを読んでゐたりする内に目にとまつたものを買ふのであるから、感激も頗 る薄 い訣 である。大金 は勿論出したことはない。
是 でも本道楽 の話になるかどうか、其辺 は僕にも疑問である。
書籍も
では全然
(大正十三年七月)
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